第1話 残るもの消えるもの
続きは時間ある時書いて行くので更新頻度はバラバラになると思います。
六時間目のチャイムが鳴ったとき、教室の空気が一気に軽くなった。机の脚を引く音、笑い声、リュックのジッパーを開ける音。目の前で繰り広げられるこの光景は、いつも尚弥をどこか遠くへ押しやる。
「じゃあ、また明日ねー!」
クラスメイトたちが自然に作る輪から、尚弥の名は呼ばれない。別にいじめられているわけでも、嫌われているわけでもない。ただ、彼は“いないこと”に慣れすぎてしまった。
「雨宮くん、今日さ、美術部来れそう?」
声をかけてきたのは、同じ部の椎名だった。丸顔で笑うと目が細くなる、どこにでもいるような女の子。尚弥が三日連続で部室に顔を出さないのを気にかけてくれたのだろう。
尚弥は一拍遅れて、首をかすかに横に振った。
「ごめん、今日は……ちょっと」
曖昧な嘘。けれど、彼にとってはそれが限界だった。
「そっか。無理しないでね。今週、展覧会の作品締切だから……また時間あるとき来てね」
椎名の声は柔らかい。でもその「無理しないでね」の奥に、「本当は来てほしいんだけど」という気持ちが滲んでいることにも、尚弥は気づいていた。
椎名が去ったあと、尚弥はゆっくりと机を拭き、最後にスケッチブックをそっとリュックにしまった。誰にも見られないように、リュックの奥深くに押し込む。
廊下に出ると、ガラス窓の向こうでサッカー部が円陣を組んでいた。グラウンドの端には吹奏楽部。テナーサックスが軽く音を合わせている。教室にも、廊下にも、校舎全体に「居場所」が充満していた。
けれど、自分だけはそこに入れない。誰かと視線が合っても、すぐに逸らされる。話しかけられることもないが、孤立とも違う。尚弥の存在は、教室にとって「空気のようなもの」になっていた。
静かに靴を履き替え、昇降口を出る。外に出た瞬間、肌に当たる風がやけに冷たく感じた。秋の空気が、街を少しずつ冬へと変えていく。
家には帰りたくなかった。
両親は、口数の少ない父と、何かと指示を出したがる母。最近は顔を合わせる時間も減っている。父は単身赴任から戻ったばかりで、家の空気はぎこちない沈黙で満たされていた。
「今日は塾は?」
「そろそろ志望校も……」
毎日交わされる言葉は決まっていた。進路、勉強、内申。だが誰も、尚弥が何に苦しんでいるかを尋ねることはない。
彼はそっと、学校の裏門へと足を向けた。
この道を通るのは、決まって誰かから逃げたいときだった。舗装の甘い路面には、夏の名残のようにひび割れが走っている。自販機の明かりの下には、枯れかけた植え込み。野良猫が身を潜めるようにして、目を合わせずに去っていった。
イヤホンを耳に差し込む。けれど音楽は流さない。ただの“遮断”のための儀式だった。世界の音から、自分を切り離すための壁。
やがて、廃線跡へと続く坂道に差しかかる。両脇の木々が風に揺れ、ざわざわとした葉擦れの音が耳を打った。目を閉じると、それだけで胸が少しだけ軽くなる気がする。
その先にあるのが、「風交駅」。
正式には、十年前に廃止された「風交信号場」。駅としてはもう存在しない。けれど、地元の人は今でも「駅」と呼ぶ。尚弥にとっては、それが嬉しかった。なくなったものに、名前を残すという行為。それは、存在を証明しようとする最後の手段のように思えたから。
木製の小さな看板。苔むしたホーム。草に覆われたレール。すべてが変わらず、今日もそこにあった。
尚弥はホームに腰を下ろし、ゆっくりとリュックからスケッチブックを取り出す。目の前に広がる風景――それを誰にも見せるつもりはない。ただ、線を引くことで、自分の中にある何かが確かに「ある」と信じられる気がした。
「描くって、誰かに見せるだけのもの?」
あの日、美術室で言われた言葉が、頭の中をよぎる。
「それって、ただ写すだけだよね?」
自分の絵には、意味がない。誰かを感動させることも、表現力に溢れているわけでもない。ただ、目に映ったものを線でなぞるだけ。
――でも、それじゃダメなの?
尚弥は鉛筆を握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。風の音が、木々のざわめきに混じって頬をかすめていく。時間の感覚がゆっくりとほどけていく中で、線は静かに重ねられていく。
そのとき――。
「それ、ここ?」
女の子の声だった。
ふっと、風に混じるようにして現れた声。尚弥は驚いて顔を上げた。
ホームの端に、誰かがいた。
制服姿で髪をひとつに結んだ女の子が、尚弥のスケッチブックをのぞき込んでいた。
「……え?」
思わず声が漏れる。どうしてこんな場所に、誰かが?
ましてや、同じ年頃の女の子が――。
その子は、にこりと笑った。
「綺麗で優しい絵だね」
その言葉が、尚弥の中にすっと染み込んでいくのを感じた。
驚きと警戒と、そして……少しだけ、嬉しさ。
「……ありがとう」
声が少し掠れていたのは、長く誰とも話していなかったせいかもしれない。
女の子は尚弥の隣にしゃがみ込むと、スケッチブックを覗き込んだ。
白い指がページの端に触れる寸前、尚弥はそっと手で隠した。
「ごめん、まだ……途中だから」
「そっか。ごめんね。でも、すごく優しい絵だった」
女の子の言葉には、評価とか、見下しとか、そういう匂いがなかった。
ただ、見たままの印象を、素直に口にしただけのような。
「こんな場所で絵を描いてる人、はじめて見たかも」
「……ここ、時々来るんだ。人がいないから」
「わたしも、たまに来るよ。静かで、落ち着くよね。今の季節、空の色もいいし」
尚弥は少しだけ視線を上げた。
ホームの向こうに見える空は、確かに夕方の柔らかなオレンジに染まり始めていた。
「風交駅ってさ……名前が、いいよね。風が交わるって書くんだよ」
「……そうなの?」
少女は視線をスケッチブックに落としたまま、ぽつりと続ける。
「うん。ここ、昔お父さんとよく来てたの。名前が綺麗だったから、覚えてて気になって調べて……。廃線になってるって知ったとき、なんだか切なくて……それから、たまに来てるんだ」
尚弥が何も言わないままでいると、彼女はふと顔を上げ、首をかしげて笑った。
「変な人、って思った?」
尚弥はすぐに首を横に振った。
「ううん。……」
言いかけて、言葉が詰まった。けれど、その沈黙を埋めるように、彼女がそっと言った。
「寂しいけど、優しい場所……そんなふうに思ってるの、私だけじゃなかったんだなって」
風がそっと吹き、彼女の髪が揺れる。
その姿を見つめながら、尚弥は胸の奥に小さなあたたかさが灯るのを感じた。
“似ている”なんて、簡単には言いたくなかった。でも、この言葉はそんな表面的なものじゃなかった。
誰かと同じものを、同じ温度で感じ取れた――そんな気がしたのは、生まれてはじめてだった。
「絵、描くの好きなんだね」
「……うん」
「誰かに見せたりは?」
「……してない。上手いわけじゃないし、ただ……描いてないと、落ち着かなくて」
「それ、わかるかも。あたしも音楽、聴いてないと落ち着かないから」
「音楽、やってるの?」
「うん。バイオリン。下手だけどね」
女の子はそう言って、照れくさそうに笑った。
けれどその表情は、どこか誇らしげでもあった。
尚弥は無意識のうちに、スケッチブックを少しだけ開いて、さっきまで描いていた絵の一部を彼女に見せた。
草に覆われたレールと、さびたホーム。空には薄く雲がかかっている。
「ここって、もう使われてないのに、誰も壊そうとしないんだよね。なんか、それが……いいなって」
女の子はじっとその絵を見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「残ってるって、大事だよね。どこにも行けなくても、ちゃんとここにあるってだけで、なんか、救われる」
尚弥は頷いた。
たぶん、自分がこの駅に惹かれる理由も、同じだった。
しばらくふたりは無言のまま、夕暮れの空を見上げていた。
風が吹き抜け、枯葉が一枚、足元をかすめていった。
「ねえ、名前……聞いてもいい?」
唐突な問いかけだった。
「……雨宮。雨宮尚弥」
「尚弥くん、か……私は澪。日向澪」
それは、この駅で出会った、名もないふたりが交わした、小さな約束のようなものだった。
日が沈むころ、澪は「また来るね」と言い残して帰っていった。
尚弥は、彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで、スケッチブックを開いたまま、ずっと立ち尽くしていた。
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