3話:幼なじみと絡む日
やっと更新。
難産でした。あー、苦しかった。
予々今日の野菜収穫は良好だった。
途中で邪魔が入るまでは、弟妹は懸命に収穫をしていたし、それもあと一列で今日の収穫は終わる所だった。
あと少しだった。
昼食の時間を削ってなんとか午後の納品に間に合うというところだった。
「どーういうことよ、この宿屋のぼんくらァ!」
「ああ?! 農家の馬鹿娘には関係ねぇだろ!」
「関係ないィ? うちの獣よけの柵を壊しておいて関係ないってなんだ、このアホ男! もうてめぇんとこの宿屋に野菜下ろしてやんねぇぞ、こら!」
「脅しなんて卑怯な真似する女に屈すると思うか、このぼけ女!」
なにを、こら。
宿屋はこれから肉だけ出して客をもてなすってか?
ふざけたこと言いやがってぇ。
「お、お姉ちゃん」
「よせ、姉ちゃんは宿屋のあいつとは超絶に仲が悪いうえに、間に入ろうとすると酷いしっぺをくらう。姉ちゃんが動かない分、俺たちが仕事するんだ。もうすぐ親父が卸屋に野菜持ってく時間だ」
「う、うん」
「それに宿屋の息子は俺も好きじゃないし、姉ちゃんにこてんぱんにやられりゃいいんだよ、けっ」
「お兄ちゃん、こわい」
野菜の万能さと栄養を知らずに今日まで行きてきやがった宿屋のクソ息子が、うちの畑を馬鹿にしてのうのうと生きていくなんて、全く持って理解不能!
夢見がちで、空想に生きているようなこの男が私の幼なじみだなんて、意地でも認めない。
この男も小さな頃は“まし”だった。
その頃はまだ家業も忙しくなく、二人で川遊びや虫を捕まえにいったり、かけっこをして遊んだりしたものだった。
だが、こいつは家業を手伝い始めて変わった。
こいつの家は国越えをする旅人が多くとは言わずとも訪れて泊まっていく村唯一の宿屋を営んでいた。
その旅人がこいつを変えてしまった。
酒飲みゃ、管巻いて武勇伝を披露する馬鹿どもだ。
いつからかこいつは冒険に夢見るクソガキになっちまった。
「うちの柵壊しておいて、言う事それだけか、このぼんくらァ! 聞いてるからな、宿屋の親父さんの商品勝手に持ち出して夜中に振り回してる話しィ! 家族だからっていつまでも盗みが許されると思ってんじゃねぇぞ!」
「ぬ、ぬす、う、うううるせぇ! 自警団もねぇこの村がおかしいんだよ! 第一ちょっと借りてるだけだしちゃんと返してる! それに武器つかえる人間いねぇといざってとき困るじゃねぇか!!」
「そのまえに宿屋の跡継ぎだろうが、親父さんいつまで泣かしてる気だ、ぼんくら!」
「あいつが泣くたまかよ、目つき悪いし、筋肉怖ぇし、果てにはフリルのエプロンつけてる男じゃねぇか!」
フリルのエプロンのなにが悪い。
奥さんが結婚記念日に贈ってくれたエプロンを、大事に使っている親父さんの男気がこいつにはわからないのか。
こいつこそが、村で同年代の男の一人だった。
平和で安穏とした村を、退屈と評して、来もしない危機に腕を振り回している男。
王都で警備隊の頭を勤めていたとかいう男に感銘をうけて、この村にも自警団をつくろうと奮闘しているらしい。
まったくもって単純かつ影響をうけやすい脳をしている。
昔はそういう熱血ぽかったところも好ましかった。
だが、夢見る年はとうに過ぎた筈だ。
宿屋の親父さんが泣いているのは嘘だが、こいつのお袋さんのほうは日々心労を重ねている。
それを気に病んでいる愛妻家の親父さんが、息子への闘志を高めているところを何度見たことか。
あの震える拳、あれは確実に息子を仕留める気だった。
タイムリミットはあと僅かだ。
思えばこの男は気の良い奴だった……。
「おい、なんだ、その目。なに哀れんだ目してんだ。おい、やめろこら、おい、こらおい」
「はやくうちに帰りなさいよ、お母さんが待ってるわよ」
「だからその哀れんだ目やめろォ!」
「柵はいいわよ、親父さんに報告してお前直々に直してもらうから」
「それちっともよくねぇだろ!」
「ほら帰りなさいな」
「だからその生暖かい言葉と目をやめろってんだよ!」
咆哮をあげて、噛み付いてくる男に、うんうんと頷いてみせる。
このくそ生意気でまじでうぜぇ男は救い様がなくて本当にどうしようもないが、それも亡くなってしまうとなっては惜しく感じるのが人類の不思議なところだ。
元気に逝けよ。
心中でぐっと親指をつきだすポーズをするに飽き足らず、行動にも出せば、あからさまに男はひるんだ。
「ば、ばーか、ばーか」
ガキかこいつ。
そんな罵声しか思い付かないの?
やだこの子可哀想。
自然に冷めた目になってしまうのは、仕方がないことだと思うのよね。
そうすれば、うっと喉を詰まらせて後ずさりをして、あ、逃げた。
柵の件はきちんと宿屋の親父さんに伝えておこう。
柵直し終わったらもう二度とくんな。
そこんとこよろしくー。
「お、お姉ちゃん」
「ん?」
あ、しまった。
収穫のこと忘れてた。
妹の不安げに揺れる瞳をよそに冷や汗が米神を伝う。
やばいわね、これ。
とりあえず、不安げな妹ににっこりと笑顔を見せて、速攻で畑に向かう。
「あ、姉ちゃん、あいつ追い返してきた?」
「当然よ。と、ところで父さんは?」
「まだ来てねぇよ。とりあえずこっちの収穫終わったから、何気なく入っているの繕えよ」
「あ、あんたって弟は。もう最高よ、あんたみたいな弟がいて助かった」
「な、なんだよ、唐突に。いいからさっさとしろよ。点検してくれ、朝言ってたろ?」
「うん、任しておいて。ここが終わったならその横の畑の雑草、あんたたちで協力して取っておいてくれる?」
「ああ、わかった」
本当に良い弟だ。
妹と協力してって言った瞬間の返答が、常よりも生き生きとして早かったことは置いたとしても、本当に良い弟だ。
だからスキップして妹のところへ向かったのは見なかったことにしよう。
そうしよう、それが一番良い。
理解ある姉として、私は弟の後ろ姿から、そっと視線をそらし黙って収穫箱へ向かった。
「父さん、どう? あの子たち結構奇麗に取ってたわ。取りこぼしもあまり無かったし」
「あいつは踏み台を使っただろう」
「ああ、その分作業は遅かったけどね。でも父さんが許可したんでしょ。私は認めてないけど」
「あいつはまだ気付かないのか」
「自力で気付くには、もう少しかかると思うけど」
暗に責め立ててはみるが、この調子ではあまり効いてはいないだろう。
父は父なりに考えているとしても、それに私が納得するかと言えば、それは全く別の話しだ。
弟の成長のために、妹が犠牲になっているその現状に、私が納得できる筈も無い。
弟も大切だが、妹も同じくらいに大切だ。
だが、こちらの気持ちを組んでくれる父ではない。
(はぁ、あいつがもう少し大人になればこんなことに悩まないんだけど)
経験が子供を成長させるが、ここではあまり経験になるような出来事はない。
妹が兄離れを感じ始めればもう少し弟も客観視できるようになると思うのだが、そうそう上手くいかないだろう。
「おい」
「ん? なに、父さん」
「狩屋んとこが、うちんとこの野菜を望んでいる。届けにいってくれ」
「ああ、で。なにもらってくればいいの?」
「肉。なかったら毛皮をもらってこい」
「わかった。野菜は私が見繕ってもいいのね」
「ああ、頼んだ」
もう一人、この村には同年代の男がいる。
それが狩屋の息子だ。
宿屋との息子とは、気楽な仲だった。
幼い頃は仕事も忙しくなくて、子供として遊ぶ時間があった。
ただ同じ年に産まれた狩屋のとこの息子は駄目だった。
歩けるような年頃になれば山に連れられて、目を鍛えたり、身体を鍛えたり、全く持って付き合いはない。
狩屋の親父さんは無愛想な人で、奥さんのほうはどちらかとおっとりしている。
その奥さんのほうに頼まれたのだ。
息子と仲良くしてやって。
あまりに切なげに頼むものだから、つい頷いてしまったのはもう良い思い出だ。
最初の内は、義理のために付き合おうとしたが、なかなかどうして狩屋の息子は良い男ぶりだった。
あの年であそまで成熟しているものはなかなかいまい。
(まぁあの年って言っても、同い年なんだけどね)
狩猟生活をしている人間は成熟が早いものだ。
獲物がなければ死ぬというごく根本的な生存本能に従っているがために、逞しいったらない。
宿屋のとこの息子もたまに狩屋に行くようだったが、あの男の口からは、狩屋の息子の話しは聞いた事はない。
あまり興味がないのか、接点がないのだろう。
村の警備だかなんだかは、よっぽど狩屋の息子のほうが向いていると思うのだが、ライバル心は抱かないのだろうか。
あの男では妬みしか抱きそうにないな、腐っても幼なじみなので疑問を抱いても直ぐに答えが出てしまう。
俺が村を守るだかなんだか言っているようだが、人の力量も見極められないようでは、まだまだだ。
自分の実力を正確に計れないようなら、どこかで野たれ死ぬのが関の山。
(ま、そんな危険はこの村にはないんだけどさ)
いっぺん、山賊の集団に突っ込んで自分の身の丈を知れば良いと思う。
この村から山賊が出る辺りに行くまで、軽く十日はかかるが、それで自分が成長できるのなら、行けば良いと思うよ、うん。
つらつら考えているうちに、あっという間についてしまった。
それもこれも野菜をリヤカーに積んで引いているからだ。
取っ手を地面に下ろして、目の前の大分崩れた小屋の扉を叩く。
「すみませーん、農場のものですけれどもー」
返事はない。
大体わかってましたけどね。
「おじゃましまーす」
「………………」
「久しぶり、親父さんどこ?」
「………………」
「ああ、森に猟行ってるわけね。あんたがここにいるってことは、私が来るって言われてたの?」
「………………」
「そう、野菜はそこのリヤカーに置いてあるから、欲しいものを取ってくれる?」
「………………」
目線だけで人の話しを聞いて、相づちは首を動かすだけ。
どっかのやかましい幼なじみとは大違いだ。
その意図を察するには、最初の頃は随分苦労した。
馬鹿にされているのかと、腹が立って頭をすっぱたいたのはいまや懐かしい思い出だ。
しかしおよそ二ヶ月見ない間に。
「あんた、変わったね。どうしたのさ、その顔」
いままでは髭も剃っていたし、髪の毛だって切っていた。
それがいまや熊面に、髪の襟足は肩まで伸びている。
「……親父さんに言われたの?」
「……………………」
重々しい空気のまま頷く男に小さく頬を引きつらせて頷いておいた。
できるだけ野生と同化するために声を出すな、息を殺せと狩屋の親父さんに教えこまれている。
そう涙ながらに語っていた奥さんの言葉に、私は返事をしないという理由で男の頭を叩いたことを謝った。
「……奥さんは?」
「…………………」
無言で、すっと横の扉を指差した先に、目線を寄越す。
目線の先の扉がギィと音を立てて、開いた。
いい加減にこの扉の立て付けの悪さは直さないのかしら。
「…………あなた……」
「……お久しぶりです」
「……来て、くれた、のね……」
ズシャァァァ。
いや、奥さん、床は冷たいですよ。
ええ、冷たいですよ。
「うちの息子がとうとう見捨てられたのかと……!」
「いや、奥さん、見捨てるもなにも。そんなに親しい仲じゃないんですよ。私と息子さんは」
ここはなぁ。
息子のほうは良いんだけど、奥さんがなぁ。
これさえ無ければ、もっと交友を深められるんですけどねぇ。
奥さんに仲良くしてやってと言われたは良いが、息子さんと話すたびに見守られちゃ居心地悪いんですよ、奥さん。
私は別に気配に聡くはないけれど、息子さんは聡い。
奥さんの視線が気になるのか、ちらりと背後を気にする仕草を見せるのにつられて、後ろを見れば……いや、思い出したくない。
息子が絡まなければ、おっとりした本当に良い奥さんなのに……全く惜しい人だ。
この奥さんの異常な息子への愛情は、一体どこから来るのだろうか。
きっと一生わからないな。
「ん? なに?」
「……………………」
肩を叩かれて振り返ってみても、男は無言。
「んー………、えっとー………、あー………あ、あれだ。何を渡せばいいかって話?」
「……………………」
男は黙って頷く。
「そっか、えっと、お肉ある?」
「……………………」
男は黙って肉を出す。
「あ、あるの。じゃぁね、マリカの肉とクシの肉、どっちもあったらどっちも欲しいんだけど、ある?」
「……………………」
男は片手に一つ肉を掲げる。
「え、と、これはクシの肉かな。これしかないって訳ね。じゃあ、これ、貰ってってもいい?」
「……………………」
男は今度は黙って頷いた。
最低限の動作に、必死に意味をつけて解釈しなくてはならないこの男との対話は、慣れない。
昔は一言、二言、話してくれたというのに、どうやら年々、親父さんの教育は厳しくなっているようだ。
「うちの息子とそんなに微笑ましく会話を……!!」
いや、奥さん。
いまのどこに”会話”があったと言うのですかね。
駄目だ。
奥さんも親父さんの教育が厳しくなっていくにつれ、年々変になっていく。
陶酔しきった顔をしている奥さんを、男にしか見えないように指差す。
「………………………………………………」
何も言わんのかい。
ていうかいつもより沈黙長いんですけど。
「これで私にもついに孫の顔が……………見れるのね………!」
聞かなかったことにしよう。
本人が乗り気ではない話しには入らないほうがいい。
「あ、私帰ります」
すちゃ、と片手を上げて挨拶をすれば、男は小さく頷いた。
息子さんの了解はちゃんと取りましたからね、奥さん。
とりあえず野菜を詰め合わせて置いてきゃ大丈夫な気がする。
奥さん、料理上手だから、何を置いていっても何でも上手く調理する。
あの様子だと、野菜選ばなそうだし、なんか脳内の計画が進みそうだし、きっと刺激しないほうがいい。
「じゃ!」
「……………………」
片手をあげて、扉の向こうから見送る男に、笑顔を送る。
リヤカーを引いて、家に心無しかいつもより速い速度で帰る途中に思うことは一つ。
夢見る騒がしい幼なじみと、狩屋の無口すぎる男、足して半分に割ったら丁度良いのに……。
いや、無理だってわかってんだけど。
「……ただいまー」
リヤカーを小屋に戻して、日が暮れたのを見届けてから、家の扉を開く。
自然、一日の疲れにため息を漏らした。
「辛気くさいね、あんたは」
「あー……ごめん」
「…………別に、悪いとは言ってないだろ」
「良い意味ない、辛気くさいに。悪かったね、部屋の空気暗くして」
「……何だい、また宿屋の坊やと一戦したのかい?」
「いや、まぁ、それもあるけど……」
狩屋の奥さんも、中々強烈なんだ、これが。
なんか三日分の疲れがたまった気がする。
いつもは宿屋の息子と絡むのは五日に一回。
狩屋の奥さんと絡むのは十日に一回。
弟と妹に仕事教えるのは二十日に一度くらいの頻度なのに。
まさか全て重なるとは。
なんか今日は運がないな。
「あの子らはまだ雑草取り?」
「ああ、まだ帰って来てないからね」
「じゃ、呼びに行ってくる。ついでに宿屋に行くからちょっと遅くなる」
「頼んだよ」
「あ、狩屋でもらったクシの肉、ここに置いとくから」
「わかった」
さてウチの子らは一体どこまで行ってるのかね。
熱中しすぎて、放っておけば日が暮れて真っ暗になるなんてざらにあることだ。
さっさと見つけて家に戻さないと、ここらは暗くなると獣が活発になる。
「あ、いた。おーい、仕事はもう終わりだから、さっさと家に戻りなぁ」
「姉ちゃん」
「わかったー」
妹が手を振る姿を見て、宿屋に向かう。
雑草が抜かれているところを辿っていけば、ウチの子は直ぐに見つかる。
全くサボりなんてしない良い子で、手がかからないことだ。
問題はあの男の宿屋なんだけど。
「すみませーん、お邪魔しまーす」
「農場の娘じゃねぇか、どうかしたか」
「いやぁ、いつもいつもウチの野菜仕入れてくれて、ありがとうございます」
「御託は良い。うちのの話しか」
どうやら、あの男はいないらしい。
この期に及んで、ここで一戦交えるのは勘弁したかったところだ。
あの男と違って、宿屋の親父さんは話が早くて、凄く好ましい。
ピンクのフリルエプロンも凄くお似合いです、親父さん。
「おたくの息子さんが、うちの柵をですね」
ここに奥さんがいなくて良かった。
また奥さんの気に病む種が増えたとあっては、親父さんの血圧がまた上がりそうだ。
親父さんは、奥さんを溺愛しているから、余計に息子への風当たりもきつくなりそうだ。
いや、こちらは全然それで構わないですけど。
幼なじみが一人いなくなるのは、さすがに心が痛いんですよ。
「わかった。明日にでも行かせよう」
「よろしくお願いしまーす」
よっし、了解を得た!
これで確実にあの男はうちの柵を直しに来るだろう。
親父さんに逆らえないからな。
両親に逆らうことは、この村では酷い粗暴だ。
いつまでも逆らい続けることにある種の尊敬の念は抱くが、あまり賢いこととは思えない。
村中でのあの男の評判は、地の底を這っているといってもいい。
そのせいで、宿屋の奥さんの心労はかさんでいるのだ。
これがもう少し広い町で、ある程度の自由が許されているのだったら、あの男の行動も、ここまで家族を苦しめないのだろう。
だが所詮ここは国土の外れにある辺境の村。
文化も情報も法も行き届かない此処では、それぞれの意識が重要になる。
それが無ければ、とっくのとうにこの村は無法地帯と化している。
まぁ、犯罪が起きるほどの資源がないことも、要因の一つではあるのだけど。
「今後ともうちの農園をごひいきに」
「ああ」
言葉少なに返答を返す、ここの主人はたまに来る旅人をもてなす男だ。
外から来る人間は、この村を通って国を越える人間が多い。
この村は、全てのものを自給自足で補っている。
国から遠く離れて、交流も持つ町や村が近場にないからだろう。
服も、包丁も、まな板も、農園に使う鍬も、その元となる資源は決して豊富とは言えない。
だからこの村は必ずしも金が一番重要であるわけではない。
金だけで取引が成立するわけではないのだ。
旅人のほとんどは、金で事を済ませようとする。
だが、交流を持つ町や村が離れている中で、それがどれほどの価値になるというのだろう。
主人は、外からの情報を扱っている。
旅人の持つそれが、紛れの無い真実であると何の疑いもなく思っているわけではない。
ただここでは情報は価値あるものだ。
新たな王の誕生やいま騒がれている貴族事情。
(あいつが旅人の話を過剰に聞くのは、それなりの理由があるだけどねぇ)
そのほとんどが、時期外れや、もうとうに結末の出ていることではある。
だが、情報が無ければ、いま自分がどの国に属しているかということすら、わからないではないか。
こんな辺境の地で、宿屋が保っている理由の全てはそこにある。
たまに旅人に譲ってもらうことのできる国の地図は、この村では掛け替えの無いものであるし、最新の鍬の型や包丁や、フライパン、それらは、鍛冶屋にとっても村にとっても有益なものだ。
この村に本屋はないが、数冊読み物があるのは、一重に宿屋の主人のおかげだ。
だからこの村の人間は、村にとって一見必要のないものに見える宿屋を馬鹿にしない。
むしろ注目しているといっていい。
その一人息子が、あの男。
うちの柵を壊して、幼稚な暴言を吐いて、尻尾を巻いて逃げていった男の後ろ姿を思い浮かべて、ため息をつく。
(頼りない……。第一、あいつは旅人の話を真に受け過ぎなのよね)
言っていた、という事実があるだけで、そういうことがあるということではない。
だと言うのに、あの男はなんやかんやで、自警団が必要だ、重要だと喚く。
備えるべき危険がないというのに。
一見、嘘のような旅人の語りぐさ。
人魚の話や、狼の集落の話。
それらは旅人でさえも伝え聞いたと銘打つ話だ。
(そんなものはいないわよ)
国には、獣人や妖精も普通に暮らしているという。
この村にはそんな存在はいないために、まるで夢物語のようだ。
美しく虹色に煌めく妖精の羽や、超人的な獣人の能力を、この目で見てみたいこともあるが、この村ではとても無理だとわかっている。
夢見るだけ無駄だと、望むだけ届かないことだと、あの男はわかっているだろうか。
いつまでもいつまでも、繰り返し繰り返し、ただ只管、旅人の語る夢事を追い続ける男に、私はふとただ平伏する。
届かないとわかっているものに、何故あそこまで懸命になれるのだろう。
ただの馬鹿だと、心のどこかで思っているのに、それでもどこか、悔しいような心地になる。
弟はとても良い子だ、あの男とは比べ物にはならない。
それでも時々、ふと寂しい気持ちになるのを、私はそっと知らぬ振りをする。
広い世界を私は知らない。
見てみたいと思う気持ちを、私は知らない。
それが只、知らぬ振りをしているだけだと、一体誰が追求できる?
誰にも出来はしないのだ。
女性は現実主義。男性は理想主義。だけどきっと女性だって夢見てみたい。
自給自足の村では、理想主義者は生きにくいのかもしれません。
なので彼女は宿屋の一人息子に、少し嫉妬しているのでした。