小説を書く面白さ
私はかなりの間、小説を書いてきて書いては捨てを繰り返しており、実は結構完成させているのであるが、おそらくそういったものは今読んでも欠陥だらけなものであろうから、削除して良かったとは思っているが。
小説を書く面白さというのは、文章の中の流れを読むことである。小説には二人以上の人間がいてその対話がグルーヴを産んで、ある種の流れのようなものを表して、そこに向かって描写を進めてゆくということになるのであるが。
この時に、一番、邪魔するのが、「わたし」という作家意識であろう。そこが光ってくると、小説そのものが混濁した文章になってしまう。小説とは、登場人物の声を聞くものなのに、いや、その背景の世界を読むものなのに、「わたし」というものが阻んでしまうと、雑音になってしまうのだ。
そうすると、流れが阻害されてしまう。私はここ「なろう」で「わたし」に邪魔されて小説を書けなくなった人をどれほど見てきたか。いや、それほど見てきてもいないのであるが、なんせ、他人の小説はそんなに読まないので。
若い人たちの小説が、年寄りにつまらないのは、本当に典型的な「わたし」がムクムクと顔を出してくるからである。この「わたし」を登場人物に乗り移さないといけない。で、他の登場人物とともに、世界を提示してゆかないといけない。
これは、登場人物に感情移入するともいえる。つまるところ、人形遊びにも似ている。これをロールプレイともいえる。その世界と人物との調和感、ハーモニー、これが、小説であり、読んでいて面白いなという時は、その世界が垣間見えたときだ。
読者は、自分たちの人生にうんざりしてしまっており、新風を入れるために小説を読むのである。それなのに、読者をさらにうんざりさせる文章を書く人たちがいる。私は、そういうものを書く人たちを見て「わかるけどブログに書けよ」といつも思うのだ。
しかも、そういう人たちは、ブログという場を設けると、そういうものを絶対に書かないで、また別のつまらないものを書いてゆくのである。ズレちゃっているわけだ。大体、私は天才だと自分で思っていてそれを証明させようと書いている。
やはり、小説を書いていて、一番ダメなのは、「わたし」のはからいが、出てしまうことなのだ。もっと、もっと、自由観念的にならんといけない。そうしたら、「宇宙の流れ、宇宙のシナリオ」を得ることができるのだ。
ジャズスタンダードに、「世界のヒモ」という歌がある。わたしは世界のヒモを掴んでんだわ。きっとこれはそう!みたいな歌である。小説も、人生も、世界ならぬ、「宇宙のヒモ」を掴む行為である。自分の読んだものをもう一回読み直して、そこに内蔵されているシナリオを読み込もう。




