第8話 今日の君が明日を知らなくても
目を開けた瞬間、胸の奥にひんやりとした空白が広がった。
――また、忘れてしまった。
澪はゆっくりと上半身を起こし、枕元に置いた日記へ視線を落とした。
布張りの小さなノート。自分が昨日までの記憶を
“繋ぎ止めるための唯一の道具”。
けれど、その表紙に触れる指先が、今日はなぜかすぐには動かなかった。
「……読まなきゃ、ってわかってるのに」
小さくつぶやく。
日記を読まなければ、昨日の自分がどんな一日を過ごしたかも、どんな人と話したかも、すべて白紙のままになる。
だから毎朝こうして――寝起きの一番に、日記を開くことを自分に義務づけてきた。
なのに今日は、体が少しだけ拒んでいた。
理由は、わかっていた。
昨日のページに、“あの人”のことが書いてある気がしたからだ。
名前までは思い出せなくても、胸のどこかで、風の中に立つ少年の姿がうっすらと残っている。
風交駅の夕暮れ。
朽ちたベンチ。
その横で、静かに絵を描いていた誰か。
――昨日の私は、その人のことをどう思ったんだろう。
知るのが、少し怖かった。
日記を読めば、“昨日の私”の気持ちを、そのまま受け継いでしまう。
それがどんな感情だったとしても、今日の自分は、それを否応なく背負うことになる。
昨日の私が、誰かを「特別」だと思っていたら?
誰かを好きになりかけていたら?
今日の私は……その“想いの続き”を演じなくちゃいけないの?
そんな不安が胸の奥で広がり、澪はノートの表紙を開けないまま、そっと息を吐いた。
「……今日は、やめておこう」
独り言のように呟き、ノートを机に置く。
知らないままの自分でいたい。
昨日の感情を背負わず、“今日の私”として学校へ行きたい。
ただ、それだけだった。
けれど――その小さな選択が、あの喧嘩に繋がってしまうことを、澪はまだ知らない。
登校途中、胸のどこかがざわついていた。
理由はわからない。
ただ、風に吹かれた瞬間、ふいに心の奥が揺れた。
――誰かに、会った気がする。
昨日のことを覚えていないはずなのに、
風交駅のあの空気だけは、体が覚えているみたいだった。
「……変だな、これ」
呟いてみても、不安は消えなかった。
知らないはずの何かに、呼ばれている気がした。
そして文化祭の日――。
避けてしまった“昨日の私”が書いたページの答えが、
あの旧図書室で尚弥と向き合うあの瞬間へ、静かに澪を導いていく。




