第二章④
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「わかってるよ、ライエル。この先に魔王城があるはずなんだ!」
詠美は、どこで手に入れたのか、年季の入った紙の切れ端――「魔王城への秘匿の地図」と彼女が呼ぶもの――を広げ、自信満々に指をさした。
その指の向く先は、鬱蒼とした、人の踏み入れた形跡すらまったくない深い森の闇。
「えい、詠美。あの、地図ってさ、その、たしかに『古い』んだけど……上半分が焦げてないか? あと、この線……『魔王城』って書いてあるところに描いてある、この落書きみたいな丸はなんだ?」
ライエルは、地図というより残骸といった方が適切なそれに額に汗を滲ませた。
フィルドを出発してからすでに丸一日が経過。
道は岩肌がむき出しの急峻な山道から、足首まで埋まる泥濘の道へと変わり、今は木々の枝が太陽を遮る薄暗い迷路のような森の奥深くだ。
「何を言うんだ、ライエル!これは焦げたんじゃない、魔王城の炎の加護の証だよ!そしてこの丸は、魔王が城で『最高の休息』を取っていることを示す、由緒正しきマークだ!だから間違いない、このド真ん中を突っ切ればいいんだ!」
「『最高の休息』のマークって……どう見ても、焼き菓子が置いてあった跡にしか見えないんだが……。いや、待て、森を突っ切るって……どう考えても、街道の真逆じゃないか?俺の持ってる、国が公式に発行した精度の高い地図では、魔王城は……」
ライエルが懐から出した、王室御用達の羊皮紙の地図は、詠美の視界にすら入らない。
詠美は地図の残骸を胸に抱き、大股で踏み出した。
「ふむ、この空気、この匂い、この湿気!感じないのか、ライエル?魔力の波動が我々を招き入れているぞ!行くぞ!」
「ちょっ、待ってくれ詠美!ちょっ、待て!その木、さっきも見たぞ!樹皮にハートマークの落書きがあっただろ!これは完全にループしてる!詠美ー!?」
ライエルの悲鳴もむなしく、詠美はグイグイと森の奥へ進んでいく。
その約三時間後。
ライエルは、詠美の後ろを、完全に魂を抜き取られたような顔で歩いていた。
彼はすでに方向感覚を失い、喉は渇ききり、装備のローブは木の枝に引っかかってボロボロだ。
「えい、詠美……。もう、水も、食料も、希望も、ほとんど底を尽きかけてるんだが……」
詠美は不意に立ち止まり、キラキラした瞳でライエルを振り返った。
「落ち着け、ライエル!見てみろ!」
彼女が指差した先には、巨大で、薄気味の悪い、石でできた門がそびえ立っていた。
「見ろ!ついに!魔王城だ!」
「……詠美。その門、三十分前にも通ったぞ。あれは、魔物が出入りする裏門とかじゃなくて、たぶん、村はずれにある誰も使ってない神社の入り口だよ……。ほら、手水鉢があるだろ……」
「何を言っているんだ!この紋様を見ろ!この禍々しいカーブ!この漆黒の苔!これはまさしく、魔王城に仕える邪悪な神官の紋章に違いない!さあ、行くぞ!」
「いや、詠美!それは『しめ縄』の結び目だよ! 待ってくれ!もう、空腹で幻覚が見えてきた!さっきから木の枝が喋ってる!詠美、お願いだ、一度でいいから、俺の地図を見てくれ!」
ライエルの悲痛な懇願も、魔王城への確信に満ちた詠美の耳には届かない。
詠美は、門の脇に生えていた太い蔦を握りしめ、まるで騎士が聖剣を抜くように、高らかに宣言した。
「さあ、ライエル!勇者の道を、切り開くぞ!」
ライエルは、その場に崩れ落ち、彼の頭の中では、「ライエル、迷子」「ライエル、遭難」「ライエル、死亡」という三つの単語がローテーションしていた。
その時、石門の向こう側から、聞き慣れた騒々しい市場の喧騒と、牛の鳴き声が聞こえてきた。
「あれ?この牛の鳴き声、どこかで……」
ライエルは頭上の木々の隙間から、太陽の位置を辛うじて確認し、愕然とした。
「……詠美。貴様!貴様の地図のせいで、俺たちは丸一日かけてフィルドの街を螺旋状にグルグル回っていただけだ!」
「な、何を言うんだ、騎士!これは『王の御座』への秘密の螺旋階段だ!」
「違う!螺旋の道だとしても、フィルドの城壁の裏側に戻ってきている!俺たちが今いるのは、フィルドからわずか 10 キロメートルしか離れていない地点だ!」
ライエルは絶叫した。
この丸一日の苦行は、無意味な徒労に終わったのだ。
詠美の顔から血の気が引いた。
(う、嘘……。私の『王の直感』が、まさか、たった 10 キロの範囲でループしていたというのか……!?)
ライエルは、詠美の呆然とした顔を一瞥すると、もう何も言う気力もなく、力なく石門をくぐった。
詠美は慌ててその後を追った。
「ち、チッ……!仕方ない。この『螺旋の試練』は、我が力の再封印が必要だと判断したからに過ぎん!さあ、騎士!次は『真の王城』へのルートを貴様の地図で確認するぞ!」
ライエルは、干し肉を失い、体力と精神力を完全に消耗した目で、ただ黙って歩き始めた。
こうして、「ウザい王」と「冷徹な騎士」の異世界珍道中は、丸一日を経て、振り出しに戻ったのだった。




