第9話 君は、また初めてで
月曜日の朝。
学校へ向かう足取りは重いはずなのに、不思議と昨日よりは前へ進めた。
澪にひどいことを言ってしまった。
それでも、彼女の「忘れたくないのに」という震える声を聞いたとき――逃げてばかりの自分から、少しだけ変わろうと思えた。
記憶が一日しか保てない。
だったら“昨日の続き”は、俺のほうから示せばいい。
そう、思っていた。
だけど――。
「……あれ?」
昇降口を抜けた瞬間、階段を上がろうとしたところで、廊下の向こうに澪の姿が見えた。
胸が大きく脈打つ。
いつも通りの制服。淡い光のなかで揺れる髪。
昨日泣いていたのが嘘みたいに、澪は無表情のまま廊下を歩いていた。
「澪……?」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく跳ねた。
ゆっくりと振り返った瞳は――昨日とはまったく違っていた。
「……はい?」
“知らない人に話しかけられた”ときの、あの距離感。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
覚悟していたはずなのに、やっぱり痛い。
「俺……昨日、その……」
澪は首をかしげた。
何のことを言っているのか、本当にわかっていない顔だった。
あぁ――本当に、忘れてるんだ。
昨日、あんなに泣いていたのに。
あんなに震える声で「覚えてたい」って言ってたのに。
それでも。
逃げない、と決めたのは自分だ。
尚弥はほんの少しだけ呼吸を整えて、言葉を変えた。
「……あ、いや。えっと……何年? 一年生……だよね」
「……はい。一年です」
「俺、二年の雨宮。……よろしく」
澪の目が一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬だけ、懐かしいものを見つけたように。
けれどすぐに、澪は小さく会釈した。
「日向です。……よろしくお願いします」
“はじめまして”みたいな声。
だけど、不思議な影がその言葉に混じっていた。
*
昼休み。
尚弥は風交駅での澪の姿を思い出していた。
ベンチに座って、風の音に耳を澄ませている横顔。
絵を覗き込んで「綺麗な線だね」と笑った顔。
昨日の夕方、泣きながら言った「忘れたくないのに」。
そのどれもが、目の前の澪にとっては“今日の初対面の人”に向ける距離感で遮られている。
でも、ほんの少しだけ彼女の目が揺れたのを見逃していなかった。
――覚えていなくても、何かは残ってるんじゃないか。
曖昧で、名前も顔も繋がらない“何か”。
だけど澪の胸の奥には、昨日、俺と過ごした時間の「温度」だけが残ってるんじゃないか。
気のせいだと言われたらそれまでだけど……。
それでも、信じたかった。
*
放課後、教室を出たところで、ふいに風が吹いた。
その風の流れに乗って、誰かが小走りに駆けてくる気配がする。
「……雨宮くん!」
振り返ると――澪だった。
息を弾ませて、手には例の日記帳を握って。
「ひ、日向……?」
澪は息を整えると、少し恥ずかしそうにノートを胸に抱えた。
「これ……今日、読み返してたら……その……」
言葉を探して迷子になっている。
「“あなたと話していた”って、昨日の私が書いてて……よくわからなくて。でも……」
澪は視線を落とし、そっと続けた。
「あなたの顔を見たとき……なんか、ちょっとだけ……胸がぎゅってして……たぶん……」
――思い出したわけじゃない。
でも、残ってる。
澪は、記憶がなくても、昨日の“感情の断片”に触れて揺れている。
尚弥は胸が熱くなった。
「……そっか。じゃあ、また……今日も、話そうか」
澪の肩が小さく震え、そして――ほんの少しだけ微笑んだ。
「……うん。お願い、します」
昨日の続きを知らない澪と、
昨日のすべてを覚えている尚弥が、
ようやく同じ場所に立った瞬間だった。




