第7話:闇に沈む命
霧の奥で、ヴェロキラプトルの群れがうごめいていた。
その姿はぼんやりとした影となり、霧の中で獲物に食らいついている。鉤爪が深く食い込み、肉を裂く様子が微かに見える。
彼らは白亜紀後期に生息した獣脚類の恐竜。
全長約2メートル、群れで狩りをする俊敏な捕食者。鋭い鉤爪を持ち、獲物を襲う習性を持つ。
その狩りの様子は、まるで儀式のようだった。
獲物を囲み、逃げ場を奪い、確実に仕留める。
そして、群れ全体でその肉を貪る――。
ヴェロキラプトルは、単独で狩りをすることもあったが、群れで行動することでより効率的に獲物を仕留めることができた。彼らの知能は高く、獲物の動きを予測し、連携して攻撃を仕掛ける。その鋭い鉤爪は、獲物の喉元や腹部を狙い、一撃で致命傷を与えるために進化したものだった。
「……戦いが終わったのか。」
佐久間昴が低く呟いた。
敗者は食われる。
それは白亜紀に限らず、例えば、現代においてもアフリカのサバンナ等で当たり前に見られる光景だ。
ライオンがヌーを仕留めるように、そのヌーをハイエナが横取りするように――。
それでは、ここで犠牲になったのは――何者なのか?
「まさか……?」
篠宮凛が息を詰める。
最悪の事態を覚悟しかけたその瞬間、ヴェロキラプトルが二人に気づいた。
群れの一体が顔を上げ、鋭い瞳が彼らを捉える。獲物を見定める捕食者の眼そのものだ。
そして、次の獲物が現れたと言わんばかりに、群れがゆっくりと動き始める。
「……来る!」
篠宮凛の心臓が跳ねる。
しかし――
霧の奥から、巨大な影が現れた。踏み鳴らされた地面が震え、圧倒的な重量を感じさせる振動が空気を押し広げる。
それは、トリケラトプスだった。
体長9メートル、3本の角を持つ巨大な草食恐竜。その重厚な姿が、ヴェロキラプトルの群れと対峙する。
「助けてくれるの?」
篠宮凛が呟く。
しかし、佐久間昴は静かに首を振った。
「違う。」
トリケラトプスは陰陽師たちには目もくれず、ただ前へ進む。
目的がある――。
縄張りを守るためか?
戦闘を好む習性なのか?
それとも――奪われたものを取り戻そうとしているのか?
最も可能性が高いのは――ヴェロキラプトルの犠牲となったのが、トリケラトプスの子供か仲間だということだ。
「……そういうことか。」
昴の胸にわずかな期待が生まれる。もしかすると、ここで犠牲になったのは俺たちの仲間ではないのかもしれない――。
次の瞬間、トリケラトプスの体が勢いよく前進する。
その角がヴェロキラプトルの群れを突き飛ばした。
鋭い咆哮。吹き飛ばされる小型の肉食恐竜――横たわるものへの視線を遮るものはなくなった。
視線の先にあったもの――それは相沢さくらだった。
篠宮凛は息を詰まらせた。犠牲になったのは、トリケラトプスの仲間ではなかった。
佐久間昴と篠宮凛の仲間だった――相沢さくら。
その現実に、冷たい衝撃が背筋を駆け巡る。
霧が漂い、森は深い沈黙に包まれていた。
トリケラトプスはヴェロキラプトルを追い払ったものの、陰陽師たちには関心を示さない。
考えてみれば、植物食である彼らにとって、人間は何の意味もない存在であるのかもしれない。
トリケラトプスは、ゆっくりと森の奥へと歩みを進める。その巨大な影は霧の中で徐々に輪郭を失い、やがて遠く、深い白の帳に溶け込んでいった。
勘違いだったのだろう。しかし、それは推測の域を出ない。
篠宮凛は、動けなかった。
目の前には倒れた相沢さくらがいる――泥にまみれ、呼吸は浅く、意識は朦朧としていた。
このままでは危ない。助けなければならない。
だが、相沢さくらに関心があるのは、相沢さくらだけではなかった。
佐久間昴。そして、ヴェロキラプトル。
トリケラトプスに追い立てられた肉食竜達が、再び終結する。トリケラトプスを追おうとする者はいない。 強敵を狙い、返り討ちのリスクを冒すつもりはない。
新たな獲物に気を取られ、仕留めたはずの獲物を取りこぼす愚かさにも気づいた。別の邪魔者が現れないとも言い切れない――目の前に横たわる獲物をまず先に喰ってしまおう。それが、一番、合理的だ。
彼らの視線は冷たく、そして鋭い――今度こそ、食事を確実に確保するため、ゆっくりと包囲の輪を縮めていく。
「……待て!」
佐久間昴が叫ぶ。しかし、肉食竜に言葉は通じない。
ヴェロキラプトルは迷うことなく動き、牙をむき出しにして相沢さくらへと襲いかかった。
その瞬間――異常な光景が広がった。
相沢さくらの体は裂かれるはずだった。
鉤爪が深く食い込み、牙が突き刺さる。
だが、肉が傷ついたのはほんの僅かだった。
爪が皮膚を貫いたはずなのに、血は少ししか流れない。食いちぎられるべき筋肉は、少し裂けるだけだった。
この異様な現象に、ヴェロキラプトルの動きが一瞬だけ止まる。
だが、それはほんの刹那のことだった。
彼らは気にしない。獲物を食いちぎることができないなら、さらに強く咬みつけばいい――それが彼らの本能であり、生存の理だった。
そして、彼らの豪快な食事は続く。その割に、相沢さくらの身体は少しずつしか損傷しない。
篠宮凛は息をのむ。
「……何、これ……?」
その異様で――それ以上に残酷な光景に目が釘付けになる。少しずつではあるが、確実に相沢さくらの損傷は大きくなっていく。かつて、中国で行われたという凌遅刑――苦痛を長引かせるため、あえて肉を少しずつ切り落とす処刑方法は、こんな感じだったのだろうか。
佐久間昴は低く呟いた。
「透のときと、何が違うんだよ。」
風間透のときは、ポルターガイストが発生しなかった。しかし、今回は中途半端にポルターガイストが発生している。
「もう嫌だよ……こんなの」
篠宮凛の目に、涙が浮かぶ。生殺しという表現が最も適切で、中途半端に蓄積し続ける苦痛に、相沢さくらの声帯から、悲鳴の声が上がる。しかし、その悲鳴は、まるで大根役者の台詞のようであった。
肉体が苦痛への反射反応で機械的に出してしまっただけの声――魂の籠らない棒読みの叫び。相沢さくらの魂は、既に破壊されたあとだった。
ヴェロキラプトル達は相沢さくらの肉体を食いちぎることは出来なかったが、霊に関しては確実に食いちぎられ、霊で出来た胃袋へと送り込まれていた。
霊的エネルギーの塊に成り果てた相沢さくらの魂が、どんどんと食い減らされていく。
「待てって、言ってんだろ!」
佐久間昴が叫ぶ。
しかし、ヴェロキラプトルたちは待ってはくれない。彼らは獲物の身体に牙を立て、そのなかに宿る霊的エネルギーだけを噛み締める。
そして、束の間の食事が終わった。
ヴェロキラプトルの群れの中で、相沢さくらの体が灰となり――消えた。
過程こそ異なれど、風間透と同じ結果であった。
その場に残された者――陰陽師たちと捕食者たちは、それを見届ける。
霧の中に、ただ静寂が広がった。
次の瞬間、捕食者たちは思い出した。
次の獲物が残っていた――。
鋭い瞳が、佐久間昴と篠宮凛を捉えた。