死と再生と、妖怪と
人は、いつか死ぬ。
それは悠久の昔から不変の真理であり、未来永劫、変わるべきではない真実のはずだ。
だけど、多くの人は自分が今日この時、世界から消え去ってしまうなど考えはしないだろう。
いつものように今日が流れて、同じように少しだけ違う明日がくる。
そんな他愛もない日々が積み重なって、気が付いたら見知らぬ未来がやってきていた。
そして、そこには言わずもがな、自らの人生の主人公である、自分がいる。
何の保証も確証もない、しかし当たり前で当然であるはずの、そんな日常。
しかし、そんなものは誰も約束などしてくれない、吹けば飛ぶような儚い幻想にしか過ぎない。
濃密な夕闇に包まれた、人気のない街角。
そこで俺は、そんな非情で冷たい現実を、自分が殺されることでまざまざと思い知らされた。
いつもより遅くなった帰り道に、そいつはいた。
上背のある体を覆い尽くした、分厚そうな生地をした純白の衣。
フードに包まれた頭の前に嵌められた、老人の顔をした骨董品染みた木彫りの面。
右の袖の中から伸びる、これまた博物館にでも並んでいそうな、スラリと長い日本刀。
そんな、不審者感の上限突破を軽く果たしたその相手は、誰もいない暗い路地の中空へと、背中の長い黒髪を羽のように広げながら、俺の前へと静かに現れたのだった。
初め、俺は途方に暮れた。
自分の眼を疑い、次に頭を疑い、目頭を押さえながら頭を振った。
最近は、何かと用事が立て込んで寝不足気味だった。
だから、こんなあまりにも馬鹿らしい、意味不明な幻覚を見てしまったのだろう。
あくまでも理性的に、常識的な判断から、俺は目の前の現象を冷静にそう結論付けた。
そんな俺に、その白装束の能面は言葉もなく、手にしていた刀を突き刺した。
音も無く胸へと沈んだ銀の刃先は、すんなりと奥へ潜り込んでいく。
突然の出来事に驚いた俺は、驚きと怒りから声を上げる。
歯を剥き、大きく開いた口からは、今まで聞いた事の無い奇妙な自分の声と一緒に、赤黒い血が洪水のように吹き出した。
正面から刀を突き立てられた胸には、もはや痛みとも思えない激痛と、火傷しそうな程の熱が走る。
しかし、その後すぐに手足を冷たい痺れが襲い、感覚と自由を残らず奪い去っていく。
それから、俺が睨み付けていた能面野郎の姿は、突然小さく遠ざかっていき、暗闇の中へと消えた。
どこからか聞こえていた、オルゴール風の間延びした町のチャイムも、水に溶けるように潰れていく。
そこで、ようやく俺は、自分が殺されたのだと理解したのだった。
まさか、変質的な通り魔に襲われて、こんなにも短い人生を終えるなんて。
まだ、タバコも酒も経験していなければ、彼女も一人として作ってはいない。
そんな、清らかで透明感に溢れた、プロの禁欲者もかくやな体のまま、俺は死んでいくというのか。
どこぞの宗教の、熱心な信者や教徒だったら、そうした状況は最高の最期に思えるかもしれない。
だが、悲しいかな俺は、神様やあの世なんかを少しも信じていない、年相応の欲に塗れきった普通の男子に過ぎなかった。
まだ、やりたいことも、楽しみたいことも、それこそ掃き捨てるくらいにたくさんあった。
そして、俺はそんな夢の幾つかを、遠からず叶えられると信じて疑っていなかった。
なのに、それなのに、こんな事で。
誰かも何かも分からない相手に、意味も理由も全く分からないまま。
野望も希望もひとつとして叶えられずに、抗いようのない圧倒的な暗闇の中へと、恨み言のひとつも言えないまま消えていってしまうなんて ――――――――。
「絶ッ対ぃいいいに、嫌だあああああああああああああああああああああっ!!」
湧き上がる絶望と衝動に駆られ、俺は有らん限りの声でそう叫びながら、寝ていた床から体を起こした。
腰を落とした姿勢のまま、俺は荒く小刻みな呼吸を繰り返す。
少ししてから、俺は慌てて視線を下へと向ける。
くたびれて皺の寄った制服は、特に何の変わりもない。
どうやら、先程のあれは、夢だったみたいだ。
そう思った瞬間、強張っていた俺の肩からは力が抜け、口からは大きな溜息が自然と零れた。
あんな意味不明な悪夢を見るとは、いよいよ本当に、疲労のレベルがヤバイのかもしれない。
こうなったら、過労で神経をやられる前に、無理にでも休みをもらうべきだろう。
そんな我が身の心配をしつつ、俺は暴れる心臓を左手で優しく押さえながら、伏せていた顔を上げる。
そこには、起床時にいつも目にする、ごみごみとした狭い部屋の光景はなかった。
代わりに俺の目の前には、冷たく湿った空気の淀む、広々とした薄暗い洞穴が広がっていた。
粗削りな岩の壁には、所々にランタンのような照明が取り付けられている。
その頼りなくも確かな明かりのおかげで、俺が倒れている場所は結構広がりもあって天井も高い、ちょっとした広場のような所だということが見て取れた。
ゴツゴツとした足場の悪そうな地面には、壁沿いに何かの道具や木箱などが、雑然として並べられている。
遠目には、奥へと続く幾つもの洞窟へと伸びる、数本の小さなレールが敷かれているのが見える。
本物を見たことはないが、どことなく採掘場とか炭砿とか、そんな風な場所っぽい光景だなと、俺は何気なしにそう思った。
俺は裾に付いた土埃を落としながら、座り心地の悪い床から腰を上げる。
立ち上がった俺がぼんやりと辺りを眺めていると、不意に、どこからか地鳴りのような音が近付いてくるのが聞こえた。
やがて、それは洞穴全体に反響する程に大きくなり、合わせて激しい揺れが起こり始める。
そして、突然の地震に慌てる俺の目の前で、地面の一部が盛り上がった直後。
歪に割れたその岩盤の下から、砕いた岩石を周りへと弾き飛ばしながら、轟音と共に巨大な石の壁が飛び出してきた。
妙に白っぽく、艶々とした質感をしていたそれには、真ん中からやや上の辺りに、血走った巨大な目玉が嵌まっている。
縦に伸びた荒い輪郭の側面には、岩や石を無理に重ねてくっ付けたみたいな、大小様々な腕が何本も生えている。
突如として登場した壁の化け物は、ふと眼前に立つ俺の存在を目に留める。
相手に向けた赤い一つ目が、怒りの形へと細められる。
瞬間、向かって右上に付けられていた、特に大きな岩の手が振り上げられ、何の前置きもなく俺を目掛けて振り降ろされた。
まさか、一度も考えたことさえなかった風景とモンスターの姿を、ここまで細かく思い浮かべられるとは。
ひょっとしたら、俺には漫画家とかイラストレーターとか、そういった仕事が合っているのだろうか。
迫り来る巨岩の板を見上げながら、俺はその圧倒的な迫力に驚きつつ、自らの想像力の豊かさに感心する。
そうして独り悦に浸っていた俺を、突然何かが、横から物凄い力で突き飛ばした。
岩の怪物の魔手から逃れた俺の体は、勢いのままに地面の上を転がっていく。
打ち付けた右肩へ走る鋭い痛みに、俺は思わず苦悶の声を上げる。
そんな俺に、いきなり横合いからタックルを決め、並んで地面の上を横転していた張本人は、四つん這いの姿勢で素早く近寄ってきた。
「ちょっと、しっかりして!! なんであなた、『ぬりかべ』の攻撃を避けないのよ!? また、こっちでも死にたいの!?」
呻く俺を覗き込み、信じられないといった表情と口調でそう叫んでいるのは、俺とさほど変わらない齢の頃の少女だった。
セミロングの髪を稲穂の飾りが付いた髪留めでまとめた彼女は、和風のダンスグループとかが身に付けていそうな、煌びやかで露出度が高めな振袖っぽい服を身に付けている。
冷汗を滲ませた眉の細い顔には、焦りと非難の表情が張り付いている。
美形といえば美形だが、俺の趣味とは少し違うな。
こちらを見下ろす相手を、俺が仰向けのまま品定めしていると、再び壁の怪物がこちらへと向けて、別の腕を振り上げる。
刹那、どこからか飛んできたひとつの黒い影が、その石の塊を強烈な勢いで蹴り飛ばした。
化け物の攻撃を防いだその人影は、華麗な宙返りを決めて着地を決める。
俺達の手前へと降り立ち、片膝を突いた姿勢でこちらを顧みたのは、これまた俺と同年代と思しき、黒づくめの恰好をした男だった。
長袖長裾の上下や、その上に羽織った上着は、どれも黒一色で統一されている。
しかしながら、それらは互いに濃淡の具合や色味の加減で、微妙な違いがあった。
それだけでも、彼が自分のファッションに異常なまでの拘りをもっているのは、露骨なまでに明らかだった。
短いポニーテールを振って後ろを向いた彼は、揃って倒れる俺と少女を鋭く睨む。
どこか中性的にも見える、端正な細面の右目は、刀の鍔のような眼帯で隠されていた。
「トヨ、早くその腑抜けの目を覚ましてやれ。虎の子の創生者が、足手まといの邪魔者だなんて、出来の悪い冗談だぞ。それとも、お前には難儀な仕事か?」
「わ、分かってるわよ! 玄月あんた、自分の主人の神様を信じられないって訳!?」
「出来るなら、それで良い。時間は俺が稼ぐ。だが、そうは長くもたないぞ」
端的な物言いで彼女へ釘を刺した眼帯男は、左の腰に帯びていた刀を抜き放つ。
抜刀した得物を手に、立ちはだかる生きた壁へと躍り掛かる彼に、相手は幾本もの腕を使って迎え撃った。
息つく暇もなく矛先を交える両者の間には、絶え間なく細かい石の欠片と、鮮やかな火花が舞い散る。
目の前で繰り広げられる激しい剣劇に、地面へと座り直していた俺は、息を呑んで成り行きを見守る。
まるで映画のようなワンシーンに見入っていた俺は、不意に横から伸びてきた両手に顎を挟まれ、強引に右回りへと首を捻られた。
強制的に相手の視線を自分へと向けた少女は、切羽詰まった険しい面持ちから、三白眼で俺を睨む。
「いい、聞いて! あなたは多分、ここがどこかも、何が起こっているかも分からないわよね。だけど、今はそれを説明している時間はないの。お願い、あの岩壁の妖怪を、あなたの手でやっつけて!」
余裕のない早口での懇願に、俺は呆気に取られて薄笑う。
確かに、これが俺の夢である以上、この世界での主人公は俺自身だ。
しかし、例えそうだとしても、何の特技も資格も持っていない典型的な一般人の俺が、いきなり見上げるような岩の化け物を倒すなど、予想外を通り越して突飛に過ぎる展開だった。
「あー、まあ、それも悪くないかもな……。でも、あいつが戦ってるのを観てるのも面白いし、このまま目が覚めるまでってのも良いかなぁ……」
「ちょっ、だからこれは本当に起こってる事なんだって! あなたにとっては現実には思えないかもだけど、夢とか幻とか、そんなのじゃないの! この神託を成功させなければ、あなたももう一回、死んじゃうことになるのよ!」
「そう言えば、前の夢でも死んでたな、俺……。夢中夢ってのか? そこでもまた死ぬとか、どんだけ死にたがりなんだよ、まったく。もしかして俺、気づいてなかったがМ気質だったのか……?」
「だぁあ~~~っ、もう、話を聞きなさいっての!! えむでも何でも良いから、とっと行って、さっさとあれをやっつけてきなさい、よおっ!!」
物思いに耽っていた俺を無理矢理に引き起こした少女は、怒鳴りにも似た掛け声に合わせ、勢いを付けて背中を押す。
有無を言わさず送り出された俺は、危なっかしくよろめきながら、戦いの場へと加わる。
眼帯男を吹き飛ばした石壁の怪物は、入れ違いに現れた敵へと注意を向ける。
再び攻撃範囲へと入ってきた相手を前に、そいつは一対の大きな腕を掲げ、あたかも蚊を叩き潰すみたいに、その広い掌で俺を左右から挟み込んだ。
めちゃくちゃ、痛かった。
唸りを上げて両肩へと激突してきた岩の壁は、そのまま力を緩めることなく、捕えた獲物を締め上げる。
全身へと掛かる凄まじいまでの圧力に、俺の骨は到る所で軋みを上げる。
肺から絞り出される空気に混じって、俺は声にならない濁った悲鳴を吐き出した。
今の俺は、二つの壁に挟み撃ちとされている今の状況に、快感も快楽も感じてはいない。
少なくとも、自分が隠れマゾヒストだという心配は、幸いにも杞憂のようだった。
身じろぎも許さない程、俺をきつく拘束した壁は、徐々に間隔を狭めていく。
このままだと、俺は間を置かずに薄く伸ばされ、呆気なく圧殺されるのは間違いなかった。
またしても俺は、夢の中とは言え、殺されるのか。
訳も理由も分からないまま、しかも白づくめの仮面野郎や、動く壁みたいな人でもない相手に。
そんな思いが脳裏を掠めた途端、俺は猛烈に腹が立ってきた。
これが俺の夢ならば、ここにいる奴らは全員、俺の空想が生んだもののはずだ。
なのに、そんな相手に良いように扱われて、おもちゃのように弄ばれて壊されるなんて、胸糞以外の何物でもなかった。
視界の両脇にそびえる、荒い肌をした壁の隙間からは、こちらを見下ろしている巨大な単眼が見える。
まるで、罠にかかった鼠を嘲笑うような、薄っすらと細められたその赤目に、俺は怒りに任せて相手の両手を押し返した。
ほとんど身動きの取れない姿勢だった俺は、少ししか勢いを付けられない。
それにも関わらず、俺の手は突いた箇所へとヒビを走らせ、左右の壁を力任せに弾き返した。
力負けした石壁の怪物は、突き返された腕を振り回してよろめく。
姿勢を崩した怪物に、遠くからそれを見守っていた少女が大声を上げる。
「今よ! そいつの足元にある色が変わった所を、叩き壊して!!」
視線を落とすと、怪物の胴体には地面から生えている辺りに、確かに周りより白み掛かった箇所があった。
そこを壊したらどうなるかは、知るはずもない。
だが、質問をする暇もない俺は、その場の流れと勢いに任せて怪物に駆け寄り、少女の指示通りにその部分を蹴り付けた。
渾身の力を込めて叩き付けた靴底は、あっさりと岩の肉壁の中へめり込んだ。
俺の足が陥没した所を中心に、耳障りな音を立てて、亀裂が左右へと伸びていく。
その細い割れ目が、怪物の体の両端へと届いた瞬間。
長く伸びた傷は大きく口を広げ、石壁の怪物はそのまま、俺の反対側へと倒壊した。
地響きを上げて転倒したそれは、さながらひっくり返った蜘蛛のように、仰向けとなって数本の腕を振り回す。
姿勢を立て直すこともままならない相手に、どこからか舞い戻ってきた眼帯男は素早く跳び乗る。
そして、異常を察知した怪物に対応する暇も与えず、彼は手にしていた刀を、相手の瞳へと垂直に刺し込んだ。
急所を突かれた怪物は、どこから発しているかも分からない、身の毛もよだつ凄まじい絶叫を轟かせる。
やがて、洞窟へと木霊していた断末魔は、前触れもなくピタリと止む。
少し遅れて、天を指して激しく痙攣していた複数の腕が、一斉に地面へと落ちる。
同時に、横倒しとなっていたその胴体は、上へと乗っていた眼帯男の足の下で、砂のように脆くも崩れ落ちた。
土埃と共に積み上がった瓦礫の山からは、鮮やかな光の球が浮かび上がる。
怪物の死骸から生まれた、その野球ボール大の黄色い光体には、漢字にも似た文字らしき紋様が刻まれていた。
俺が茫然として眺める中、それは音も無く宙を横切り、少女が広げていた左の掌へと吸い込まれる。
謎の球体を取り込んだ彼女は、その左手を大事そうに握り締めると、満面の笑みを浮かべて小躍りした。
「よおおっしっ、やったあ!! 豊尾刈組の記念すべき初めての神託、無事に達成っ!! 一時はどうなるかと思ったけど、幸先の良い駆け出しね!」
「だがしかし、こうも苦戦するとは思ってもみなかったがな。相手が岩や石を依代とした妖怪であるのは、お前も初めから分かっていたはずだ。にも関わらず、この俺にこんな鈍刀一本で討伐させようなどと考えていたなど、あまりにも短慮で浅薄ではないのか?」
「ぐっ……だっ、だから、念のために手持ちの幻双紙の断片を、全部持ってきてたんじゃない! そのお陰でほら、ここで拾った最後の一片で、こうして創生者も召喚できて、更に妖怪も討ち果たせて一石二鳥よ! やっぱり、私の目と発想には、全くもって狂いは無かったってことね!」
「ふっ……まあ、今回は終わり良ければ全て善しであったと、そうしておくとしよう……」
肩を竦めて刀を収める眼帯男を、少女は最後に苛立しそうに一瞥してから、その視線を俺の方へと返す。
戸惑いから立ち尽くす俺へと小走りで駆け寄った彼女は、目を細めて嬉しそうに微笑みかけてきた。
「さてと、あなたもお疲れ様! それから、どうも初めまして! さっきは無理に急き立てるような真似をして、ごめんなさいね。でも、ああでもしないとあなた、あのぬりかべと戦ってくれそうになかったから、不本意ではあったけど仕方なかったのよ。どうか、許してね」
先の暴挙を詫びた少女は、片目を閉じて合掌してみせる。
そんなあざとい身振りを無言で見つめる俺に、彼女は答えを待つ素振りもなく話を振った。
「私の名前は、豊尾刈比売。それで、あっちの真っ黒くろ助は、玄月よ。ちなみに、彼は戦国武将からの転生者で、以前にあなたのいた日本での名前は―――― 」
「おい、藪から棒にそんな事を言ったところで、その男が十全に理解するのは無理ではないか? まずは、そいつの心が鎮まるのを待ってから、詳しい経緯は街に戻ってから説けば良いだろう」
「うーん、それもそうね。彼も思ったより落ち着いてくれてるみたいだし、もう戻るとしましょうか。こんな辛気臭い場所にいつまでも居る必要なんかないし、今回はこれでお終い! 撤収よ!」
「えっ……これで、終わりなのか……? 本当に?」
「ええ、そうよ。じゃあ、もうじき暮れの刻限になっちゃうし、急いで線路を辿って炭砿の外に出ましょ――――」
あっさりと終了を告げる少女に、俺はそれなら折角だからと、正面に立つ彼女の胸を鷲掴みにする。
掌に収まった双丘は、予想に反して肉厚で、とても柔らかな感触をしていた。
どうやら彼女は、着痩せをするタイプの女性のようだった。
「…………え、はぇ……? あなた、何……してるの…………?」
断りもなく、自然な手つきで胸を揉んでくる俺を、少女は点とした目で凝視する。
呆けた表情となって問いかける彼女に、俺は相手の胸部を弄る手を止めることなく、にこやかに微笑んでみせた。
「ああ、この馬鹿みたいな悪夢も、やっと終わりなんだろ? だったら、目が覚める前に少しでも、嫌な目に遭った分は取り返しておきたいからな。正直、俺としてはお前みたいのはあんま好みじゃないんだが、こうなりゃ文句はいってられないしな」
「あの、いや、ちょ……だから、これはそんなのじゃ――――」
「しっかし、やっぱ女の胸ってのは柔らけぇな。俺は大きければ大きいほど良いって方だったんだが、意外とこんな小振りなのもイケるもんだな。いやはや、やっぱ外見だけで判断なんかすべきじゃねぇな」
「だ、っから…………あなたや、私が居るっ、此処はッ――――」
「あ、どうせだし服越しじゃないのも試しておくか。でも、時間的に間に合うか……? なあ、あとどれくらいで俺は目が覚め――――」
残り時間が気になった俺は、それを把握しているらしい少女へと改めて尋ねる。
揉みしだく胸から上へと移した視線の先には、唇を真一文字に引き結び、頬を真っ赤に染めながら目尻へと涙を溜めた、彼女の顔。
そして、その斜め上へと振り上げられた、小刻みに震える右の握り拳があった。
「夢とか、そんなんじゃないって、さっきから言ってるでしょうがっ、このっ、バカああああッ!!」
直前に聞いた、怪物の断末魔にも負けない絶叫と共に、彼女は振り被っていた右拳を繰り出す。
顎の左側面を的確に捉えた一撃に、俺は錐揉みとなりながら軽く宙を舞い、そのまま受け身を取る余裕もなく倒れ伏した。
床に激しく擦り付けた額と、少女から殴り付けられた左頬には、熱く染みるような痛みが広がっていく。
骨の髄へと響くその激痛に、俺はこのどうしようもなく現実味の無い世界と、そこに居る自分が、紛れもなく現実のものだと今更ながらに思い知らされたのだった。