【ル・ヴォワール】
「へぇ、市場の方が騒がしいなって思ってたけど……クロエちゃんたち、そんな愉快なコトに巻き込まれてたんだ?」
食堂での一件で昼食を食べそこなったクロエとマルクは、結局引き返して自宅のすぐ隣にあるパン屋さん『アン・ブリーゼ』を訪れていた。ほとんど自分の指定席と化したカウンター席の端っこにクロエは腰掛け、微妙に床に届かない足をぶらぶらさせながら、この店の店主であるサヴリナの笑顔――ではなく、彼女が抱えるプレートの上に並ぶパンを食い入るように見つめている。
「笑い事じゃないって。お店に入った途端ボクはでっかい剣に潰されて大変だったし、その後はあのお姉さんに強引に道案内を頼まれて北地区の冒険者ギルドまで付き合わされたし、散々な目にあった。おかげでボクの空っぽのお腹が悲鳴をあげてる」
「食事の前の運動と思えばいいんじゃない? はい、出来たてをどうぞ」
小皿に盛られたパンは白くてふんわりとした甘い湯気に包まれていて、見ているだけなのによだれがこみ上げて来て、頬っぺたを落としてしまいそうな芳しい香りがクロエとマルクの鼻孔をくすぐる。
「やたッ、いっただきまーす!」
「……いただき、ます……です」
本日のメニューは、細長いソーセージにピリ辛のソースをかけて焼き上げたサルサドッグと、ふんわり卵とアツアツチーズを乗せたデニッシュ。出来たてのパンを、まるで小動物かのように細々とかじるクロエと、食事の礼儀作法を一切必要とせずにガツガツと食い付くマルクの一人と一匹を、サブリナはまるで我が子を見守るかのような優しい眼差しで見つめていた。
このソレーユの街で、彼 女を知らない人はいない。
身の丈はスラッと細身で肌は初雪のように白くきめ細やかだがとても溌剌とした人柄で、見た目ほどのか弱さなどほとんど見受けられない。ライトブラウンのセミロングヘアに愛嬌のある可愛らしい面持ち。彼女がニコリと微笑んだならば、街の男のほぼ九割は確実に鼻の下を伸ばす。残りの一割? たぶん、そっちの趣味の人間。
容姿も然ることながらパンを作る腕前もアイデアも天才的で、この街でパン屋を尋ねようものなら、誰もかれもまず間違いなくこのお店を真っ先に紹介してくれることだろう。
高嶺に咲く花の如く清楚で見目麗しく、パンの味もお店の切り盛りも完ぺきにこなす正しく才色兼備な女性。ソレーユの街でお嫁さんにしたい人ランキングナンバーワンの座を持つ彼女だが、しかし神様はそれだけに飽き足らず、さらなる至宝を彼女に齎していた。
「あら、クロエちゃんどうかした?」
「………………」
別に彼女には悪意など微塵も無いのだが、クロエの目線の都合上どうしてもソレが目についてしょうがない。サヴリナが軽く身動ぎするたびに、まるで共通の意志を持った生き物かのように揺れ動くソレは、仮に効果音を付けるのであればばいんだとかぼいんだとか、そんな重量感と若干の卑猥さを混濁したような音が相応しいように思える。
ソレとは漢字で書くと『胸』、カタカナなら『バスト』で、ひらがなだと『おっぱい』と呼び称される、世の紳士淑女の夢と憧れと、一部の嫉妬が詰まったモノ。
エプロン越しに膨らむソレの自己主張は激しく、噂ではそのサイズはメロンと同等かもしくはそれ以上という話で、禁断の果実を求め彼女の入浴を覗こうと奮闘した猛者が何名もいたとか。
「あぁ、わかったわかった。アレをご所望なのね。ちょっと待ってて頂戴」
クロエが食事を終え、汚れた手を紙ナプキンで拭っていると、サヴリナはお店の奥に一度姿を消し、やがて別のバケットを抱えて戻ってきた。その瞬間、クロエの鼻がぴくりと反応する。彼女の持ってきたバケットの中身をいち早く察し、前髪に隠れた双眸に稲光のような閃光が走る。
「はい、お待ちかねの『林檎とクリームのクロワッサンド』。いつもあっという間に売り切れちゃうけど、今日は特別に一個だけ余分に作っておいたのよ」
「ふぁッ……わ……ぁ!」
ガタッ! と椅子を弾くような勢いで身を乗り出すと、クロエの視線は洒落た小皿に盛りつけられた林檎とクリームのクロワッサンドに釘付けになってしまった。
『林檎とクリームのクロワッサンド』とはアン・ブリーゼ一番の人気商品で、一日に三十食しか販売されない限定商品だ。焼き立てのクロワッサンに、純白のホイップクリームとスライスされた林檎を挟み込んだシンプルなメニューなのだが、その味は絶品。
焼きたてクロワッサンのサクサクな食感に、ホイップクリームの繊細な甘さと林檎の爽やかな酸味とが合わさり、口の中でひんやりと清流のような絶妙なハーモニーを奏でる。美食家も一口食べればパンの宝石箱と謳うこと間違い無しのメニューだが、作り方は門外不出とのコトでクロエにも一切教えられていない。
「は、ふッ…………う、ぅふ……む……あッ……ぁんッ……ん……んん……ッ……」
……声だけ聴くと、喘ぎ声のように聞こえなくもないが、クロエは決してそんな淫らな女の子じゃございません。
彼女はまだ十四歳の女の子で、食べ物の美味しさを表現するだけの語彙も、美食家なんぞに比べたら圧倒的に少なくて、言葉にならない美味しさはどうやっても言葉に出来ないのだ。
だから、それでも必死に美味しさを表現しようとした結果が――コレ。クロワッサンのサクサクとした歯応えに顔をトロ~ンと弛緩させて、ホイップクリームの甘さに悶絶し、林檎の甘酸っぱい刺激に打たれて身を捩る。
少女の純粋な食事シーンを、そんなヤラシイ目で見てはいけない。
――コロン、ロン……
と、クロエが林檎とクリームのクロワッサンドに舌鼓を打っている最中、何処からかくぐもったベルの音が聞こえてきた。一瞬、このお店のベルかと思ったがそれにしてはやけに音が小さい。
「クロエちゃんってば、何ボケーッとしてるの?」
「…………ふぇ……?」
ちょんちょん、とサヴリナの指が示した方向には――見紛うはずのない見慣れ過ぎた我が家。
どうやら例の音はクロエの家のベルの音だったらしく、そういえば何となく聞き覚えがあるようなと今になってクロエは思う。
……で?
「もうッ、アナタのお店にお客さんが来たのよ? せっかくお客さんが来てくれたのに、店主のクロエちゃん不在じゃお客さんが困っちゃうでしょう?」
ごくり、とクロワッサンドと生唾を一緒くたに飲み下すと、クロエは露骨に嫌ぁな表情を浮かべる。
「…………で、でも……別に…………ぁの、私は……」
「久しぶりのお客さんじゃない。かれこれえっと――半年ぶり? きっとこの街に来たばかりの冒険者さんがお薬を買いに来たんだと思うわ。……ほらほら、早く行ってお客さんをお迎えしなくちゃ」
「……うぅ、ぅー……」
カウンターにしがみついて抵抗してはみるものの、クロエの小枝のような腕ではすぐに力負けしてあっさり引きはがされてしまう。そのまま済し崩しにサヴリナに手を引かれ、勝手口から庭伝いにクロエの家の裏口へと突き進んでいく。
サヴリナが率先してドアノブに手を回し、さぁどうぞ? と言いたげな明るい笑みを浮かべてクロエを待つ。クロエは低く唸りながら、小さな体をさらに縮こまらせ体全体を使っての全面拒否の姿勢をとる。
――~い。すみま……~ん。何方か、おらん……か~?
開いたドアのその向こうで、お客さんが店主を求めて呼んでいる。
このままジッとしていれば、お客さんも諦めて帰ってくれてクロエもサブリナの店に戻れてパンをもふもふ味わえる――と、思ったその瞬間、何故かクロエの身体が自分の意志とは全く無関係にお店の勝手口へと進み始めた。
「……ぁ、あ、あれ……あうわ、わわわ……わ……?」
「ほら、私も一緒に居てあげるから、クロエちゃん、も!」
ぎゅうぎゅうと、まるで押し入れに入らない羽毛布団を力任せに突っ込むかの如く、サブリナの手がクロエの小さな背中をぐいぐいと押し込み、雑多なモノで散らかった勝手口を滑るように進み、やがて店のメインカウンターが見えてくる。
カウンターの前には、一人の少女が立っていた。
純白のドレスに、何故か腕や肘関節に鉄のパーツが鎧のように組み込まれた不可思議な格好をした、何処となく見覚えのある少女。物音に気付いた少女の瞳と、クロエの視線がぶつかった。
「…………あ」
「なんと……ッ! お主はさっきの……!」
目を見張り、互いに驚愕に染まる少女の顔。
クロエの店を訪れたのは、先刻出会って別れたばかりの金髪ドリルの少女――グレアだった。
マ「さて、あとがきを預かった以上ボクたちもちゃんとお仕事しないとね。まずは、何しよっか?」
ク「…………帰る」
マ「まだ何もしてないのに、開口一番でその台詞ってどうなの……あ! じゃあ軽く自己紹介でもしようかな。ボクの名前は『マルク』。どこぞの契約迫る悪いイキモノじゃないから、安心してよね」
ク「………………『クロエ』。えと……おしまい」
マ「さ、流石にもうちょい自己アピールした方がいいとボクは思うんだけど……ほら、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、あるでしょ?」
ク「……契約を迫る、悪いイキモノって……何? マルク」
マ「へ? あー、えーっと…………うん。やっぱり今日はこの辺でいいや……」
ク「…………変な、マルク」