表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

第8話 今日の君が明日を知らなくても

目を開けた瞬間、胸の奥にひんやりとした空白が広がった。

 ――また、忘れてしまった。

 澪はゆっくりと上半身を起こし、枕元に置いた日記へ視線を落とした。

 布張りの小さなノート。自分が昨日までの記憶を

“繋ぎ止めるための唯一の道具”。

 けれど、その表紙に触れる指先が、今日はなぜかすぐには動かなかった。

「……読まなきゃ、ってわかってるのに」

 小さくつぶやく。

 日記を読まなければ、昨日の自分がどんな一日を過ごしたかも、どんな人と話したかも、すべて白紙のままになる。

 だから毎朝こうして――寝起きの一番に、日記を開くことを自分に義務づけてきた。

 なのに今日は、体が少しだけ拒んでいた。

 理由は、わかっていた。

 昨日のページに、“あの人”のことが書いてある気がしたからだ。

 名前までは思い出せなくても、胸のどこかで、風の中に立つ少年の姿がうっすらと残っている。

 風交駅の夕暮れ。

 朽ちたベンチ。

 その横で、静かに絵を描いていた誰か。

 ――昨日の私は、その人のことをどう思ったんだろう。

 知るのが、少し怖かった。

 日記を読めば、“昨日の私”の気持ちを、そのまま受け継いでしまう。

 それがどんな感情だったとしても、今日の自分は、それを否応なく背負うことになる。

 昨日の私が、誰かを「特別」だと思っていたら?

 誰かを好きになりかけていたら?

 今日の私は……その“想いの続き”を演じなくちゃいけないの?

 そんな不安が胸の奥で広がり、澪はノートの表紙を開けないまま、そっと息を吐いた。

 「……今日は、やめておこう」

 独り言のように呟き、ノートを机に置く。

 知らないままの自分でいたい。

 昨日の感情を背負わず、“今日の私”として学校へ行きたい。

 ただ、それだけだった。

 けれど――その小さな選択が、あの喧嘩に繋がってしまうことを、澪はまだ知らない。


登校途中、胸のどこかがざわついていた。

 理由はわからない。

 ただ、風に吹かれた瞬間、ふいに心の奥が揺れた。

 ――誰かに、会った気がする。

 昨日のことを覚えていないはずなのに、

 風交駅のあの空気だけは、体が覚えているみたいだった。

「……変だな、これ」

 呟いてみても、不安は消えなかった。

 知らないはずの何かに、呼ばれている気がした。

 そして文化祭の日――。

 避けてしまった“昨日の私”が書いたページの答えが、

 あの旧図書室で尚弥と向き合うあの瞬間へ、静かに澪を導いていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ