覚悟の夜
軽く絞った布を、トヨは相手の額へと乗せる。
こめかみの傷へと染みる冷たい痛みに、俺の喉からは小さく呻き声が漏れる。
「痛っつ……おい、もうちょっと、ゆっくり置いてくれないか? 傷に響くだろ」
「なに甘えたこと言ってんのよ、だらしないわね。あなた、創生者で、しかも男の子でしょ? この私がせっかく看病してあげてるんだから、我慢しなさい!」
彼女は俺の苦情をピシャリと撥ね付け、濡れた布きれを上から軽く叩く。
むずかる子どもをあやすみたいに叱りつける彼女に、俺は胸底で零した「誰も頼んではいない」という囁きを、小さな舌打ちに変えて吐き出した。
深夜の異世界庭園での騒動から、一時間と少し。
なんとか無事に解放された俺は、トヨの手助けを得て、彼女の社へと戻ってきていた。
また後日、警非違使とかいう、この世界の警察的な組織の方へと、事件の詳細を伝えるために俺は出頭しなければならないらしい。
しかし、今回は器物破損の実行犯が逃走していることもあり、『新人の創生者』である俺は情状酌量から、その場ではお咎めなしとされたのだった。
長い道のりを越えて社に戻った俺は、まず水没していた衣服を着替えた。
胸元が軽く炙られていたシャツの代わりとしては、玄月の換えの肌着を与えられた。
トヨが勝手に小屋の荷物を漁っている間も、本人は全く目を覚ます素振りはなかった。
本当は起きていたのだが、関わるのが嫌で狸寝入りを決め込んでいたのかもしれない。
どちらにせよ、事情を説明する手間も省けて、反りの合わない相手に頭を下げずに済んだため、俺としてもありがたくはあったが。
薄手の襦袢と合わせて、彼女は軽衫というらしい和風なズボンと、褌も手渡してきた。
それらを即座に固辞した俺は、湿った自前のパンツで過ごす方を選択した。
気持ちも決まりも悪くはあったが、他人の下着を身に付けるよりは遥かにマシだった。
そもそも、自分一人で過ごすのであれば、下は何も身に付けなくても良かった。
だが、なぜかトヨの小屋である本殿へと連れ込まれ、彼女に膝枕をされる身となっていた俺は、最低限の身なりを整えることを強いられていた。
後頭部を包む柔らかな感触に据わりの悪さを覚えつつ、俺は真上にある彼女の顔を、睨むようにして仰ぎ見る。
「あの、さぁ……さっきも言ったが、別に面倒を看てくれなくても良いんだぞ? 何なら、外に一人でいた方が気が楽というか―――― 」
「はいはい。強がるのも結構だけど、傷だらけの姿で言われても説得力は皆無よ。そんな体で床へと横になっても、痛くて寝るどころじゃないでしょ」
口を酸っぱくして窘める彼女に、俺は返す言葉もなく黙り込む。
例のコートの男との戦いで、俺の全身は擦過傷と打撲と火傷だらけになっていた。
特に、柵へと打ち付けていた背中は、打ち身から広く熱を帯びていた。
実際、トヨから貸し与えられた彼女の薄い布団がなければ、体を休めるのもままならなかっただろう。
「だが、さすがにその、こんな付きっきりにならなくても良いだろ……。正直、これだと逆に寝れないっていうか、気が休まらないっていうか…………」
「えっ、なになに照れてるの? 思ったよりも初心なのね~、あなた」
「違うわ! つーか、どちらかと言えば変なのは、お前の方だろ! 会ってから半日も経ってない男に、自分の寝床どころか膝まで貸すとか!」
「別に気にしてないわよ、そんなの。それに、あなたを創生者としてこっちに呼んだのは、私だしね。そっちがどんなに気に食わなくても、私には最後まで面倒を見る責任があるって訳。じゃなければ、こんな真夜中に街まで探しにいかないわよ」
あっけらかんとして答える彼女に、またしても俺は口を噤むしかない。
てっきり、トヨは反抗してばかりしている俺を召喚したことを、内心では後悔していると思っていた。
そんな相手の口から出た、嘘偽りのない言葉は、どの怪我よりも俺の耳には痛かった。
薄明りに満ちた手狭な部屋へと、沈黙が訪れる。
天井に吊るされた、薄紙に覆われた照明器具を仰ぎながら、トヨは鼻歌を漏らし始める。
単調でリズム感に欠けた、しかし軽やかで温かみのある旋律を帯びた音色を耳にしながら、俺は庭園での一件を思い起こす。
共に名前を呼び合っていた、サクラという少女と、アキトという青年。
彼らが俺へと向けた蔑みと哀れみの文句は、しかし、どこまでも歪みのない正論だった。
どんなに怒っても、嘆いても、俺が殺された事実は、もう変わらない。
そして、恐らくは俺は、二度と元の世界には戻れない。
例え、認められなくても、受けれられなくても、自分自身が存在し続けることを諦めない限り、この奇妙な世界で俺は自らの運命へと抗い、宿命と戦い続けなければならないのだ。
それに俺にはまだ、やらなければならないことがある。
俺を説明もなく殺し、この世界へと強制送りとした『白の翁』。
こちらの世界のどこかにいるという奴を見付け、そのすかした鉄面皮をぶん殴る。
続けて、俺に手を下した訳を聞き出し、理由如何に関わらず、もう一度ぶっ飛ばす。
それこそが、この中つ島という異世界で俺が果たすべき、至上の使命であり天命だった。
そのためには、あのアキトという名の青年を超える力を、必ずや手に入れなければならない。
そして、その目標を達するためには、こちら側での協力者が必要不可欠となる。
黙考の後に結論を出した俺は、小さく短くトヨの名を呼ぶ。
俺の額から外した布を、脇の木桶へと浸していた彼女は、黒目勝ちな両目でこちらを見下ろす。
戸惑いの眼差しを向ける彼女へと、俺は震えを殺した声で告げた。
「決めたぜ。俺は、絶対に強くなる。お前の言う創生者とかいうのとして、この世界で闘い抜いて、生き抜いてやる。だから、俺が持ってるっていう、お伽話だか何だかの力の使い方を、教えてくれ。ついでに、お前の組座とかのためにも、使っていってやるからよ」
淡々とした俺の宣言に、彼女は驚いた様子で大きく二、三度瞬きをする。
やがて、見開いていた両目を緩やかに細めた彼女は、嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからは手取り足取り、じっくり指導していかないとね! さてと、面倒を見なきゃいけない男の子も二人に増えるし、私も気合を入れて頑張らないと!」
「別に良いけどさ……お前ちょっと、俺を子ども扱いし過ぎてないか? そこまで俺達、齢は変わらないはずだろ?」
「言ったでしょ、私は神様なのよ? 同族の中ではまだまだ若い方だけど、少なくともあなたや玄月よりは数倍も十数倍も長生きしてるんだから」
「そうなのか? お前、見た目の割りにけっこう婆―――― 」
「生意気言ってないで、怪我人はさっさと寝なさい! これ、人生の先輩の教訓!」
暴言が放たれるより早く、トヨは握っていた布で俺の口を物理的に塞ぐ。
乱暴に口腔へと突っ込まれたそれは、血と汗と鉄と、仄かなもみ殻の味がした。