本の紹介54『偶然の犯罪』 ジョン・ハットン/著
小さな嘘に追い詰められていく身近な恐怖を描いた小市民サスペンス
名探偵が快刀乱麻を断つように真相を解き明かすような爽快感とは無縁の作品ですが、先の展開が気になってグイグイ読ませる魅力があります。ストーリーラインがしっかりしており、設定にも無理がないところが読者を牽引していると言いますか、職人技を体感できる良作という印象です。とはいえ、お話自体は地味です。
主人公は模範的市民を自認する有能な男性教師なのですが、気まぐれでヒッチハイクした娘が自分の車を降りた後で何者かに殺害されてしまいます。
彼は事件の容疑者となりますが、醜聞を恐れて警察に嘘をついてしまったことから次第に予想外の事態に追い詰められていくというストーリーです。
事実を正直に話せば容疑が晴れるのに、自分が既婚者であること、また、教師という職に就いていることから、若い娘を車に乗せたことがスキャンダルになると考え、いわば保身のために吐いた嘘が結果的に自身を危険な立場に追いやってしまうという恐怖が描かれています。
あくまでも物語ですので、主人公に感情移入するかどうかは別として、読者は第三者的にストーリーを読み進めるわけですが、本作は主人公に降りかかっている災難がいつか自分にも起こりうるのではないかという差し迫った怖さを感じさせます。
日々生きていく中で一切嘘を吐かないという人は恐らくいないかと思います。いるとしたらフィクションの中の登場人物か、自分が吐いた嘘に気がつかないちょっと困った人でしょう。
嘘と言っても様々な形、程度があります。明確な意図を持って吐いた巧妙で大掛かりな嘘もあれば、ちょっとした見栄から吐いた些細な嘘もあります。ヴァリエーションは様々です。
本人として大したことではないと思って吐いた嘘が、様々な出来事や人間に影響を与え、結果として大きな厄介ごとに発展してしまう。これほどの恐怖は中々なく、本作が描いているのはまさしくその手の恐怖です。
そして、その恐怖は現実に生きる私たちのすぐ身近に潜んでいるものです。情報技術の発達で、個人の言動が簡単に世の中に広まるようになった世の中では、より一層その恐怖の現実化の可能性は大きくなっていると言って良いでしょう。
なんで主人公はこんな嘘を吐いたのだろうと冷静に眺めていると、実は同じような機会が自分自身にも訪れうるということに気がつくのです。
30年ほど前の作品ですが、今の世の中にこそクリティカルな要素を含んでいるのではないでしょうか。
本作の主人公ははっきり言って嫌な性格をしています。今で言うとモラハラ気質というか、自分の正しさを疑わず、自分が他人を導く立場にあると信じ込んでいる人物です。
尊敬されて当然だという思い込みと、周囲の人間の冷ややかな反応との落差に鬱憤を溜めていたことが、事件に巻き込まれるきっかけになったと言っても良いでしょう。
なので事件の真相とは別にモヤモヤした気持ちで本作を読むことになる人もいるかもしれません。
ただ、自分としてはちょっと主人公に同調、同情するような気持ちも芽生えていました。自分勝手で不遜な気持ちというのは自分にも間違いなくあり、完全に他人事とは思えなかったのです。
誰もが持っている嫌な部分を体現している、ある意味で強烈なリアリティを持った主人公であるとも言えるような気がします。魅力的でないことに味があると言いますか。読者をいい気持ちにしてくれる存在でありませんが、こういった主人公の存在が創作物を豊かなものにするとも感じるのです。終わり




