憎愛 1話
私が彼の姿を初めて見たのは、ある舞台の上だった。
その時私は、TVの恋愛ドラマにはまっていて、その中で彼はチェロ奏者で妻子のある身で不倫をする役をやっていた。彼の年は50歳。バラエティにドラマの宣伝で出れば、共演者を絶妙におちょくり、少年のような無邪気な顔で笑っていた。もともと舞台出身で、身長も低く、いわゆるイケメン枠ではない。それなのに、そのドラマで演じたチェロ奏者の彼は、SNSで「あの人にときめくときが来るとは思わなかった」と言われるほど、恰好よく、色気があった。
でも私は、その時恋に落ちていた。
いや2年も前から。
今だかつてないほどの、身を焦がす恋。
と言ってもその相手は彼ではない。
男すらでもない。
ミュージカル女優の「江藤百合子」
長身で細身、卓越した歌唱力を持ち、なにより美しかった。
私は、彼女を愛していた。
元より、私は男性が好きなはずだった。
しかし、江藤百合子のミュージカルの舞台を観て、私の常識はどこかへ行ってしまった。
彼女に近づこうと、ミュージカル女優を目指すようになったのだ。
それは、私にとって大きな挑戦だった。
私は、江藤百合子に出会ったとき自分自身をそっくりそのまま変えようと思った。
慣れない東京での一人暮らしにすっかり疲弊し、大学に行くこともままならず、これから一体どうしようと思っていたけれど、彼女に出会って、私は目的を見つけた。
彼女と結婚しよう。
彼女と共演できるような人になって、このみじめな人生から抜け出すのだ。
その一心で、歌を習い始めた。
ミュージカルに必要な歌と踊りと芝居。
2週間に1度の歌のレッスンと、その隙間にダンスも始めた。
芝居のレッスンをする時間はなかったため、そのままでいいことにした。
大学にも真面目に通いだした。
勇気を振り絞り、どの授業にも出席した。
必死に勉強した。
単位を取り、この大学を卒業するのだ。
全ては百合子さんのために。
いや、全ては自分のために。
私は、夢見ていた。
大学を卒業し、ミュージカル女優として花開き、百合子さんと愛し合う未来を。
荒唐無稽な夢を。
それを信じているうちは、どんな辛い日も耐えられた。
たとえ両親に愛されていなくても、過去が悲惨でも、人生はいつからでも変えられるのだと、希望に満ちていた。悔し涙さえも美しく感じた。
でも、人生は残酷で、現実は厳しく、私はミュージカル女優にはなれないのだと悟った。
そのことに気が付くのに、江藤百合子に出会ってから4年もかかってしまった。
私は、彼を舞台で観たことも、その後軽い気持ちで舞台の感想をつづったファンレターを送ったことも、すっかり忘れてしまった。
でも、あの時彼の舞台を観たことが、その後ファンレターを出したことが、自分の人生を思いもよらぬほうへ運んでしまうとは、夢にも思っていなかった。