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タイトル未定2024/03/25 13:15

参加者の構成・役割→権力体制の在り方(座次、礼制) 献上品→主催者の権威、在地社会の生業(献上品はその地方の特産物)

費用の支出→税制史の変遷

椀飯の物資供出は本来「自発的贈与」⇒垸飯役という「義務的租税」への変化

●幕府儀礼における贈与と負担

一献料・礼銭の納入…室町期、守護から荘園に賦課された一国平均役や守護役を回避するため、守護の奉行人に送られた~鎌倉時代:奉行人に対して、訴訟で有利な判決を引き出すための賄賂(盛本.1997)

盛本氏は、本来自発的・主体的な行為であったはずの贈与が恒例化することで、送る側にとっての負担へと変化していく過程に注目し、両者の類似性・不明確性を指摘している。

村落―都市間の、商売と納税の2形態での物流

贈与の形を取った収奪 垸飯役含む   

●幕府の税制・立法と社会構造の相関

幕府成立以前から北条氏は地方の国衙財政に貢献する有徳人だったとする見解(上杉.1994.p139)

「平政連諫草」第4条「固可被止過差事」 御家人の窮乏が、幕府財政に留まらず、朝廷を含めた国家財政全体を揺るがすと諫言している。

幕府立法による貨幣政策には限界があった:六波羅探題職員の金銭訴訟拒否に象徴的

代銭納・官位獲得のための成功銭 執権政治体制での成功制度整備 銭による価格設定が公武交渉間で為される 上杉和彦.日本中世法体系成立史論.1996

上杉氏は、御家人が官職を獲得する機会の少なさ、官職の価格高騰が青天井に成る事態の抑制を背景として指摘している。

上杉氏の言う、官職価格高騰の抑制が成し得た根拠とは。

成功銭の負担をきっかけとしたトラブルは果たして存在しなかったのか、再検討の余地はあるのではないか。

御家人役は軍役(大番など)と、関東御公事(経済的奉仕義務)の二系統に大別

更に関東御公事は 恒例役(垸飯・五月会流鏑馬役・大番役)と臨時役(造営用途など)、関東請負公事(一国平均役・成功など)に分類される 安田元久「『関東御公事』考」『御家人制の研究』吉川弘文館1981  

長楽寺文書新田朝兼・義貞売券に見える垸飯及びその他の恒例役は、当時の貨幣価値に換算しても、数千~数万円が相場であり、寧ろ御家人の大きな負担となったのは、異国警固・悪党対策の名目で課される、兵糧米銭などの臨時役だったのではないか。  臨時役の負担についての研究(七海雅人『鎌倉幕府御家人制の展開』吉川弘文館2001) 「臨時天直米」など、臨時役の負担は賣主 買主は恒例役のみ 違乱が生じた場合の損害分補填の担保文言(長楽寺文書86、87、88)⇒一見売主に不利なように見えるが、売却所領に対する売主の領主的義務が留保されており、得分の補填も、売主に経済的余力があったからこそ取り決められた(田中大喜.2011)

長楽寺文書の売券の特徴 在家畠が新田氏庶流に売却された場合、買人名を省略する慣行があったと考えられる(瀧澤武雄『売券の古文書学的研究』 東京堂出版2006)

御成敗式目二十五条「一、関東御家人以月卿雲客為婿君、依譲所領、公事足減少事」 貞永年間(1232~1233)には、御家人の所領に応じた公事の制度が確立していた(安田.1981)

関東御公事=京都への公事とは別系統のもの 書状での初見(安田.1981)貞応2年(1223)大友能直譲状(志賀文書 『鎌倉遺文』3170)史料上初めて明確に「関東御公事」の表現有り 恒例化・制度化は、承久の乱後のこの時期に御家人統制強化の一環として行われたと安田氏は推定=御家人に対する一般的な経済負担の制度として成立 関東御公事に関する幕府の追加法七条目のうち、寛元年間の2つは重要(他は元寇以降)

弘安以降、鎮西では関東御公事が恒例化 東国でも鎌倉末期には恒例化を実証する史料が見られる(長楽寺文書 正和3年5月28日 新田朝兼沽却状) 関東御公事は原則として銭納(安田.1981)

寛元年間は泰時の死去・経時による執権政治確立・幕府統治の安定が目指された時期 御成敗式目二十

五条の立法精神を継承し、「関東公事」の勤仕についての原則を初めて支持した法令 (「中世法制史料集」第一巻 追加法210・237条) 


◎肥前国守護武藤資能施行状案(青方文書):文応元年(1260)、臨時役を停止 弘長年間(1261~64)、臨時役、垸飯役の百姓転嫁禁止を豊前・肥前・筑前・対馬国の地頭に下知している(21号、22号)

この頃の青方文書は殺生禁断令を頻発(18、19、)

弘長元年少弐資能施行状案

同年2月30日の弘長新制に当たって出された関東御教書の施行状案 

嘉元4年7月峯貞陳状案

弘長新制に関して出された「御家人役勤仕所見状」に対し「此条僻案也」とした上で、「百姓臨時役并替物垸飯停止事」については、「非此沙汰要書等」と述べている。

御家人では無く、「百姓臨時役」と記されていることの意味には慎重な検討が必要である 此処で述べられているのは関東御公事とは別系統の百姓宛の賦役の可能性あり

殺生禁断令に続くかたちで臨時役・替物垸飯の停止 

六斎日の慣習・異国警固番役への専念 

賦課が実施されていたかは微妙


上杉氏は、幕府及び朝廷が求める公事について、朝廷から賦課の権利が幕府に与えられたというよりも、先行的に存在した、将軍と家人の間の収取の実態に朝廷が依存したものであるとの考察をしている。(上杉.1994.p127)

筧雅博「鎌倉幕府掌論」『三浦古文化』NO.50 1992 関東御公事が賦課される基準が相伝の私領と恩領によって区別されており、垸飯役は恒例役として御家人が負担

●垸飯の意義の変遷 習俗としての垸飯は平安期、公家社会の祭礼行事の際、饗宴とは別に下級役人に振る舞われた軽食 

垸飯の民俗学的視点からの研究としては、早い段階のもので柳田国男・折口信夫らによる論考が挙げられる。(折口信夫「正月の儀式」『折口信夫全集』30巻・柳田国男「食物と心臓」『定本 柳田国男全集』14巻) 共同飲食の習俗としての垸飯の祝犠牲について、その作法に着目して分析している。

垸飯の起源 二木謙一(1985)「儀礼としての垸飯は、関東に発達した」「地方に帰省した役人が、都で体験した垸飯の味を懐かしんだ事に起因するのかも知れない」と想像 また、平安末期の地方において、新任の国司到着を歓待する在庁官人らの饗応として、垸飯が行われた 二木「東国の在庁出身である頼朝陪臣の豪族達が、この風習を元にして自分達と頼朝の主従関係を緊密にする意味を込めて始めたのではないか」

後の幕府勢力に於ける当初の垸飯は、祝日毎に有力豪族が頼朝に献じていたが、正月恒例の行事としては文治年間(文治二年正月三日、鶴岡八幡宮参詣から帰宅後)から始まったと思われる。 吾妻鏡の記述に拠って辿ると、建久2年以前は正月吉日の一日だけ やがて三が日、旬日に渡って行われるようになっていく。

*先行研究 垸飯を幕府内の身分秩序を表現するものと位置づける風潮があった 八幡義信・村井章介・永井晋:垸飯負担者の列記・変遷の分析→政権内部における勢力の動向を考察する政治史的アプローチ

政治的画期(将軍独裁→合議制→執権政治→得宗専制)との照応が注目 この方法に対し、盛本昌広氏は、従来未解明であった垸飯自体の実際的な執行状況や負担構造に着目し、費用の調達システムや贈答物の流れを踏まえ、礼制史・経済史的観点から検討を加えている。(盛本.1997)


盛本氏の論考では、垸飯の座次を通した御家人間の身分制や、贈答品の流れについての考証が詳しく、この点から描かれ得る展望については後に詳述する。

また氏は、垸飯が鎌倉中期以降奢侈化するに従って、費用の負担が御家人経済を圧迫していく様子や、垸飯用途が、自身の得分からの捻出が困難と判断した御家人により所領の百姓に転嫁された実態に触れ、「鎌倉幕府の年中行事を村落が支える構造が一部ではあるが存在した」と、幕府が村落社会に与えた影響についても分析を加えている。このような鎌倉幕府垸飯における費用の負担構造が、室町期にどの様に変化したのかとい実態の分析が、今後の課題である。


 室町幕府・鎌倉府の垸飯研究としては、 室町幕府:平山鏗次郎「鎌倉府年中行事」『史学雑誌』20編2・5号、山本信哉・有馬敏四郎「武家の儀式」『日本風俗史講座』、桜井秀「室町幕府年中行事」『風俗史林』第2号→史料に基づいた編年的な記述に留まり、意義や性格にまで触れてはいない(二木.1985) 二木氏は、義満期が武家儀礼の1つの画期となった要因について、両朝合一など、世相が安定したこの時期において、武家の権威の向上・義満の公家化・有力武家の高位高官への任命等に伴い、その身に相応しい儀礼の必要性が求められたことといった従来の指摘(田中義成『足利時代史』・臼井信義『足利義満』・藤直幹『中世武家社会の構造』の研究に基づくが、原本には当たれてない)に加えて、義満期には、従来の公家儀礼への憧憬・受容に留まらない、武家中心の新たな儀礼的世界を形成したことを経緯として想定している(二木.1985)。

 鎌倉府:峰岸純夫「東国における15世紀後半の内乱の意義」『地方史研究』66号 1963、田辺久子「年中行事にみる鎌倉府」『神奈川県史研究』49号 1982、着装規範に着目して論じた杉山一弥「『鎌倉年中行事』にみる鎌倉府の着装規範―鎌倉公方の服飾を中心として―」『日本家政学会誌』58号 2007などがある。→費用の捻出方法など、室町期垸飯の負担構造には未解明の部分が多い


桃崎有一郎「中世武家礼制史の再構築に向けた鎌倉幕府垸飯儀礼の再検討」(遠藤基郎編『生活と文化の歴史学 第2巻 年中行事・神事・仏事』 竹林舎 2013)

同、「鎌倉幕府垸飯儀礼の変容と執権政治」『日本史研究』613号 2013 垸飯の性格を「同じ主君を共有する『傍輩』間の紐帯確認儀礼として幕府に導入された廷臣の慣習」とし、北条氏による沙汰人独占は、「傍輩集団の事務局長(執権)を北条氏が引き受けた形を強調した、北条氏主導体制への反発防止策」と論じた。


*鎌倉幕府垸飯の諸相 

鎌倉中期以降、正月三が日の垸飯が恒例化し、北条一族が勤仕している。諸御家人から馬の献上(北条氏以外の役割も大きい)、千葉氏による御所垸飯費用の負担(中山法華経寺紙背文書)資金調達のための所領を質入れしたり、借金の取り立てに追われる代理人の様子が見える(本郷.2012)  幕府後期、安達泰盛の弘安徳政で正月三が日以外の垸飯が禁止される(鎌倉幕府追加法、三六一・三六二条)などといった、儀礼全般の奢侈を抑制する目的での禁令が出されるようになるが、効果は乏しかった。(中世法制史料集 鎌倉幕府法)  垸飯用途の賦課が確認出来るのは関東近国(上総・越後・上野・下野)に限定されていた。 鎌倉後期の関東御公事の賦課地域拡大の中で、関東圏外でも賦課された可能性は否めない。→賦課事例の検出が必要→◎肥前青方文書の記述の分析  垸飯の主催者として、幕府と地頭の二種類が存在(鎌倉幕府追加法、三六一・三六二条) 

正月垸飯の負担増大:「政所など幕府機関の役所や下級役人による正月の酒肴を三が日に限定」=幕府の下級役人(侍所雑仕・小舎人・雑色など)が正月や「便宜之時」に御家人邸を訪れ、饗応を強要するという事態が発生していた(鎌倉幕府追加法、三八四条)。これは幕府垸飯に対する個人的な垸飯の部類に入り、同条で禁じられている。

しかし、役人の御家人訪問は「但行向奉行之許事、非制限矣」と鎌倉幕府法三八四条に見えるように、必ずしも私的な名目での訪問ではなかった様で、公務としての御家人訪問の際の饗応は、違法では無かったようである(盛本.1997) 。公務として饗応を受けた一例として、小侍所の使者が、将軍御行始の供奉人に決定した御家人の屋敷を巡回する公務の際に、訪問先で御家人から饗応を受けるている。このように、下級役人の公務中に接待を受ける慣習があるとすれば、他にも公務だと偽って饗応を命じた事例も少なからず存在する可能性はある。→それらをあぶり出し、個人椀飯とされた饗応の内実を明らかにする作業が課題


公的・私的な垸飯両面での出費で御家人が困窮したという認識は多くの研究者が共有するところであるが、このように公私が不明確な形態での饗応が存在したことを忘れては成らない。→饗応の手順・礼節面での違いは在るのか。  桃崎:「親しい傍輩間の親睦を目的とした個人垸飯が、『傍輩』たる御家人同士の紐帯を確認する役割を果たした(日本史研究2017.10)」と述べたが、個人垸飯の中にも、半強制的・消極的なものがあり、垸飯に対する御家人側の認識は、無意味と感じつつ消極的に参加した「公」と、有意義であると自認し積極的に行った「私」の二分では割り切れないものがある。

上述した下級役人等にによる饗応強要を、仮に「消極的な私的椀飯」と分類するならば、「積極的な私的椀飯」とは何であろうか。→「旅籠振る舞い」との関係性 こちらも弘長新制などで禁止

*垸飯負担の手続き…鎌倉在住の奉行人が用途を立て替えて幕府に支払い、本国にその費用を請求 

*垸飯の座次:初期は原則として長幼の序+頼朝により、朝廷から与えられた位階も考慮して取り決められた(盛本.1997)。文治2年正月垸飯の際、五位の千葉胤頼が、父常胤の正面に座ったことが御家人間で物議を醸したことから、位階が座次によるという認識が当時の御家人感には薄かったとも考えられる(上杉.1994)。 頼朝が定めた「自筆式目」で儀礼の場での座次を制定(詳細不明)。『吾妻鏡』に遺された2つの正月儀礼に関する記事では、決してその座次は位階によるものでは無く、寧ろ北条氏が上位を占めている状態である。正安元年(1299)、垸飯座次で「初めて」位次を基準にすると制定(武家年代記)。

上杉和彦:幕府が朝廷の政治決定に積極的に介入しつつあるこの時期の情勢を踏まえて「将軍御前の御家人の座次に朝廷側の伝統的一般基準を持ち込もうとする幕政担当者の動向の到達点」と論じている。 それ以降の正月儀礼の座次がどうなったのか、現存史料からは不明確 否定も肯定も出来ない 垸飯の座次規定は、頼朝の自筆式目に書かれた内容が慣習的に継承されたが、それは家格・位階、此処の御家人勢力の盛衰により、かなり流動的であったと推測できる。 自筆式目は賦課台帳としての機能も持っており、この「式目」に記載された御家人は、垸飯への出席権を獲得すると同時に、垸飯費用を負担する義務が発生した(盛本.1997)。 

*垸飯の互酬性 垸飯の際、将軍に引き出物(武具・馬具・馬など)の献上 将軍への引き出物の献上により、列席者に献上者が有力御家人であると認知させる効果があった。理論的には、政権の儀礼が担う役割として古代から連綿と続く、「貢献と賜与」の互酬関係(儀礼の互酬性については、桜井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』中公新書2011に詳しい)が成立しているように見える。 

垸飯に際して将軍から御家人達に餅が献上されたという記録もある(『神奈川県史 資料編 古代・中世2』2480)。

この将軍が下賜した餅は、公事として百姓から将軍に上納された物であった可能性がある。鶴岡八幡宮修正会の際に幕領の村落から壇供餅が上納され、その後関係者に下行=神仏への公事が将軍に転化

室町時代に継承 将軍御成の負担の返礼として美物の下賜が見られる(看聞日記など)。 この際の負担の費用と返礼品は現代人の感覚では釣り合いが取れないが、当時の君臣関係においては、互酬関係が貫徹していた 私の憶測であるが、その遠景には、将軍からの「下賜」という行為自体が特別であり、それが臣下としての権利の保護や所領の安堵といった、負担者側の長期的・持続的なメリットに繋がるという了解があったのではないか。

年頭の正月儀礼には、君臣間の服従・庇護の関係を更新する役割があったのではないか。 この様な将軍側の権威あっての儀礼であるため、戦国期に衰滅したとも考えられるのではないか。

*室町期の正月垸飯:意義・性格を分析した研究は少ない 二木謙一「室町幕府歳首の御成と垸飯」 歳首椀飯…幕府が安定を迎え、三管領・四職などの幕府職制が定まった応永期の成立か 鎌倉幕府の年中行事を概ね踏襲しているが、鎌倉期には明確で無かった垸飯を行う式日・沙汰人の家系が策定されている。 二木「垸飯は室町期に入ってより儀礼的性格を強めた」  二木氏の執筆時点では年中行事としての成立、式日・参列者の制定に関する詳しい史料が不足しているため、的確な比較が出来ていない 近世以降では単なる饗応を意味する言葉としても用いられる 単なる饗宴の際の食事に始まり、中世を通して儀礼的な側面が増長し、近世以降にかけて再び饗応を表す言葉として単純化した

馬や馬具の献上(吾妻鏡).一回当たり5頭が基本 垸飯の後の御幸始にも馬が献上 将軍に献上された馬を管理する御厩みまやなる機関が存在し、将軍主体の贈答儀礼の際に、御家人へ下賜された

=贈答物の循環機能を垣間見る事が出来る。 室町時代になると、年頭に将軍が家臣邸や寺社へ御成した際、饗宴があり、多額の銭や高価な品物を献上させている。=合法的な徴税の一種 贈答を通して将軍が高価な金品を獲得する構造は鎌倉期と同一(盛本.1997)

●垸飯に類似する饗応・儀礼 年頭や節句など特別な機会に行われる儀礼と、それに関わる共同飲食・贈与は、日本史の様々な時空間で行われてきた そういった文化史の中での垸飯の位置づけとは何か。

*地方に於ける年頭儀礼の饗応を巡るトラブル 幕府垸飯と同時期に行われていた類似の饗応との関連の分析

三日厨・吉書饗・供給……荘園内で行われる使者への接待 中世、荘園で行われた、代官・使者の来訪や勧農・収納、年中行事の際の饗応 鎌倉中期以降、これらの饗応を巡る非法が百姓から訴えられる事例が続出  三日厨の強要・引き出物の責め取り 又代官(※中世、代官(小守護代・地頭代)などに代わって、その職務を執り行なった者。)の政所敷設を強要

周防国多仁荘:嘉禄3年(1227)2月百姓等解文 吉書饗は正月の吉書始に行われる饗応で、勧農や年貢収納の無事を祈る目的があった 吉書饗・乗船饗(送別会)における代官の非法 例年より多くの人数の従者を連れてきて、先例にはない、行事の遂行に必要な職人以外への饗応を命じた その負担が従来と比べて重すぎるため、 「新儀非分」として訴えている。他にも、百姓は、自分達の賦役に対して代官から支払われるはずの「養料」が下行されない事を非難している。荘官側による百姓への養料の未払い・着服はこの時代往々にして見られる(伊予国弓削島荘の雑掌は、百姓に下行する料物を支払わす、一方的に収納物の塩を責め取ったことを非法とされた)。

東大寺領播磨国大部荘:永仁6(1298)年百姓申文 預所の下向回数・従者の人数増加、年貢収納・未進分催促、東南院から東大寺への荘務権移行に伴う使者の増加により、饗応の負担が増大したと訴えている。

鎌倉中期以降になると、一国平均役催促の使者への対応を巡るトラブルが続発する。 大隅国島津荘・若狭国太良荘…それぞれ神宮造営用途の催促の使者による物資の責め取り 

この時期から、このようなトラブルが増えた理由として、盛本昌広氏は、その背景に悪党の乱入、年貢未進の増大による荘園経営の動揺が、必然的に代官・使者の往来を活発にしたと考察している(盛本.1997)。更に、饗応・贈答慣行が増えた背景として、百姓・代官それぞれの思惑を指摘している。大部荘に下向する人物への起請文→百姓は饗応を行って年貢減免を図り、使者は饗応を受けることで得分を確保出来、双方の利害が一致

荘園領主の枠外に於いて、饗応が日常的に浸透(盛本.1997)(盛本.2008)

荘園内の饗応における支出を巡る百姓と代官らの相克が、室町期に至ってどう変化していったのかに関する分析が今後の課題となろう。

御行始・御成時の駄餉だこう……将軍が従者の屋敷や所領に訪れた際、従者が主君に酒肴を献じる行為 行為自体は垸飯と同じ 注目すべきはその場所  盛本氏は「吾妻鏡」に出現する献上者が明確な例を表に纏めた(盛本.1997.p42~43) 将軍外出時、出先の所領を与えられている御家人が、その場所で接待 この場合将軍は、所領の給与者であり、客人である。 盛本:「駄餉を献ずる」とは、客人歓待と、知行充行という二重の意味を持つ奉公 盛本氏が集めた記事は全て吾妻鏡の出典 この表だけ見れば、駄餉を献ずる相手は、一例を除いて将軍に限られている様に見える。しかし、駄餉を献ずる行為は幕府の上層のみで行われた物とは言い切れない。→荘官と荘園領主、在地武士とその家人などが行った例は無いのか。鏡以外も含めた記事は無いのか。 盛本氏が纏めた表の中に、寛喜元年2月22日、三浦家村が、竹御所と北条泰時正室に献じているが、ここで始めて将軍以外の人物に献上が行われている。竹御所は九条頼経の正室であるが、彼女と共に執権泰時の正室にも駄餉が献じられている。この変化をどう読み解くのが正しいのかはこの場では判断しかねるが、いずれにせよ、これ以降将軍が遠方の御家人所領へ出かけることが少なくなり、駄餉を献じる記事が少なくなっていく。代わりに、方違の目的で、鎌倉内の御家人邸に将軍が渡御する事が恒例化し、その際に式三献や引き出物の贈答が行われるようになる。 垸飯と駄餉は別の饗応(桃崎.2013)

旅籠振舞……旅籠振舞=広義では客人接待の宴会

盛本(2008)……「鎌倉と本領を御家人達が頻繁に往復したため、必然的に機会が増加」

:饗応の主催者は誰か 平安末期~鎌倉=旅をしてきた本人 (参上した御家人が主催か)

→中世後期~近世にかけて、旅人を「迎える側」が主催者へと変遷


*椀飯始め、贈答儀礼の肥大化が鎌倉幕府による統治の瓦解に何処まで影響を与えたのか。

鎌倉幕府末期の儀礼の肥大化・贈答の奢侈化 


二木氏や桃崎氏による垸飯意義・性格の捉え方は、革新的だが、資料の有無・状況証拠から導き出される両氏の想像力に依るところが大きく、新史料1つの発見や、偽書の発覚で簡単に覆る可能性が高い。

桃崎氏による、幕府垸飯が「紐帯関係確認儀礼」とする論は、公私概念が不明確な垸飯の諸相を踏まえた上で、従来の服属儀礼(厳密には主従関係確認儀礼)や、形式的な接待としての側面を再検討していく必要がある。また氏は、垸飯役自体が幕府という統治機構の根幹に関わる打撃を与えた訳ではなく、『御家人皆傍輩』理念の整合性の欠如に留まったとしているが、垸飯の負担を担った千葉・新田などの有力御家人が、費用調達のために所領の質入れに走ったこと、得宗家と血縁・経済的に深い繋がりがあった新田氏が、最終的に幕府転覆に加わることからも、垸飯役賦課の実体的側面は、幕府の統治構造に大きな影響を与えていた可能性がある。

●御家人役の百姓転嫁

在地転嫁の早い例:建保4年(1216)閑院殿造営・関東御堂釘など臨時公事の土民賦課/安貞元年(1227)土御門上皇の阿波国新御所造営用途/寛喜3年(1231)安嘉門院御所造営 朝廷・国家的行事に対する賦課に土民を巻き込むスタイル→いずれも禁止 其れ其れ特殊な個別事情がある 京都大番役・京上役(鎌倉幕府追加法300、369条)は、一定量の百姓転嫁を幕府が容認 垸飯役は禁止→繰り返し禁令が出ていることから、実際は転嫁が恒例化していたと思われる 将軍を直接の対象とする奉仕の転嫁禁止 大番役=国家的奉仕のため、転嫁を容認 垸飯役=幕府への奉仕のため禁止 盛本(1997)「幕府への奉仕である垸飯役の百姓賦課を幕府自ら否定したことは、幕府の国家内の権門としての位置づけが鎌倉時代には低かったことを示している」→幕府側の自己認識か、それとも朝幕間、或いは凡下も含めた世間的な共通認識だったのか。

*盛本(1997):幕府は儀礼の縮小化による支出削減及び、それら御家人役の転嫁を禁止を同時に行うことで、御家人と百姓双方の負担を減少させることを図ったと予想。しかし、同種の追加法が繰り替えし発布されている事から、その試みは成功しなかったと推察している。 盛本氏が素材とした史料について高橋典幸は批判 長楽寺文書の売券 用途は買主の負担 是を以て在地転嫁されていたとは言い切れない(高橋.1998)

上杉和彦(1994)……大番役の在地転嫁:「大番役については、その重要性に鑑みて在地転嫁の全面禁止が出来ず、野放図な在地転嫁を防ぐ必要から定額化が図られた」 在地転嫁の背景:「貨幣流通による経済の活性化が地頭御家人間に格差を生み出し、幕府からの賦課に応じることが困難と判断した御家人達が、安易に銭貨を調達しようとしたため」 

高橋慎一郎(1996)……「御家人は大番役という身分固有の役を勤める機会を利用して、村落の均一支配への実現を目指した」 「百姓之志」=自発的扶助の形を取った徴収

正嘉2年3月28日御教書 将軍上洛の費用に充てるため賦課された御家人役の土民転嫁は、逃散を生じさせる 返付を命じる 吾妻鏡弘長3年 上洛費用が「百姓等所役」と明記  御家人役の在地転嫁が、実際どこまで幕府の権力基盤に影響を与えたのか。 公武双方に大きな意味のある「将軍上洛」の費用 摂家将軍・皇族将軍の上洛が百姓に多大な賦課をもたらすという理由により、「撫民」の目的で上洛が中止する事態が続発(上杉・盛本)


走湯山造営用途の様に、既存の事業が幕府に吸収され御家人役として再編された可能性を指摘(高橋.1998)=元来の国宛・一国平均役としての性格が生きている?


吾妻鏡宝治元年(1247)八月一日条、弘長元年新制(1261)で八朔の贈答を停止する命令 東国では13世紀中葉には八朔の贈答が一般化していた(本郷.2017)

◎大番役の銭納

*御家人役の代銭納→何故? 京での貨幣経済進歩・現物の高額取引→京都での価格を基準として大番役の反別銭を算定(東寺領若狭国太良庄)


●大番役の在地転嫁に関する一考察

高橋典幸の見解   鎌倉幕府追加法三三三条 大番用途の在地転嫁は公武両支配者層の了解事項であった(高橋.1998) 

勘仲記永仁二年正月紙背文書「七月五日六波羅御教書」 平田荘地頭代が忠行法師の大番用途対捍を六波羅探題に訴えた ロ探題はこの事件を公家側に申し入れて、その解決を図っている=大番用途の在地転嫁については公家側も合意を与えていた(高橋.1998) 

→建治元年三月十四日円満院公文所注進状并御教書案 紀伊国阿氐河荘地頭の非法を本家円満院に訴え、円満院が地頭に尋問し、地頭から提出された請文を円満院が公文所に検討させた回答の文書

問題の篝屋役は大番役に准じるものであるが故に土民は拒否できない=大番役の在地転嫁が荘園領主レベルでの合意を得ていた(高橋.1998) 


弘安以降、鎮西では関東御公事が恒例化し、東国でも鎌倉末期には恒例化を実証する史料が見られる(長楽寺文書 正和3年5月28日 新田朝兼沽却状)。

盛本昌広氏は、垸飯役の賦課が確認出来るのは関東近国(上総・越後・上野・下野)に限定されていたとしたが、鎌倉後期の関東御公事の賦課地域拡大の中で、関東圏外でも賦課された可能性も否めないとしている(盛本.1997)。賦課事例の抽出は今後の課題でもあるが、関東圏外への垸飯役賦課を示す史料として、『肥前青方文書』の2つの書状が注目される。1つ目は「弘長元年少弐資能施行状案」である。この史料は垸飯役転嫁禁止の弘長新制を在京・西国御家人向けに発令した関東御教書(追加法398~400条)の施行状である。此処では、「百姓臨時役」「修理替物」「垸飯役」を、「鎮西諸国に伝達させる内容である。2つ目は「嘉元4年7月峯貞陳状案」である。この書状では、弘長新制に関して出された「御家人役勤仕所見状」に対し「此条僻案也」とした上で、「百姓臨時役并替物垸飯停止事」については、「非此沙汰要書等」と訴えている。

桃崎氏は、青方文書の記述から西国・鎮西にも垸飯役は賦課されており、全国的な地頭役だったとする見解を示した(桃崎.2017)。しかし、青方文書も含めて、具体的な賦課の内容が分かる史料が充分でない事が、今後の課題である。現状研究で扱われている史料は、垸飯役の百姓転嫁禁止に関するものばかりで、御家人役としての様相が漠然としている。また、以上取り上げた文書に於いて、臨時役は、「御家人」臨時役では無く、「百姓」臨時役と記されている。「百姓臨時役」の言い回しや、嘉元4年の陳状で「百姓臨時役并替物垸飯停止事」を「非此沙汰要書等」と訴えている事、御家人役として賦課されている様子が分かる史料が少ない事を踏まえると、鎌倉後期に於いては垸飯役が公式の百姓役として賦課される事例が存在した可能性も否定は仕切れない。


●七海論文「鎌倉幕府の安堵体系」『鎌倉幕府御家人制の展開』吉川弘文館(2001)

鎌倉幕府の安堵の関する研究 笠松宏至「安堵の機能」『中世人との対話』1997 「消極的な意味での回復」

沙汰未練書 外題安堵法 沙汰未練書が作成された時期(1320~1322頃)の鎌倉幕府安堵の一般的な形態は、父母の所領を相続し、その知行を幕府が認定する譲与安堵であった(七海.2001)

七海氏は沙汰未練書方式による安堵状発給の方法が建武・室町政権へ継承された事は、末期鎌倉幕府の得宗専制体制が、次代の政権に連続するものであるとする網野善彦「鎌倉末期の諸矛盾」『悪党と海賊』らの先行研究の解釈について、幕府崩壊という現実の現象の理由を考えるためにも、末期幕府固有の幕府の位置づけを、御家人正内部の分析を通して考察している。(七海.鎌倉幕府御家人製の展開.2001 p18~55)

鎌倉幕府の譲与安堵は、本来譲与者(本主)の得分親(譲与者遺領の法定相続人)間における被安堵者の当該所領書式保持の証明として機能=鎌倉殿との関係を軸とする得分親間秩序の整序機能

鎌倉後期、旧領の回復・関与を主張する第三者の妨害排除実現のための法的根拠として実行力を発現する事例が確認 安堵の属性はあくまで御家人正内部に置いて機能する主従関係認知システム

=訴訟の「切り札」としての安堵効力の発現は、「沙汰未練書方式」の形成と不可分の関係にあったと想定

建久年間以降、安堵の中心は旧領回復安堵・当知行安堵から譲与安堵へと移行 譲与安堵の主流化→幕府成立期に盛行した当知行安堵の申請は、規制されていく傾向を強める(御成敗式目43条)

「13世紀中葉以降、鎌倉幕府の安堵といえば、一般的に贈与安堵を示す状況が形成されていった」(七海.2001.p33)

御家人製の安定化・幕府成立期に下文を給付されなかった西国・九州の國御家人に対しても安堵状に代替しうる証文の給付を行う動向→定型化された安堵状で無く、『関東御教書に留まる』=地域差別化

関東御教書型証文の出現と消失=西国・九州御家人制の幕府の政策転換の中で把握されるべき 七海氏は、宝治二年の京都大番役に関する政策転換に注目  

西国の名主庄官等が大番役に参加して守護覆勘状(鎌倉時代、御家人が大番役・異国警固番役などの勤務を終了した後に、勤務者の属する国の守護・守護代などが勤務者に対して発給した勤務完了証明書)をもとめる現状に対し、御家人への追加認定は一部の例外を除いて行わないことを表明(吾妻鏡宝治2年1月25日条)→無秩序な御家人制の拡大を規制する政策志向の中で捉えられる現象

西国・九州御家人にも御家人認定の証文を発給する体制が形成されたが、西国・九州御家人の限定化の再確認という政策基調によって、発給が停止

→十三世紀中葉にひとまず完了したとみられる御家人役負担単位の確定化・固定化という問題も関連しているのでは無いかと予想(七海.2001.p36.注56)

安堵状給付に伴う贈与行為 三浦一族が贈与安堵状給付の返礼として将軍九条頼経・執権北条泰時に進物を贈っている(吾妻鏡仁治元年4月12日条)=鎌倉殿と執権が、安堵状給付の主体となっていた

七海氏「宮騒動までは、鎌倉殿が依然、安堵給付の実質的な主体として機能していた」  (七海.2001.p36)

1270年代後半までには、安堵奉行の管轄の基、沙汰未練書方式による譲与安堵状発給の手続き方法は成立していた(七海.2001.p37~40)

1270年代前後の剰余安堵状の特徴

➀惣領には下文の給付、庶子には下知状の給付=安堵状を様式的に使い分ける体制の採用(1271~87) 安達泰盛の御家人制構想の反映=惣領・庶子関係の明確化とする説(注67.青山.1986)

➁安堵状の年号部分の裏側に、安堵奉行の自署が書き込まれる例が見られ始める=安堵状の発給に於いて、手続き上の責任者を明確に示す姿勢が打ち出された=譲与安堵状発給手続きは完全に安堵奉行の管轄下に入ったと見なせる→13世紀末には六波羅・鎮西探題で、沙汰未練書方式に基づく手続き作業が行われるようになる(七海.2001.p40)

13世紀末以降の幕府譲与安堵申請関係史料の多くが、贈与者没後の申請と考えられる=譲与者死亡後に被譲与者が申請する形態が一般化していくと氏は推定(七海.2001.p42.注73)

幕府の安堵が本主の悔い返し権の規制から解放されたことを意味する=譲与安堵の効力が、より有効に発現できるための前提


3「外題安堵の採用」p43~=御家人役負担と所領安堵について ⚠未読(2023/09/19 19:20)



在地転嫁された御家人役の定額化の基準は何か。 御家人の場合、所領面積に応じた賦課 百姓・非御家人は?


桃崎:垸飯沙汰人は裏方の事務局長 「傍輩」原理を意図的に強調し、執権政治への反発を回避しようとした執権側の配慮・生存戦略(桃崎.2013)→執権政治の質的転換


垸飯用途の負担 恒例役として惣領が負担 「茂木知宣置文 鎌倉遺文11ー7977」、長楽寺文書など

『新潟県史』資料編4中世二、2112号 正慶元年(1332)年、(小泉氏か)持長請取書状案「鎌倉御垸飯用途」七七七文⇒翌年最後の垸飯に課されたものか(鎌41―31944)=年始垸飯は、鎌倉幕府滅亡まで継続したと考えられる  ★越後国小泉庄の御家人=安達氏など、得宗勢力の拠点 得宗勢力が日本海側の交通の要衝に権益を持っていたことは、細川重男・清水亮氏らの研究で指摘されている(『鎌倉幕府の滅亡』.吉川弘文館.2011p86・87)(清水.2007.p123~140) ★私見:得宗家及び幕府末期の特権層の所領は、得宗家が主体的に行った、鎌倉幕府末期の幕府儀礼の基盤になっていた 

東北(陸奥・出羽)の冷害→経済破綻・統治困難 有徳人の登場→所領から納入される年貢に加え、年貢輸送を中心とした物流に関わる富を蓄積→御内人の有徳人も→経済格差の深刻化(永井.2022)

元亨四年(1324)下総国下河辺庄(金沢氏関係の所領)公事注文「垸飯用途」「元三用途」=金沢氏が奉仕した垸飯役に用いられたものか『新編埼玉県史』資料編5中世一、218号

●鎌倉後期~得宗専制期の垸飯

(桃崎有一郎「得宗専制期における鎌倉幕府儀礼と得宗儀礼の基礎的再検討」『鎌倉遺文研究』41 2018.4)

史料『建治三年記』『永仁三年記』『親玄僧正日記』『鎌倉年代記裏書』『鶴岡社務記録』


*『建治三年記』……問注所の執事だった太田(三善)康有が、自分の日記から建治三年(1277)中の68日分の記事を抄出した書物。内容は、康有が公務で係わった事柄を記してあり、『永仁三年記』と同様に実質的には幕府の公務日記とみることができる。時期が文永・弘安の役の中間にあるため、幕府政治の動向を示す記事が多い。

*『鎌倉年代記』……鎌倉時代を扱った年表。元弘元年(1331)ごろ原型は成立し、まもなく追記・裏書などが記入されたと推定される。編者は鎌倉幕府の吏員か。所々に朱で書き込まれた記事には、幕府の追加法や機構編成に関するものが多いのも貴重である。それぞれの年代に相当する裏の部分には、その年に起った事件を『吾妻鏡』ほかの書物や編者の見聞をもとに一筆で書き込んでいる。このなかには通史のない鎌倉時代後期の幕府の政情や鎌倉内外の情勢を伝える記事が多い。編集された年と思われる元弘元年の裏書は十数項目にも及び、他の年に較べ一段と詳細である。

(国史大事典より抜粋)


正慶元年(1332)年、(小泉氏か)持長請取書状案「鎌倉御垸飯用途」七七七文⇒翌年最後の垸飯に課されたものか (鎌41―31944) =年始垸飯は、鎌倉幕府滅亡まで継続したと考えられる

★『鎌倉年代記裏書』正安元年(1299)条、執権貞時期:御家人が東西に別れて御所庭上の筵に着する庭儀の座次を、位階順に定める整備が為された⇔時頼期:庭儀の座次は北条氏が筆頭で、家格を位階に優先させた序列

=貞時は、北条氏に有利な規準を敢えて放棄したことになる(桃崎.2018)

『鎌倉年代記裏書』正安二年10月条 越訴奉行廃止・御内人五人に委託し、裁決権を掌握=独裁化傾向

得宗は庭儀に不参加=位次の影響を受けない 他の北条氏一門は血統的特権を奪われ、一般御家人と同じく位階で処理 御内人は家格では北条庶子に劣るが、位階では他の御家人と比肩し得る→要検証

桃崎:「北条氏庶子家に不利で、御内人に有利な秩序を儀礼の場で実現する、得宗家への権力集中の一環」

得宗勢力への権力集中という現実の権力体制を儀礼の場で表現可能になった 

平禅門の乱(1293)の後、嘉元の乱(1305)の前 →嘉元の乱以降はどうなったか。位次?家格?曖昧?

*恒例年始行事の臨時開催

鎌倉幕府垸飯は、専ら年始に集中して行われ、時頼期以降は完全に年始の恒例行事と化した

例外的に、惟康親王の新居移徙いしに伴って行われた(『建治三年記』7月19日条) 同じ時に臨時で行われた年始の恒例行事として、吉書・評定始・的始・御行始が挙げられる。=将軍移徙が年始と同様に重要な「時」の区切り目と認識された

*源頼朝の最初の移徙に際して行われた後の主要年始行事の形式を、忠実に踏襲している=鎌倉殿の再出発を強調したい得宗政権の意志(桃崎.2018) 惟康期=将軍移徙に合わせた諸儀礼は、得宗権力強化の一環としての、幕府の原点回帰という理念を表示する儀礼として、将軍の存在を顕示する機能を果たしていた

時宗~泰盛・頼綱初期:惟康親王の源姓を称するための臣籍降下、正二位・右大将=頼朝の再来演出をされようとした(細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史』日本史史料研究会企画部 2007)

平頼綱期:二品親王宣下。一度臣籍降下した皇族の親王宣下は異例 源氏将軍という関東で生じた権威より、王朝的な権威に転換=朝廷への急速な接近姿勢 御内人・飯沼資宗の叙爵→諸大夫へ=官職で貞時に比肩→得宗貞時→公卿へ=惟康に比肩→惟康を皇族へ 得宗が公卿に昇れば、家臣の御内人が諸大夫に昇る官途が開ける。

頼綱前期:弘安徳政からの路線変更・政治改革→後期:朝廷へ接近、法令の減少・抽象化、場当たりで専制的

「(頼綱は)得宗・将軍を王朝身分によって荘厳にし、これらを支える自身の権力基盤を荘厳にしようとしていた」(細川.2007)=平頼綱一門による、自身の価格上昇工作 持明院統への接近・子息資宗の王朝身分昇進

★他の正月儀礼の役負担

*的始:源氏将軍期は、射芸の披露を通して鎌倉殿及び射手役御家人の君臣・傍輩関係の確認儀礼→武芸の相伝という形で東国御家人の恒例役として賦課される負担形態となる=個人的な射芸の披露の場から、特定御家人に対する形式的な儀礼の負担へと転換→他の年中行事・軍役負担が(かさ)んだことで、辞退する傾向→親王将軍期:射手の故障辞退続出(『吾妻鏡』建長五年一月九日条)、「自由対捍」の取り調べ(文応元年十二月十六日条)、明年の射手について、故障の申し出を認めないと議決(文永二年十二月一八日条)→得宗専制期には、得宗が的始の実務を取り仕切り、射手役を北条氏被官が独占する現象→射手役を北条氏被官が務めることによって、参仕者が負担を忌避したい場合であっても、得宗の意向によって強制的に務めざるを得ない状況が生まれる。

鎌倉殿の臨席は必須(「御的日記」嘉暦二年の的始は守邦親王重服のため中止)→年中行事その他の儀礼に於ける「祭祀王」としての鎌倉殿の権威は、鎌倉末期に至っても健在であった 七海「儀礼の秩序維持を担保する機能装置」として鎌倉殿の臨席は必須

(七海.2001.p189~p190)


*放生会:★時頼期 放生会役の不勤仕問題、厳重な禁令にも拘わらず、「鹿食」など理由付けで横行

=鎌倉殿の権威の変化「武家の棟梁→祭祀王へ」(永井.2019)

時頼の幕府儀礼に対する態度:本来的に参仕義務があるが難渋する御家人を、理非・説得で押し切る姿勢(桃崎.2016) 『吾妻鏡』建長四年八月十四日条 宗尊親王が病気のため参宮せず 交名の供奉人も動員されず

建長二年(1250)12月7日条、「召文違背罪科」成立

建長五年七月十七日条・建長六年七月二十日条 宗尊が参宮するも、故障辞退者続出

建長五年追加法276条(4月25日)数度の催促に難渋する論人に対し、交名を注進し処罰する方針へと強硬化

建長八年6月5日条、「御教書違背之咎」に所領没収刑 刑罰の明記・厳罰化

→理非判断の強硬姿勢(佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店2001.初出1988)

建長八年6月5日条=裁判に於ける判決不服従の問題として現れる

建長五年8月2日条=幕府儀礼(8/15放生会)における参仕命令不服従の問題として現れる=御教書違背罪は、まず幕府儀礼興行の中で生まれ、後に裁判制度整備に転用された(桃崎.2016)→背景には御家人の幕府に対する不服従傾向=「召文違背罪科」が成立した建長二年は、幕府への不服従問題が多く顕在化していた事が、先行研究で指摘(桃崎2016)


★何故建長二年に御家人の不服従問題が顕在化したのか

*摂家将軍九条頼嗣の御所に伺候する武士の参仕遁避 『吾妻鏡』建長二年十二月二十日状・二七日条→正当な理由無き不出仕者を出仕停止処分・近習者名簿から除名→なぜこの時期に勤務意欲低下・多くの不参仕者が発生したのか=寛元の政変・宝治合戦による大規模な有力御家人・将軍与党の滅亡 「頼嗣の近習を排出すべき政治集団の壊滅・日常的な将軍近侍には政争に巻き込まれるリスクが高いことの認識高まる(桃崎.2016)

寛元の政変による九条家の失脚 頼嗣を支える存在は、絶対数と意欲両面で皆無に等しくなった


*上杉和彦「中世国家構造と鎌倉幕府」鎌倉幕府統治構造の研究 1994

鎌倉後期・一国平均役免除基準の明確化(三代御起請地・三社領・別勅保有)=本所の免除要求に大きな根拠

=賦課・免除を巡る紛争が激化し、朝廷は多くの免除認可を強いられた。

蒙古襲来・宗教権門保護の必要性→国家的臨時用途の賦課によって支えられるという意識→伊勢遷宮・一宮興行のため、保護すべき他の寺社権門に財政負担を強いるというジレンマ  大嘗会役など、天皇家の儀礼公事賦課の国衙領一元化の試みがあったのではないか(上杉.1994.p132)

→朝廷側の、地頭一円地からの幕府側収取へ依存する度合いの高まり

→武家領以外の所領に於ける幕府関与への依存 


●御家人役の先行基礎知識(国史大事典)

将軍の御恩(本領安堵・新恩給与)に対する御家人の奉公義務を指す言葉

☆大枠での類別

◎義務の内容による分類

○軍役

*戦時の軍役

*平時(の軍役)

○その他・関東御公事など……経済的負担


◎直接の奉仕対象による分類(鎌倉殿を直接の対象とするか否か)

★恒例役…鎌倉殿に対する本源的な奉仕・サービス(垸飯用途、鎌倉番役、大将殿御月忌用途、修理替物用途など)御家人と鎌倉殿の関係に密着した役

★臨時役…鎌倉殿を直接の奉仕対象としない役 3つに分類 ➀幕府成立以前から存在し、改めて御家人役として吸収・再編されたもの(武士の職能に基づく 京都大番役・宇都宮五月会・諏訪社五月会御射山祭頭役など)➁朝廷・鎌倉殿への奉仕と見なせない、東国で独自に発生した役(鶴岡八幡宮・走湯山造営用途) ③鎌倉殿の権門的性格に即した役(朝廷に対する幕府・鎌倉殿の奉仕 関東請負公事など)


御家人役賦課制度の整備は、承久の乱の戦後処理段階で入手された定田の情報を基礎として編成されたと考え得る(清水.2007)(鎌9―6485)


青山幹哉「鎌倉幕府の『御恩』と『奉公』」信濃39ー11 1987


◎在地転嫁の有無による分類(高橋典幸が新たに提示 高橋.1998)

所領内に於ける庄官名・百姓名への賦課禁止 

「長府毛利家文書」鎌6ー4243 在地転嫁禁止の特段例外的に早い事例であるが、寛喜の飢饉の影響か(高橋.1998)

上杉:在地転嫁の禁止事例は安貞元年から見られるが(『吾妻鏡』安貞元年2月13日条)、幕府固有の公事「=鎌倉殿の必要による物」に関する同規定については、弘長元年の関東新制前後から集中的に設けられるようになる。その理由として、幕府が朝廷への財政扶助体制を維持した結果、現実には地頭御家人の役負担の百姓転嫁・百姓層の没落という事態を生じさせ、或いは少なくともその事態への危惧を募らせ、幕府固有の公事賦課に対する抑制立法を展開させることで、公権力としての存立強化を試みた事が考えられる。(上杉和彦「国家的収取体制と鎌倉幕府」.『歴史学研究』657.1997.p51)=幕府の御家人役在地転嫁が明文化され始めるのは13世紀半ば以降=13世紀後半以降の幕府の正確変化、「公権力」という属性の問題 在地転嫁の容認と禁止という相反する現象 幕府の歴史的展開・国制上の立ち位置の変容

在地転嫁禁止という幕府の政策姿勢:官務小槻家若狭国国富庄・建保四年(1216)裁許状 地頭非法に関する提訴 臨時公事の『過度な』在地転嫁の禁止(諫言)?⇒在地転嫁自体は問題としていない

=在地転嫁の禁止は建保四年~安貞元年の間 関東御公事出現の時期と合致 

七海:「西国に於ける御家人所領の拡大に伴い、全国的な御家人役負担の体制が形成されていく中、用途調達の場面における本所進止所領内名主・百姓層との軋轢が、治承・寿永内乱以来ふたたび顕在化しはじめた。そのため、あらためて在地転嫁の傾向を抑止する姿勢が、幕府の課題として意識されるようになった」(七海.2001)

⇒災害・飢饉・事件など社会情勢との関連も検討すべき 西谷地晴美「中世前期の災害と立法」『歴史評論』538 1998

■在地転嫁禁止

*修理替物役…御所・幕府施設の内装費用 恒例・臨時両役が存在 恒例役=東国御家人固有の負担 得宗も供出していた可能性(新渡戸文書『新編弘前市史』資料編・古代中世編p173、『仙台市史』資料編1古代中世p319) 「修理替物事」だけ別の負担体系=北条氏・知行国主へ向けられる負担では無く、関東御公事として別途処理されていたからと推測(七海.2001) 七海:「他の北条氏所領の給主も、頭人もしくは寄子となって同じ費用を負担し、それらが寄り合う形で納入がおこなわれていたのではないか」(七海.2001) 

臨時役=追加法398~404条 在京・西国御家人に施行された弘長新制の中の「修理替物」「垸飯役」に関する在地転嫁禁止規定=★「百姓臨時役」


◎賦課対象・範囲による分類

○全国御家人・東国御家人というように、広範囲の御家人にあてられるもの

○一国ないし数国のあるいは在京人・在鎌倉御家人といった狭範囲の御家人にあてられるもの

○特に指定された御家人にあてられるもの


*御家人役は、概ね所領面積に応じて賦課された=御家人領の保全が御家人・幕府にとって重要な課題となる

→御家人役は次第に加重負担化 御家人領の消失・無足御家人の増加 御家人社会の内部矛盾を生む

幕府:御家人所領の保護と御家人負担の軽減政策⇔鎌倉時代後期には全国的にみても御家人役は増加の傾向(鎮西御家人・西国御家人に蒙古襲来対策の異国警固番役、石築地の築造修補の負担などが賦課)


*桃崎有一郎:宗尊親王襲職に伴い過差化した儀礼の費用が臨時役として御家人に賦課されたと予想=宗尊親王襲職は御家人財政圧迫の極端化と同義(桃崎.『鎌倉遺文研究』.2016.4 p23)



☆賦課・徴収の方法

◎負担体系の分類「恒例役」と「臨時役」(筧雅博の分類 「鎌倉幕府掌論」『三浦古文化』50.1992)

恒例役…幕府年中行事など 東国御家人の先祖相伝の私領内に設定された公田をもって負担

臨時役…私領・恩領問わず、知行する全ての所領内に設定された公田をもって負担 

史料:「茂木知宣置文 鎌倉遺文11ー7977」 惣領負担=恒例役 惣領+庶子=臨時役 恒例役は惣領が単独負担 臨時役は惣領制に基づく負担方法

長楽寺文書の新田氏売券などの御家人役規定(鎌倉末期) 恒例役=買得者負担 臨時役=売却者負担=「天役」

長楽寺文書の「臨時天直米」 天役の負担に耐えきれず蜂起に踏み切った新田義貞=七海:「鎌倉末期の東国に於ける御家人負担体系の行き着いた先を端的に示す現象」(七海.2001)→上杉和彦が七海の評価を補強「天役」の具体的事例について、史料から「天役」という言葉の使用例を抽出した

★正和四年(1315)五月日和泉国大番領雑掌乗円申状:段別に課された銭・米以外に賦課された銭貨が「天役」とされる点が、長楽寺文書の「臨時天直米」の用例と同じ「田代文書」鎌25524⇒摂関家領大鳥庄なのが要検討

★元亨三年(1323)十二月二十六日益清田在家売券:課役の具体的な配列の様子から同様の事が指摘出来る

「金沢文庫文書」鎌28621 なお、鎌倉遺文に依る限り、「天直米」「天直」の用例は他に見られない

⇒上杉「鎌倉時代の後半特に14世紀に入ってからの売券・寄進状の中で、急に『天役』の負担規定あるいはその免除が言及されるようになったのは、『天役』の名で課される臨時課役の賦課が増加した事実を反映したもの/賦課の内容:悪党対策の兵糧米・異国警固/大規模にして新たな財政負担を実現するために、幕府は『天役』の語を選択的に用いたのでは無かったか」

連続的な軍事動員・軍費の銭貨徴収

⇒七海.2001.p155 「『私領』をつぎつぎと売却しながらも、元弘動乱のなかで莫大な『天役』を賦課されつづけた国御家人の一つの結末」


所領面積従って各国御家人・一族庶子に賦課配分→守護・惣領を通じてまとめて勤仕・納入

各御家人や一族庶子の未進対捍について→しばしば幕府から禁令 未進の罰則規定(一つの所役を未進した御家人には新たに別の所役を賦課するなど)・一族内では惣領が代勤・代納したうえ、さらに対捍する庶子の所領については惣領が没収することを認めた⇔庶子の中には惣領の手を離れ、直接守護の手に属して勤仕を望む動きもあり、これら惣領・庶子間の御家人役勤仕の方法をめぐっての相論は、次第に増加の趨勢にあった。

例:垸飯用途負担に惣領制が採用 惣領の責任の下、庶子(寄子)と負担供出の連絡(七海.2001p188)

(私見)御家人役の優先順位が明確化されていなかった?軍事力行使が優先?宇都宮五月会役=臨時役 臨時役は恒例役より優先される傾向(高橋.2001p51参照) 中期:毎年恒例の垸飯役などより優先 寄り合うはずの庶子が臨時役優先で恒例役垸飯用途を対捍し、惣領が全面負担する羽目に(=惣領制の矛盾増幅⇒幕府末期の惣領制保護政策で修正しようとした(天台肝要文28、12号)『千葉県の歴史』資料編中世二→元々同一文書?

⇒鎌倉中期の御家人役負担の比重は、庶子の対捍や不都合により、惣領へと集中する傾向に有ったのでは無いか。+裁許内容不履行に対する強制執行力の欠如 ⇒末期幕府の御家人役負担に関する惣領権限の保障・強化政策についても、このような惣領制運用の不完全さを改善するための策と理解出来る(七海.2001p188)



清水亮.2007 『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』序章

*高橋典幸の軍制研究:「中世国家史の中の御家人制研究」⇒西国御家人所領保護「天福・寛元法」の展開と大番役の在地転嫁容認状況の連動により、鎌倉中期に公武間で「武家領(御家人所領)」↔「本所一円地」の所領区分が形成されたことを指摘 =佐藤進一による、武家政権による王朝国家権限の接収と言う流れを前提としている⇒上杉和彦・国家的収取と幕府財政の連動性動態的把握→佐藤氏による武家政権発達史からの政治史理解は修正を迫られつつある

*七海雅人の御家人制研究:安堵制度の沿革研究・御家人役税目の網羅的検出→御家人制研究に於ける基礎データの充填を成した=御家人制の内実の変遷を対象とする→鎌倉期の政治史と御家人制との具体的関係が課題として残される

*清水:政治史の中での御家人制の検討=「幕府の体制基盤としての御家人制研究」&「中世国家史のなかの御家人制研究」の結合を試みる 御家人政策が地方でどの様に受け止められるのか=従来の「地頭領主制論」:西国・鎮西の国御家人への東国地頭からの圧迫に注目  地頭の勢力定着には地域社会との合意形成が不可欠=河合康「治承・寿永の内乱と地域社会」(初出1999)『鎌倉幕府成立史の研究』2004 国御家人と東国地頭との関係→社会状況・在地動向・幕府政策のあり方 (私見)在地動向は、御家人の動向と非御家人・百姓らの動向に分けて分析すべき 地域社会の構成員は御家人だけでは無い 平時に於ける両者の関係性

⇒鎌倉末期において、御家人役が各地域に於いてどのような用途・様式で賦課されていたのかについての検討が不十分 各地の武家領・本所一円地など、所領のタイプ毎の個別具体的検討


*臨時役は恒例役より優先された?臨時役である諏訪社御射山頭役勤仕のために恒例役である鎌倉番役の免除が求められている(鎌27092)(高橋典幸.『歴史学研究』2001)

京都大番役・篝屋番役ほか、軍事力行使に関わる役が優先された(高橋.2001)

*京都大番役について:臨時役 高橋典幸の分類(高橋.2001)➀幕府成立以前から存在し、改めて御家人役として吸収・再編された役 従来の研究では、幕府成立以前は平家と主従関係を結んだ家人によって担われたと考えられてきたが(五味文彦『院政期社会の研究』山川出版社1984)、実際は朝廷の武力システムを平家が独占的に掌握するというような状態には成っておらず、平家以外の武士も勤仕しており、平家との私的主従制下における家人役というよりも、国家的軍制の中に於ける公役であったと見做すことが出来る(三田武繁 「京都大番役と主従制の展開」『鎌倉幕府体制成立史の研究』第二章 吉川弘文館2007)。本来は所領単位の賦課→鎌倉時代を通して御家人役化(賦課対象を御家人に限定) 幕府当初から御家人役に転じたのではない 西国に於いては幕府が京都大番役以下の課役を意図的に御家人役へと転化させることで御家人制が確立した(三田.2007)とする説=御家人役賦課のための交名注進(鎌倉幕府追加法68条)→西国では、承久の乱後の変質と特殊な主従制の確立がおこる(三田.2007 p208~220)御家人身分を求める非御家人の勤仕、賦課対象から除外される御家人

*筧雅博「固定された公田数にもとづく御家人役賦課が行われた東国御家人と異なり、西国御家人は守護によって当知行田数を把握され、これに基づいて御家人役を勤仕していた(筧「鎌倉幕府掌論」『三浦古文化』.1992)

西国地域の御家人保護 支配が不完全な西国


蒙古襲来・異国警固番役・恒常的な軍事力強化 大田文の注進:固有の軍事力である御家人の再掌握⇒御家人の軍事力負担の基礎である御家人所領の把握=大田文注進 但馬国大田文「御家人役勤仕之地」「御家人役勤仕職」(鎌15774)。=幕府は御家人役の勤仕と御家人知行の所領を統一なものとして認識・把握していた(高橋.2001)

「御家人役勤仕之地」=天福・寛元法(追加68・210条)⇒相論の中で蓄積され、異国警固番役を契機とした大田文作成で全面定着 軍事組織全てを所領支配に基礎づける 所領安堵の有無という偏差解消の方向性

*天福・寛元法の背景 泰時死亡による幕閣の童謡に伴う西国御家人の離反の防止、大番役の在地転化の容認傾向に伴う幕府の御家人所領への関心の高まり(高橋.「鎌倉幕府軍制の構造と展開」.『展望日本歴史10』2000)

★立法背景の直接的原因として清水氏が指摘したのが、寛元元年に始まる閑院内裏修造である。(鎌9―6348)

→「寛元法」の発布は、直接的には、増大することが予想される関東御訪、それに伴う御家人への臨時役発生に対応して、幕府が臨時役の負担者である西国御家人の保護を朝廷に要求するという機能を期待されたと推測(清水.2007)




●末期御家人制の実情 

一円的な武家領の形成と、安堵体系の整備(敵対する第三者への対抗要件としての効力)に基づくその知行の保全(七海.2001.p288)と言う論点が、鎌倉末期御家人制の体制基盤として抽出できる

幕府管轄の『東国地域』、六波羅探題管轄の『西国地域』、鎮西探題の管轄する『九州地域』の三地域に分類して考えられる

三つの個別的な負担体系は、「武家領」を共通の費用捻出基盤とし、また鎌倉から賦課免除に関する指示が原則的に発信される点に於いて、一個の大きな体系として纏めることが可能である。

⇒南海道・北関東・南九州は、3つの区分からはみ出していく可能性もあるのでは無いか=史料・論文要調査

高橋典幸「武家政権と本所一円地」『日本史研究』431.1998:御家人の資格については、原則として1240年代初頭(仁治年間)以前から御家人役を勤めてきた者のみに限定

分割相続・列島規模の散在所領経営 鎌倉中・在京・某国の区分にもとづく地域的・政治的な差異の存在 在地社会の動向 →御家人役を効率的に負担できる体系の構築

惣領制に基づく御家人役負担の方式が基本的に最後まで堅持 それに対応するかたちで総領保護の姿勢が強化する現象(七海.2001.p289)

末期の幕府政治権力の頂点に位置する得宗 公職から退いた貞時に、関東御教書受給の申状と献上品(鎌29ー22148) 御恩給付の主体は鎌倉殿で無く得宗

御家人役負担体系に期待された当時の政治体制維持の矛盾 「沙汰未練書」方式を厳密に運用するほど、結果的に御家人制内部の対立関係が顕在化していく

負担の比重が、その体系の末端である庶子や一分地頭、私領売却者へ集中

「鎌倉幕府の崩壊は、集権制の強い権力秩序が、その政治体制を維持するために、秩序の末端に対してさらに負担と引き締めを強めていった結果、その構造が破綻をきたした」

「幕府崩壊の基底的要因の醸成は、御家人制という権力編成のあり方それ自体の歴史的展開により、実は幕府政治体制の内側・権力秩序の底辺に於いて進行していた」(七海.2001.p291・292)



御家人役研究に於いて経済史と政治史のアプローチは不可分 御家人役の社会史的アプローチ


七海.2001p114~115 買得所領の安堵がされる場合は、ほかの所領とともに譲与安堵の際、一括して行われていたと考えられる 西国・九州に於いては買得安堵制確立後も支配的

七海.2001 追加法439条 買得安堵所領は事実上知行年紀に拘束されない効力を得ていることが推察 安堵対象が永代買得地と流質地のみに限定=幕府の買得安堵は永大売買に限られており、年季売買の場合は、流質地となってはじめて安堵申請の対象となり得る

中世の永代売買は、買い戻しを許容しない特性 所領の所務は買得者へ移行 「沙汰未練書」:末期幕府の安堵制では、当知行が給付の絶対条件=永代売買のみを安堵の対象とする規定要因として作用

=幕府の安堵制においては、そもそも年季売買は想定されていなかった


七海.2001p116~117 蒙古襲来→所領把握の再検討  御家人役賦課・恩賞給与(?)のため 大田文の調進

戦時体制の構築が急務 御家人所領の売買制限・所領の安堵状態把握=御家人役賦課の徹底に不可欠の作業

追加法458条(文永の役前年に発給) 御家人の私領・恩領だけでなく、売買による所領の移動についても所在と知行やの把握を試みていた

→追加法452条を踏まえて出されていた「今日以前分事、

幕府はあきらかに御家人所領移動の凍結を指向していた 安堵の有無は、買得所領把握の唯一の手掛かり 

弘安徳政によって安堵対象は拡大方針を執られる 制度・理念両面で訴訟処理と区別される 買得安堵制の確立は、幕府の所領政策をふまえて実現 



⇒幕府を支える経済構造は、御家人役だけではない 賦役以外の経済的基盤が担っていた役割との関連で御家人役を論じていない(不足)

⇒「見返り」という観念(『御恩』と『奉公』) 御家人役奉仕(奉公)に対する見返り(御恩)が期待し得なくなったことが政権崩壊の遠因ではないか。

→御家人身分が閉鎖・限定化したことで、本来幕府の従属的身分でありながら、恩給等が期待されず、寧ろ幕府から敵対的存在と見做された旧御家人層(悪党的存在)の集団的暴発(後醍醐蜂起に参入)


●鎌倉末期の閉鎖的御家人制

蒙古襲来 本所一円地住人動員→この軍事体制の課題に御家人制の拡大で対処→鎮西名主職安堵令=旧御家人層の不利益と見做され挫折(村井.1978「蒙古襲来と鎮西探題の成立」『史学雑誌』87)

御家人とは鎌倉殿に奉仕する代わりにその保護を享受する特権身分 特権者集団である御家人制は本来的に閉鎖的・限定的性格を有していた 義経の「御書」を根拠に御家人身分を要求してきた者に対して、御家人化を認めない幕閣の判断(『吾妻鏡』宝治2年8月10日条)

御家人制は幕府の権力基盤 権力強化のためには御家人制の拡大が志向される =御家人制そのものが対立する契機を孕んでいる 鎌倉中期の曖昧な諸相・御家人名簿が作られなくなった「だれが御家人であるか判断できない」状況(青山.1987) 

正安元年(1299)六波羅裁許状 自らを御家人と主張する波々伯部氏は、先祖が御家人交名に登録されていたことや御家人役勤仕の証明書類を提出して裁許を得ようとした(鎌27-20344)→敗訴

「皆以近年状也」・「仁治以往勤仕御家人役之条、無指支證」 仁治年間が基準とされたものと考えられる 鎌倉末期の御家人制は、仁治年間以前から御家人役を勤仕してきた者のみを御家人と認定する限定的な性格のものになっていた →鎌倉中期の曖昧な状況から末期の限定的な性格への御家人制の変遷 「武家領」問題との関連?→文永以降「武家領」認定を巡る本所と御家人との相論頻発

御家人身分を主張していた者が幕府によって非御家人と判断された事例は鎌倉末期に集中している(高橋.1998.p14~15.表二)

⇒幕府は御家人役勤仕の事実は否定せずに、それが「近年」であることを理由に御家人とは認めない判断を下す 本所との協調を図る幕府はそれ故に御家人制に限定的性格を与えるしかなかった(高橋.1998)

何故仁治年間なのか。課題(高橋論文では泰時不易法の年限と重なるという示唆に留まる)である(高橋 「武家政権と本所一円地」『日本史研究』 431.1998)


鎮西名主職安堵令の失敗は、従来の御家人制そのものが持つ閉鎖性+当該期固有の限定性(「近年状」を認めない方針など)故に挫折 御家人制は既に兵力増員の手段たり得なくなっていた


鎌倉末期 惣領保護の立法 ⇒幕府による惣領・庶子間の対立の抑制・御家人役賦課体制の維持=御家人役勤仕責任者たる惣領の保護 惣領も、自分に有利な幕府法を利用して庶子の統制を試みる(田中大喜.2011.p163) 寄子(庶子)の御家人役対捍は惣領が立て替え 対捍の罰則として対捍した庶子の所領を没収して惣領に与える措置(追加法566条)


●北関東における所領からの徴収 (清水.2007.p123~140)

*石井進:関東御領が得宗政治の展開と共に北条一門の所領化 石井「九州諸国における北条氏所領の研究」『荘園制と武家社会』1969

*秋山哲雄:関東御領の得宗領化は北九州に限定された現象 秋山『北条氏権力と都市鎌倉』2000

北関東・奥羽など:北条一門所領の増加の様相  北条以外にも、有力な外様御家人の一部や幕閣などの「特権的支配層」の存在が指摘 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館2000

⇒北条以外の「特権的支配層」の所領形成のあり方についても目を向け、幕府政策や在地状況との管領委を追求する必要性(清水.2007)

*越後では、水上交通の要衝が国衙領化 ⇒北条氏:鎌倉期、越後の国務を掌握し、一門で越後国内の国衙領の多くを分有⇒日本海沿岸交通の要衝の国衙領の支配権を獲得

*安達氏:秋田城を拠点とし、北条氏とともに出羽の蝦夷統括を担う 安達時顕は、越後最北における交通の要衝に位置する荘園の地頭職を獲得(白川庄・小泉庄)=永仁~元弘間(平頼綱滅亡・安達氏復権~幕府滅亡の間) 鎌倉と出羽を繋ぐルート上の要衝に、時顕の所領が設定された 

*北条氏:十三湊から若狭方面の交通を掌握 沿岸の所領や守護職を獲得=安達氏・北条氏の越後に於ける所領形成は同様の指向性を持つ 二階堂氏:奥羽に拠点 小泉庄に権益?

清水.2007:「鎌倉末期、安達氏・二階堂氏をはじめとした幕府高官が日本海側の所領(小泉庄など)に権益を持ち、日本海交通へのアクセス権を掌握していた」

得宗家領下野国塩谷庄 陸奥国に接した広大な荘園 津軽への奥大道沿い =蝦夷問題の慢性化に伴う奥大道の掌握・整備の必要性があったのではないか(清水.2007.p134)


◎なぜ、越後・下野に得宗家・特権的支配層御家人の所領が設定されたのか。 ⇒蝦夷問題対策=「東夷成敗」の職務遂行+幕府首脳陣の日常運営の出費&鎌倉の維持・復興に関わる臨時課役で窮乏

例:陸奥国大平賀郷・若四郎名 正和四年・五年に得宗から臨時課役の賦課=「鎌倉年代記」に見られる鎌倉大火の復興費か 大平賀郷の正和四・五年 年貢結解状:「新造御宿所用途」が年貢の内に計上

鎌41-31708 陸奥固有の御家人役「召米」の未進免除 未進開始と出羽での蝦夷蜂起が連動 蝦夷蜂起・安藤氏の乱に伴い、年貢・御家人役が兵糧として現地でなしくずしに消費され、幕府財政に影響か

奥羽は、幕府運営の主要財源⇒蝦夷問題の慢性化によって、蝦夷沙汰の責任者である北条氏・安達氏一族の所領が存在する奥羽の各所領には大きな負担がのしかかっていた(清水.2007.p134)

それに代わりうる、奥羽近傍の軍事・経済的拠点として越後・下野が着目され、幕府の特権階級層による所領化が進行したのでは無いか。


*清水「鎌倉末期、蝦夷問題に対応する軍事的・経済的拠点として越後・下野など奥羽に隣接した国々の所領の交通の要衝に、蝦夷沙汰を担う得宗家や安達氏などの権益が設定された」

しかし、それらの所領内で獲得された得宗家・安達氏が有した権益の具体的内容は明らかでない


●●御家人役の恩賞給与形態からの分析⇒御恩と奉公の互酬性は、指摘されながらも相互を関連付けた研究は乏しい

其れ其れの役負担に対し、どの様な恩賞が、どの様な形態で(安堵、銭納、その他贈答)賦課されたのか


特権的支配層の人々が、幕府の経済構造上どの様な役割を果たしたのか


得宗専制期に於ける幕府垸飯について

親王将軍と幕府垸飯


幕府垸飯とは:中世の武家儀礼で、正月や代始などに将軍と家臣(御家人)が一同に会して行われる共同飲食。

手順:➀沙汰人から食膳が献上 ➁各担当の役人から引き出物(剣・弓・行縢・沓)の献上 ③馬の上覧 (『吾妻鏡』寛喜元年(1229)正月一日条)

展開:鎌倉幕府の年頭儀礼として発達→室町幕府・鎌倉府に継承→応仁の乱以降、幕府構造の変質・崩壊に伴って幕府公式儀礼から消失→近世以降は民間での年中行事に於ける饗応を垸飯と呼ぶようになった(二木謙一.1985)。

鎌倉時代の展開:頼朝期に将軍と有力御家人の主従関係を再確認する儀礼として成立し、


従来、得宗専制の研究は得宗及び御内人に注目され、鎌倉殿は傀儡として軽視されてきた。鎌倉殿が本来主体となる儀礼の様相を分析することは、この時期の鎌倉殿、それに本来従属する立場の北条氏、その他御家人の政治的立ち位置を再検討することに繋がる


得宗専制期はいつからか 寛元の政変以降段階的に構築(得宗家が有力御家人や北条氏庶流、摂家将軍家を退け、新たに親王将軍を迎えた)→この時期、様々な幕府儀礼に大きな変化が起こっている

前期専制=北条氏本家が実際に政治を主導 得宗の意志決定が政治システムとして運営

末期専制(御内専制)=得宗専制のシステムを踏襲した内管領長崎氏らの専権

●論点

執権政治期から得宗専制期に至る垸飯の変化を分析する

➀垸飯を負担することが、御家人にとってどの様な価値を有してたのか

➁垸飯負担を巡る諸問題は何故発生したのか。また、当事者達はどの様に対処したのか

③垸飯負担が御家人社会に与えた影響とは何か

→儀礼のあり方は、支配者側の権力のあり方やそれに従う被支配者側の態度と密接に関わる。幕府への儀礼的・経済的な「奉仕」である垸飯の負担が、どのような形態であったかを明らかにすることは、鎌倉幕府の統治構造の評価に新たな視点を与えてくれるだろう。

*親王将軍期、京下り官人の垸飯参加が将軍儀礼にもたらした影響は何か。=明確に「御家人」ではないが、御家人化・御家人待遇される官人もいる。 鎌倉に定住する者も

御家人ではないが幕府の構成員 直接的に主従・傍輩として単純化しがたい身分

親王との王朝身分的な主従関係は想定されるが、「鎌倉殿」と直接主従関係を結んだ御家人ではない


儀礼の遂行形態と負担構造の観点から考察する。

●構成

1、得宗専制期以前の垸飯の様相(先行研究)

正月垸飯 文治年間(文治二年正月三日、鶴岡八幡宮参詣から帰宅後)から

建久2年以前は正月吉日の一日のみ→やがて三が日、旬日に渡って行われるようになる

有力御家人の宿願達成(文治四年三月二一日条)や、北条氏家督の元服でも行われた(建久五年二月二日条、天福二年三月五日条)=「吾妻鏡に記録される垸飯は、御家人一般に比して特に高い社会的地位にある人物が、特にめでたい機会に喜色を表すべく為された」(桃崎.2013)

上横手雅敬「垸飯について」『全訳吾妻鏡月報』4 1977 p2

「幕府の諸将達のランク付けに於いて、官位の高さ・幕府諸機関での地位、従来からの功績、領主としての規模などの諸要素に分解しきれない、『総合的評価』をあらわすもの」

→幕府という組織の内部に構成員の総合的評価に関わるとするが、抽象的な説明に留まる

村井章介「執権政治の変質」『日本史研究』261 号 1984 

幕府垸飯が正月・将軍代始・将軍新宅移徙などの新しい体制の始まりの機会に行われる事に注目し、「節目節目毎に主従関係にあらたな活力をふきこむ復活・更新の儀式」

永井晋「鎌倉幕府垸飯の成立と展開」『日本中世政治社会の研究』続群書類従完成会 1991

=垸飯儀式の参加者及び、主催者たる垸飯沙汰人の列記・変遷の分析を通して、垸飯参加者の地位と実際の政治的画期(将軍独裁→合議制→執権政治→得宗専制)との照応が注目され、政権内部における権力の動向を考察する政治史的アプローチが成立した。

泰時執権期:沙汰人・諸役の北条独占化 元日沙汰人を北条氏家督が占める(足利氏が例外)

時頼執権期:人選原理の明確化 沙汰人=得宗・執権・連署・北条庶流・源氏、剣役=引付頭人か源氏 調度役=北条氏か評定衆級の御家人 行縢役=評定衆・引付衆級の御家人

元日沙汰人・三役は得宗・引付頭人・評定衆に固定(最高格式)、足利氏の例外を除き、大部分の主要役を北条氏が独占

=「執権政治期には元日沙汰人を頂点に、諸役・勤仕日が御家人秩序と対応した」

=「列席者は儀礼の中に投影された鎌倉幕府の秩序を読み取り、上層部の権力構造を体験することが出来た」

盛本昌広「鎌倉幕府垸飯の負担構造」『地方史研究』255号 1995

垸飯自体の実際的な執行状況や負担構造に着目 在地社会の動向を踏まえて議論

★北条氏による沙汰人独占化(村井.1984 表参照)

八幡義信「鎌倉幕府垸飯献儀の史的意義」『政治経済史学』85 号 1973

北条氏が沙汰人を独占的に勤仕=御家人統制の手段として垸飯を利用していたと考察

村井章介(1984)・永井晋(1991)・盛本昌広(1995)前掲論文

執権政治期の正月垸飯=「北条氏を中心とした幕府の秩序を再現する『服属儀礼』」

佐久間広子「宗尊親王 鎌倉将軍家就任の歴史的背景」 政治経済史学 1997

建長三年の政変 足利泰氏の自由出家問題 出家の責めはあくまでも泰氏個人 翌年の正月垸飯で足利義氏が沙汰人を務めていることから、足利氏全体に打撃は無かった(佐久間.1997)=垸飯が幕府の権力体制を忠実にトレースするという前提の論

滑川敦子「鎌倉幕府における正月行事の成立と発展」『鎌倉時代の権力と制度』思文閣 2008「北条氏による自らの地位の正当性を確保する手段」¬=北条氏が儀礼の場を利用して御家人を服従させようとしたとする見解が定着

桃崎有一郎「中世武家礼制史の再構築に向けた鎌倉幕府垸飯儀礼の再検討」(遠藤基郎編『生活と文化の歴史学 第2巻 年中行事・神事・仏事』 竹林舎 2013)

×御家人支配を強化する服属儀礼 ○傍輩関係の紐帯を確認する儀礼

桃崎有一郎「鎌倉幕府垸飯儀礼の変容と執権政治」『日本史研究』613号 2013

*沙汰人の変遷(村井.1984表)

最初期:千葉常胤のような宿老(年齢・人格・功績の質量といった個人的要素により決定される)が、代表として元日垸飯を沙汰→建久五年から源氏門葉の筆頭格として足利義兼が加わる(源氏という出自の重視=個人的な要素よりも、御家人を代表するに相応しい地位が重視)。沙汰人の一族で諸役人を構成→頼家~泰時初期:合議制メンバー、幕府吏僚、将軍外戚、源氏門葉、その他有力御家人で構成→北条氏が沙汰人を寡占、三役に一族・幕府吏僚、有力御家人を配置。執権が設置される前後では北条時政が出現。それ以降、元日の沙汰人に関しては北条氏が独占するようになり、たまに大江広元や足利などの例外はあるが、得宗家やその近親者を中心に時の執権や連署が勤める事が通例となる(御家人代表=執権)。

正月二日以降の垸飯は、当初は不定期→時頼期以降、正月三が日(元三)に固定

北条氏による垸飯沙汰人独占=×儀礼の主役 ○裏方に徹した事務局長 

当日に姿を見せない場合もある(在京中に沙汰した『吾妻鏡』正治二年正月十五日条)

垸飯にかかる費用の収取体制の変化 特定の御家人が沙汰人と成って物資供出を負担⇒執権政治期(泰時以降)に於ける「贈与→租税」への転換

「垸飯費用は垸飯役という御家人役から負担されるため、経済力誇示にもならない」

=北条氏は、沙汰人が傍輩代表として参仕する「紐帯確認儀礼」の理念(実体は独裁に近い)

を強調しようとした=北条氏主導体制への反発防止策


2、得宗専制期垸飯儀礼の特徴

幕府主要行事は、得宗専制期にも衰退・廃絶していない

恒例行事(年始諸儀礼・鶴岡八幡宮祭礼・貢馬)、重要な臨時行事(将軍代始や新宅移徙に伴う儀礼)は、宗尊親王期までに成立した形態を踏襲し、幕府滅亡まで励行された

=そうすることが得宗権力にとって有益と見做された 何故?

桃崎有一郎「鎌倉幕府垸飯儀礼の完成と宗尊親王の将軍擁立」『年報中世史研究』41 2016

桃崎有一郎「得宗専制期における鎌倉幕府儀礼と得宗儀礼の基礎的再検討」『鎌倉遺文研究』

41号 2018

★宗尊親王期(1252~1266)

恒例の年中行事としての完成 (時頼の執権期に他の年中行事も大規模に再編・整備)

将軍就任時の饗応における進物の過差性 宗尊親王京都出発・途中の宿所・鎌倉入り当日に行われた垸飯に於ける大規模な進物(『吾妻鏡』建長四年三月十九日・四月一日条)

鎌倉入りに伴う垸飯は頼朝の鎌倉新邸移徙(治承四年十二月二十日)以来

執権政治のもとでの親王将軍という形での鎌倉殿の再出発と、幕府という組織の継続・一貫性の保持(桃崎.2016)

下向直後に将軍宣下(11歳)=成長を待って叙位・任官された頼経とは逆 宗尊に求められた立場は、御家人の主人「鎌倉殿」では不十分  源氏や北条氏との縁戚関係も九条家と比べて希薄 征夷大将軍・公卿(政所開設資格)=政所始などの諸儀礼を短期間で実施可能にする(建長四年四月十四・十七日条)

=なぜ、性急に代始の将軍儀礼を遂行する必要があったのか。

親王将軍の儀礼は、異常な浪費を幕府に強いた 将軍儀礼の過差化→臨時役として地頭御家人に賦課されたと考え得る(桃崎.2016p22~23)宗尊の代始進物は豪華だが、垸飯の酒食に関しては記されていない 垸飯の食事自体は豪華でなかったのか 吾妻鏡作者の関心外なのか 身分に相応しい豪華な進物を送ることで、皇族を推戴しているという認識を誇示

*年始垸飯の直後、「御行始」で将軍が北条氏の屋敷を訪れる儀式の恒例化(泰時以降)

*御行始=将軍が有力御家人邸宅を訪れ、饗応を受ける(行き先は殆ど北条氏)

鎌倉後期には垸飯への返礼という形になる(佐藤.吾妻鏡事典.2007)

進物も固定化(砂金・羽・剣・馬)=垸飯進物とほぼ同様

建長五年以降、将軍御行始の供奉人を元日垸飯出仕者から選抜(『吾妻鏡』建長五年十二月

三十日条)

年始の鶴岡八幡宮参詣も同様の方式の場合があった(毎年ではない)

「以二元日出仕人数一 為二鶴岡御参供奉一 被レ下二御點一」(弘長三年正月二日条)

→幕府は誰が鎌倉に在住しているか完全に把握していなかったため、行事ごとに招集する

よりも、その時現地にいる者を母集団として招集していた(秋山.2006.p91)

→複数の年始儀礼で人材を共有し、連続して行うことで、儀礼運営を効率化

宗尊に随従した廷臣が関東に持ち込んだ?(桃崎.2016)

*供奉人選定方法 年末~年始、予定日の前日(元日に行う予定の場合は大晦日になる)

建長五年以前:小侍所所司(平岡・工藤など)が交名を作成→時頼、交名を確認・選抜

→宗尊の確認・御点→該当者に廻状(建長五年正月二日条)

建長五年以降:小侍所所司(平岡・工藤など)が交名を作成→宗尊の確認・選抜して御点

→該当者に廻状(建長八年正月五日条)

時頼・重時は執権・連署の引退及び出家した後も、逝去まで元日沙汰人=時頼、

二日or三日=重時  公職を離れた後も御家人社会に於ける地位を継承

両者が務めた元三沙汰人の役は、双方の家督と共に継承(近藤.2016.p86)


「時頼が垸飯を御家人統制の手段として利用した」(八幡.1973)

御行始めの供奉人選定:当初は時頼が選定していたが、宗尊のチェックも通されており、

建長八年には時頼の希望で宗尊自身が、垸飯参加者から選定の御点をつけている。

成長した宗尊は、自ら鶴岡八幡宮放生会の供奉人選定も行う(将軍執権連署列伝p91)

また、宗尊親王自身が御家人の所役遁避が多いことについて、時宗に詰問している(文応元年七月六日条)=親王将軍の儀礼への積極的態度

土御門顕方が元三垸飯で御簾役を務める その他の儀礼でも、鶴岡八幡宮参詣(正嘉元年二

月二日)や御行始などで、御簾の側に祗候している描写がある

武士である御家人と、皇族である宗尊の事務的かつ精神的な取り次ぎ役?

時宗の元服儀礼でも宗尊(時宗に加冠)の御簾役を務めた(正嘉元年二月二六日)

鶴岡放生会で唯一の公卿として将軍御車の側に控える(建長五年八月一五日条)

宗尊追放時、息子顕実と共に上洛に同道(文永三年八月四日条)

出家して山科に隠居(『公卿補任』『尊卑分脈』文永五年十二月十七日条)

→特に親王将軍期には一般の御家人以外にも、京下りの官人が鎌倉に定住するケース増加

京下り官人の、垸飯に於ける立ち位置とは。=幕府に出仕する貴族

垸飯においても、他の将軍儀礼と同様廷臣の参加が見られる。

→官位・官職が一般御家人より高い廷臣の鎌倉常駐&高い官職を勤める御家人

→このように官制の枠組みでは身分がバラバラかつ、御家人とは言い難い人々が参加して

いるこの時期の儀礼は「紐帯確認儀礼」ではない。→貴族の椀飯参加の様相を調べる

御簾役は廷臣の慣習でも見られる(実躬卿記弘安六年一月十二日・正安三年九月十四日)

→関東に京下り官人が持ち込んだ?(私見) 頼経・頼嗣では御簾役は確認出来るが記述が

確認出来る年が分散している 役人も官人系が目立つが固定的でない

→吾妻鏡の史料的性格上、特筆すべき存在ではなかったのか。では、なぜ宗尊親王期に

土御門顕方が恒例で勤め、かつ毎年特記されるようになったのか。

*吾妻鏡の「史料的性格」とは。→佐藤和彦 谷口榮編『吾妻鏡事典』東京堂出版 2007

宗尊親王に従った公卿・土御門顕方と殿上人・花山院長雅

御簾役表記の恒例化・固定化(土御門顕方)

*諸役人の変遷とその人選原理は、永井氏の先行研究で明らかにされているが、

御簾役については垸飯関係の主要な研究では触れられていない

御簾役はいつから?→建久二年(1191)正月垸飯 御簾役=「前少将時家朝臣」

=平時家・・・平時忠の息子・上総広常の女婿

奥州合戦後・頼朝の正二位大納言・右大将任官。=「それまで散見された垸飯とは『儀式化』のレベルが異なっており、正二位大納言・右大将にふさわしい新しい儀式として執り行われた。その一つが『御簾役』の採用である。御簾役は、公家風であり、それを強く意識している」(石井.2017.p52) 私見:平家出身者で公家の儀礼に精通していた時家を採用 或いは時家が御簾役導入を提案した可能性もあるのではないか。→頼朝は直ぐに右大将を辞職 朝廷と距離を置いたことで御簾役の意義も低迷か

鈴木芳道「鎌倉時代における村上源氏の公武婚」鷹陵史学31 2005

土御門顕方……村上源氏土御門家

土御門定通の猶子で、関東下向後は足利長氏の娘と婚姻(『尊卑分脈』)。

*顕方の官途

下向時は正四位下であったが、翌建長五年に従三位、同六年に中納言、正嘉二年に越階して

従二位、文応元年正二位、同二年中納言、弘長二年に権大納言へと昇進する。

こうした官位官職は将軍儀礼に反映しており、建長五年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で

は、唯一の公卿として将軍の牛車の直前に立っている。

垸飯・鶴岡参詣・将軍御成の際に供奉・御簾役を務めるなど、将軍の儀礼に加わっている

花山院長雅……藤原北家花山院流。土御門通親前妻の父・花山院忠雅の曾孫。

正元元年権中納言→弘長三年正二位→弘安七年大納言還任→弘安十年十二月十六日死亡(『公卿補任』『尊卑分脈』)

→将軍儀礼では、公卿・殿上人が将軍の最も近くに位置して将軍に奉仕=当時の将軍権威が

天皇の権威と無縁ではなく、むしろ天皇権威によって保証され得るものであった(鈴木.2005)

御簾役表記の恒例化・固定化(土御門顕方)

親王将軍期の垸飯 鎌倉殿(親王)+御家人(得宗・北条氏庶流・得宗被官・幕僚・一般御家人)+京下り官人←御家人と廷臣の二面性(関東祗候廷臣)

文永二年、御簾役に変化 元日、土御門顕方の不参加(準備はしていたが御簾が上げられず)

三日の御簾役に藤原実尚……藤原公宣の息子。正二位前中納言。文永八年十二月出家。

(尊卑分脈)


永井晋「『吾妻鏡』にみえる鶴岡八幡宮放生会」『神道宗教』172 1998

幕府儀礼に参加する廷臣は、鎌倉に常駐する者と出席を求められて下向する者に分かれる

「関東祗候廷臣」とは、鎌倉に下って長期に活動する者を指す表現と見る(永井.1998.p42)


蹴鞠始後の垸飯(正月十五日条)近習・医者・陰陽師に垸飯(正月二十四日条)

→蹴鞠始後の垸飯がそれまであったか検索(課題)

医師や陰陽師への垸飯は、共同体外の人物に対する特別の報恩を、共同他の代表をして成された謝礼(桃崎.2013.p33)

実朝以降、鎌倉官人陰陽師の活動が活発化 「将軍身固陰陽師」(赤澤春彦.2011)

頼経以降、官人陰陽師の儀礼参加 鎌倉に定住する陰陽師も出現 

所領宛行・帯刀(御家人化?将軍家の信頼?)

義時主催で盃酌。法体・医者・陰陽師が列座。二階堂行村宅に方違え(貞応三年正月三日条)

→正月の饗応に参加する官人の早い例


*文書様式の変化

⇒近藤成一「文書様式にみる鎌倉幕府権力の転回―下文の変質―」『古文書研究』17・18合併号 1981

宗尊期の将軍家政所下文は、書止文言が「依鎌倉殿仰」から「依将軍家仰」に変化

=親王の権威の拠り所は、御家人の主人「鎌倉殿」ではなく「征夷大将軍」たる官職

★惟康親王期(1266~1289)

文永三年、宗尊親王更迭(七月二十日条)吾妻鏡最後の記録→惟康の推戴 代始垸飯の記録無し *時宗政権の政治制度 時宗は山内殿で行われる寄合において、人事・裁許など政務全般を決定・指示 御恩や官途も、実質将軍は関与せず時宗が沙汰 弘安年間の訴訟処理は、評定引付の実務作業を経て時宗が裁断

=「評定―引付という政治制度に支えられた、システマチックな個人独裁制」(細川.2007)

→時頼の親王将軍を否定し、惟康を源氏将軍として推戴した意図は何か。

*恒例年始行事の臨時開催【史料➀】

鎌倉幕府垸飯は、専ら年始に集中して行われ、時頼期以降は完全に年始の恒例行事と化した

例外的に、惟康親王の新居移徙いしや得宗家の垸飯に伴って行われた。沙汰人は時宗。(『建治三年記』7月19日条) 同じ時に臨時で行われた年始の恒例行事として、吉書・評定始・的始・御行始が挙げられる。

=将軍新宅移徙が年始と同様に重要な「時」の区切り目と認識された(村井.1984)

*源頼朝の最初の移徙に際して行われた後の主要年始行事の形式を、忠実に踏襲している=鎌倉殿の再出発を強調したい得宗政権の意志(桃崎.2018) 惟康期の将軍移徙に合わせた諸儀礼は、得宗権力強化の一環としての、幕府の原点回帰という理念を表示する儀礼として、将軍の存在を顕示する機能を果たしていた 時宗自ら庭に降りて着座 惟康に厚い礼

惟康親王の源姓を称するための臣籍降下、正二位・右大将=頼朝の再来演出をされようとした(細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史』日本史史料研究会企画部 2007)

*貞時元服の儀の前「御酒肴垸飯如元三」(『建治三年記』十二月二日条)=この頃も元三固定は継続 また、北条氏家督の元服の際にも臨時垸飯が行われていた

=「如元三」という表現から、得宗家督元服の際の垸飯は、元三垸飯に通じる特徴があった

と推測される。(私見)


蒙古襲来に望んだ幕府が、国難に対処しようとするにあたり、頼朝の権威を演出した

元寇の後の厳しい財政下でも正月三が日の垸飯は続行

★久明・守邦親王期 (1289~1308)(1308~1333)

久明:『増鏡』(下―第十一―さしぐし)代始の関迎え・三日間の垸飯・主語はないが、御簾役公卿(?)が御簾を上げる場面も描写されている。→同時代史料ではない

『永仁三年記』元日条 元日沙汰人貞時 二日〃宣時 三日〃時村 

進物:剣・調度・行縢・馬 沙汰人・進物は従来の定型を踏襲

守邦:元亨元年頃か 金沢貞顕書状「抑昨日垸飯■■役事無為候」鎌38―29271 

北条氏庶流である金沢貞顕が垸飯役を勤めていた可能性がある(盛本.1995)→これだけだは、此処で触れられている垸飯の性格は不明瞭(年始恒例か臨時か「役」から公的垸飯だと私見では推測)

『鎌倉年代記裏書』の延慶元年(元服)、『武家年代記』の延慶二年(将軍代始)参照


宗尊・久明は代始垸飯在り 惟康・守邦には代始諸儀礼(御行始・御馬始など)は行われたが、垸飯の儀は確認出来ず(守邦:鎌倉年代記裏書延慶元年条)

=京から下向してきた場合は垸飯が行われるが、鎌倉で誕生した将軍は行われなかったのか(惟康、守邦はそれぞれ前将軍の子息で鎌倉生まれ)=京下りの場合行われるのは坂迎え・三日厨など、垸飯の原型となった儀式の名残か

推測:親王将軍期の代始垸飯は関迎えとセット 京都から下向した将軍を鎌倉幕府側が歓待する意味合いか 関迎え=どこの関か(宗尊親王と同じ道程なら片瀬か?)

世良田長楽寺文書【史料②・③・④】・本庄持長請取状【史料⑤】から、幕府垸飯自体は行われていたと推定される=年始垸飯は、鎌倉幕府滅亡まで継続したと考えられる 

持長請取状【史料⑤】=新潟県史・(本庄か)持長請取状案写 分類:色部いろべ隆長編「古案記録草案 」所収文書

清水亮『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』校倉書房2007

細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 : 権威と権力』日本史史料研究会企画部2007

細川重男『鎌倉幕府の滅亡』.吉川弘文館.2011p86・87

越後国小泉庄の御家人=安達氏など、得宗勢力の拠点 得宗勢力が日本海側の交通の要衝

に権益を持っていた 「鎌倉末期、安達氏・二階堂氏をはじめとした幕府高官が日本海側の

所領(小泉庄など)に権益を持ち、日本海交通へのアクセス権を掌握していた」(清水.2007)

私見:得宗家及び幕府末期の特権層の所領は、得宗家が主体的に行った、鎌倉幕府末期の幕府儀礼の基盤になっていた

元亨四年(1324)下総国下河辺庄(金沢氏関係の所領)公事注文=「垸飯用途反別四十三文」

「元三用途反別■十文」=金沢氏が奉仕した垸飯役に用いられたものか(元三は正月の意)

七海雅人『鎌倉幕府御家人制の展開』吉川弘文館2001

新田氏への連続的な軍事動員・軍費の銭貨徴収⇒倒幕の先鋒へ

七海「『私領』をつぎつぎと売却しながらも、元弘動乱のなかで莫大な『天役』を賦課されつづけた国御家人の一つの結末」(七海.2001.p155)

田中大喜「長楽寺再建事業にみる新田氏と『得宗専制』」『中世武士団構造の研究』校倉書房 2011 →上野国内における新田氏と得宗家が、婚姻や勢力維持・拡大事業面での協力などから、相互に共生関係にあったことを主張「幕府(得宗)による世良田宿への多大な臨時役の賦課は、新田氏との『共生』関係を破綻させるに充分であった」(田中.2011.p215)

上杉和彦『鎌倉幕府統治構造の研究』歴史科学叢書1994

上杉「(鎌倉末期の)北条得宗家による新田氏への賦課は、大きな財力を持つ御家人がそれ相応の幕府への財政的奉仕を行うという自らが実践した論理をもとに、『有徳者』新田氏に対して行った『有徳銭』としての兵糧銭賦課」(上杉.2015.p183)

垸飯役及びその他の恒例役に加え、臨時課役は、土地を売却した場合でも「賣主」負担として新田氏の所領に賦課→末期に於いても新田氏の財力は、垸飯など幕府の行事に於ける供給源として期待されていた

私見:前述の本庄持長請取状・下総国下河辺庄(金沢氏関係の所領)公事注文も踏まえると、末期の垸飯用途は、財力に期待が持てる有力御家人・特権的支配層の所領に賦課されていた可能性が高い。


3、負担構造

垸飯役=関東御公事恒例役(垸飯・五月会流鏑馬役・大番役など)として賦課【史料⑥】

安田元久「『関東御公事』考」『御家人制の研究』吉川弘文館1981

安田元久氏の論によると、関東御公事は、承久の乱後に御家人統制強化の一環として、御家人に対する一般的な経済負担として恒例化・制度化された

盛本(前掲)「垸飯用途の賦課が確認出来るのは関東近国(上総・越後・上野・下野)に限定されていた。但し、鎌倉後期の関東御公事の賦課地域拡大の中で、関東圏外でも賦課された可能性は否めない」(盛本.1995)

桃崎有一朗 「鎌倉幕府椀飯役の成立・挫折と〈御家人皆傍輩〉幻想の行方―礼制と税制・貨幣経済の交錯―」 2017

→肥前青方文書【史料⑦・⑧】の記述「西国・鎮西にも垸飯役は賦課されており、全国的な地頭役だった」→この史料を以て全国的な地頭役と言い切れるのか

関東御公事は原則として銭納(安田.1981)

台明寺文書及び長楽寺文書では、売却所領に賦課される垸飯用途は買主の負担

=御家人など固有の身分を持つ一単位ではなく、土地の所有者に賦課されるシステム 負担者が御家人である必要は無い=(建前では禁止された)在地転嫁の容認傾向の背景?

土地が非御家人に譲与された場合、非御家人が役を負担することになる=御家人役である必然性が乏しい

御家人役ではあるが、当事者の御家人にとって「御家人である自身が負担しなければならない」という意識が乏しかった

守護所での垸飯用途賦課(大隅台明寺文書宝治二年十二月 鎌7030) 当時の守護=北条氏名越流が補任(佐藤.1971)宝治年間の守護所は名越時章の管轄にあったと推測(余談:宝治元年十二月に時章は京都大番役に結番(半年程度の勤仕が一般)している)

この史料に見える守護所垸飯の主体は名越氏の代官か 閏12月=翌年始の垸飯用途か

「毎年役」=当地方の恒例行事 

名越氏が九州の所領での裁判権や在国御家人の支持を得ていたこと、大住守護としての守護所を持ち、二月騒動で時章が討たれる文永年間前後までは鎌倉に置かれた守護所から、在国の守護代を通して守護の命令が伝達されていたことが先行研究で考察されている。また、同時に大隅現地の守護所も整備されていた可能性もある(秋山.2006.p134~135)

守護垸飯用途は買主負担 この史料の「守護所」は現地?鎌倉?

【史料⑧】少弐資能施行状案は、守護所垸飯など地方の荘園や官庁で行われた垸飯の費用の在地転嫁を停止するという意味合いも含まれている可能性もある→鎌倉で行った垸飯役が全国的に賦課されていたことを示すものでは無い 大隅守護所のように、地方の荘園や官庁で役人に対する垸飯が行われていた事は事実→そのための賦課も「垸飯役」と定義するのであれば、全国的に存在した課役形態と言えよう。但し、それは必ずしも御家人役であるとは言い切れない。→幕府側は御家人役と認識していたが、元来在地社会の御家人は、垸飯役が自分達の得分で捻出すべきものと認識していたのだろうか。

少弐の施行状にみられる「百姓役停止」のように、撫民のために荘園や地方官庁垸飯の負担が本質的には御家人役転嫁ではなく御家人の是非を問わず賦課された役であるために停止が行われたのではないか

【史料⑨】中山法華経寺紙背文書 

鎌倉在住の奉行人が垸飯用途を立て替えて幕府に支払い、本国にその費用を請求

鎌倉中期以降、年始垸飯が奢侈的・蕩尽的に行われる傾向が強まる中で、調達困難な銭による納入は、御家人にとって大きな負担 年々奢侈化が進行 費用がかさむ 奉行人の苦労

他の御家人役との板挟み 関東御公事には、朝廷から委託された内裏の修造などの一国平均役的な用途もあり、これらの資金調達も同時に兼ねる必要があった

→借金・所領の質入れ(七海.2001p186~187) 【史料⑩a.b】中山法華経寺紙背文書

★在地転嫁の禁止と実態

垸飯を含め、いくつかの御家人役は、御家人から在地の百姓の負担へと転嫁された

上杉「貨幣流通による経済の活性化が地頭御家人間に格差を生み出し、幕府からの賦課に応じることが困難と判断した御家人達が、安易に銭貨を調達しようとした」(上杉.1994)

高橋慎一郎「京都大番役と御家人の村落支配」日本歴史575号1996

高橋「身分固有の役を勤める機会を利用して、村落の均一支配への実現を目指した」

盛本「鎌倉幕府の年中行事を村落が支える構造が一部ではあるが存在した」(盛本.1995)

【史料⑦】青方文書「少弐資能施行状案」→同時期に発布された弘長の関東新制【史料⑪】に準拠して、御家人役の百姓転嫁禁止を豊前・肥前・筑前・対馬国の地頭に下知

在地転嫁が容認される御家人役……京都大番役・京上役は、一定量の百姓転嫁を幕府が容認(鎌倉幕府追加法三〇〇・三六九条)=国家的奉仕 「その重要性に鑑みて在地転嫁の全面禁止が出来ず、野放図な在地転嫁を防ぐ必要から定額化が図られた」(上杉.1994)

容認されない御家人役……垸飯役など幕府内の行事に関する用途=幕府への直接的奉仕

繰り返し禁令が出ていることから、実際は転嫁が恒例化していた

盛本「幕府は儀礼の縮小化による支出削減及び、それら御家人役の転嫁の禁止を同時に行うことで、御家人と百姓双方の負担を減少させることを図ったと予想。しかし、同種の追加法が繰り替えし発布されている事から、その試みは成功しなかった」(盛本.1995)

高橋典幸「御家人役研究の一視角」『鎌倉幕府軍制と御家人制』吉川弘文館1998

盛本氏が素材とした史料について高橋氏は批判 長楽寺文書の売券(鎌26803) 用途は買主の負担 是を以て在地転嫁されていたとは言い切れない(高橋.1998.p95~96、p109注31)


幕府が主催する正月垸飯以外にも、御家人社会では組織・個人的に催す「垸飯」があった

安達泰盛の弘安徳政で正月三が日以外の垸飯が禁止される(鎌倉幕府追加法、三六一・三六二条)など奢侈を抑制する禁令が出されるようになるが、効果は乏しかった。

→垸飯の奢侈を禁止する傾向は朝廷と連動か(鎌11420 三代制符)

幕府から朝廷に徳政を要求

文永11年の神社垸飯(鎌11602、11603)

幕府の下級役人(侍所雑仕・小舎人・雑色など)が正月に御家人邸を訪れ、饗応を強要(追加法三八四条)=幕府垸飯に対する個人的な垸飯 同条で禁止

「但行向奉行之許事、非制限矣」(鎌倉幕府追加法三八四条)=役人の御家人訪問は必ずしも私的な名目での訪問ではなかった =公務としての御家人訪問の際の饗応は、違法では無かったようである(盛本.1997)=御家人にとって不本意な負担?


垸飯には狩衣(布衣)で参加→「(衣冠・布衣などの)行事に相応しい装束は必ずしも常備されず、したがって行事への動員は装束調達費用を発生させ、御家人財政を圧迫した」(桃崎.2016.p6)


4、対捍問題

時頼執権期(建長年間頃)鶴岡八幡宮放生会などの勤仕対捍が目立つ

★背景

➀鎌倉殿の権威の変化「武家の棟梁→祭祀王へ」(永井.2019)=儀礼の形式化、勤仕することで直接得られる恩恵が感じづらくなる

➁寛元の政変・宝治合戦による大規模な有力御家人・将軍与党の滅亡で、将軍を支えようとする存在が、絶対数と意欲両面で激減 →御家人役の勤仕意欲低下、不服従問題多発

但し、宗尊の儀礼に対する積極的態度や、供奉人の人数に変化がないことなどから、近年では宗尊親王期に将軍権力が低下したとするのは誤りであるとする見解が近年強い(将軍執権連署列伝p92)

★時頼の幕府儀礼に対する態度:本来的に参仕義務があるが難渋する御家人を、理非曲直に拠る説得で押し切る姿勢(桃崎.2016) 

★その姿勢は時宗に踏襲=御的始の供奉人について、「射手に差し障りがあっても欠席してはならない」と審議(文永二年十二月十八日条)

頼経期以降、供奉人催促は小侍所の管轄となる 頼朝期の随兵の条件には武芸に秀でた「勇士」が理想像として求められていた(建保六年十二月二十六日条)(建暦二年一月十九日条)

「親王行啓」にあたり、「勇士」が供奉の条件から撤廃(建長四年四月十四日)

皇族将軍の登場は、鎌倉殿の性格から武威の面を取り除く結果を齎した(七海.2001)

※このような儀礼対捍に厳しい態度は、執権北条氏のみならず、宗尊親王自身も御家人の所役遁避が多いことについて時宗に詰問している(文応元年七月六日条)

★役を回避する御家人の動きが目立つ一方、家格を高めたい欲求から儀礼参加を積極的に望む御家人もいた(秋山.2006.p92)

佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店2001.初出1988

「御教書違背之咎」所領没収刑(『吾妻鏡』建長八年六月五日条)=刑罰の明記・厳罰化

→理非判断の強硬姿勢 御教書違背罪は、まず幕府儀礼興行の中で生まれ、後に裁判制度整備に転用された(桃崎.2016)→背景には御家人の幕府に対する不服従傾向

★垸飯役は、他の役と比べて目立った対捍は無い

桃崎有一郎「鎌倉幕府椀飯儀礼の完成と宗尊親王の将軍嗣立」『年報中世史研究』2016 41.p5

「垸飯は唯一、御家人が負担者と同時に経済的受益者となる行事であり、それ故に高い参加意欲を有した」⇒垸飯参加時の賜与によって、垸飯役の負担分を回収する意味がある

庶子(寄子)の未進・対捍が見られる【史料⑩a,b】

★垸飯用途負担には惣領制が採用 各武士団の惣領の責任の下、庶子である寄子と負担供出の連絡を取り合い、寄子の負担と惣領の負担を、惣領がまとめて納入

疑問:本来恒例役は惣領が単独負担する事が多いが、ここでは臨時役のように惣領制が使われているのは何故だろうか。

御所造営用途などの臨時役は、惣領制に基づく負担であることが指摘(七海.2001)

【史料⑩a】庶子が、同時に勤めていた臨時役(宇都宮五月会)を優先して恒例役垸飯用途を対捍し、惣領が全面負担する事態があった【史料⑩b】→所領を質入れして金策

=垸飯は得宗専制期を通して鎌倉末期まで行われ続けた。惣領は参加に高い意欲を有していたが、庶子による負担の遁避が問題になっていた。

私見:惣領と庶子の間で御家人役の優先順位が明確に共有されていなかったことにより混乱が生じた(惣領と庶子の間で、優先すべき役が何かという共有が為されていなかった)


鎌倉中期の御家人役負担の比重は、庶子の対捍や不都合により、惣領へと集中する傾向に有ったのでは無いか。+裁許内容不履行に対する強制執行力の欠如 ⇒末期幕府の御家人役負担に関する惣領権限の保障・強化政策についても、このような惣領制運用の不完全さを改善するための策と理解出来る(七海.2001p188)


4、垸飯勤仕者の座次(席順のランク)問題

垸飯の際、御家人は東西に別れて御所の庭に敷かれた筵に着座し、庭儀が行われた

執権・連署が大庇に祗候した例(正嘉二年元日条) 庭の東西に着座する御家人

→東西、それぞれに着座する御家人の特徴は何か

幕府初期の座次:長幼の序+朝廷から与えられた位階→頼朝の判断で決定(盛本.1997)

文治2年正月垸飯の際、五位の千葉胤頼が、父常胤(六位)の正面に座ったことが御家人間で物議を醸した(『吾妻鏡』同年元日条)=座次が位階によって決まるという認識が当時の御家人感には薄かったとも考えられる(上杉.1994)

頼朝が定めた「自筆式目」で儀礼の場での座次を制定(詳細不明)

『吾妻鏡』に遺された正月儀礼に関する記事(正嘉二年、弘長三年)では、時頼期まで決してその座次は位階によるものでは無く、寧ろ北条氏が上位を占めている状態(上杉.1994、桃崎.2018)=家格を位階に優先させた序列

正安元年(1299)、垸飯座次で「初めて」位次を基準にすると制定(【史料⑫】【史料⑬】)

→貞時政権が、それまでの北条氏に有利な規準を敢えて放棄したことを意味

上杉:幕府が朝廷の政治決定に積極的に介入しつつあるこの時期の情勢を踏まえて「将軍御前の御家人の座次に朝廷側の伝統的一般基準を持ち込もうとする幕政担当者の動向の到達点」と評価(上杉.1994)

近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書2016

得宗が朝廷社会へ積極的に介入したのではなく、朝廷側が得宗に公権力の行使を期待した

得宗は官制上に位置づけられない終身の地位 得宗家が社会的実力と比較して積極的な官位上昇を望まなかった(得宗家で従五位程度) 朝廷の秩序に収まりきらない幕府の独立的側面が存在している(近藤.2016.p251~256)

桃崎「北条氏庶子家に不利で、御内人に有利な秩序を儀礼の場で実現する、得宗家への権力集中の一環」(桃崎.2018)

得宗は庭儀に参加しなくて良い(桃崎.2013)=位次の影響を受けない 他の北条氏一門は血統的特権を奪われ、一般御家人と同じく位階で処理 御内人は家格では北条庶子に劣るが、位階では他の御家人と比肩し得る=得宗及び御内人にとってこの改革が有利に働いた

正安元年の改革により、得宗勢力への権力集中という現実の権力体制が、正月儀礼の場で表現され得るようになった これ以降の正月儀礼の座次については、現存史料からは不明確

私見:鎌倉時代を通して垸飯の座次規定は、頼朝の自筆式目に書かれた内容が慣習的に継承されたものの、それは家格・位階、此処の御家人勢力の盛衰により、かなり流動的であった。垸飯の座次規定は、当初は東国の武家独自の基準が濃厚だったが、皇族将軍の招聘など朝廷への接近に伴い、位次を重視するに至った。(或いは、朝廷が政治的決定で幕府を頼ってきたため、朝廷の価値観に迎合した儀礼整備をせざるを得なかった)

同時に、公卿や殿上人の鎌倉滞在・御家人の五位相当の官職勤仕などにより、儀礼の参加者・供奉人に高位高官のものが参入したため、彼らにも通用する序列を幕府儀礼の中で優先すべきと幕閣は考えたのではないか。

その一方で、官制上に位置づけられない得宗は、幕府儀礼において、庭儀への参加の有無に拘わらず、位次の影響を受けづらかった


*私見:泰時執権期 時房が元日沙汰人を務める 泰時より官位が先任かつ「叔父」という血縁的に敬意を払う存在 両執権の下知状でも時房が上位に署名(近藤.2016.p45)

→この頃から、正月椀飯に於いては座次に官位が影響していた

宿題:泰時・時房の官位官職調査




竹ヶ原康弘「鎌倉幕府における鎌倉殿家政と年中行事」『年報新人文学』12 2015

鎌倉殿の職制化?(議奏公卿設置・九条兼実の内覧宣下などの諸要求)→個としての祖先祭祀を除いた鎌倉殿の職務の成立=その一つが年中行事の主催者としての職務


摂家将軍以降:頼朝以来継続してきた将軍家儀礼と、九条家が鎌倉に用い込んだ儀礼が併存

九条道家は頼経の鎌倉下向後も積極的に連絡を取り合い、幕府の祭祀儀礼にも介入

頼朝と「家」が異なる摂家将軍は、源氏や北条氏ゆかりの儀礼からは距離を置き、「征夷大将軍」職としての幕府祭祀以外では存在感が希薄に。→頼朝期成立の源氏の祭祀は北条氏が継承=鎌倉殿の家司としての役割


四位~五位止まりの北条氏の官位 正二位頼朝の家政機関の後継者、ひいては御家人の主人となることは不可能 ※摂関家の家司は多くが四位~五位 摂関家家司と執権は官位的に同等身分 「法住寺は鎌倉殿家司の『家』として確立した」(竹ヶ原康弘.2015)


【今後の課題】

*他の正月儀礼との比較 放生会・的始など(用途捻出方法、座次、目的と政策)

⇒幕府儀礼の中に於ける垸飯、及び御家人役の中に於ける垸飯役の位置づけ

*皇族将軍(鎌倉殿)にとって垸飯への参加はどのような意義・メリットがあったのか

*御家人が負担する様々な儀礼の課役の中で、どの様な優先順位が設けられていたのか

*守邦・久明親王期の史料調査を進め、当期の垸飯の実施形態が具体的にどの様なものだったのか明らかにする。

*臨時椀飯と恒例の正月椀飯の差違(沙汰人・諸役、献上品、開催場所、座次)

*椀飯の諸役について、具体的に検討されていないものがある 御簾役・時刻役など

*「時刻役(筆者仮称)」の意義とパターン いつから・誰・何故? 他の儀礼でもある?

→臨時椀飯では時刻役が明記されることが多いが、恒例の正月椀飯では記述が無視されている場合が多い

頼経期時刻役:中条家長

*勤仕者が全員「御家人」であるとは限らない→幕府内部の服属・或いは紐帯確認儀礼としての側面以外にも、当儀礼を通して朝廷との関係性を確認する意義が在ったのでは無いか

調べること

➀元寇下での正月垸飯について

➁「吾妻鏡」に見える正月垸飯の時刻役、進物など全体を再確認

③源氏・摂家将軍期に御簾役はあったのか。武家の棟梁の御簾担当の有無、居たとしてどの様な人物が務めたのか 人物の特徴 源氏・摂家将軍の官途を確認 御簾が必要なのは

九条頼経期:飛鳥井教定(嘉禄二年元日条)一条実雅(貞応元年元日条)藤原実清(天福二年)将軍が病気の時は御簾を上げない(嘉禎二年元日条) 御簾役が表記されない年も多い 親王将軍期と比べてそこまで積極的に明記する必要が無いと吾妻鏡作者らは考えたのか

④鶴岡八幡宮参詣(年始・八月十五日放生会)の供奉人、儀礼手順、諸役 正月御行始の諸役→垸飯との比較 選抜方式

放生会参考:永井晋「『吾妻鏡』にみえる鶴岡八幡宮放生会」『神道宗教』172 1998

→御家人の官職の上昇、関東祗候廷臣の充実→将軍行列の前駆を勤める

土御門家=後嵯峨・宗尊親子の縁戚・近臣

⑤垸飯・御行始の時間帯は?→御家人の年始スケジュールを紐解く試み


垸飯後の御行始はいつ頃恒例化したか(吾妻鏡)


*「旅籠振舞」の禁止 史料レジュメ⑩ 御家人同士の訪問時に過剰な饗応・贈答

(弘長元年二月二十日関東新制)鎌8628

「為二人多煩一」=百姓からの収奪があった?(桃崎.2017)

盛本(2008)……「鎌倉と本領を御家人達が頻繁に往復したため、必然的に機会が増加」 :饗応の主催者平安末期~鎌倉=旅をしてきた本人(参上した御家人が主催か) →中世後期~近世にかけて、旅人を「迎える側」が主催者へと変遷


散在所領や鎌倉を行き来する御家人が増加するのに対し、幕政運営のために鎌倉に常駐する北条氏が幕府の役職を独占していく=幕府儀礼の北条氏による役独占は、他氏排斥ではなく、鎌倉に常駐しなければ勤まらない役を、消極的な他の御家人に代わって勤めざるを得なかった(秋山.2006.p116)



●最後に

幕府垸飯とは:中世の武家儀礼で、正月や代始などに将軍と家臣(御家人)が一同に会して行われる共同飲食。

手順:➀沙汰人から食膳が献上 ➁各担当の役人から引き出物(剣・弓・行縢・沓)の献上 ③馬の上覧 (『吾妻鏡』寛喜元年(1229)正月一日条)

展開:鎌倉幕府の年頭儀礼として発達→室町幕府・鎌倉府に継承→応仁の乱以降、幕府構造の変質・崩壊に伴って幕府公式儀礼から消失→近世以降は民間での年中行事に於ける饗応を垸飯と呼ぶようになった(二木謙一.1985)。


●先行研究と課題

八幡義信(1973)

主に承久年間以前に於ける垸飯の発足と展開について考察

北条氏が沙汰人を独占的に勤仕=御家人統制の手段として垸飯を利用していたと考察

村井章介(1984)

*沙汰人の変遷

最初期:千葉常胤のような宿老(年齢・人格・功績の質量といった個人的要素により決定される)が、代表として元日垸飯を沙汰→建久五年から源氏門葉の筆頭格として足利義兼が加わる(源氏という出自の重視=個人的な要素よりも、御家人を代表するに相応しい地位が重視)→執権が設置される前後では北条時政が出現。それ以降、元日の沙汰人に関しては北条氏が独占するようになり、たまに大江広元や足利などの例外はあるが、得宗家やその近親者を中心に時の執権や連署が勤める事が通例となる(御家人代表=執権)。

正月二日以降の垸飯は、当初は不定期→時頼期以降、正月三が日(元三)に固定

永井晋(1991)

垸飯儀式の参加者及び、主催者たる垸飯沙汰人ほか諸役人の列記・変遷の分析を通して、垸飯参加者の地位と実際の政治的画期(将軍独裁→合議制→執権政治→得宗専制)との照応が注目され、政権内部における権力の動向を考察する政治史的アプローチが成立

*沙汰人・諸役人の人選原理の解明

頼朝期:千葉常胤など坂東の有力御家人が沙汰人を務める(年齢・人格・功績の質量といった個人的要素により決定)。沙汰人の一族で諸役人を構成

頼家~泰時初期:合議制メンバー、幕府吏僚、将軍外戚、源氏門葉、その他有力御家人で構成→北条氏が沙汰人を寡占、三役に一族・幕府吏僚、有力御家人を配置

泰時執権期:沙汰人・諸役の北条独占化 元日沙汰人を北条氏家督が占める(足利氏が例外)

時頼執権期:人選原理の明確化 沙汰人=得宗・執権・連署・北条庶流・源氏、剣役=引付頭人か源氏 調度役=北条氏か評定衆級の御家人 行縢役=評定衆・引付衆級の御家人

元日沙汰人・三役は得宗・引付頭人・評定衆に固定(最高格式)、足利氏の例外を除き、大部分の主要役を北条氏が独占=元日沙汰人を頂点に、諸役・勤仕日が御家人秩序と対応

=「列席者は儀礼の中に投影された鎌倉幕府の秩序を読み取り、上層部の権力構造を体験することが出来た」

村井章介(1984)・永井晋(1991)・盛本昌広(1995)

執権政治期の正月垸飯=「北条氏を中心とした幕府の秩序を再現する『服属儀礼』」

桃崎有一郎(2013)(2016)

そもそも垸飯沙汰人とは、×儀礼の主役 ○裏方に徹した事務局長

北条氏は、沙汰人が傍輩代表として参仕する「紐帯確認儀礼」の理念を強調しようとした


●親王将軍期の垸飯について

七海雅人(2001) 桃崎(2016)

幕府主要行事は、得宗専制期にも衰退・廃絶していない

恒例行事(年始諸儀礼・鶴岡八幡宮祭礼・貢馬)、重要な臨時行事(将軍代始や新宅移徙に伴う儀礼)は、宗尊親王期までに成立した形態を踏襲し、幕府滅亡まで励行された

幕府垸飯は時頼期に正月恒例の年中行事として完成(同時期に他の年中行事も再編・整備)


★宗尊親王期(1252~1266)

*沙汰人(表➀参照)

時頼・重時は執権・連署の引退及び出家した後も、逝去まで元日沙汰人=時頼、

二日or三日=重時  公職を離れた後も御家人社会に於ける地位を継承

両者が勤めた元三沙汰人の役は、双方の家督と共に継承された(近藤.2016.p86)

*代始垸飯と進物

将軍就任時の饗応における進物の過差性

宗尊親王京都出発・途中の宿所・鎌倉入り当日に行われた垸飯に於ける大規模な進物(『吾妻鏡』建長四年三月十九日・四月一日条)→身分に相応しい豪華な進物を送ることで、皇族を推戴しているという認識を誇示(桃崎.2016)

*御行始めとの相関

*年始垸飯の直後、「御行始」で将軍が北条氏の屋敷を訪れる儀式の恒例化(泰時以降)

*御行始=将軍が有力御家人邸宅を訪れ、饗応を受ける(行き先は殆ど北条氏邸宅)

鎌倉後期には垸飯への返礼という形になる(吾妻鏡事典.2007)

進物の固定化(砂金・羽・剣・馬)=垸飯進物とほぼ同様 時間帯は未の刻が多い

進上する役人は、垸飯諸役人と同じ家柄(表➁参照)

建長五年以降、将軍御行始の供奉人を元日垸飯出仕者から選抜

【史料➀】(『吾妻鏡』建長五年十二月三十日条)

→幕府は誰が鎌倉に在住しているか完全に把握していなかったため、行事ごとに招集する

よりも、その時現地にいる者を母集団として招集していた(秋山.2006.p91)

年始の鶴岡八幡宮参詣も同様の方式の場合があった(毎年ではない)

「以二元日出仕人数一 為二鶴岡御参供奉一 被レ下二御點一」(弘長三年正月二日条)

→複数の年始儀礼で人材を共有し、連続して行うことで、儀礼運営を効率化

宗尊に随従した廷臣が関東に持ち込んだ?(桃崎.2016)


親王将軍期には一般の御家人以外にも、京下りの官人が鎌倉に定住するケース増加

垸飯においても、他の将軍儀礼と同様廷臣の参加が見られる。

京下り官人の、垸飯に於ける立ち位置とは(先行研究で余り触れられていない)

*土御門顕方の御簾役占有(表③参照)

御簾役とは・・・儀式の際に、御成した将軍の御簾を上下する役【史料②】(建長五年元日)

垸飯の諸役人の変遷とその人選原理は、永井氏の先行研究で明らかにされているが、

御簾役の人選については垸飯関係の主要な先行研究では具体的に触れられていない

将軍に身近な公卿や京下り官人が勤めるケースが多い(親王将軍以前は表記が少ない)

宗尊親王期:御簾役の表記が恒例化・担当者の固定化

土御門顕方が元三垸飯で御簾役を務める 他の儀礼でも、鶴岡八幡宮参詣や御行始などで、

御簾の側に祗候する描写あり(【史料③】建長四年四月十四日・正嘉元年二月二日)

土御門顕方とは何者か

鈴木芳道(2005)「宗尊に最も近侍した公卿・廷臣」

土御門顕方……村上源氏土御門家(執権北条氏と縁戚・後嵯峨擁立)

土御門定通の猶子で、関東下向後は足利長氏の娘と婚姻(『尊卑分脈』)。

私見:北条氏と縁戚である土御門家出身で、源氏と婚姻関係を結んでいる顕方は、鎌倉の武士と皇族の将軍や貴族との事務的な取り次ぎ役であると共に、精神的な距離感や身分差を仲介して両者を結びつける存在

時宗の元服儀礼でも宗尊(時宗に加冠)の御簾役を務めた(正嘉元年二月二六日)

鶴岡放生会で唯一の公卿として将軍御車の側に控える(建長五年八月十五日条)

宗尊追放時、息子顕実と共に上洛に同道(文永三年八月四日条)

出家して山科に隠居(『公卿補任』『尊卑分脈』文永五年十二月十七日条)

将軍儀礼では、公卿・殿上人が将軍の最も近くに位置して将軍に奉仕=当時の将軍権威が

天皇の権威と無縁ではなく、むしろ天皇権威によって保証され得るものであった(鈴木.2005)

私見

天皇権威のみならず、北条氏や有力御家人との個人的な関係(婚姻・縁戚)も活動に影響か

御簾役占有=武士である御家人と、皇族である宗尊の事務的かつ精神的な取り次ぎ役?


御簾役は朝廷の行事でも見られる(実躬卿記弘安六年一月十二日・正安三年九月十四日)

→幕府初期に関東に下向し、儀礼にも参加した京下り官人が持ち込んだ?(私見) 

宗尊親王以前(頼朝~頼嗣)では、御簾役は存在しているが記述が確認される年が分散して

おり、役人も貴族・官人系が目立つが固定的でない

承久四年元日:一条実雅 嘉禄二年元日:飛鳥井教定 天福二年元日:藤原実清

→特筆すべき存在ではなかったのか。

では、なぜ宗尊親王期に土御門顕方が恒例で勤め、かつ毎年特記されるようになったのか。


*御簾役はいつからか→【史料④】建久二年(1191)正月垸飯 御簾役=「前少将時家朝臣」

=平時家・・・平時忠の息子・上総広常の女婿

奥州合戦後・頼朝の正二位大納言・右大将任官。=「それまで散見された垸飯とは『儀式化』のレベルが異なっており、正二位大納言・右大将にふさわしい新しい儀式として執り行われた。その一つが『御簾役』の採用である。御簾役は、公家風であり、それを強く意識している」(石井.2017.p52) →その後、御簾役の表記は散見されるに留まる

私見:京下り官人が御簾役導入を提案→平家出身者で公家の儀礼に精通した時家を採用

→頼朝は直ぐに右大将を辞職 朝廷と距離を置こうとしたことで御簾役の意義も低迷か


宗尊は下向して直ぐに将軍宣下(11歳)、公卿身分=成長を待って叙位・任官された頼経とは逆 源氏や北条氏との縁戚関係も九条家と比べて希薄 宗尊に求められた立場は、御家人の主人「鎌倉殿」では不十分 征夷大将軍・公卿(政所開設資格)=政所始などの諸儀礼を短期間で実施可能にする(建長四年四月十四・十七日条) 宗尊の時期に御簾役の記録が恒例化するのは、彼が諸儀礼を執り行うに相応しい身分であることを強調するためか


親王将軍期の垸飯 鎌倉殿(親王)+御家人(得宗・北条氏庶流・得宗被官・幕僚・一般御

家人)+京下り官人(関東祗候廷臣)

【史料⑤】文永二年、御簾役に変化 

元日、土御門顕方の不参加(準備はしていたが御簾が上げられず) 二日は顕方

→それまでにも将軍の体調不良などで御簾が挙げられないことがあったが(建長八年)、

この時、顕方は催促により参上する準備はしていたが、何故か宗尊は参加しなかった

三日の御簾役に姉小路実尚……公宣の息子。正二位前中納言。文永八年十二月出家。

実尚は京都での活動が中心のため、鎌倉に常駐していた訳ではない(尊卑分脈) 

翌年、吾妻鏡最後の年は元三とも顕方が勤める

官位・官職が一般御家人より高い廷臣の鎌倉常駐&高い官職を勤める御家人の出現

→このように官制の枠組みでは身分がバラバラかつ、御家人とは言い難い人々が参加して

いるこの時期の儀礼は、傍輩間の紐帯確認儀礼の役割を果たしているとは言い難い。

傍輩たる御家人と、その他の人々を峻別する「御家人皆傍輩」理念とは裏腹


幕府儀礼に参加する廷臣は、鎌倉に常駐する者と出席を求められて下向する者に分かれる

「関東祗候廷臣」とは、鎌倉に下って長期に活動する者を指す表現と見る(永井.1998.p42)

廷臣の垸飯勤仕→幕府内部の服属・或いは紐帯確認儀礼としての側面以外にも、当儀礼を通して朝廷との関係性を確認する意義が在ったのでは無いか


*宗尊親王の儀礼に対する態度

八幡(1973)「時頼が垸飯を御家人統制の手段として利用した」

→実際は将軍が幕府儀礼を管理する体制が求められていた可能性がある

➀御行始めの供奉人選定:当初は時頼が選定していたが、宗尊のチェックも通されており、

建長八年には時頼の希望で宗尊自身が、垸飯参加者から選定の御点をつけている。

=宗尊は垸飯の参加者とそこに表現される秩序を把握する義務があった

➁成長した宗尊は、自ら鶴岡八幡宮放生会の供奉人選定も行う(将軍執権連署列伝p91)

③時頼期以降、幕府儀礼の御家人役対捍が目立つ 厳格な態度は時宗に継承

宗尊親王自身も御家人の所役遁避が多いことについて、時宗に詰問している(文応元年七月六日条)=以上の点から、親王将軍の幕府儀礼に対する積極的態度が窺える


*負担の増加と在地転嫁禁止

【史料⑥】建長三~五年 中山法華経寺紙背文書 

鎌倉在住の奉行人が垸飯用途を立て替えて幕府に支払い、本国にその費用を請求

鎌倉中期以降、年始垸飯が奢侈的・蕩尽的に行われる傾向が強まる中で、調達困難な銭による納入は、御家人にとって大きな負担 年々奢侈化が進行 費用がかさむ 奉行人の苦労

他の御家人役との板挟み 【史料⑥a】庶子が、同時に勤めていた臨時役(宇都宮五月会)を優先して恒例役垸飯用途を対捍し、惣領が全面負担する事態があった

=惣領は参加に高い意欲を有していたが、庶子による負担の遁避が問題になっていた。

儀礼に参加する惣領は積極的だが、在地性の高い庶子は負担を渋っていた可能性

【史料⑥b】→借金・所領の質入れを質入れして金策(七海.2001p186~187)

【史料⑦】弘長の関東新制(鎌倉幕府追加法三九八~四〇〇条) 垸飯役の在地転嫁禁止

繰り返し禁令が出ていることから、実際は転嫁が恒例化していた


★惟康親王期(1266~1289)

文永三年、宗尊親王更迭(七月二十日条)吾妻鏡最後の記録→惟康の推戴 

代始垸飯の記録無し 時頼期以降は完全に年始の恒例行事と化した幕府垸飯であるが、吾妻鏡の欠落により惟康以降の様相は不鮮明(開催されていたことは確実)

*臨時垸飯に関する記録

垸飯は、御家人一般に比して特に高い社会的地位にある人物が、特にめでたい機会に喜色を表すべく催された」(桃崎.2013)

惟康親王の新居移徙【史料⑧】(『建治三年記』7月19日条)

源頼朝の最初の移徙に際して行われた後の主要年始行事の形式を、忠実に踏襲している=鎌倉殿の再出発を強調したい得宗政権の意志(桃崎.2018) 惟康期の将軍移徙に合わせた諸儀礼は、得宗権力強化の一環としての、幕府の原点回帰という理念を表示する儀礼として、将軍の存在を顕示する機能を果たしていた 時宗自ら庭に降りて着座 惟康に厚い礼

惟康親王の源姓を称するための臣籍降下、正二位・右大将=頼朝の再来演出をされようとした(細川.2007)

得宗家嫡子の元服「御酒肴垸飯如元三」(『建治三年記』十二月二日条)

=この頃も元三垸飯は継続 

=「如元三」という表現から、得宗家督元服の際の垸飯は、元三垸飯に通じる特徴があった

将軍の移徙や得宗の元服が年始と同様に重要な「時」の区切り目と認識された(村井.1984)


*時宗政権の政体 時宗は山内殿で行われる寄合において、人事・裁許など政務全般を決定・指示 御恩や官途も、実質将軍は関与せず時宗が沙汰 

弘安年間の訴訟処理は、評定引付の実務作業を経て時宗が裁断(細川.2007)

→時宗が政権を維持する上で、垸飯は推戴する惟康の権威を顕示する絶好の機会


幕府が主催する正月垸飯以外にも、御家人社会では個人的に催す「垸飯」があった

安達泰盛の弘安徳政で正月三が日以外の垸飯が禁止される(弘安七年「新御式目」追加法五二一条)など奢侈を抑制する禁令が出されるようになるが、効果は乏しかった。

幕府の下級役人(侍所雑仕・小舎人・雑色など)が正月に御家人邸を訪れ、饗応を強要(追加法三八四条)=幕府垸飯に対する個人的な垸飯 同条で禁止

「但行向奉行之許事、非制限矣」(鎌倉幕府追加法三八四条)=役人の御家人訪問は必ずしも私的な名目での訪問ではなかった =公務としての御家人訪問の際の饗応は、違法では無かったようである(盛本.1997)=御家人にとって不本意な負担

【史料⑩】「三代制符」元三の饗応・垸飯の奢侈=「無益」 節約を命じる(鎌倉遺文11420)

→垸飯の奢侈を禁止する動向は朝廷も同様か 


★久明・守邦親王期 (1289~1308)(1308~1333)

久明:【史料⑪】『増鏡』→同時代史料ではないが、親王将軍の鎌倉入りに特徴的な、公卿の祗候、代始の関迎え、三日間の垸飯が記録されている。主語はないが、御簾役公卿(?)が御簾を上げる場面も描写されている。

『永仁三年記』元日条 元日沙汰人貞時 二日〃宣時 三日〃時村 

進物:剣・調度・行縢・馬 沙汰人・進物は従来の定型を踏襲

守邦:【史料⑫】元亨元年頃 金沢貞顕書状「抑昨日垸飯■■役事無為候」(鎌29271)

北条氏庶流である金沢貞顕が垸飯役を勤めていた可能性がある(盛本.1995)→これだけだは、此処で触れられている垸飯の性格は不明瞭

宗尊・久明は代始垸飯在り 惟康・守邦には代始諸儀礼(御行始・御馬始など)は行われたが、垸飯の儀は確認出来ず(守邦:鎌倉年代記裏書延慶元年条)

=京から下向してきた場合は垸飯が行われるが、鎌倉で誕生した将軍は行われなかったのか(惟康、守邦はそれぞれ前将軍の子息で鎌倉生まれ)=京下りの場合行われるのは坂迎え・三日厨など、垸飯の原型となった儀式の名残か

推測:親王将軍期の代始垸飯は関迎えとセット 京都から下向した将軍への歓待の意味か

*座次の変更

正安元年(1299)、垸飯座次で「初めて」位次を基準にすると制定(【史料⑬】【史料⑭】)

幕府初期の座次:長幼の序+朝廷から与えられた位階→頼朝の判断で決定(盛本.1997)

幕府初期には、座次が位階によって決まるという認識が当時の御家人間には薄かったとも考えられる(上杉.1994)

『吾妻鏡』に遺された正月儀礼に関する記事(正嘉二年、弘長三年)では、時頼期まで決し

てその座次は位階によるものでは無く、寧ろ北条氏が上位を占めている状態(上杉.1994、

桃崎.2018)=家格を位階に優先させた序列

→貞時政権が、それまでの北条氏に有利な規準を敢えて放棄したことを意味

上杉和彦(1994)

幕府が朝廷の政治決定に積極的に介入しつつある情勢を踏まえて「将軍御前の御家人の座次に朝廷側の伝統的一般基準を持ち込もうとする幕政担当者の動向の到達点」と評価

桃崎(2018)

位階が高い御内人の出現、庭儀の座に出席しなくて良い得宗、北条庶子家の家格排除

「北条氏庶子家に不利で、御内人に有利な秩序を儀礼の場で実現する、得宗家への権力集中の一環」と評価

近藤成一(2016)

得宗が朝廷社会へ積極的に介入したのではなく、朝廷側が得宗に公権力の行使を期待した

→この座次改革の理由を、得宗の朝廷に対する積極的態度に求めることは果たして適当か

私見 垸飯の座次規定は、当初は東国の武家独自の基準が濃厚だったが、皇族将軍の招聘など朝廷への接近に伴い、朝廷の伝統規準である位次を重視するに至った。(或いは、朝廷が政治的決定で幕府を頼ってきたため、朝廷の価値観に迎合した儀礼整備を行った)

同時に、公卿や殿上人の鎌倉滞在・御家人の五位相当の官職勤仕などにより、儀礼の参加者・供奉人に高位高官のものが参入したため、彼らにも通用する序列を幕府儀礼の中で優先すべきと得宗家は考えたのではないか。その一方で、官制上に位置づけられない得宗は、幕府儀礼において、庭儀への参加の有無に拘わらず、位次の影響を受けづらかった。

【史料⑬】前年には彗星の出現や元使(一山一寧)の国書持参など天変地異・外患

政治・社会的不安の中で、貞時が儀礼を変革する必要性を感じていたのでは無いか

*鎌倉幕府末期の垸飯

世良田長楽寺文書【史料⑮・⑯・⑰】・本庄持長請取状【史料⑱】から、幕府垸飯自体は行われていたと推定される

持長請取状【史料⑱】=新潟県史「(本庄か)持長請取状案写」 

出典:色部いろべ隆長編「古案記録草案 」所収文書 本庄氏は越後国小泉庄の武士

清水亮(2007)→越後国小泉庄について

「安達氏(得宗勢力)の所領 得宗勢力が日本海側の交通の要衝に権益を持っていた」

田中大喜(2011)上杉(2015)→世良田長楽寺文書の分析

鎌倉末期に於いても新田氏の財力は、幕府の経済基盤として期待されていた

【史料⑲】金沢文庫文書 元亨四年(1324)下総国下河辺庄(金沢氏関係の所領)公事注文

「垸飯用途反別四十三文」「元三用途反別■十文」

=金沢氏が奉仕した垸飯役に用いられたものか

私見

長楽寺文書・本庄持長請取状・下総国下河辺庄(金沢氏関係の所領)公事注文から、末期の垸飯用途は、財力に期待が持てる有力御家人・特権的支配層の所領を中心に賦課されていた

垸飯役=関東御公事恒例役(垸飯・五月会流鏑馬役・大番役など)として賦課

所領単位、原則として銭納(安田.1981)、関東を中心に全国的に賦課された形跡あり(盛本.1995)(桃崎.2017)

守護所での垸飯用途賦課(大隅台明寺文書宝治二年十二月 鎌7030)

大隅守護=名越家 中世には地方の官庁や寺社、荘園で行われる垸飯もあり、その用途は在地に賦課されていた

【史料⑳】台明寺文書及び長楽寺文書では、売却所領に賦課される垸飯用途は買主の負担

=御家人など固有の身分を持つ人単位ではなく、土地に賦課されるシステム=その土地の所有者が負担する原則 負担者が御家人である必要性に乏しい=(建前では禁止された)在地転嫁の容認傾向の背景? 非御家人に譲与した場合は非御家人の負担


●今後の展望

*御簾役の人選原理

*京下り官人の儀礼参加の様相→他の正月儀礼や、幕政面での活動も踏まえて

*惣領制下での垸飯役負担状況の個別的検討→儀礼に関わる御家人(惣領・庶子それぞれの立場)



【参考文献】

八幡義信「鎌倉幕府垸飯献儀の史的意義」『政治経済史学』85 号 1973

安田元久「『関東御公事』考」『御家人制の研究』吉川弘文館1981

村井章介 「執権政治の変質」『日本史研究』261号 1984

二木謙一「室町幕府歳首の御成と椀飯」『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館1985

永井晋「鎌倉幕府垸飯の成立の展開」『日本中世政治社会の研究』続群書類従完成会 1991

上杉和彦『鎌倉幕府統治構造の研究』歴史科学叢書2015 初出1994

上杉和彦「中世国家財政構造と鎌倉幕府」『歴史学研究』690号 1996

盛本昌広『日本中世の贈与と負担』校倉書房1997

高橋典幸「御家人役研究の一視角」『鎌倉幕府軍制と御家人制』吉川弘文館1998

高橋典幸「武家政権と本所一円地」『日本史研究』431 1998

永井晋「『吾妻鏡』にみえる鶴岡八幡宮放生会」『神道宗教』172 1998

七海雅人『鎌倉幕府御家人制の展開』吉川弘文館2001

高橋典幸「武家政権と戦争・軍役」『歴史学研究』755 2001

鈴木芳道「鎌倉時代における村上源氏の公武婚」『鷹陵史学』31 2005

瀧澤武雄『売券の古文書学的研究』東京堂出版2006

秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』吉川弘文館2006

細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 : 権威と権力』日本史史料研究会企画部2007

清水亮『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』校倉書房2007

田中大喜「長楽寺再建事業にみる新田氏と『得宗専制』」『中世武士団構造の研究』校倉書房 2011

赤澤春彦『鎌倉期官人陰陽師の研究』吉川弘文館2011

桃崎有一郎「鎌倉幕府垸飯儀礼の変容と執権政治」『日本史研究』613号 2013

竹ヶ原康弘「鎌倉幕府における鎌倉殿家政と年中行事」『年報新人文学』12 2015

近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書2016

桃崎有一郎「北条時頼政権における鎌倉幕府年中行事の再建と挫折―理非と専制の礼制史的葛藤―」『鎌倉遺文研究』37号 2016

桃崎有一郎「鎌倉幕府椀飯儀礼の完成と宗尊親王の将軍嗣立」『年報中世史研究』41号2016

桃崎有一朗 「鎌倉幕府椀飯役の成立・挫折と〈御家人皆傍輩〉幻想の行方―礼制と税制・貨幣経済の交錯―」『日本史研究』 2017

石井清文「正月椀飯儀礼の成立前夜―『吾妻鏡』建久元年条の検討を中心に―」『政治経済史学』 2017

桃崎有一郎「得宗専制期における鎌倉幕府儀礼と得宗儀礼の基礎的再検討」『鎌倉遺文研究』41号 2018

永井晋『鎌倉幕府の転換点 吾妻鏡を読み直す』吉川弘文館 2019

永井晋『鎌倉幕府は何故滅んだのか』吉川弘文館 2022



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