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第2話 昨日と今日をつなぐ場所

 翌朝、尚弥は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。夢でも見ていたような気がするが、その内容はまったく思い出せない。ただ、胸の奥が妙にざわついていた。


 寝癖のついたまま洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分の顔を見て、ふと思い出す。

 夕暮れの風交駅、静かに佇んでいた少女——澪。あの子の表情は、どこか風景の一部みたいだった。静かで、でも何かを待っているようで。

 名前を聞いた瞬間の、ほんの一瞬の沈黙。それも妙に印象に残っている。


「……変な子だったな」

 誰に向けるでもない独り言が、朝の静寂に吸い込まれていく。


 登校の道は、いつもより少しだけ軽かった。電車の揺れ、車窓に映る街並み、雑踏。どれも日常の風景なのに、昨日までと何かが違うような気がしていた。


 学校に着くと、クラスメイトたちの笑い声が廊下に響いている。尚弥はそれを横目に、自席に腰を下ろした。窓際の席。いつも通りの景色。だけど今日は、外の空ばかりが気になった。


 「尚弥、昨日来てなかったよな、部活」

 隣の席の男子が話しかけてくる。

 「ああ、まあ」

 曖昧に返事をして、ノートを広げる。会話を終わらせるための仕草は、もう癖になっていた。


 正直、美術部にいても浮いている気がする。誰かに嫌われてるわけじゃない。ただ、誰とも深く話せていないだけ。

 部誌のテーマに興味を持てず、提出期限を過ぎたまま放置しているスケッチブック。去年の文化祭で描いた風景画は、廊下の端にひっそり飾られて終わった。先生の評価も悪くなかったが、誰の記憶にも残らなかった。

 ——「伝わらなかったな」

 あのとき思った気持ちは、今もずっと胸の底に沈んでいる。


 授業中、ふとした拍子に思い出す。

 昨日の、あの子の声。話し方。駅に吹いていた風。

 風交駅のあの空気は、妙に鮮明だ。時間の流れ方が、他のどこよりも遅くて、静かだった。


 「君は……絵、描いてたの?」

 たしか、そんなふうに言われた気がする。彼女は俺のスケッチブックをちらっと見ただけだったのに。

 見られるのが恥ずかしいと思う一方で、どこかうれしかった。

 あの一言で、描くことを忘れていた自分が少しだけ息を吹き返したような気がした。


 昼休み。教室にいても居心地が悪くて、尚弥はいつものように校舎裏に向かう。体育館の脇、誰も通らない細道の先に、小さなベンチがある。

 そこに腰を下ろして、パンの袋を開ける。咀嚼しながらカバンを開き、ためらいながらもスケッチブックを取り出した。


 白紙のページをめくると、昨日のページが現れる。

 風交駅のベンチ。構図は中途半端で、背景の草の線も曖昧。鉛筆の跡が擦れて少し滲んでいた。

 描き直したい——そんな衝動が指先をくすぐる。けれど、すぐに心のどこかでブレーキがかかった。


 (どうせ、誰にも見せるわけじゃない)


 そう思ってしまった瞬間、鉛筆を握る手が緩んだ。


 だけど、それでも。昨日の澪の視線が、まだどこかに残っている気がする。

 自分の描いたものを見て、何かを感じてくれた。そんなふうに思えたのは、初めてだったかもしれない。


 (……また会えるかな)


 パンを食べ終える頃、カバンのポケットに入れたままになっていた鉛筆を、尚弥はそっと指で転がした。

 それはほんの小さな、でも確かに前とは違う感情だった。


 その日も、授業は淡々と終わった。


 教室の空気は午後になるほど重たく感じて、ノートに書き込む手元ばかりを見つめていた尚弥は、チャイムの音とともに自席を離れた。部活には行かなかった。理由なんて、特になかった。ただ、なんとなく、またあの場所に行きたいと思っただけだった。


 改札を抜け、人気のない道を抜けていく。夕方の空気が、肌にやさしくまとわりついてくる。時折吹く風が、駅へ向かう足を押すように背中を撫でていった。


 風交駅。

 昨日と同じ。誰もいない、古びたホーム。駅名の看板には少し錆が浮いていて、ベンチの背もたれに付いたヒビが増えたような気もする。


「……いない……よな」

 独り言みたいに呟いて、尚弥はベンチに腰を下ろした。


 昨日の澪との会話が頭の中で反芻される。あのときはなぜか、言葉が途切れなかった。いつもは人と話すと変な間ができてしまうのに。

 ――不思議な子だった。

 なにか隠してるような雰囲気と、なのに妙に自然体な態度。

 名前を言うまでの間。それに、スケッチを見たときの目の色。


 風が、さっと頬を撫でた。そのときだった。


 「……また会ったね」


 聞き覚えのある声。尚弥が顔を上げると、昨日と同じ制服を着た澪が立っていた。肩までの黒髪が揺れて、駅の空気と混ざる。いつ来たのか、気配にまったく気づかなかった。


「……君のほうが先だったんだね」

 「うん。少しだけ早く来てた。」


 尚弥は小さく笑って、隣をぽんと空けた。澪は一瞬だけ目を細めて、静かに腰を下ろす。


 二人の間に、風が通り抜ける。夕日が線路を照らして、長く影が伸びていった。


 「昨日の……スケッチ、描きかけだったよね」

 「……うん。あれ、君に見られてたの、ちょっと恥ずかしかった」

 「でも、ちゃんと目を奪われたよ。線が、少し寂しそうで、でも……落ち着いてて」


 尚弥は思わず目を見開く。誰かに絵の感想をもらったのなんて、ほとんど初めてだった。しかも、そんなふうに言われるなんて思いもしなかった。


 「描くの、好きなんだね」

 「……好きと言うか、何となく描いちゃうでもさ昨日も話さなかったっけ?」

 「あれ?そうだっけ?そっか、昨日も聞いてたのか」


 澪の声は穏やかだった。だけど、どこか遠くを見て話しているようでもあった。尚弥はふと訊きたくなる。


 「君は……なんで、ここに来るの? こんな廃駅、普通の人なら来ないよ」

 「ん……そうだね。でもね、ここ、音が少ないでしょ」

 「音?」

 「うん。電車の音も、人の声も、アナウンスもない。そういう場所のほうが、自分の心の声が聞こえる気がするんだ」

 そう言った澪は、口元に少しだけ笑みを浮かべた。


 「それに、ね。ここ、誰もいないのに、ちゃんと風が吹くの」

 「……風?」

 「うん。何も言わないけど、ちゃんとそこにいて、通り過ぎてくれるの。……そういうの、好き」


 風がまた吹いた。ふたりの髪がふわりと舞う。


 尚弥は、何かを言いたくて言葉を探した。でも、出てきたのは別の質問だった。


 「日記、書いてるんだよね?」

 「うん。見てたの?」

 「ちょっとだけ。昨日、駅で……開いてたから」

 「そっか」

 澪は否定もしなければ、内容を話すこともなかった。ただ、ぽつりと呟くように言う。


 「書いておかないと、残らないから」

 「……残らない?」

 「うん、気持ちとか、風景とか……“そのとき”の私が何を感じてたのか。そういうのって、すぐに消えてっちゃうから」


 尚弥は、その言葉にどこか引っかかりを覚えた。

 でも、それが何なのかは、まだわからなかった。


 日が落ち始め、空に茜色が差してきた。澪がそっと立ち上がる。


 「そろそろ帰るね」

 「……また、ここに来る?」

 尚弥が訊くと、澪はふっと笑った。


 「気が向いたら、かな」

 「じゃあ……俺も、気が向いたら来る」

 「ふふ、それってずるい答えじゃない?」


 笑いながら歩き出す澪の背中を、尚弥は見送った。次に会える保証なんてない。でも、きっとまた来るだろうと、そんな予感だけは確かに胸にあった。


 風が吹いていた。

 言葉にはならない何かが、そっとふたりの間をすり抜けていった。

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