表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

第3話 消えない空を

 それから何度か、尚弥は風交駅に通った。放課後、部活もさぼって、誰に知らせるでもなく。

 いつも澪がいるとは限らなかった。むしろ、いない日の方が多かった。


 でも、不思議と気にならなかった。風の音がして、ベンチに座って、スケッチブックを開く。それだけで、十分だった。

 ……そして、ふとしたとき、彼女はまた現れるのだった。まるで風の一部みたいに。


「また来てたんだね」

 「うん。まあ、気が向いたから」

 「ふふ。言った通りじゃん」


 ある日は、そんな軽い挨拶から始まり、

 また別の日は、言葉も交わさず、並んで夕焼けを見るだけだった。


 その日、澪は珍しく制服ではなかった。白いワンピースに、薄いカーディガン。手には小さな手提げ袋。


 「それ、買い物?」

 尚弥が聞くと、澪は少し首を傾げた。


 「ううん。お守り、返しに行った帰り」

 「……神社か何か?」

 「そう。お願いが、叶ったから」


 「何をお願いしてたの?」と訊きかけて、尚弥は言葉を飲んだ。

 澪は笑っていた。でもその目元に、うっすらと翳が差しているのがわかったからだ。答えたくないのか、それとも――。


 「……ヒミツだよ」

 彼女は少しふざけた口調で言って、ベンチのひじ掛けに体を預けた。


 沈黙が降りる。駅の奥の柵を越えて、風がまた吹いた。


 尚弥は少し考えた末に、スケッチブックを鞄から取り出した。

 中には、あのホームの風景、澪の横顔、どれも未完成のまま並んでいる。


 澪はそのページを覗き込むと、小さく息をのんだ。


 「……描いてくれたの?」

 「勝手にだけど。気づいたら、描いてた」

 「……変なの」


 澪はそう言って目を細めた。

 でもその瞳には、何かをじっと確かめるような光があった。


 「尚弥くんって、変わってるよね」

 「俺が?」

 「うん。普通なら、知らない人がこんなとこにいて、ノートに何か書いてても、気にしないと思う。でも、君は気にするし、寄ってくるし、話す」


 尚弥は少し言葉に詰まった。

 確かにそうかもしれない。だが、どこかで「この子には話しかけなきゃいけない」と思わせる何かがあった。


 「……君のほうが、変わってるよ」

 「ふふ。たしかに。おあいこだね」


 笑いあう。穏やかで、奇妙に馴染む沈黙が続いた。


 しばらくして、澪がふと鞄から取り出したのは、あの小さな手帳だった。例の日記。

 彼女はそれをぱらぱらと捲ると、何かを書き加え始める。尚弥はつい覗き込みそうになるのを我慢した。


 でも、目の端に見えた行の中に、ひとつだけ、引っかかる言葉があった。


 「残せるとしたら、どんな風景がいいだろう」


 ……“残せるとしたら”。


 なぜそんな言い方をするのだろう。

 まるで、今を去っていく人のような。

 ……それとも、なにかがもう手遅れなのだろうか。


 「澪」

 尚弥は思わず名前を呼んでいた。彼女は顔を上げる。


 「何か……隠してること、ある?」

 しばしの沈黙。風の音だけが、線路を渡っていく。


 「――もし、あったら?」

 「たぶん、俺は黙って待つ」

 「……どうして?」

 「話したくなったときに、話してほしいから」


 それを聞いた澪は、ほんの一瞬だけ目を潤ませたように見えた。

 でも、すぐに小さな笑みが戻ってきた。


 「……やっぱり、変わってる」

「そうかもな」


 それきり、澪は何も言わなかった。

 でも、その日の風は、少しだけ冷たかった。

 まるで、見えないなにかを運んでくるように。


 美術部の活動室に、ポスター用紙が何枚も広げられていた。


「尚弥、あんたもこっち来て!」「こっちの色、もうちょっと暗くしたほうがよくない?」

 賑やかな声が飛び交うなか、尚弥は筆を握って黙々と影を塗っていた。


 文化祭が近づいていた。美術部では展示用の壁画制作と、学園マップの装飾担当が回ってきていて、どちらも人手が足りていない。

 同級生も後輩も手伝ってくれてはいるが、なんとなく尚弥の存在は、場に溶け込めないままだった。


 「尚弥くん、背景の色、そっちに合わせてもいいかな?」

 後輩の女子が遠慮がちに声をかけてくる。


 「あ、うん。いいと思うよ。ここ、ちょっとグラデ入れてもらえると助かる」


 「うん、やってみるね」

 彼女は笑って戻っていった。

 尚弥はその背中を見送りながら、苦笑する。


 ――ちゃんと返せた。なんで、澪のときだけ、あんなに自然に話せるんだろう。

 自分でもよくわからない。あの風交駅にいると、誰かと繋がることが、少しだけ怖くなくなる気がした。


 活動が終わった帰り道、夕暮れの坂道を自転車で下っていく。

 文化祭前で慌ただしくなると、きっと風交駅にも行けなくなる。

 そう思うと、無性にあの静けさが恋しくなって、尚弥は方向を変えた。


 ――今日は、いるだろうか。


 夕日に染まるホームには誰もいなかった。

 少し期待していた自分に、尚弥は苦笑する。

 それでも、ベンチに腰を下ろしてスケッチブックを開いた。


 ページをめくると、昨日の澪の横顔があった。

 優しい輪郭、どこか不安げな瞳。

 筆を止めると、そのとき、背後から声がした。


 「尚弥くんって、ほんとにここ、好きだよね」


 振り向くと、そこに澪が立っていた。

 制服姿のまま、鞄を肩にかけ、風に髪をなびかせていた。


 「……よくわかったね」

 「うん。尚弥くんって、絵を描くときの顔、わかりやすいから」


 「え、俺、そんなに変な顔してる?」


 「変じゃないよ。なんか、迷子の子みたいな顔。……でも、迷ってるのに落ち着いてる。ふしぎ」


 迷子なのに、落ち着いている――

 どこか彼女自身のことのような言葉だった。


 「文化祭、近いんでしょ?」

 澪がベンチに座りながら訊いた。


 「ああ。一応、美術部だから」

 「展示、見に行ってもいい?」


 「もちろん」

 尚弥は、少し照れたように笑った。

 「でも、俺の絵、そんな大したもんじゃないけど」


 「でも、好きなものを描いてる顔は、きっと一番その人のことを教えてくれる」

 澪はまっすぐ言った。尚弥は何も言い返せなかった。


 「ねえ、尚弥くん」

 「ん?」

 「文化祭が終わっても……ここに来てくれる?」


 風が吹いた。

 夕陽が、廃駅の奥の金属をゆっくりと染めていた。


 「……来るよ」

 それは、自然に出た言葉だった。

 「澪が来るなら、俺も来る」


 「……よかった」

 澪は静かに笑った。でもその笑顔の奥に、また、何か言いたげなものが見えた気がした。


 その後、ふたりは多くを話さず、ただ並んで座っていた。

 空が紫に変わる頃、澪がそっと立ち上がる。


 「じゃあ、またね。……覚えててね、ちゃんと」


 その言葉に、尚弥は思わず顔を上げた。


 「なにを?」

 「今日、ここで一緒に見た空。……それだけでいいの」


 それだけ言い残して、澪は小さく手を振り、駅の出口へと歩き出した。


 尚弥は、その背中をずっと見ていた。

 まるで――今すぐ走って追いかけないと、消えてしまいそうな気がして。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ