第3話 消えない空を
それから何度か、尚弥は風交駅に通った。放課後、部活もさぼって、誰に知らせるでもなく。
いつも澪がいるとは限らなかった。むしろ、いない日の方が多かった。
でも、不思議と気にならなかった。風の音がして、ベンチに座って、スケッチブックを開く。それだけで、十分だった。
……そして、ふとしたとき、彼女はまた現れるのだった。まるで風の一部みたいに。
「また来てたんだね」
「うん。まあ、気が向いたから」
「ふふ。言った通りじゃん」
ある日は、そんな軽い挨拶から始まり、
また別の日は、言葉も交わさず、並んで夕焼けを見るだけだった。
その日、澪は珍しく制服ではなかった。白いワンピースに、薄いカーディガン。手には小さな手提げ袋。
「それ、買い物?」
尚弥が聞くと、澪は少し首を傾げた。
「ううん。お守り、返しに行った帰り」
「……神社か何か?」
「そう。お願いが、叶ったから」
「何をお願いしてたの?」と訊きかけて、尚弥は言葉を飲んだ。
澪は笑っていた。でもその目元に、うっすらと翳が差しているのがわかったからだ。答えたくないのか、それとも――。
「……ヒミツだよ」
彼女は少しふざけた口調で言って、ベンチのひじ掛けに体を預けた。
沈黙が降りる。駅の奥の柵を越えて、風がまた吹いた。
尚弥は少し考えた末に、スケッチブックを鞄から取り出した。
中には、あのホームの風景、澪の横顔、どれも未完成のまま並んでいる。
澪はそのページを覗き込むと、小さく息をのんだ。
「……描いてくれたの?」
「勝手にだけど。気づいたら、描いてた」
「……変なの」
澪はそう言って目を細めた。
でもその瞳には、何かをじっと確かめるような光があった。
「尚弥くんって、変わってるよね」
「俺が?」
「うん。普通なら、知らない人がこんなとこにいて、ノートに何か書いてても、気にしないと思う。でも、君は気にするし、寄ってくるし、話す」
尚弥は少し言葉に詰まった。
確かにそうかもしれない。だが、どこかで「この子には話しかけなきゃいけない」と思わせる何かがあった。
「……君のほうが、変わってるよ」
「ふふ。たしかに。おあいこだね」
笑いあう。穏やかで、奇妙に馴染む沈黙が続いた。
しばらくして、澪がふと鞄から取り出したのは、あの小さな手帳だった。例の日記。
彼女はそれをぱらぱらと捲ると、何かを書き加え始める。尚弥はつい覗き込みそうになるのを我慢した。
でも、目の端に見えた行の中に、ひとつだけ、引っかかる言葉があった。
「残せるとしたら、どんな風景がいいだろう」
……“残せるとしたら”。
なぜそんな言い方をするのだろう。
まるで、今を去っていく人のような。
……それとも、なにかがもう手遅れなのだろうか。
「澪」
尚弥は思わず名前を呼んでいた。彼女は顔を上げる。
「何か……隠してること、ある?」
しばしの沈黙。風の音だけが、線路を渡っていく。
「――もし、あったら?」
「たぶん、俺は黙って待つ」
「……どうして?」
「話したくなったときに、話してほしいから」
それを聞いた澪は、ほんの一瞬だけ目を潤ませたように見えた。
でも、すぐに小さな笑みが戻ってきた。
「……やっぱり、変わってる」
「そうかもな」
それきり、澪は何も言わなかった。
でも、その日の風は、少しだけ冷たかった。
まるで、見えないなにかを運んでくるように。
美術部の活動室に、ポスター用紙が何枚も広げられていた。
「尚弥、あんたもこっち来て!」「こっちの色、もうちょっと暗くしたほうがよくない?」
賑やかな声が飛び交うなか、尚弥は筆を握って黙々と影を塗っていた。
文化祭が近づいていた。美術部では展示用の壁画制作と、学園マップの装飾担当が回ってきていて、どちらも人手が足りていない。
同級生も後輩も手伝ってくれてはいるが、なんとなく尚弥の存在は、場に溶け込めないままだった。
「尚弥くん、背景の色、そっちに合わせてもいいかな?」
後輩の女子が遠慮がちに声をかけてくる。
「あ、うん。いいと思うよ。ここ、ちょっとグラデ入れてもらえると助かる」
「うん、やってみるね」
彼女は笑って戻っていった。
尚弥はその背中を見送りながら、苦笑する。
――ちゃんと返せた。なんで、澪のときだけ、あんなに自然に話せるんだろう。
自分でもよくわからない。あの風交駅にいると、誰かと繋がることが、少しだけ怖くなくなる気がした。
活動が終わった帰り道、夕暮れの坂道を自転車で下っていく。
文化祭前で慌ただしくなると、きっと風交駅にも行けなくなる。
そう思うと、無性にあの静けさが恋しくなって、尚弥は方向を変えた。
――今日は、いるだろうか。
夕日に染まるホームには誰もいなかった。
少し期待していた自分に、尚弥は苦笑する。
それでも、ベンチに腰を下ろしてスケッチブックを開いた。
ページをめくると、昨日の澪の横顔があった。
優しい輪郭、どこか不安げな瞳。
筆を止めると、そのとき、背後から声がした。
「尚弥くんって、ほんとにここ、好きだよね」
振り向くと、そこに澪が立っていた。
制服姿のまま、鞄を肩にかけ、風に髪をなびかせていた。
「……よくわかったね」
「うん。尚弥くんって、絵を描くときの顔、わかりやすいから」
「え、俺、そんなに変な顔してる?」
「変じゃないよ。なんか、迷子の子みたいな顔。……でも、迷ってるのに落ち着いてる。ふしぎ」
迷子なのに、落ち着いている――
どこか彼女自身のことのような言葉だった。
「文化祭、近いんでしょ?」
澪がベンチに座りながら訊いた。
「ああ。一応、美術部だから」
「展示、見に行ってもいい?」
「もちろん」
尚弥は、少し照れたように笑った。
「でも、俺の絵、そんな大したもんじゃないけど」
「でも、好きなものを描いてる顔は、きっと一番その人のことを教えてくれる」
澪はまっすぐ言った。尚弥は何も言い返せなかった。
「ねえ、尚弥くん」
「ん?」
「文化祭が終わっても……ここに来てくれる?」
風が吹いた。
夕陽が、廃駅の奥の金属をゆっくりと染めていた。
「……来るよ」
それは、自然に出た言葉だった。
「澪が来るなら、俺も来る」
「……よかった」
澪は静かに笑った。でもその笑顔の奥に、また、何か言いたげなものが見えた気がした。
その後、ふたりは多くを話さず、ただ並んで座っていた。
空が紫に変わる頃、澪がそっと立ち上がる。
「じゃあ、またね。……覚えててね、ちゃんと」
その言葉に、尚弥は思わず顔を上げた。
「なにを?」
「今日、ここで一緒に見た空。……それだけでいいの」
それだけ言い残して、澪は小さく手を振り、駅の出口へと歩き出した。
尚弥は、その背中をずっと見ていた。
まるで――今すぐ走って追いかけないと、消えてしまいそうな気がして。




