第一話:日常は、まだ壊れていなかった
窓の外では、湿り気を帯びた初夏の風が街路樹の葉を激しく揺らしている。アスファルトに落ちた影は濃く、午後の陽光が室内の埃を白く浮き上がらせていた。扇風機が首を振る規則的な音が、静まり返ったリビングに低く響き続けている。
羽島誠は、ソファの端に深く腰を下ろしていた。膝の上には、表紙の擦れた文庫本が開かれたまま置かれているが、彼の視線はその活字を追っていない。誠の視線の先には、ダイニングテーブルでノートを広げ、熱心にペンを動かしている少女、瀬戸内栞がいた。
栞は時折、前髪を払うようにして小さく首を傾げる。その拍子に、彼女の耳元で揺れる銀色の小さなピアスが、窓からの光を反射して鋭く瞬いた。ペン先が紙を擦る乾いた音だけが、扇風機の風切り音に混じって聞こえてくる。誠はその音を、自分の鼓動を整えるようにしてじっと聞いていた。
「ねえ」
栞が顔を上げずに言った。声は低く、独り言に近い響きを持っていた。
「ここ、どうしてこうなるんだっけ。前のページでは違う式になってた気がするんだけど」
彼女が指し示したのは、数学の問題集の余白に書き殴られた計算式だった。誠はゆっくりと立ち上がり、彼女の背後に回った。わずかに香る、彼女が好んで使っている石鹸のようなシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。それは、誠にとってあまりにも馴染み深く、そして数え切れないほど繰り返してきた記憶の一部だった。
「そこは、三行前の公式をそのまま代入すればいい。符号が逆になってる」
誠は短く答え、彼女の肩越しに手元のノートを覗き込んだ。栞の書く文字は、少しだけ右上がりで、角が丸い。その筆跡の癖、力の入れ方、迷った時にペン先で紙を叩く回数までも、誠は詳細に記憶していた。
「……あ、本当だ。また間違えてる。私、いつもここで引っかかる気がする」
彼女は小さく笑い、消しゴムで文字を消す。誠は彼女の隣の椅子を静かに引き、そこに座った。テーブルの上には、二人の飲みかけの麦茶が入ったグラスが並んでいる。誠のグラスの表面には結露が溜まり、テーブルに小さな円形の染みを作っていた。
誠はふと、壁に掛けられたカレンダーに目をやった。六月十七日。その日付の数字の横には、赤いペンで小さな印が付けられている。それは、彼が自分自身のために付けた、極めて私的な印だった。栞にとっては、試験期間中のただの金曜日に過ぎない。しかし、誠にとって、この日付は血が滲むような重みを持っていた。
「今日、何の日か覚えてる?」
誠が問いかけると、栞は手を止め、少しだけ考える仕草をした。彼女の指先が、ノートの端を無意識に弄る。
「……金曜日? ああ、英語の単語テストの結果が返ってくる日だっけ。もう、最悪だったんだから」
「そうじゃない」
誠は静かに首を振った。彼は、彼女が覚えていないことをあらかじめ知っていた。知っていたが、それでも問いかけずにはいられなかった。確認作業のような、あるいは自分を傷つけるための儀式のような問いだ。
「今日で、ちょうど一年だ。僕たちが、この部屋で初めて一緒に勉強を始めてから。去年の今日も、こんな風に晴れていた」
栞は驚いたように目を丸くした。
「え、そんなこと覚えてるの? 嘘、私ですら忘れてたのに。……ねえ、そういう記念日とか、異常に詳しいよね」
「……六月十七日の午後二時だった。君は青いペンケースを持ってきて、数学の二次関数がどうしても分からないって言ったんだ。途中でアイスを買いにコンビニへ行って、帰りに野良猫を見た。君はそれを追いかけて、膝を少し擦りむいた。……覚えてないか」
誠の言葉は、淀みなく流れた。その光景が、昨日のことのように脳裏に焼き付いている。空気の温度、湿度、光の加減。その時、彼女が着ていた服のボタンの形まで、彼はすべてを正確に再生することができた。
「……すごいね。ちょっと怖いぐらい。私、そんなこと全然覚えてないや。そんな昔のこと、よくそこまで描写できるね」
「……忘れられないだけだ」
誠は視線を落とした。彼は「詳しい」のではない。「覚えざるを得ない」のだ。過ぎ去っていく時間を、一分一秒とも零さないように、彼は意識の深淵に刻み込んできた。それが、彼に課せられた、逃げ場のない唯一の役割であるかのように。
栞は再びノートに向き直った。彼女は過去を振り返ることをあまりしない。いつだって、目の前にある問題や、明日の放課後の予定や、窓の外を流れる雲の形に意識を向けている。その屈託のなさが、誠には眩しく、そして同時に、今にも壊れそうな薄氷のように見えた。
「ねえ、将来のことなんだけどさ」
栞が不意に口を開いた。ペンを置き、背伸びをしながら、彼女は窓の外を眺める。
「大学に入ったら、もっと広いところに行きたいな。海が見える街とか、それとも全然知らない遠くの場所とか。誠くんはどうするの? どこか行きたい場所とか、やりたいこととか、ある?」
誠は答えなかった。彼は、窓枠に反射する鋭い光をじっと見つめていた。
「将来」という言葉は、彼にとって砂で作られた城のようなものだった。波が来れば一瞬で崩れ去り、跡形もなく消えてしまう。彼はその波が、いつ、どこから、どのような形で押し寄せてくるかを知っている。だからこそ、その先の計画を立てることに、何の意味も見出せなかった。
「……まだ、分からない」
「冷たいなあ。一緒に考えようよ。例えばさ、十年後とか、私たちはどこで何をしてるんだろうね。案外、全然違う仕事をしてたりして」
「十年後」という言葉が、誠の胸を鋭く刺した。彼は呼吸を浅くし、表情を動かさないように細心の注意を払った。
「未来の話は、あまり好きじゃないんだ」
「どうして? 楽しいじゃない。夢とか、希望とか。そういうの」
「夢の話も、あまり好きじゃないな」
誠がそう言うと、栞は少しだけ顔を顰めた。
彼女は自分の夢の内容を話すことを嫌う。それは、彼女自身が夜に見る夢を「非現実的で、地に足がついていないもの」としてどこかで忌避しているからだと、誠はこれまでの対話から推測していた。しかし、今の彼女は、彼が同じように「夢」を否定したことに、微かな違和感を覚えたようだった。
「……変なの。誠くんって、時々すごく年寄りみたいなこと言うよね。まだ高校生なのに」
彼女はそう言って、椅子から立ち上がった。
「ちょっと休憩。冷蔵庫に何かあったっけ」
彼女は慣れた足取りでキッチンへ向かった。誠の部屋であるにもかかわらず、彼女は迷うことなく戸棚を開け、グラスを取り出す。その自然な動作が、積み重ねられた時間を無言で主張していた。
誠は彼女の背中を見送りながら、部屋の隅に置かれた棚に目をやった。そこには、用途の分からない小さな私物がいくつか置かれている。使いかけのハンドクリーム、色の剥げたヘアピン、そして半分だけ中身の入ったパズルのピース。
それらはすべて、栞がかつてこの部屋に置き忘れたままにしていったものだった。誠はそれを捨てることができず、かといって彼女に返すこともせず、ただそこに並べていた。彼女自身も、自分が何を置き忘れたのか、もう覚えていない。
栞が冷蔵庫を開ける音が聞こえる。
「あ、アイスあるじゃん。食べていい?」
「いいよ。君のために買っておいたんだ」
「やった。気が利くね」
彼女の声には、純粋な喜びが混じっていた。誠はその声を聴きながら、自分の指先を見つめた。指先は、わずかに震えていた。彼は知っている。この穏やかな午後の時間が、間もなく終わることを。そして、その終わりが、どのような形でもたらされるのかを。
栞はアイスを手に持って戻ってきた。ソーダ味のスティックタイプのアイス。彼女はそれを一口齧り、冷たさに顔を窄める。
「……ねえ」
彼女はアイスを口に含んだまま、不意に言った。
「最近さ、変な感じがするんだ」
誠の心臓が、大きく跳ねた。
「変な感じ?」
「うん。なんだか、ずっと前からこうやって、ここでアイスを食べてる気がするの。数学の問題を解いて、誠くんが隣にいて、扇風機が回ってて……。昨日も、その前も、ずっと同じことを繰り返してるみたいな、不思議な感覚。デジャヴってやつかな」
誠は何も言えなかった。彼は、彼女の言葉を否定することも、肯定することもできなかった。彼女の無意識が、繰り返される時間の断片を拾い上げようとしている。それは、彼にとって最も恐れるべき兆候だった。
「気のせいだよ。昨日は、雨が降っていたから、家で勉強はしてない。僕たちは、駅前の図書館にいたはずだ」
誠は努めて冷静に嘘をついた。昨日は確かに雨が降っていた。だが、その「昨日」がいつの「昨日」なのか、彼自身にも分からなくなりつつあった。時間の輪郭が曖昧になり、記憶の層が厚くなりすぎていた。
「……そっか。雨、降ってたっけ。なんだか最近、記憶が混ざっちゃうんだよね」
栞は少しだけ不安そうに目を伏せたが、すぐにいつもの明るい表情に戻った。
「まあいいや。暑いから、頭がぼーっとしてるのかも」
彼女は再びアイスを口に運び、テレビのリモコンを手に取った。画面には、午後のワイドショーが映し出された。キャスターが、どこかの交差点で起きた事故について淡々と報じている。誠はその映像を見ないように、視線を落とした。
時間は、無情に流れていく。時計の針が午後三時を回った頃、栞はノートを閉じ、荷物をまとめ始めた。
「そろそろ帰るね。お母さんに、夕飯の買い物頼まれてたの忘れてた」
「……送るよ」
誠が立ち上がると、栞は軽く手を振った。
「いいよ、すぐそこだし。駅前のスーパーに寄るだけだから」
「いや、送らせてくれ。……どうしても、そんな気がするんだ」
誠の言葉には、抗いがたい重みがあった。栞は少しだけ驚いたような顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「わかった。じゃあ、途中までね」
二人は部屋を出た。廊下を歩く際、誠はふと、玄関の棚に置かれたコンパクトカメラに目をやった。そこには、これまでに撮りためた写真が何百枚も保存されている。しかし、栞がその写真を見返すことは一度もなかった。彼女にとって、写真は「その瞬間」を切り取っただけの記録に過ぎず、過去を確認するための手段ではなかったからだ。誠だけが、夜中に一人でそれを見返し、彼女の笑顔を確認し、失われていく記憶を補完していた。
外に出ると、熱を帯びた空気が全身を包み込んだ。蝉の声が遠くで鳴き始めている。誠は、栞の半歩後ろを歩いた。彼女の歩幅、腕の振り方、時折立ち止まって道端の花を眺める仕草。そのすべてを、彼は網膜に焼き付ける。
「あ、見て。あの雲、クジラの形に見えない?」
栞が空を指さした。誠は見上げ、そして答えた。
「……あれは、魚の骨に見えるよ」
「えー、縁起悪いなあ。誠くん、感性が独特すぎ」
栞は楽しそうに笑い、歩みを早めた。駅前の交差点が近づいてくる。そこは、街で最も人通りが多い場所だった。大型ビジョンが、最新のヒットソングを大音量で流している。
誠は周囲の状況を鋭く観察した。信号のタイミング、車の流れ、歩行者の密度。彼は、何度もこの光景を見てきた。どこで誰が立ち止まり、どの車が速度を上げるのか、彼はすべてを把握していた。
はずだった。
「……あれ?」
誠が立ち止まった。微かな違和感が、背筋を通り過ぎた。いつもなら、この時間、交差点の隅には古新聞を回収するトラックが停まっているはずだった。しかし、今日はそこに一台の黒いセダンが停まっていた。その一台の変化が、微妙に風の流れを変え、人の動きを歪めていた。
「どうしたの? 信号、変わるよ」
栞が振り向き、手招きをした。歩行者側の信号が青に変わる。
「待て、栞! まだ行くな!」
誠は叫んだ。だが、その瞬間、街の音が不自然に遠のいた。
大型ビジョンの音が途切れ、代わりに鼓膜を圧迫するような静寂が訪れる。
「え……?」
栞が足を止める。彼女は歩道の縁石のギリギリに立っていた。
誠は彼女の腕を掴もうとして、一歩踏み出した。
その時だ。
誠の靴紐が、あろうことか反対側の足に引っかかった。
ほんの、数センチ。
昨日までの彼なら、決して犯さなかったような稚拙なミス。
あるいは、何らかの力が彼の関節を一瞬だけ固定したかのような、不自然な硬直。
誠の体が、前方に大きくつんのめる。
「しまっ……」
彼がバランスを崩し、視線を地面に落としたそのコンマ数秒の間。
本来なら存在しなかったはずの、一台の大型トラックが交差点へ猛スピードで進入してきた。
信号機が狂っていた。
歩行者側が青であるにもかかわらず、車側の信号もまた、青のまま静止していた。
この街のインフラが、あるいはこの「世界」が、彼女の死を確定させるために一瞬だけ歯車を狂わせた。
トラックの運転手は、突如として目の前に現れた少女の姿に、必死にハンドルを切った。
しかし、それは最悪の結果を招く。
回避しようとしたトラックの巨体は、制御を失って横滑りし、栞のいた場所をなぎ払うようにして突っ込んだ。
衝撃音。
それは、金属が肉と骨を粉砕する、鈍く重い音だった。
誠が顔を上げたとき、視界にあったのは、宙を舞う銀色のピアスだった。
栞の体は、抵抗する術もなくアスファルトの上に崩れ落ちた。
「……あ、あ……」
誠の声は、喉の奥に張り付いて出てこなかった。
膝の力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。周囲の喧騒が、遠くの波の音のように聞こえる。
人々が集まり、誰かが救急車を呼んでいる。
しかし、誠には分かっていた。
もう、間に合わない。
彼女の瞳から光が消え、命の灯火が潰える瞬間を、彼は何度も見てきたからだ。
「……栞……」
彼は這うようにして彼女のそばへ寄った。
彼女の頬に触れる。
まだ温かい。
しかし、その指先に伝わる鼓動は、急速に弱まっていた。
彼女は、苦しそうに一度だけ呼吸を吐き出した。
「……だ、れ……?」
それが、彼女の最期の言葉だった。
その瞳には、目の前にいる誠の姿すら映っていない。
自分の名前すら思い出せず、ただ目の前の男を恐怖と困惑の対象として見つめ、彼女の瞳がゆっくりと閉じられた。
誠は、彼女を抱きしめることもできなかった。
ただ、その場に立ち尽くし、天を仰いだ。
彼の視界が、真っ白な光に包まれていく。
それは、救済ではなく、呪いのような光だった。
世界が歪む。
色彩が溶け、音が反転する。
重力から解放され、意識が深淵へと沈んでいく。
耳の奥で、カチリ、という時計の針が戻るような音が響いた。
――まただ。
誠は、心の中で呟いた。
また、あの場所に戻る。
彼女が生きていて、僕を知っていて、そして僕を忘れていく場所へ。
次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。
扇風機が首を振る規則的な音。
湿った初夏の風。
窓の外で揺れる街路樹の葉。
誠は、ゆっくりと体を起こした。
ソファの端。
膝の上には、開かれたままの文庫本。
全身に、嫌な汗がじわりと滲み出ている。
呼吸は荒く、心臓が肋骨を激しく叩いていた。
ダイニングテーブルの方を向く。
そこには、ノートを広げ、ペンを動かしている少女がいた。
「……栞」
誠の声は、自分でも驚くほど震えていた。
少女は、ペンを止めた。
そして、不思議そうに顔を上げた。
「え?」
彼女は首を傾げた。その耳元で、銀色のピアスが光った。
誠は椅子から立ち上がり、ふらつく足取りで彼女に近づいた。
生きている。彼女は今、確かに目の前で息をしている。
「栞、よかった……無事だったんだな……」
誠が感極まった声を出し、彼女の肩に手を置こうとした。
しかし、その瞬間、彼女は露骨に身を引いた。
その表情には、深い困惑と、隠しきれない不信感が浮かんでいた。
「……あの、すみません」
彼女の声は、丁寧だが、氷のように冷たく響いた。
誠の手は、空中で行き場を失い、静かに下ろされた。
「……どちら様ですか? どうして、私の名前を……。それに、勝手に人のノートを覗かないでいただけますか?」
誠の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ去った。
彼女の瞳の中に、彼を映し出す光は欠片もなかった。
そこにあるのは、見知らぬ他人に不躾に話しかけられた時の、純粋な警戒心だけだった。
「……あ、いや、えっと」
誠は言葉を探したが、見つからなかった。
彼は、カレンダーに目をやった。六月十日。
一週間前。あの日から、七日が巻き戻っている。
しかし、代償はあまりにも大きかった。
彼女の記憶の中から、「羽島誠」という存在の欠片が、完全に削ぎ落たされていた。
この部屋にいる理由も、一緒に勉強していた時間も、すべてが空白に塗り替えられていた。
「ここ、私の家じゃないですよね。私、どうしてここにいるんだろう……。数学の勉強をしてたはずなのに。……警察に、連絡したほうがいいんでしょうか」
栞は不安そうに周囲を見渡し、バッグを抱きしめた。
彼女にとって、この部屋はもはや「不審な男がいる、見知らぬ誰かの家」に過ぎなかった。
誠は、唇を血が滲むほど噛み締めた。
救うたびに、彼女との距離は離れていく。
命を繋ぎ止めるたびに、彼女の中の自分が死んでいく。
「……ごめん。間違えたんだ。君を、別の誰かと……」
誠は、絞り出すような声で言った。
彼は、彼女に向けようとした笑顔を、仮面のように凍りつかせた。
栞は戸惑いながらも、席を立ち、足早に出口へ向かった。
誠はそれを止めなかった。
止める権利など、今の彼には微塵もなかった。
扉が閉まる音が、静まり返った部屋に重く響いた。
誠は一人、午後の陽光が差し込むリビングに取り残された。
扇風機は相変わらず首を振り続け、温い風を送り出している。
彼は、テーブルの上に残されたままのノートに目をやった。
そこには、彼女が書いたばかりの、丸い文字が残っている。
しかし、その文字を書いた本人は、もう自分の名前さえ呼んでくれない。
誠はソファに崩れ落ち、顔を覆った。
これから何度も、彼は彼女を救うだろう。
そしてそのたびに、彼女は彼を忘れていくだろう。
外では、何も知らない蝉の声が、狂ったように鳴き響いていた。
少女の瞳に映る自分は、今、完全に「他人」へと成り果てていた。
窓の向こうで、六月の陽炎が揺れている。
誠は、震える手でカレンダーの「十日」に、新しい赤い印をつけた。
それは、彼だけが背負い続ける、終わりなき救済と忘却の記録だった。




