第16話:敵性定数
羽島誠は、いままさに世界の「脳髄」へとその指先を差し込もうとしていた。
削除領域のグリッドが極限まで圧縮され、そこには光の奔流に似た文字列が渦巻いている。
ここは出来事の結果を処理する場所ではない。何が正しく、何が切り捨てられるべきかという「価値そのもの」を演算する最深部――システム・コア・ロジックだ。
誠は、世界から与えられた「修正補助機能」の権限を限界まで回し、その評価基準を覗き込んだ。
「……残り、百五十秒か」
羽島誠は、歪み続ける視界の中で、自らの掌を見つめた。
削除領域を構成していたグリッドは、もはや直線としての形状を保てていない。世界の「評価不能」による余波は、この領域そのものを、噛み砕かれた紙屑のようにズタズタに引き裂いていた。
誠の指先から、時折、鮮やかな青い火花が散る。それは静電気などではない。彼の存在を定義している情報が、世界の圧力に耐えかねて剥き出しになり、放電しているのだ。
「誠……もう、いい」
佐伯の声は、もはや音というよりは、壊れたラジオの砂嵐に近かった。
彼の体は腰から下が完全に消失し、残された上半身も、まるで水面に映った影が揺れるように定まらない。
佐伯を構成していた「観測者としての記憶」や「世界への反逆心」といった断片が、システムの強制排除プログラムによって、一枚、また一枚と剥がされ、虚空の彼方へと消えていく。
「俺という『バグ』を切り離せば……お前はまだ、世界の『機能』として踏みとどまれる。そうすれば、栞を……あいつを、遠くから見守ることぐらいは……」
「黙ってろ、佐伯」
誠の声は、自分でも驚くほど冷たく、そして重かった。
「僕は言ったはずだ。どちらも捨てないと。君を犠牲にして手に入れる救済に、何の意味がある。そんなものは、世界が用意した『マシな悲劇』という名の予定調和に過ぎない」
誠は、激しく明滅するスマートフォンを凝視した。
画面には、佐伯の消滅カウントダウンと並んで、自分自身のステータスが「危険因子」として赤く点滅している。
世界は「選ばせよう」としている。バグ(佐伯)を消して機能(誠)に戻るか。それとも、二人まとめて消えるか。その二択こそが、世界が演算し尽くした「論理的な袋小路」だ。
「……選ばせるのが君たちのやり方なら、僕はその『問い』そのものを破壊する」
誠は、自らに与えられた「修正補助機能」の仕様書を、脳内で超高速でめくっていった。
世界が定めたルール。それは強固だが、同時に「完璧な合理性」という弱点を孕んでいる。
世界は佐伯を「消去すべきバグ」と判定した。それは、彼がシステムの運行を妨げる「不要なノイズ」だからだ。
ならば、彼を「必要な部品」に組み替えてしまえば、世界は彼を消す根拠を失う。
「誠……お前、本気か」
消えゆくノイズの淵で、佐伯が笑った。その笑みには、絶望を通り越した凄絶な意志が宿っていた。
「いいぜ……やってみろ。たとえ人じゃなくなったとしても、俺を選べ。その先にある地獄まで、付き合ってやる」
「アクセス・再定義。対象、個体名:佐伯」
誠の指が、空間に浮かぶ佐伯のコードを掴み取った。
彼が試みたのは、救済ではなく「隔離」だった。
彼は、佐伯というバグを消去するのではなく、自らの「修正補助機能」という処理系の一部として、そのコードを強制的に埋め込んだのだ。
佐伯=バグ
バグ=検知・隔離対象
隔離対象=修正プロセスが完了するまで「保持」されなければならない
誠は、修正プログラムに無限の「保留」を命じた。
佐伯を救うのでも、捨てるのでもない。
「修正が終わるまで、一時的に保管する」という、終わりのない中間状態へと彼を押し込めたのだ。
『警告。排除プロセスを中断。対象を「隔離セクター」へ遷移。
エラー。修正完了の目処が立ちません。保持を継続します……。』
佐伯の消滅カウントダウンが、**「02:14」**の表示でぴたりと止まった。
彼の輪郭が、誠の放つ青い放電に包まれ、辛うじてその場に繋ぎ止められる。
「……止まった。……本当、に、やりやがったのか」
佐伯が掠れた声で笑う。だが、その代償は誠の全身を襲っていた。
バグを自分の一部として抱え込んだことで、世界にとって誠は「完全に汚染された機能」となった。
誠のスマートフォンに、見たこともない漆黒のログが刻まれる。
『属性を「機能」から「敵性定数」へ変更。
世界の保護対象から、完全に除外します。』
誠の肉体の感覚が薄れていく。
まず失われたのは「温度」だった。周囲を包む極寒も、自分の手が放つ電子的な熱も、もはや認識できない。
ただ、自分が一つの「点」として、冷徹な数式の中に漂っていることだけがわかる。
誠は理解した。
世界はもはや、誠を「使ってやる」対象だとは思っていない。
彼は、この宇宙の整合性を乱す最大の「敵」として正式に認定された。
「……いい。これで、誰の許可もいらなくなった」
世界から選択を迫られる段階は終わった。
これからは、世界が誠という「敵性定数」に、どう対処すべきか怯える番だ。
削除領域の霧が晴れ、誠の視界には、現実世界の病室で微かに指を動かした栞の姿が映っていた。
誠はもう、彼女の隣に立つことはできないかもしれない。
しかし、彼は「運命」という台本を破り捨て、その白紙の上に、自分だけの理を刻み始めていた。




