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氷の伯爵は野薔薇に跪く  作者: Lucy M. Eden


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7/10

泥に咲く真実

オリバーの馬の蹄の音が、激しい雨音の中に溶けて消えた。ソフィアは、小屋の軒先でただ独り、本館の窓を見上げていた。雨水が髪を伝い、頬を濡らしていくが、それを拭う気力も湧かない。ただ、あの窓の向こうにいる孤独な主人のことだけを思っていた。


(……なぜ、私は行かなかったのかしら)


オリバーと共に去れば、温かな食事と安らかな眠りが約束されていたはずだ。それでも、彼女の足はこの場所を離れることを拒んでいた。泥にまみれ、棘に刺され、冷たい言葉を浴びせられても、彼女にとっての「世界」は、あの不器用で傷ついた主人が守るこの庭にしかなかった。


「……ミス・ソフィア。こんなところで何をなさっている」


低く、落ち着いた声がした。ソフィアが振り向くと、そこには古い洋傘を差し、雨の中でも一分の乱れもない身なりの老執事、トーマスが立っていた。


「トーマスさん……」


「お入りなさい。このままでは命に関わります」


トーマスに促され、ソフィアは力なく小屋の中へと戻った。トーマスは手慣れた手つきで古い暖炉に火を熾すと、棚から一枚の、重厚なウールの上着を取り出し、ソフィアの肩にそっと掛けた。


「これは……伯爵様の……?」


「五年前、西翼が炎に包まれたあの夜、旦那様が着ておられたものです。……今となっては、旦那様には少し大きすぎるかもしれません。あの方はあの日以来、ご自分の体調を顧みず、削り取られるようにして生きてこられましたから」


ソフィアは、その上着の袖口が微かに焦げ、激しく擦り切れているのを見つけた。かつては彼の逞しい身体を包んでいたであろうその上着は、今の、鋭く研ぎ澄まされた刃のように痩せた彼には、確かに少し緩いだろう。ソフィアはその生地越しに、彼がこの五年間で失ったものの大きさを感じ、胸が締め付けられた。


「トーマスさん。……あの方は、どうしてあんなに冷酷になられたのですか?昨夜のあの方は、あんなに……」


「あの方は、あなたを守ろうとなさっているのです。……あのような、自分を犠牲にする残酷な方法でしか」


トーマスは、深い溜息と共に語り始めた。五年前の火災。イザベラが放火の現場から一人で逃げ出したこと。そして今、イザベラが「ソフィアを不道徳な女として社交界で抹殺する」とエドワードを脅迫していること。


「旦那様は、イザベラ様があなたを標的にしたと知った瞬間、あなたを自分から切り離すことを決めたのです。……あなたが『道具』であると冷たく突き放せば、イザベラ様はあなたへの興味を失い、あなたはオリバー様と共に安全な場所へ逃げられる。……旦那様は、そう信じようとなさったのです」


ソフィアは、肩に掛かった上着を強く握りしめた。あの時、彼が「道具」と呼び、怒号を浴びせたのは、自分を愛していないからではなく、自分をこの「毒」の渦中から逃がすための、悲痛な自己犠牲だったのだ。


「……旦那様は今、お一人でイザベラ様と対峙しておられます。あの方が握っている放火の証拠……実際は、旦那様を嵌めるための偽造工作ですが……自らの破滅を覚悟で奪い返そうとなさっている」


ソフィアの胸が、激しく高鳴った。あの方は、今も暗闇の中で、独りで戦っている。


「……私は、どうすればいいのでしょうか。お屋敷へ行き、伯爵様に『真実を知った』とお伝えすべきでしょうか」


ソフィアが立ち上がろうとすると、トーマスは優しく、しかし毅然と首を振った。


「いいえ、ミス・ソフィア。今あなたがお屋敷へ乗り込めば、旦那様の苦渋の決断を無駄にし、イザベラ様の疑念を深めるだけです。……旦那様が望んでおられるのは、あなたが『ただの庭師』として、無傷でここに留まることです」


ソフィアは、ゆっくりと座り直した。出すぎた真似はしない。あの方の隣に立つ資格など、今の自分にはない。……だが、彼が命を懸けて守ろうとしたこの庭を、彼が孤独に耐える拠り所としているこの花々を見捨てることは、自分にはできない。


「……分かりました、トーマスさん。私は……お屋敷には行きません」


ソフィアは立ち上がり、肩から伯爵の上着を脱ぐと、丁寧に畳んでトーマスに返した。そして、再び雨の降る外へと歩み出した。


「ミス・ソフィア?どこへ行くのです」


「……薔薇の、手入れに。昨夜の雨で、一番大切な『ハザウェイ・ホワイト』の支柱が緩んでいないか心配なのです。……私は庭師ですから。主人がお一人で嵐に耐えておられるのなら、私はこの雨の中で、あの方の庭の一部として、共に震えておりますわ」


それは、身分をわきまえた、慎ましくも最も強固な「愛の告白」だった。



***



二階の書斎。


エドワードは、イザベラの不快な笑い声を背中で聞きながら、窓の外を見下ろしていた。そこには、オリバーの馬車に乗って去ったはずの、小さな庭師の姿があった。激しい雨の中、泥にまみれ、膝をついて、黙々と薔薇の枝を結び直している彼女の姿が。


「……なぜだ」


エドワードの喉が、熱く締め付けられた。なぜ行かない。あんなに辱め、突き放したというのに。ソフィアは彼を見上げようともせず、ただひたむきに、雨に打たれる薔薇を支え続けていた。その姿は、どんな着飾ったレディよりも気高く、そして、見る者の心を無慈悲に引き裂くほどに慎ましかった。


エドワードは、窓枠に拳を押し当てた。もう、理性の枷は限界だった。


「……すまない、ソフィア。……もう、お前を逃がすことなど、私にはできない」


雨音の中に、氷が融け出すような、静かな、しかし決死の覚悟の呟きが消えていった。

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