Grim Reaper - birth
窓に反射する自分の顔が見たくなくて、暗闇を見ていた。
等間隔で設置された電灯が、壁をぼんやりと浮かび上がらせている。高速で行き過ぎる壁に興味はなかったが、他に見るものがなかった。
速度が落ちてきた。四角い看板が現れた。文字は読みとれない。だけど、何と書いてあるかはわかっていた。
「次は、飯田橋」
アナウンスの声で、降車する人間が動き出した。
地下鉄のドアが開き、多くの客が降りていった。
「発車します」
警告音がして、ドアが閉まった。
いつもなら、降りていた駅だった。でも、今日は降りたい気分ではなかった。開いたドアと逆側にいたこともある。
数分で次の駅に着いた。
「市ヶ谷、市ヶ谷……」
ここで降りても、学校へ行くのに支障はない。都内の乗換駅は無数にあった。
でも、降りなかった。
はじめてのサボり。そんな言葉が頭に閃いた。
本当はサボりたいわけじゃない。ただ、気が滅入っていた。
気づいたら新木場の駅だった。折り返し運転のため、何人かの客が乗ってきた。がらがらの車内に立っているのも奇異に映る。座席に腰掛け、中吊り広告を見上げた。
目の前に人が立った。
「おはよう」
二十代半ばくらいの紺のスーツを着た女性だった。目があった。自分に挨拶をしたようだった。
知らない顔だ。挨拶を返さないと変なのか、見知らぬ人に挨拶するのがおかしいのか、少し迷う。
「おはようございます」
目が合ったからには、挨拶はしておくべきだろう。
座席が少し沈んだ。女性は隣に腰掛けていた。
「遅刻じゃないの」
時刻は八時を回っていた。
「そうかもしれませんね」
馴れ馴れしい態度が気に障った。極力、平坦な言葉にならないように意識して返事をした。関わり合いになりたいと思わない。しかし、あからさまに避けるのも礼儀に反する行為だ。
「曖昧ね。学校まで、どのくらい時間がかかるかくらいわかるでしょう? 遅刻か、そうじゃないか、すぐに判断できないの?」
絡んできた。酔っ払いかと思いはしたが、さっき合った目は、濁りのないものだった。酒の匂いもしない。いい香りがした。
「あら、お姉さんに興味がある?」
「失礼します」
顔が火照るのを感じた。これ以上は無理だった。強引に始まった会話だったが、中途で席を立つ。
「駄目よ」
手首をつかまれた。引き戻される。よろめいて、身体が倒れそうになった。
やわらかい。
「あ……ん」
女性の胸に顔を預けていた。
「ご、ごめんなさい」
何とも言えない女性の匂いに、頭がクラクラした。ずっとこうしていたい気持ちがわいた。
「あの」
頭の後ろを押さえられていた。動けない。やわらかくて、気持ちいい。
「君のお名前は?」
手が少し緩んだ。
「柏木……秀樹」
普段なら言わない。初対面の人間に個人情報を明らかにするほど、馬鹿ではない。嘘を言うのも、後ろめたい。だから、黙る。
けれども、名乗らなければならないと感じた。そう思わせる何かが、女性の声から滲んでいた。
「私は竹原美羽。みう姉さんと呼んでね」
「はあ……」
いきなり自己紹介された。しかも愛称つきだ。痛い人なのかもしれない。
腕を解かれて座席に座らせられた。匂いが離れていった。
「あなた、見えるんでしょう」
「え」
真剣な目と出会った。
見透かされているような気がして、つい頷いてしまった。これも、普段なら黙るようなところだ。肯定も、否定もせずに。
車内でいびきを掻く学生。新聞を広げたサラリーマン。孫を連れたお爺さん。彼らの顔に渦巻くものがあった。
近くでよく見れば、それが何かよくわかる。頬に、額に、アナログ時計が浮かんでいる。それが何を意味するかは、わからなかった。ただ、他の人には見えないということは知っていた。子供の頃に、おかしなヤツと思われてからは、黙るようにしていた。
「私のは見える?」
「え……ない!」
にやにや笑いが返ってきた。
「君もね」
思わず頬に手をやった。自分にも時計がない。
鏡や窓ガラスは嫌いだった。他人と違う自分が悲しくて、目を背ける。学校でも、何となく孤立していた。
「仲間」
鼻の奥がじんと鳴った。
「ちょっと待ってくれる?」
潮風に負けない声で、美羽は少女を呼び止めた。
彼女は振り返った。虚ろな目だった。赤く腫れぼったい顔が痛ましい。半開きの口は言葉を発しない。
「少しだけ時間を頂戴」
美羽は学生服の上から少女の腕をつかんだ。少女は振り払う素振りをしたが、あまりにも弱々しい抵抗だった。
「どうしても、というのなら、諦めるけど、飛び降りる前に、お姉さんと、お話してほしいの」
子供に言い聞かせるように、ゆっくりと話した。実際、子供だった。美羽の半分も生きていないだろう。細い手首が折れてしまいそうだった。
少女の目から涙が溢れ出した。
小さく頷いた。
その間にも、少女の時計の針は進んでいた。
美羽は無言で少女を抱きしめた。
辛かっただろう。どうしていいかわからなかったはずだ。何があったか話したことで、少し落ち着いた様子だった。
美羽はまだ彼女の手首から手を放していなかった。最後に決めるのは少女自身で、その意思を尊重する気持ちはある。本心は、ずっと手を放したくはない。他の人に知られたら、非難されることがわかっていても。
「わかった」
少女の決意は、揺るがなかった。
美羽は震える手を解いた。自分自身の無力さが震えに現れていた。
本人の判断に委ねるしかない。たとえ子供でも。いくら話を聞いて理解した気になっても、他人にわかるわけがない。
自殺する気持ちなんて、死んだ人間にしかわからない。思いとどまった人間は、自分の気持ちがわかっただけだ。決して、他人の気持ちがわかるわけではない。
少女は立ち上がった。
ありがとう。
彼女は言った。
遠くに海辺が見えた。ビルの上は風が強い。少女はゆっくりと足を踏み出した。
美羽は少女の肩を抱きとめた。
静かな目が美羽を見上げていた。
「あなたの魂を救わせて」
唇があわさった。
美羽と少女のやりとりを、秀樹は陰で見守っていた。
「あ」
二人の身体が重なり、たった数秒で少女の渦が消えたことに気づいた。
少女は糸が切れたように力を失った。美羽が少女の体重を支えきれず、尻餅をついた。それでも少女の体を放さなかった。
「何があったんですか」
秀樹が近寄ると、美羽は肩を震わせていた。少女の腕がだらりと地面をこする。顔を覗き込むと、時計が失われていた。
「その子は……」
すすり泣きがした。美羽が首を振った。
秀樹はどうしていいかわからなかった。
しばらくして、美羽が少女を地面に横たえた。
「死んだのよ」
「死んだ?」
秀樹ははっとして、もう一度、少女の顔を見た。白く幼い顔だった。
「死……」
そうだったのか。命を刻むという言葉のとおり、あの時計は生きている証だったのかもしれない。それが消えたのは、この世から去ったことを意味する。
秀樹は自分の頬を撫でた。
時計のない自分は、なんなのか。背筋に冷たい汗を感じた。
「自殺はさせたくなかったのよ。自分で命を絶てば……聞いたことあるでしょ? 地獄へ落ちるって」
美羽は少女の乱れた制服をなおしてやった。吹き止まない風が服の裾を持ち上げ、また整える。
「魂が穢れるからよ。だからね、私たちがそうならないようにしているの」
「地獄……魂?」
馴染みのない単語が秀樹の頭を掻き回した。何を言っているのだろう。それに、自殺?
「その子、自殺……した?」
「いいえ」
美羽は少女の服をなおすことを諦めて、秀樹の方を向いた。目が赤い。涙のあとだった。
「私が殺したの」
微笑みが心を揺さぶった。
「殺し……?」
少女に怪我らしいものはない。でも、死んでいるようだった。美羽がやったというのか。
美羽は泣いていた。そして、笑っていた。本当に笑っているのか。人を殺して笑える人間がいるのか。
「生きていけないって言ってた。男の子には想像もできないでしょうけど」
少女に何があったのかわからなかったが、死にたくなるくらい辛いことがあったのだろう。自殺したくなるような出来事が。
「誰かが殺せば、自殺じゃない。地獄に行かないですむでしょう。……わかる?」
理屈はわかる。だけど、殺した人間はどうなるのか。
「地獄へ行くかもね。わからないわ。私はまだ死んでいないし」
美羽は秀樹の手を取った。
暖かい手だった。
「今日、君を見つけたのは偶然……だったのかな。でも、私がここに連れてきたのは、私の意思だからね」
美羽が立ち上がった。秀樹もつられて立ち上がる。
「もし」
美羽は言い淀んだ。
「よくはわかりません。だけど」
秀樹は手を握り返した。
「仲間と言ってくれました。僕は」
一人ではなかった。
嗚咽が言葉を消し去った。それでも、美羽にはわかったようだ。強く、抱きしめてくれた。
二人は、少女を風のない屋内に入れた。そこなら、服が乱されることもないだろう。少なくとも夜になれば、見回りの警備員に発見されるはずだった。
「名刺ってビジネスっぽくて、好きじゃないんだけど。裏に住所が書いてあるから」
美羽は両面印刷の名刺を取り出し、秀樹に渡した。
「Grim Reaper」
「あら、よく読めたわね。普通わからないものよ」
美羽は感心した。英語だから字面で読むのは難しくない。意味も何となくわかった。
「死神」
「素質があるのかも」
あまり良い褒め言葉ではなかった。