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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
主人公が不要な世界

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第21話:存在剥離(デリート・フェーズ)

 羽島誠は、静かな、あまりに静かな違和感の中にいた。

 瀬戸内栞が生きている。

 第20話までのループなら、彼女はとっくに冷たい地面の上に転がっていたか、白いベッドの上で呼吸を止めていたはずだった。だが、今の彼女は、誠の隣で確かに春の風を頬に受け、生きている。


 それは誠の勝利を意味するはずだった。

 しかし、勝利の祝杯をあげる代わりに、誠の喉を焼いたのは、得体の知れない「不整合」の味だった。


 世界は修正を終えていない。

 それどころか――世界は修正に「失敗」し、その責任を、唯一の変数である羽島誠に押し付けようとしていた。


 小さな欠落

 最初の異変は、昼下がりのカフェで起きた。

 栞と向かい合って座り、いつものように注文を終えたはずだった。


「お待たせいたしました。こちら、季節のフルーツタルトです」


 店員が笑顔でトレイを置く。だが、そこには栞の分のケーキが一つあるだけだった。誠が頼んだはずのアイスコーヒーは、トレイのどこにも、伝票のどこにも記載されていない。


「あの、僕のアイスコーヒーは……」


 誠が声をかける。だが、店員は栞に向かって「ごゆっくりどうぞ」と会釈し、誠の言葉を霧のように突き抜けて去っていった。


「誠君? どうしたの?」


 栞が不思議そうに首を傾げる。

「……いや、なんでもない。注文、忘れてたみたいだ」


 誠は笑って誤魔化した。だが、指先が微かに震える。

 店員が彼を無視したのではない。店員の脳内で、誠の注文という「情報」が、書き込まれた瞬間に消去デリートされたのだ。


 その後も、欠落は加速した。

 コンビニで買い物をしようとしても、自動ドアが誠を認識せずに開かない。

 栞と一緒に撮ったはずのスマートフォンの写真フォルダを開くと、誠の姿だけがノイズで塗りつぶされ、背景だけが美しく残っている。


 まるで世界という巨大なキャンバスから、羽島誠という絵の具だけが、一滴ずつ丁寧に拭い去られているかのようだった。


 観測の遅延

 誠は、一つの仮説を確かめるために、狂気じみた実験を始めた。


 信号が赤に変わった瞬間の車道に、一歩踏み出す。

 本来なら、急ブレーキの音と怒号が響くはずの場面。だが、大型トラックは誠を「存在しない障害物」として処理し、物理法則を僅かに歪めて、彼をすり抜けるように走り去った。


 高所の縁に立っても、風が彼を押し戻そうとはしない。階段を踏み外しても、重力が一瞬だけ彼を見失い、浮遊感の後に何事もなかったかのように着地させる。


(……事故が起きないんじゃない)


 誠は、自分の手のひらを見つめた。

(事故という『因果』の対象に、僕が選ばれなくなっているんだ)


 世界の演算リソースは有限だ。

 世界は今、瀬戸内栞を「生かす」という、本来あり得ない計算に膨大な負荷を割いている。その帳尻を合わせるために、世界は最も手近な「不要リソース」の整理を始めた。

 羽島誠。因果を乱し、システムを汚染するバグ。

 彼を殺すことすら、今の世界にとっては「無駄なコスト」なのだ。


 栞との壁

 最も残酷なのは、栞との距離だった。

 彼女は誠を覚えている。優しく微笑み、語りかけてくる。

 だが、その会話の端々に、埋めようのない「ノイズ」が混じり始めていた。


「ねえ、誠君。明日はどこに行こうか」


 栞が誠の目を見て言った。その視線は、確かに誠を捉えているはずだった。

 だが、誠が一歩横に動いた瞬間、彼女の視線は元の位置に固定されたまま動かなかった。


「……栞。僕はこっちにいるよ」


「え? あ、ごめん……なんだか、一瞬だけ見失っちゃったみたい」


 彼女は困ったように笑う。だが、誠には見えていた。

 彼女の網膜の裏側で、世界というシステムが「羽島誠を認識するな」という命令を絶え間なく送り続けているのを。彼女の脳内で、誠の存在感は、古びたテレビの砂嵐のように激しく明滅し、今にも消え去ろうとしていた。


 栞が誠の手を握ろうとする。

 その指先が、誠の肌をすり抜けるような錯覚。

 彼女は「誠君の手、冷たいね」と笑ったが、その瞳には、自分の手が何を掴んでいるのか分からないという根源的な不安が滲んでいた。


 世界の警告

 夜。独りになった誠の視界に、意図しないログが流れ込む。

 それはスマートフォンの画面ではない。彼の脳内、神経細胞の隙間に直接刻み込まれるような、無機質な文字列だった。


『存在整合性:12%まで低下。』

『エラー:特定個体「羽島誠」の観測負荷が許容値を超過。』

『プロトコル推奨:不要リソースの物理的・論理的整理パージ。』


 それは、死刑宣告よりも冷酷な「事務連絡」だった。

 世界は誠を憎んでいるわけではない。ただ、机の上に散らかった消しゴムのカスを払うように、彼をこの世の理から排出しようとしている。


 誠は、暗い部屋の鏡を見た。

 そこには、輪郭がぼやけ、背景の壁が透けて見え始めた「かつての少年」が立っていた。


「……なるほど。今度は、僕の方が『修正対象』か」


 誠は独白する。その声さえ、自分にしか聞こえていないのではないかという疑念がよぎる。


 世界が突きつけた選択肢は、あまりにシンプルだった。

 誠が消えれば、世界の演算負荷は下がり、栞は安定した未来を手に入れる。

 誠が残ろうと足掻けば、栞を認識する世界のリソースが限界を迎え、再び彼女に「死」の因果が降りかかる。


 栞が生き続ける未来。

 誠が関与し続ける未来。

 この二つは、もはや一つの宇宙には収まりきらない。


「……いいよ。消したければ消せばいい」


 誠は、透け始めた自分の手を見つめ、静かに、しかし決然と笑った。


「たとえこの世界から僕の場所がなくなっても。……君が僕を忘れても。僕は、君が『生きていたい』と思ったその意志だけは、絶対に消させない」


 世界という巨大な檻が、音もなく閉じていく。

 羽島誠は、自らが「観測点」という名の永遠の孤独へと堕ちていく予感を感じながら、夜の闇に溶け込んでいった。

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