ジェンガ(三題噺)
「六月」「ジェンガ」「To You」を題に書きました。
耳元でけたたましく鳴く呼び出し音。
カズヤは携帯を握る指に力をいれた。無意識のうちに。
(出ろ……出てくれ、頼むから……)
彼の祈りも虚しく、電波の向こうから留守電を告げるメッセージが流れる。伝言は残さず、通話を切ってすぐにリダイヤルした。ディスプレイに表示される本田瑠美子の名前と番号。彼は生唾をのみ、また携帯を耳に押し付けた。
空虚な呼び出し音で鼓膜が震える。カズヤの指も震えていた。いや、身体全体が震えている。寒いわけではない。季節は初夏、六月の終わり。日本列島は梅雨入りし、今も外ではさめざめと雨が降っている。窓を叩くその音は、カズヤの耳には聞こえていない。彼はただ携帯のコールのみに全神経を集中させていた。
(出ろ、出るんだ……)
もう何百回も頭の中で反芻したその言葉。それが決して円環ではなく、螺旋だと信じてカズヤは携帯をかけつづけた。螺旋ならばいつか必ず終わりがある。出来ればそれは好ましい終わりであって欲しい。即ち本田瑠美子が電話を取るということ。
「こちら、BUお留守番サービスです」
「くそっ!」
カズヤは携帯をベッドに投げ捨てた。床や壁に叩き付けなかっただけでも、まだ冷静といえる。しかし彼の頭が混乱と怒り、そして少しばかりの悲しみに満たされるのも時間の問題だった。
頭を掻き毟り、どさっとベッドに腰を下ろす。その衝撃でわずかばかり携帯が跳ねた。
(落ち着け……)
そう念じてカズヤは目を閉じた。五指を組んで額をささえる。深く息を吐いて頭を冷やそうとするが、苛々の熱はまだわだかまっていた。しかし幾分かはマシになったので、彼は顔を上げた。クローゼットの上に置いた卓上時計に目をやると、時刻は午後の五時を少しすぎたところだった。そして彼の目線は、自然と時計の隣に置かれたフォトフレームに流れた。そこに移っているのは甘い思い出。カズヤと瑠美子が付き合い始めて間もない頃の写真だった。どこで撮ったものだったか。幸せの笑顔で微笑む二人の背後に、大きな――とはいっても、それはせいぜい五メートル程度の――建造物が覗いている。三階層のタワー型オブジェ。複雑で繊細な構図でそびえ立つその塔は、ジェンガを積み上げて作られたものだった。カズヤの脳裏に写真を撮った時の記憶が広がる。(そうだ、確かこれは初めてのデートの時の写真だ。多分、1年半くらい前の事だ。近場の博物館で、このジェンガタワーは積みみ上げられていた。俺たちは丁度、完成間近の時に訪れたんだ。そして芸術家が最後の一ブロックを頂上に乗せた時、ギャラリーから大きな拍手が起こった。俺達もまるで自分達がそれを完成させたような錯覚に陥り、えらく感動した。瑠美子がこのジェンガの前で写真を撮ろうと言い出したのだ。俺は二人の愛がこのジェンガの様に、高く積みあがって未来に続くと思っていた。それがどうしてこんな事に……)
カズヤは大きくため息をついた。どうしてこんな事に、それを考えると胸中に溢れる鉛色の不安は、嗚咽となって彼の口から漏れた。
二人の出会いは「To You」という出会い系サイトがきっかけだった。カズヤがそこに登録し、偶然瑠美子と知り合った。ただそれだけのきっかけ。それだけだが、彼は瑠美子こそが生涯のパートナーだと確信した。それほど彼女はいい女だった。知的で、明るく、でも時に弱みを見せカズヤを信頼し助けを求める。カズヤは頼られるのが嬉しかった。彼はまだ二十歳だが、その短い人生の中で他人から信用され、必要とされたのはそれが初めてだった。だから彼が彼女に執心するのは当然のことだった。思えば、彼女はそんなカズヤの心理を見抜いていたのかもしれない。自分が頼られることで、彼の方も彼女を信頼できた。それはいつしか盲信となっていたのかもしれない。だから彼女が学費のために五十万円ほど必要だといった時、彼は微塵も彼女を疑わなかった。フリーターの彼女が、医療事務の資格を取りたいという目標を持ったのは素晴らしい事だと思った。学生のカズヤにとって五十万円は安い金ではなかったが、彼はバイトで貯めた預金を崩して彼女に渡した。その時の彼女の喜びようが、ますますカズヤの彼女に対する熱を上げた。どうして両親ではなくカズヤに学費を相談するのか、という疑念は後々に少しばかり湧いたが、すぐに愛情の奥底へ沈んでいった。
その後も彼女は幾らかカズヤに金銭をねだった。参考書の費用だとか、追加の授業料だとかだ。そして彼女に渡した金額は合計で八十万円ほどになっていた。
そして事が起こったのは三時間ほど前だった。カズヤはバスに乗って大学から帰宅するところだった。なんとなしに、窓の外から風景を眺めていた。そしてバスが赤信号で停止している時、彼はその窓から見た。瑠美子と思しき女が、見知らぬ男と連れ添って歩いていた。その腕を男の腕に絡ませて。最初は人違いだと思った。横顔だけなら似ている人は幾らでもいる。しかし……だけど、その服装は見覚えがある。彼女の誕生にプレゼントしたオレンジ色のカーディガンではないか? それでも、珍しい品物ではない。たまたま似ている人が、偶然同じような服装をしているだけだ。そうに違いないと思い込んだ。二人は赤色に灯る歩行者信号の前で止まった。丁度、彼の席の真横である。男が車道――つまりカズヤ側――だったため、横に並んだ瑠美子によく似た女は、男に話しかける時は必然的にその顔をカズヤの方に向ける事になる。だから彼女の正面がカズヤの方に向くのは時間の問題だった。見間違えようも無いその笑顔。いつもカズヤに見せていた小動物のように可愛らしい笑顔がそこにあった。
ふと、彼女と目線がぶつかったような気がした。
カズヤが呆然としているうちに、信号が変わりバスは発車した。彼はぐるぐると考えをめぐらせた。あの男はきっと彼女のお兄さんか、弟さんに違いない。だからあれほど仲が良かったのだ……しかし彼女に兄弟が居るという話は聞いたことが無い。じゃああれは友達だ、仲のいい友達。しかし異性の友達と腕を組んで歩くだろうか。
そんな事を考えている間に、いつの間にか家についていた。
そして今に至る。
カズヤは再び携帯に手をのばした。そしてリダイヤルをしながら思った。あの時目線があったと思ったのは、勘違いじゃなかった。彼女も俺に気づいたのだ……。
「おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が切られている為、かかりません」
「…………」
カズヤは頭を抱えた。もはや疑念は確信へと変わっていた。彼女は浮気をしていて、その現場を俺は見たんだ。
業火の如く憤怒が燃え上がった。しかしそれは一瞬の事で、滂沱する悲しみの涙に鎮火された。金銭を騙し取られていたという彼女への怒り、気づけなかった情け無い自分への怒りよりも、裏切られたという嘆きの方が大きかったのだ。彼の心は崩れ去った。まるでジェンガの様に音を立てて、ガラガラと。
玄関のチャイムがなった。家には今、カズヤ一人しかいない。だからカズヤが出なければならないのだが、とてもそんな気にはなれなかった。しかしチャイムは執拗に何度も鳴った。彼は苛々としながらも、仕方なく玄関に向かった。
「はい、どちらさま……」
カズヤは愕然とした。そこに居たのは瑠美子だった。
「どうして……」
出てきた声はひどく震えていた。怒りによるものなのか、悲しみによるものなのか、もしくは喜びによるものかもしれなかった。
「お別れを言いに来たの」
彼女の言葉はとてもはっきりとしていた。鈴の鳴るような軽やかな声。
カズヤは乱暴に彼女の肩を掴んだ。今まで彼女に暴力を振るったことは一度もなかった。しかし今はなにをしでかすかは、解らない。
「別れるって、どういうことだ! さっきの男が関係あるのか!」
彼女は目を伏せて、こっくりと頷いた。「そうよ」
再び怒りが燃え盛ろうとしていたが、カズヤは冷静に彼女を見た。どうも様子がおかしい。出会い系で男を騙して、金銭を巻き上げるような女の態度ではなかった。彼がそこから感じ取ったのは、後悔、懺悔といったしおらしさだった。
「瑠美子……なぜだ?」
カズヤは両手を彼女の肩から放し、頭を振った。彼女は小さく息を吐き、顔をあげて彼を見据えた。その目に宿っているものがカズヤには信じられなかった。それは怒りだった。
「あなたが、あなたが悪いのよ!」
おおよそ普段の彼女から考えられないような怒声だった。彼女が怒りを見せたのは初めての事だった。それは彼も同じだが。
瑠美子は肩で息をしていた。今の言葉を言うのに、相当なエネルギーを使ったのだろう。それくらい圧倒する物があった。カズヤは目をしばたかせ、彼女がなにを言っているのか理解しようと務めた。俺が悪いって? どうしてそうなるんだ。俺がいったい……なにをした?
「俺は君に何か悪い事をしたか? いつも君の助けになろうと頑張ってきた。色々と手を貸して……お金まで貸したじゃないか!」
「それが悪いのよ!」
なんだって? 手を貸す事が悪い事だと。彼女はなにを喚いているんだ。
「何が悪いって言うんだ? 君が助けを求めたから俺は……」
「助けて欲しかったわけじゃないのよ。あなたにはそれが解らなかった」
「え?」
カズヤは眉をひそめた。ますます彼女の言い分が解らなくなって来た。
「どういうことだよ。ちゃんと説明してくれ」
彼女はかぶりを振った。呆れたという様子だった。その顔は信じられないという面持ちだった。信じられない――カズヤにとっては何より聞きたくない言葉だったが、聞かなくて彼女の顔からありありと読み取れた。
「わたしは困ったとき、ただ話を聞いて欲しかっただけ。あなたに助けを求めたわけじゃないの。だけどあなたはわたしに手を差し出した。それであなたは満足したでしょう。でもその度に、わたしの自尊心は少しずつ削られていったのよ」
今度はカズヤが呆れる番だった。この女は、なにを身勝手なことを言っているんだ?
「それなら断ればよかったじゃないか。散々人の行為に甘えておいて今更なにを言っているんだよ」
「あなたの優しさを無碍にする勇気がなかったの、その点はわたしも悪いと思うわ。だけど、気づいて欲しかった。その優しさがどれだけわたしの重荷になっていたか」
カズヤは息を呑んだ。彼女の目に燃える怒りの合間に、謝罪の念が見え隠れしていた。確かに、もし助力を断られたら、俺はプライドを傷つけられていたかもしれない。だけど、それは断り方にもよるだろう……。果たしてそうだろうか? 俺も彼女のプライドを傷つけないように支援できたんじゃないか?
カズヤは瑠美子を助けようと、瑠美子はカズヤを傷つけまいと、お互いの優しさのすれ違いがそこにはあったのだ。
「それで、これを返しに来たの」
瑠美子は鞄から取り出した封筒をカズヤの胸に押し付けた。彼はそれを受け取り中身を見た。そこには札束が詰まっていた。およそ数十万円くらいか。彼は瑠美子を見た
「とりあえず半分の四十万よ。あとの半分はまた後日に返すわ」
「こんな、こんなの要らないよ!」
「要る、要らないはあなたの自由だけど、わたしは借りたから返すの」
カズヤはひどくプライドを傷つけられた気がした。これは彼女の復讐なのかもしれない。
「……でも、どうしてこんな急に。二人で話し合おうよ。俺はまだ君のことを愛しているんだ」
最後の言葉は意識的に強く言った。彼女の事を本当にまだ愛しているかどうか、カズヤには自信がなかった。そんな彼の胸裏を、彼女の目は見透かしているように憐れんだ。
「あなた、わたしがさっきの男性といつからお付き合いしてたか知ってる?」
「……いや」
「二ヶ月前よ、わかる? あなたは二ヶ月の間なにも気づかなかった」
二ヶ月、それは短いようでそうでもない。カズヤはその間何度も瑠美子と会っていた。だから彼女の態度に少しでもおかしいところがあれば気づけた。実際に瑠美子はそれらしいヒントを出した。彼の言葉に上の空になったり。急な電話で彼の見えない所へ行ったり。しかし気づかなかった。それは二人の愛が、当人が思っている以上に穴だらけになっていたことを意味する。まるで倒れかかったジェンガの様に。
「……わたしが本当に助けて欲しい時に、あたなは助けてくれなかった」
「…………」
もはや言葉はなかった。瑠美子は「それじゃ、お元気で」と言い残して立ち去った。カズヤは封筒を握り締めた。彼女の事だから、残りの額は本当に返済してくるだろう。そんな事はどうでもいいのに。彼はまだ心のどこかで彼女を諦めきれないことを自覚していた。一方で彼女の心がもう完全に自分から離れていることも解っていた。
崩れたジェンガはまた積みなおせばいいかもしれない……。だけどジェンガは一人では出来ない。