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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
主人公が不要な世界

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第22話:それでも助ける選択

 羽島誠は、自分の指先を透過して見える病室の床を、ただじっと見つめていた。

 かつて彼を包んでいた「削除領域ワールド・アウト」の全能感は、いまやひび割れたガラスのように脆く、不透明なものへと変質している。現在の彼を定義するのは、全能とは対極にある「無」だ。因果の糸を操る指先は麻痺し、言葉を届ける喉は物理的な震えを失い、誰の視界にも入らない「事象の空白」へと彼は変質しつつあった。


 突きつけられた残酷な事実は、誠の精神を氷のように冷たく研ぎ澄ませていた。

 今の世界にとって、羽島誠という存在を維持することは、システム全体を揺るがすほどの「演算負荷コスト」でしかない。誠が彼女の隣に存在し続けようと足掻くほど、世界はその不整合を修正するために、リソースを激しく浪費する。そして、そのしわ寄せは、常に最も脆弱な一点――瀬戸内栞へと向けられる。


(僕が消えれば、彼女は『正しい未来』に戻れるんだな)


 誠は独白した。声にはならない、ただの情報の明滅だ。

 世界という名の神は、誠に究極の二択を迫っていた。誠が自我を保ったまま彼女の隣で幽霊のように彷徨い続け、その負荷によって彼女に再び「死の因果」を呼び込むか。あるいは、誠がこの世界から完全に身を引き、最初から存在しなかった「無」に回帰することで、彼女の生存を確定させるか。


 誠は一度、試みることにした。

 それは、彼にとって死よりも恐ろしい「徹底的な非干渉」という実験だった。


 翌朝、誠は数メートル離れた廊下の隅から栞を見守った。

 効果は劇的だった。誠が意識的に彼女から離れた瞬間、世界の演算ログが急速に沈静化し、栞の脈拍は驚くほど安定した。彼女を執拗に追い回していた不運の予兆は霧散し、看護師の配膳ミスも、リハビリ中のふらつきも、一切がなくなった。誠がいない世界、誠が関与しない未来。そこには、彼がどれほど心血を注いでも作り出せなかった、完璧な「生」が秩序立って用意されていた。


(……これでいい。これが、僕が望んでいたことだ)


 だが、その平穏は、あまりにも「静かすぎた」。

 廊下の影から見る栞は、穏やかな顔で読書をしていた。しかしふとした瞬間、彼女は本をめくる手を止め、所在なげに視線を彷徨わせた。自分でも正体のわからない、大切な「何か」がそこにないことに、彼女の魂だけが気づいている。


「……あれ?」


 栞が小さく呟き、何もない空間に向かって無意識に手を伸ばした。かつて誠が立ち、彼女の髪に触れようとしていた、その空虚な場所へ。指先は空を切り、力なくシーツに落ちた。

 世界の最適解は、彼女に「物理的な生存」を与えた。だが、その代わりに彼女から「心を繋ぎ止めるための楔」を奪い去っていた。生存の確率計算は満たされても、誠という異物を失った彼女の「生への執着」は、急速に薄れている。


(自分がいないから、壊れていく未来……)


 世界が保証する安定とは、単に心臓が動いている状態に過ぎない。

 栞が栞として生きるために必要なのは、生存の確率ではなく、彼女を揺さぶり、彼女を狂わせ、それでも隣に居続ける「誰か」だ。たとえそれが、世界を壊すバグであっても。


「……世界が決めた幸せなんて、知ったことか」


 誠の意識が、熱を持って膨れ上がる。

 世界にとって不要なリソースだというのなら、喜んでゴミ箱に捨てられよう。だが、彼女にとっての「不要」は、彼女自身にしか決めさせない。

 誠は、ゆっくりと立ち上がった。一歩歩くごとに自分の意識が剥がれ落ちる感覚を無視し、彼は病室へと戻った。


 栞は窓の外を眺めていた。その背中はあまりに小さく、儚い。

 世界のシステムが警告のログを吐き出す。

『不整合を検出。対象:羽島誠。存在確率を極小値に設定。』


 視界が白く塗りつぶされていく。思考が断片化し、自分が誰なのかという記憶さえも消えていく。

 誠は右手を伸ばした。


(ごめん、栞。……やっぱり僕は、君を独りにはできない)


 誠の指先が、彼女の肩に触れる。

 その瞬間、世界の因果演算が悲鳴を上げた。

 「個体情報の全削除」――無機質な文字列が誠の意識を虚無へと突き落とす。誠という人間を構成していた記憶、感情、名前。すべてが砂の城のように崩れ、演算層へと還元されていく。

 世界は彼を「いなかったこと」にした。


 だが、情報の濁流の中で、誠は一つの「極」を掴んでいた。

 認識されず、干渉できず、存在すら許されない「空白ボイド」。だからこそ、彼は世界のルールの外側に立つことができた。

 

 現実世界、誠の消失と同時に、世界の修正が牙を剥く。

 誠という見えないバグを炙り出すために、日常という面を被った「偶然」が降りかかる。点滴スタンドのロックが不自然な震動で外れ、重い支柱が彼女へ倒れかかり、驚いて下がった足元には、あり得ない角度で配置された水溜りがあった。


 世界という神が放った、避けることのできない「必然の事故」。

 だが、誠という存在そのものが、理屈を越えて彼女の背後へ割り込んだ。


 長い説明はいらない。

 誠の意志が、鉄の因果を噛み砕いた。

 倒れ来る支柱の軌道を、誠の「無」という質量が強引に弾き飛ばす。


 ガシャリ、という金属音。

 点滴スタンドは栞の脇をすり抜け、空のベッドに当たって止まった。

 栞の身体は、まるで誰かに抱き留められたかのように、その場に踏み止まった。


「……え?」


 栞が、震える自分の手を見つめる。

 誰かがいた。誰かが、私を支えてくれた。

 混乱する病室。駆け寄る看護師。その騒音の中で、誠は膝をつき、激しい情報の嘔吐感に耐えていた。一回の干渉で、彼の空白としての存在が、さらに透明になっていく。


(……分かっている。これが、僕が選んだ道だ)


 誠は、怯える栞の横顔を見た。そこには、生きたいと願い、死を恐れる、人間としての当たり前の感情があった。

 世界が与える「安定」を、誠の「ノイズ」が打ち砕く。

 誠は、自らの最後のリソースを使い、世界のログを上書きした。


『個体名:羽島誠。削除完了。』

『……訂正。当該座標に「未定義の防壁」を配置。』


 たとえ彼女が誠を思い出せなくても。誠が「機能」へと成り果てたとしても。

 誠は、概念上の手を伸ばし、栞の頬に触れた。

 栞は、涙を拭い、立ち上がった。不穏な病室の中で、彼女だけが明日を見つめる力強い光を宿していた。


「……負けない。私は、絶対に、生きるよ」


 彼女の決意。それが誠の守り抜いた唯一の「正解」だった。

 

 羽島誠は、消えた。

 後に残されたのは、一人の少女と、彼女を決して独りにしない、目に見えない「バグ」だけだった。


 病室の窓の外、夕焼けが世界を赤く染めていく。

 それは、あまりにも美しく、そして残酷な、終わりの始まりだった。

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