第二話「春、潮風のプレリュード」
潮の香りを含んだ風が、校舎の窓からすり抜けていく。
渚ヶ丘学園の入学式が終わったばかりの午後、僕はまだ慣れない制服の襟を指で直しながら、渡り廊下を歩いていた。
人の流れが途切れた廊下で、僕はひとりため息をついた。
——そのときだった。
「……ねえ、君。風の音、聴こえる?」
ふわり、と。
声がした方を振り向くと、ひとりの少女が立っていた。
淡いアイボリーの髪が波のように揺れ、光を受けて金色の縁を描く。
制服のリボンが少しほどけていて、それすらも絵になる。
彼女は僕をまっすぐ見つめ、首をかしげた。
「えっと……君、同じクラスの人だよね? ううん、違うな。もっと……“同じ旋律”のひと、って感じ」
不思議なことを言う人だと思った。
けれど、その笑顔はどこか懐かしいようで、胸の奥がわずかに疼いた。
「わたし、白瀬叶音。」
彼女は小さく名乗り、続ける。
「ねぇ、少しだけ——聴いてくれる?」
そう言って、叶音は廊下の端に置かれた古いピアノの前に立った。
誰が持ち込んだのかも分からない、海の音で少し錆びたようなアップライトピアノ。
彼女が鍵盤に指を置いた瞬間、空気が変わった。
——音が、光になった。
柔らかなメロディが廊下を満たし、窓の外の海風さえもその旋律に合わせて揺れているように感じた。
言葉にならない感情が、胸の奥からせり上がってくる。
彼女の声は、まるで祈りのようだった。
曲が終わると、叶音は振り返り、少し照れたように微笑んだ。
「ね、歌ってみない? 君と。わたし、コーラス部を作るの。まだ誰もいないけど……これから、集めるの」
「え、僕が……?」
「うん。だって、君の声、きっと“風に合う”もの」
意味は分からなかった。
でも、その瞬間だけは、拒めなかった。
波の音と彼女の微笑みが、確かに僕の心のどこかを揺らしたから。
——こうして僕は、渚ヶ丘学園唯一の“男子部員”として、
まだ名前もないコーラス部に入ることになった。




