第15話:評価不能(ブラックアウト)
羽島誠は、いまや世界の「脳髄」へとその指先を差し込もうとしていた。
削除領域のグリッドが極限まで圧縮され、そこには光の奔流に似た文字列が渦巻いている。
ここは出来事の結果を処理する場所ではない。何が正しく、何が切り捨てられるべきかという「価値そのもの」を演算する最深部――システム・コア・ロジックだ。
誠は、世界から与えられた「修正補助機能」の権限を限界まで回し、その評価基準を覗き込んだ。
視界に広がるのは、冷徹極まる天秤だった。
この最深部において、人間という存在はもはや名前を持たない。
命は「リソース・コスト」として算出され、感情は計算を狂わせる「ノイズ」として除外される。
そして、個人の意志はすべて、統計上の「誤差」として処理されていた。
誠は、その膨大な演算の果てに、一つの固定された解を見つけた。
瀬戸内栞の死。
それが、この世界の因果において「誤差をゼロに最も近づける最適解」として、何重にもロックされていたのだ。
「……ふざけるな。これが、お前たちの言う正しさか」
誠の呟きに、演算の奔流が共鳴するように揺れる。
直接、この巨大な「正解」を書き換えることは不可能だ。強引に数値を弄れば、システムに即座に検知され、強制排除される。
誠は、自らのスマートフォン――漏電箇所を通じて、ある「異物」を演算層へと流し込んだ。
それは善悪の定義でも、生存の確率でもない。
世界が最も苦手とする、人間の**「矛盾」**だ。
一度選んだことを後悔し、論理に合わない道を選び直し、最後には自分でも説明のつかない感情で立ち止まる。
数値化できないはずの「選び直し」という不確定要素を、誠は偽装されたログとしてシステムに紛れ込ませた。
その瞬間、世界の拍動が止まった。
眩いばかりの情報の奔流が、一転して漆黒に染まる。
演算がループを起こし、何が最適解かを算出できない**「ブラックアウト(評価不能状態)」**が発生したのだ。
『警告:評価関数に未定義のパラメータを検出。
最適解の算出に失敗。システムを一時凍結。』
誠は勝利を確信しかけた。だが、代償はあまりにも早すぎた。
「……ぐ、あ……っ!」
悲鳴を上げたのは、傍らにいた佐伯だった。
演算が停止したことで、世界は「正体不明のバグ」である佐伯を、存在そのものを消去することで強制的に整合性を取ろうとし始めたのだ。
佐伯の体から、情報の断片が剥がれ落ち、虚空へと吸い込まれていく。
それと同時に、誠のスマートフォンに冷徹な通知が刻まれた。
『修正補助機能:権限の一部凍結。
個体識別:羽島誠。危険度ランクを「補助」から「危険因子」へ変更。
観測優先度を更新。羽島誠 > 瀬戸内栞。』
世界が初めて、栞という観測対象以上に、羽島誠という個体を「排除すべき敵」として明確に認識した瞬間だった。
世界は正しさを失うことよりも、自分の制御が及ばない空白が生まれることを何よりも恐れている。
誠は、自分を射抜くような強烈な「殺意」を背中に感じた。
勝機は見えた。世界の演算を狂わせれば、隙は生まれる。
だが、その隙を作るたびに、誰かが、あるいは何かが身代わりとして消されていく。
誠の視界の隅で、佐伯の消去カウントダウンが始まった。
『完全消去まで……残り300秒。』
「誠……迷うな。俺を、……使え」
佐伯の声は、もはや聞き取ることも難しいほどにノイズに埋もれていた。
佐伯を残すか、栞を優先するか。
あるいは、自分の存在を差し出すか。
誠は、震える手でスマートフォンを握りしめた。
世界は常に選択を迫ってくる。どちらかを切り捨てろと、それが最適解だと囁いてくる。
だが、誠の瞳には、これまでになかった暗い、しかし揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……選ばない。僕は、どちらも捨てない方法を選ぶ」
世界の最深部、真っ暗なブラックアウトの中で、羽島誠はシステムが想定していない「第三の道」を強引にこじ開けようとしていた。




