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第6話 風が交わる場所で心だけが追いつけない

次の日の放課後、尚弥は誰にも告げずに学校を後にした。今日は美術室には顔を出していない。椎名の気遣いの視線を背中に感じながら、それを無視するように昇降口を出た。


 リュックの中には、昨日と同じスケッチブック。中身はほとんど進んでいない。鉛筆の線が昨日の空気をなぞったまま、時間だけが止まっているようだった。


 廃駅・風交へと続く坂道に入ると、風が頬を撫でていく。目を閉じると、あの少女――日向澪の笑顔が浮かんだ。


 もう、偶然とは思えなかった。


 坂を登りきり、ホームに足を踏み入れたとき、思わず立ち止まる。


 この前と同じ、いや、それ以上に静かな空気の中――誰かが、いた。


 ベンチの端。制服姿の澪が風に髪をなびかせながら、背を向けて立っていた。


「……澪?」


 無意識に声を漏らした尚弥に、彼女がゆっくり振り向いた。


 「……こんにちは。」


 その反応に、尚弥は胸の奥でなにかがズレたような感覚を覚えた。

 この前、名前を交換したはずなのに。彼女の目は、まるで今日が“はじめまして”のようだった。


 「邪魔しちゃった?」


 「ううん、そんなことないよ。」


 スカートの裾を押さえながら、尚弥の方を見ず、視線はどこか遠くへ向いていた。無意識に日記帳を抱える手元に目がいく。


 それは、この前も彼女が持っていたものと同じだった。小さな布張りのノート。

 この前とまったく同じ光景なのに――今日の彼女は、どこか違って見えた。


 「今日、風が気持ちいいよね」


 「……ああ。たしかに」


 当たり障りのない返事。けれど、それ以上の言葉が見つからなかった。この前はもっと自然に話せた気がするのに。今日の彼女は、どこかふわふわしていて、掴みどころがない。


 「絵……まだ描いてるの?」


 「……うん。一応」


 「この前と同じやつ?」


 その言葉に尚弥は、息を詰めそうになった。彼女は……覚えているのか、いないのか。言い方が曖昧すぎて、判断できなかった。


 けれど尚弥は、あえて「この前」のことに触れた。


 「この前より……色が濃くなったかもな、空」


 澪はその言葉に、少し間を置いて、笑った。


 「うん。そうだね。――日によって、同じ景色でも違って見えるから。不思議」


 尚弥はそれ以上追及しなかった。ただ、風が吹くたびに彼女の髪が揺れるのを見つめていた。


---



 家に帰っても、尚弥の頭から澪の表情は離れなかった。


 リビングではテレビの音が鳴っていたが、父は黙ったまま新聞をめくり、母はスマホで明日の予定を確認していた。誰も尚弥に話しかけない。その静けさは、風交駅とは違う“孤立”の静けさだった。


 部屋に戻ってスケッチブックを開いた。あのベンチに座る澪の姿を、記憶の中から描こうとしたが、うまく手が動かなかった。


 「……やっぱり、変だったよな」


 彼女の反応も、言葉も、笑顔さえも――この前とは少しずつ違っていた。


 けれど、同じ場所にいた。風交駅で、ふたりで並んで座っていた。それは、間違いじゃない。


 尚弥は鉛筆を置き、ふと気づいた。


 ――また、会える気がする。


 そう思えたのは、彼女の最後の言葉がどこか優しく、何かを隠しているように聞こえたからだった。

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