陽光の侵入者と凍える眼差し
翌朝、ハザウェイ邸を包んでいた深い霧は、珍しく顔を出した柔らかな陽光に溶け始めていた。ソフィアは、正面庭園の中央にある「ハザウェイ・ホワイト」の剪定に取り掛かっていた。それは亡き先代伯爵夫人が最も愛し、エドワードが命懸けで守り抜いたという、純白の薔薇だ。
「……あ、あと少しなのに」
高く伸びすぎた枝に手を伸ばすが、あと数センチが届かない。背伸びをした拍子に、使い古した麦わら帽子が脱げそうになり、ソフィアは思わず声を漏らした。その時、背後から軽やかな、しかし場違いなほど明るい声が届いた。
「これかな?少し高いところにあるね。手伝うよ、ソフィアさん」
振り返ると、そこには見事な栗毛の馬に跨った青年、オリバーが立っていた。近隣の肥沃な農園を継ぐ予定の彼は、その若さと健康を体現したような、清々しい笑顔を浮かべている。
「オリバーさん!……ありがとうございます。でも、これは私の仕事ですから」
「そんなに固いことを言わないで。君が一生懸命なのは知っているけど、無理をして怪我でもしたら、この薔薇たちが泣いてしまうよ」
オリバーは馬から飛び降りると、ごく自然な動作で、ソフィアが狙っていた枝を代わりに支えた。そして、彼女の帽子がずれているのを、まるで幼い妹を慈しむかのような温かな手つきで直してやった。ソフィアは少し戸惑いながらも、彼の屈託のない親切さに、昨夜の緊張が少しだけ解けるのを感じた。
「お気遣い、ありがとうございます。オリバーさんは、本当にお優しいですね」
「君のような美しい庭師を放っておく男は、紳士じゃない。……もし、ここの主人が君を正当に評価しないなら、いつでも僕の農園に来てほしいくらいだ」
オリバーの冗談めかした、しかし真実味を帯びた言葉に、ソフィアは
「困った方ですね」
と小さく笑った。
――その瞬間だった。
庭園の空気が、まるで氷を投げ込まれたかのように、一瞬で凍りついた。屋敷のテラスへと続く大扉が開き、そこには黒い影のような長身の男が立っていた。エドワードだ。
彼は手にした銀の杖を石床に叩きつけるような音を立てて歩み寄り、二人を射殺さんばかりの鋭い眼差しで見据えた。その瞳の奥には、自分のテリトリーに土足で踏み込まれた「孤独な野獣」の怒りと、それ以上に激しい「焦燥」が火花を散らしていた。
「……賑やかだな。ここは農夫が社交に興じる広場だったか?」
その声は、地を這うような低音で響いた。オリバーは臆することなく、優雅に一礼する。
「これはハザウェイ伯爵。ご挨拶が遅れました。近隣の挨拶回りのついでに、素晴らしい庭師の仕事に見惚れていたところです」
「見惚れる?お前が、この女に、か」
エドワードの視線が、オリバーの指先に向けられた。先ほどソフィアの帽子を直した、その指に。エドワードの瞳に宿ったのは、軽蔑を通り越した、深淵のような暗い拒絶だった。
「オリバー君。君の父親は、他人の領地の管理方針にまで口を出すよう君を教育したのか?……この女は、我がハザウェイ家の庭を司る者だ。お前のような若造が、許可なく触れていい存在ではない」
「伯爵、私はただ……」
「帰れ」
エドワードの声は、地を這うような低音だったが、そこには一切の反論を許さない絶対的な権威が宿っていた。
「二度と言わせるな。……今すぐ、私の視界から消えろ」
その氷のような迫力に、オリバーは一瞬言葉を失った。彼は悔しげに唇を噛み、ソフィアに一度だけ心配そうな視線を送ると、自らの馬に飛び乗り、足早に去っていった。
蹄の音が遠ざかり、庭園には再び、静寂と雨上がりの湿った空気だけが残された。
ソフィアは、あまりの気まずさと理不尽な叱責に、指先を震わせながら俯いていた。エドワードは彼女に背を向けたまま、しばらくの間、岩のように動かなかった。だが、その背中が激しく波打っているのを、ソフィアは見逃さなかった。
「……伯爵様。あの方はただの通りすがりで、私を助けてくださっただけでございます。あのような無体な態度は、お相手に失礼かと……」
ソフィアが震える声で精一杯の抗議を口にした、その時だった。エドワードが電光石火の勢いで振り返り、ソフィアをすぐ背後の石柱へと追い詰めた。逃げ場を奪うように、彼女の顔のすぐ横の石を、剥き出しの拳で激しく突く。
ドォォン、という重い音がソフィアの耳元で響いた。
「『あの方』だと?……私の前で、二度と他の男を敬うような口を利くな」
至近距離で見下ろすエドワードの瞳は、どろりとした情念に濁っていた。
「……その男が誰であれ、お前の清らかな口から他人の名が出てくることすら、私は耐えがたい。お前の唇が紡ぐべきは、私の名か、あるいは私の庭の薔薇の名だけだ。……分かったか、ミス・ソフィア」
彼は彼女の瞳に映る自分自身の「醜い嫉妬」を突きつけられ、耐えかねたように自ら視線を逸らした。
「……下がれ。今日はもう、その顔を見たくない」
彼は足元に落ちた杖を拾うこともせず、強張った拳を握りしめたまま、逃げるように屋敷へと去っていった。




