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七日前に戻るたび、君は僕を忘れる  作者: くま3
生き延びた未来の代償

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18/22

第18話:観測者の檻(オブザーバーズ・ケージ)

 羽島誠は、いまや「場所」としての削除領域ワールド・アウトを離れ、因果の奔流そのものへと溶け込んでいた。かつて彼を包んでいた灰色の霧も、整然としたグリッドも、もはや存在しない。そこにあるのは、無数に枝分かれし、激しく明滅を繰り返す「未来の可能性」の糸車だ。


 誠は、その糸の一本一本に、指先ならぬ「意志の触手」を伸ばしていた。「温度」や「痛み」を失った世界では、すべてが情報のクオリティとして感じ取れる。栞の微かな寝息は「安定したバイナリの律動」として、窓の外を横切る野鳥の影は「低優先度の物理ベクトル」として、彼の意識に直接流れ込んでくる。


 しかし、その平穏は、世界が新たに構築した檻の駆動音によってかき消された。


 世界という名の巨大な演算機構は、驚異的な速度で学習を続けていた。

 第17話で誠が行った「不運のリダイレクト(変換)」を解析し、システムは一つの致命的な結論に達する。


 誠は、世界が放つ「物理的な殺意」に対しては、佐伯というプロセッサを酷使することで対抗できる。しかし、誠が決して手を出さない――出すことができない「聖域」がある。

 それは、瀬戸内栞自身の「自由意志」と、彼女が抱く「感情」の領域だ。


 誠を縛るには、因果をねじ伏せるだけでは不十分だ。

「観測」を支配し、彼女の選ぶ未来そのものを、世界の都合の良い方向へ誘い込まなければならない。


 最深部のログが、静かに、しかし冷酷に更新された。


『追加プロトコル:オブザーバー(観測者)配置。』

『瀬戸内栞の周囲に、擬似自由意志観測者を展開。対象の精神状態を「最適解」へと誘導せよ。』


 異変は、栞の病室という小さな閉鎖空間から、音もなく始まった。


「瀬戸内さん、おはよう。今日の数値は、昨日よりずっと良くなっているよ」


 白衣を着た医師が、柔らかな微笑みを湛えて入ってくる。誠は、因果の糸を通じて、その医師の正体を探った。彼は人間だ。履歴書もあり、家族もいる、実在する一人の男だ。しかし、その男の「判断」を司るニューロンの末端には、世界の演算回路が深く侵食していた。


「本当ですか? 先生」


「ああ、もちろんだ。……君が頑張って、未来を信じているからだよ」


 医師の言葉は、まるで洗練されたプログラムのように、栞の心の隙間を埋めていく。

 それだけではない。栞が退院後の生活を想像して不安に駆られるたびに、偶然を装った同級生が見舞いに現れ、彼女に輝かしい未来の約束を語り、SNSを開けば、彼女を全肯定する温かな言葉だけが並ぶようになった。


 すべてが「善意」であり、すべてが「正しい」贈り物。

 だが、誠には見えていた。それら無数の「善意」が、蜘蛛の巣のように栞の周囲に張り巡らされ、彼女の思考の選択肢を、一箇所へと追い詰めていく様を。


(……手が出せない)


 誠は、虚空で歯噛みした。もし彼らを力ずくで排除すれば、栞の「人間関係の未来」そのものを、誠自身の手で破壊することになる。それは彼女から「社会」を奪う行為だ。世界は、誠の善性を逆手に取り、彼を完璧な「傍観者」の椅子に縛り付けたのだ。


 そんな中、一人の観測者が栞の前に現れる。

 それは以前から彼女を担当していた、少し無愛想な年配の看護師だった。彼女は他の「善意の塊」のような医師たちとは違い、事務的にシーツを整えながら、ふと栞の手元を見た。


「……あんた、そんなに無理に笑わなくてもいいんだよ」


 その一言に、世界のシステムが一瞬だけ激しく火花を散らす。

 彼女は、世界が送り込んだ「最適解」の操り人形ではない。彼女自身のこれまでの経験に基づき、誠に近い「不器用な誠実さ」で栞を観測してしまったのだ。


 だが、世界は非情だった。

 看護師のその言葉が発せられた直後、彼女の脳内ログが強制的に「修正」される。彼女の表情は瞬時に無機質なものへと変わり、まるで録音されたテープを再生するように言葉を重ねた。


「……いえ、今のなし。君は最高に幸せな未来を歩むべきだわ。ねえ、そうでしょう?」


 誠は、その瞬間の「人格の死」を間近で見た。世界は、誠に似た感情を持つ者さえも、強制的に最適解の部品へと作り替える。そのあまりの悪意の深さに、誠の意識が激しく揺らぐ。


 栞もまた、その違和感を敏感に感じ取っていた。

 彼女は、枕元に置かれた見舞いの花束や、絶え間なく鳴り響くSNSの通知を、冷めた目で見つめた。


「……少し、静かにしてほしいな」


 栞は、差し出されたばかりの「明日を祝うための特別なスイーツ」に手を付けず、医師たちの制止を振り切るようにしてスマートフォンの電源を切り、SNSを閉じた。

 それは、世界が用意した「希望」に対する、彼女なりの小さな拒絶だった。


「先生、今日はお見舞い、もういいです。……一人で考えたいんです」


「しかし、瀬戸内さん。みんな君の幸せを願って――」


「その『幸せ』を、誰が決めたんですか?」


 栞の言葉に、病室の空気が凍りつく。

 一見、彼女が能動的に動いたように見えた。だが、世界はそれすらも計算の内に入れていた。

 彼女が周囲の善意を拒めば拒むほど、孤立という名の「絶望への坂道」が急勾配になっていく。誠は、彼女が自ら檻の壁を叩くたびに、その壁がさらに厚く、高く作り替えられていくのを絶望的な思いで見ていた。


 世界はさらに、残酷な実験を開始する。


 それは、栞にとっての「小さな、しかし決定的な希望」の再配置だった。

 医師から、一週間後の退院の可能性が、以前よりもさらに確実なものとして告げられたのだ。


「退院……。私、本当に、学校に戻れるんだ」


 栞の瞳に、久方ぶりの輝きが宿る。彼女はその「希望」を、自らの意志で、強く掴み取った。

 だが、誠の視点からは、その希望の先に待つ「絶意の罠」が、どす黒い因果の汚点として見えていた。


 退院したその日、彼女の身体機能は、世界の精密な計算によって「原因不明の麻痺」を起こすよう、あらかじめ数値を仕込まれている。期待が大きければ大きいほど、その後に訪れる絶望は深くなり、彼女の意志は修復不能なまでに砕け散るだろう。


(止めろ……。それを選んじゃいけない、栞!)


 誠は、その因果の糸を断ち切ろうと、佐伯の演算領域を無理やり叩き起こした。

 しかし、スマートフォンの画面には、血のような赤文字で、新たな制約が突きつけられた。


『制約更新:対象が「希望」と認識した未来は、敵性定数による否定を不可とする。』


 希望は、栞自身が選んだものだ。

 世界はその一点を突いた。誠は「彼女の不幸」を消す権利は持っているが、「彼女が望む幸せ」を奪う権利は持っていない。たとえその幸せが、巧妙に仕組まれた偽物であったとしても。


 誠は、目の前で刻一刻と迫る「見えている不幸」を、ただ黙って見送ることしかできなかった。

 無力感。それが、かつて人間だった頃の感情の残滓として、誠の意識を泥のように重く沈めていく。


 その時、誠の内部に隔離・保持されていた「佐伯セクター」が、激しく波打った。

 因果干渉を行っていないにもかかわらず、その安定度が、危険域である10%を切ろうとしていた。


(佐伯!? どうした、まだ何もしてないはずだ……!)


「……誠、……気づいていないのか」


 ノイズまじりの佐伯の声が、誠の深層意識に響く。

「世界は、……栞を使って、お前を追い詰めているんじゃない。……お前を、……『人間』に戻そうとしているんだ」


(人間に……戻す?)


「苦しめば、……悩めば、……お前の『敵性定数』としての定義が揺らぐ。……感情こそが、……論理の整合性を壊す、最大のノイズだ。……お前が、……『悲しい』と思った瞬間に、世界は、……お前を、……ただの壊れた子供として、再定義できるようになる」


 誠は、背筋が凍るような戦慄を覚えた。

 世界は誠を消すのではなく、彼の「神のごとき非情さ」を奪い、再び「脆弱な人間」という枠組みの中に引きずり戻そうとしている。彼が再び人間に戻れば、世界はその脆弱な精神を容易に支配し、佐伯というバグもろとも、一瞬で消去できるだろう。


 そして、決定的な瞬間が訪れる。


 病室のベッドの上で、夕焼けを見つめていた栞が、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。


「ねえ、もし私がいなくなったら……。悲しむ人っているのかな」


 その言葉は、まだ確固たる「選択」ではない。

 だが、その瞬間に、世界の演算層が激しく発火した。彼女の「生への疑念」が、未来の最有力候補として登録され、因果の糸が黒く染まり始める。


 世界は、医師や同級生という「観測者」たちを使い、彼女の孤独を、彼女の無価値観を、静かに、確実に育んでいた。彼女が自ら「死」を望むように、世界は彼女の意志を、内側から書き換えようとしていた。


 もし彼女が自ら死を選べば、誠の「檻」の制約により、彼はその未来を否定することができなくなる。


(……やめさせろ……。その思考を、止めろ……!)


 誠の意識が、極限の熱を持って膨れ上がる。

 もはや、因果を弄るだけでは間に合わない。未来を書き換えるだけでは、彼女の魂を守りきれない。


 誠は、自らの存在そのものを、一滴の毒のように、あるいは一筋の光のように研ぎ澄ませた。それは、世界構造そのものを根底から揺るがしかねない、禁忌の術理。


「……世界が君の未来を使うなら、僕は、君が『選ぶ理由』そのものを奪い返す」


 誠は、情報の壁を突き破り、栞の「内面領域」――彼女の魂の最深部へと、ダイレクト・アクセスを開始した。

 それは、彼女の記憶を、感情を、そして「羽島誠」という名前そのものを、彼女の心に直接刻み直す行為だ。


『警告:敵性定数が対象の「内面領域」に干渉を開始。』

『当該行為は、世界構造への不可逆損傷を伴う可能性あり。……再査定不能。』


 病院の廊下で、清掃員たちが一斉に崩れ落ちるように倒れた。モニターの数値が狂い、空の色が一瞬だけ、不自然な紫へと変色する。


「……う、っ……あ……」


 病室で、栞が突然、溢れ出すような涙を流した。

 悲しい理由など、どこにもない。医師も、友達も、みんな優しい。未来は明るい。

 なのに、胸が張り裂けそうなほどに、苦しくて、愛おしい。


 彼女の記憶の底から、霧を切り裂いて、一人の少年の横顔が浮かび上がる。

 名前は思い出せない。声も聞こえない。けれど、彼が自分のために、すべてを捨てて暗闇に堕ちていったことだけが、「痛み」として彼女の魂に刻み込まれていた。


『エラー:瀬戸内栞の精神指数が、予測モデルから完全に逸脱。』

『予測不能。……予測不能。……。』


 世界のログに、初めて「敗北」にも似た空白が刻まれた。


 誠は、己の存在が削り取られていく激痛に耐えながら、彼女の涙を、見えない指先でそっとなぞった。

「……泣かないで、栞。君の心だけは、誰にも渡さない」


 世界という名の檻の中で、一人の少女と、一人の怪物が、魂の深淵で再び共鳴し始めた。

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