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第5話 すれ違う記憶

週明けの月曜日。朝から空はどこかぼんやりしていて、教室の窓には湿った光がにじんでいた。

 尚弥は机に肘をつきながら、ぼんやりとノートの罫線をなぞっていた。ノートには何も書かれていない。ただ線を追っているだけ。隣の席の男子がくだらない冗談を言って女子に笑われる声が耳に届いていたが、それすらも遠くの風景のようだった。


 澪に、また会えるだろうか――。


 ふと、頭の中によぎったのは「風交駅」のあの夕暮れと、名前を呼び合った最後の場面だった。

 澪。日向澪。


 不思議な存在感だった。柔らかく、でもどこか距離を感じさせる子。

 スケッチブックを覗き込んできた彼女の視線が、今でも脳裏に焼きついて離れない。


 昼休み、尚弥は人混みを避けるように、図書室へ向かった。騒がしさから逃げるには、静寂が満ちているこの場所が一番だった。


 窓際の席に鞄を置き、適当に背表紙を眺めていると、ふと人の気配を感じた。


 (……あれ?)


 通路の先、自然光の差す本棚の向こう側に、ひとりの女子生徒の姿が見えた。

 セーラー服の上にグレーのカーディガンを羽織っている。髪はゆるくひとつに結ばれていた。

 その後ろ姿に、尚弥の指先が止まった。


 (……澪?)


 確信はなかった。けれど、その佇まいや、背中に漂うどこか頼りない雰囲気に見覚えがあった。

 思わず歩を進めようとしたそのときだった。


 彼女が振り向き、尚弥と目が合った。


 一瞬、時が止まったような錯覚。

 けれど次の瞬間、彼女はふわりと目を逸らし、何事もなかったかのように歩き去っていった。


 (……え?)


 確かに目が合った。尚弥の心臓が早鐘を打つ。

 けれど、彼女の表情はまるで“初対面の他人”を見るようだった。


 (どういうこと……?)


 図書室の中を見渡したが、もう澪の姿はなかった。幻だったのかとさえ思えてくる。


 それでも、胸の奥に残る感覚――たしかに彼女だった、という確信だけが、尚弥を落ち着かせてくれなかった。


 放課後、美術室の扉の前で、尚弥は立ち止まっていた。

 入るか、帰るか。ここ数日、同じことで迷っている。


「来るかなって思ってた」


 声がした。振り返ると、椎名が立っていた。


 「……今日は、ちょっとだけ」


 尚弥はそう言って、美術室の扉を開けた。誰もいない室内。静けさの中に、絵具の匂いが漂っている。

 椎名は追ってこなかった。たぶん、尚弥の空気を読んでくれたのだ。


 カバンからスケッチブックを取り出す。その表紙を開こうとした指が、ふと止まる。


 (……なんで、気づいてくれなかったんだろう)


 図書室の澪の表情が、鮮やかに蘇る。

 目が合ったのに、知らない人のような顔だった。


 (……俺のこと、忘れてる?)


 尚弥は鉛筆を握った。紙の上に、彼女の横顔を描こうとした。

 けれど、うまくいかない。記憶が曖昧なのではなく、「わからない」という感情が混ざって、線がブレた。


 (もう一度、会えたら……話をしてみたい)


 風が、校舎の窓を揺らした。その音に混じって、遠くで吹奏楽部のトランペットの音が流れてくる。


 尚弥は鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。今はまだ、描けそうになかった。

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