琥珀色の静寂、あるいは聖域の侵入
夜。ハザウェイ邸の書庫は、巨大な知識の墓場のように静まり返っていた。この書庫は、五年前の火災を免れた「東翼」の最端に位置している。窓の外、闇の向こう側には、再建されたものの未だに生気を欠いた「西翼」の黒い影が、かつての悲劇を物語るように沈んでいる。
エドワードは、天井まで届く本棚に囲まれたデスクで、深い革張りの椅子に身を沈めていた。デスクの脇には、昼間使っていた銀の意匠の杖が立てかけられている。オイルランプの琥珀色の炎が揺らぎ、彼の彫りの深い横顔に濃い陰影を落としていた。
彼は独り、自らの右手を見つめていた。石柱を殴りつけた拳は、赤黒く腫れ上がり、指関節が強張っている。物理的な痛みよりも、彼を苦しめていたのは、あの一瞬、ソフィアを力任せに奪い去りたいと願ってしまった自分自身への嫌悪感だった。
その時、静寂を破って控えめな、しかし確かなノックの音が響いた。
「……何の用だ。一人にしろと言ったはずだ、トーマス」
「ソフィアでございます、伯爵様。……執事様より、お薬箱を預かって参りました」
エドワードの肩が、微かに跳ねた。追い返すべきだ。今の自分は、飢えた獣と同じだ。だが、扉の向こうにいる彼女の気配を感じた瞬間、彼の理性が音を立てて崩れ始める。
「……入れ」
扉が静かに開き、ソフィアが足を踏み入れた。彼女は質素なナイトガウンの上に、使い古した厚手のショールを羽織っている。昼間の泥にまみれた姿とは違い、ランプの光に透ける彼女の肌は驚くほど白く、そして脆そうに見えた。
「深夜に失礼いたします。……お手を見せていただけますか」
「勝手にしろと言ったはずだ。なぜ、お前が来る」
「主人が不自由な状態では、庭の管理に障ります。……それに、あんなに強い衝撃を拳に与えては、明日の朝にはペンを握ることさえ叶わなくなりますわ」
ソフィアは迷いのない足取りで近づくと、彼の傍らに膝をついた。彼女はエドワードの承諾を待たず、その強張った右手をそっと自分の膝の上に乗せた。
エドワードは息を呑んだ。彼女の指先は、秋の夜風のようにひんやりとしていたが、その芯には確かな生命の熱があった。泥を落としたばかりの彼女の手からは、微かに薔薇の葉の香りが漂ってくる。
「……ひどい。こんなに熱を持って」
ソフィアは消毒を含ませた柔らかな布で、赤く腫れた拳を丁寧に拭った。エドワードの逞しい掌が、彼女の細い指先の上で、意志に反して震える。
「……やめろ、ミス・ソフィア。私に近づくな」
エドワードの声は、掠れた悲鳴のようだった。彼は彼女を見下ろした。ランプの光を浴びて、懸命に手当てをする彼女の睫毛が、蝶の羽のように震えている。その無防備な美しさが、彼の中の「野獣」を激しく揺さぶった。
「私は……五年前、あの西翼が崩れ落ちた夜に、心も共に焼き尽くした男だ。母を救えず、裏切りに遭い、残ったのはこの醜い独占欲だけだ。……お前のような、瑞々しい野薔薇を、私のこの汚れた手で触れさせてはならないんだ」
エドワードの左手が、吸い寄せられるようにソフィアの頬へ伸びた。指先が彼女の柔らかな肌をなぞる。それは、壊れ物に触れるような危うい慈しみだった。
ソフィアは逃げなかった。彼女は顔を上げ、エドワードの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……伯爵様。あなたは怪物などではありません。ただ、あまりにも長く、お一人で嵐に耐えすぎただけですわ」
その言葉が、エドワードの最後の一線を断ち切った。彼は彼女の腕を掴み、背後の本棚へと押し込んだ。
「あ……ッ」
重厚な木の背表紙と、エドワードの逞しい体温に挟まれ、ソフィアは息を呑む。エドワードの顔が、あと数インチで唇が重なる距離まで迫った。彼の荒い吐息が、ソフィアの唇を熱く濡らす。
彼は彼女を奪いたかった。その唇を塞ぎ、永遠に自分の檻の中に閉じ込めてしまいたかった。だが、その瞬間に脳裏をよぎったのは、泥にまみれてもなお気高く咲く、彼女が守っていたあの野薔薇の姿だった。
(……汚してはならない。私の絶望で、彼女を枯らしてはならない)
エドワードは咆哮を押し殺すように、ソフィアのすぐ耳元の本棚に、手当てしたばかりの拳を叩きつけた。
――ガツン!
衝撃で棚が揺れ、数冊の古書が床に落ちて空気を打った。彼はソフィアを抱きしめる代わりに、自ら痛みを受け入れることで、暴走する情動を繋ぎ止めたのだ。
「……下がれ。今すぐだ、ミス・ソフィア」
エドワードは顔を背け、獣のような呻き声を漏らした。
「私の理性が、この痛みに耐えかねてお前を壊してしまう前に。……消えるんだ」
ソフィアは、激しく上下する彼の肩と、再び赤く染まった彼の拳を見つめ、震える声でそれだけを告げた。
「……おやすみなさいませ、伯爵様。お薬は、ここに置いておきますわ」
彼女が書庫を去った後、エドワードは床に崩れるように膝をついた。琥珀色の光の中で、彼は独り、彼女の香りが残る自分の掌を見つめ、絶望的なほどの愛おしさに身を震わせるのだった。




