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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
同じ時間、壊れていく関係

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第6話:うまくいったはずの一日

 羽島誠は、消毒液の匂いが立ち込める病院の廊下で立ち尽くしていた。

 病室の厚いドアの向こうには、意識不明のまま眠り続ける佐伯がいる。医師の説明は要領を得ないものだった。

「外傷は軽微で、脳波にも異常は見られません。ただ、どうしても意識だけが戻らない。まるで、体が目覚めることを拒絶しているような……」


 誠は、その言葉の裏にある真実に気づいていた。

 世界は、佐伯を殺せなかったのだ。

 誠の「非介入」によって、世界は佐伯を臨時の観測者として盤上に引き摺り出した。その結果、佐伯は物語の整合性を担保する「楔」となってしまった。彼を殺せば、このループそのものが崩壊する。かといって、目覚めさせることもできない。


「観測者が二人存在することに、世界が悲鳴を上げている……」


 誠はポケットの中で、あの一冊の手帳を握りしめた。



 自宅に戻り、誠は机に手帳を叩きつけた。

 震える手でページをめくると、そこには目を疑う光景が広がっていた。

 彼が何も書いていないはずのページが、物理的に増えていたのだ。

 そこには、誠が「見ていなかった」はずの、佐伯の行動ログがびっしりと書き込まれている。


『16時12分。佐伯は栞の異変を察知し、美術準備室を出る』

『16時38分。資料館の裏口に到着。彼はそこで、自分を待つ“何か”の気配を感じた』


 文体は誠自身のものと完全に一致している。だが、決定的な違和感があった。

 文章の中で、一人称の「僕」と「俺」が支離滅裂に混在しているのだ。

 誠は「僕」と書く。しかし、佐伯は生前、自分のことを「俺」と呼んでいた。

 まるで二人の意識が、一つの記録媒体の中で溶け合い、主導権を争っているような不気味さ。


「書いているのは僕だ。……でも、僕じゃない“誠”がこれを書かせている」


 誠は冷え切った頭で、仮説を更新した。

 世界というシステムは、物語を成立させるために最低一人の「観測者」を必要とする。

 だが、誠という正規の観測者が存在しながら、佐伯という代替観測者が生まれてしまった。

 二つの視点が因果を二重に観測した結果、世界は処理落ちを起こし、現実の解像度が急速に低下し始めているのだ。


 その予兆は、すぐに現れた。

 翌日、再び病院を訪れた誠は、受付で足を止めた。


「佐伯くんの面会ですか? ……そんなお名前の患者さんは、ここにはいらっしゃいませんが」


 看護師の言葉に、誠は耳を疑った。

 昨日まで確かにそこにいたはずの病室は「空室」になっており、入院記録からも、防犯カメラの映像からも、佐伯の存在は綺麗に拭い去られていた。

 世界は、エラーの原因である佐伯を、物理的に殺すのではなく「情報」として削除しようとしていた。


 削除プロセス。

 観測者が二人いる矛盾を解決するために、世界は新しく生まれた佐伯という視点を、この宇宙の記憶から丸ごと削ぎ落とし始めているのだ。


「……羽島くん」


 背後から声をかけられ、誠は飛び上がるように振り返った。

 そこに立っていたのは、栞だった。

 彼女の目は赤く腫れ、表情は幽霊を見たかのように青ざめている。


「栞……」

「羽島くんを見ていると、すごく頭が痛いの。……それに、さっきから変なの。誰か、すごく大切な人を助けてもらったような気がするのに、その人の名前が、顔が、どうしても思い出せない」


 誠が「佐伯」の名を口にしようとした瞬間、栞は耳を塞いで蹲った。

「やめて! 言わないで! その名前を聞くと、自分が壊れちゃいそうなの!」


 誠は戦慄した。

 栞は、世界の「安定側」に引き寄せられている。

 世界の矛盾を排除しようとする補正装置として、彼女の無意識が、エラーである佐伯の記憶を拒絶しているのだ。

 誠が佐伯を助けようとすればするほど、世界は栞を使って誠を拒み、彼女自身の精神を摩耗させていく。


 救いたい対象である栞が、世界の手先となって自分を阻む。

 この残酷な構造に、誠は吐き気を催した。


 誠は暗い図書室に逃げ込み、手帳を開いた。

 彼は突きつけられていた。


 佐伯を完全に見捨て、世界に彼を消させれば、観測者は誠一人に戻る。世界は安定し、栞の頭痛も消えるだろう。だが、それは佐伯という人間を、この世の誰の記憶からも抹消する「殺人」と同義だ。

 逆に佐伯を守り続ければ、世界のエラーは拡大し、現実そのものが崩壊を始めるだろう。


 どちらを選んでも、栞の死を回避する確率は極限まで低下する。

 世界は誠に、どちらの地獄を選ぶか選別を迫っていた。


 その時、手帳の最新のページに、新たな一文が浮かび上がった。

 それは過去形でも現在形でもない。

 冷徹な断定としての、未来形だった。


『観測者は一人で十分だ』


 文末に署名はなかった。

 それは佐伯の叫びでも、誠の内言でもない。

 世界というシステムそのものが、羽島誠という個体へ向けて放った、最後通告だった。


「……そうか」


 誠は、ペンを握りしめた。

「一人で十分」だと世界が言うのなら、そのルールを逆手に取ってやる。


 世界が誠と佐伯を監視し、因果を固定しようとするなら、その「視線」が届かない場所を作るしかない。

 自分たちが主役として動くから、世界に先読みされるのだ。

 ならば、誰にも観測されず、誰の記憶にも残らず、世界すらも「気づかなかった」と言い訳するような、無自覚な救済。


 第三の視点。

 駒ですらない、単なる通りすがりの他人に、運命の歯車を狂わせる一撃を放たせる。


「観測されない救済を作る。……それが、第4回目の僕の仕事だ」


 誠は、手帳の余白に、自分以外の誰にも読めない暗号のような計画を書き込み始めた。

 窓の外では、降り続く雨が、すべてを飲み込むように、音もなく激しさを増していた。


 世界は、まだ何も許していなかった。

 だが、誠は初めて、世界の「視線」を逸らす方法を見つけ出そうとしていた。

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