Episode7 天竜暦136年 三百年を越えて
町へと入ってみたが、全く見覚えのない町だった。とはいえ、当然のことだが祖国を出てから二百五十年以上が経っており、そこがグレナディアなのかどうかすら判別できない。
道ゆく人に聞くと、この町はレーシュトと言うらしい。レイアの転移魔術で失敗などあり得ないと思われる為、この町もグレナディアの中なのかもしれない。かつては一つの城塞都市が唯一の町であり、小さな港と周辺の平野のみが領土だったが、勢力図がどうなっているか分からない。
宿を探しつつ町を歩いていると、この町にも港があるという。付近には魚を発酵させて作る魚醤という調味料を付けて焼いた魚が食べられる店があるというので、向かってみることにした。
それほど大きな町ではないが、グレナディアの町よりはかなり広い。まだ昼にもなっていない時間なので、あちこちで雪掻きをしている人々がいて、寒さをものともせずに走り回る子供達がいる。懐かしい光景だった。途中、芋を焼いたものを持った人が何人かいた。歩いているうちに販売している店を見つけたので、ひとつ購入する。
ユグルはステイオンが旅した三つの大陸、そのどこでも栽培が可能である。寒い地域でも栽培でき、年に複数回収穫が可能な為、ユグルさえあれば人々は飢えることがない。どこの国でも庶民の強い味方である。不思議な野菜で、収穫したては白身の魚のような味がし、炙ると脂っこい味になる。数日寝かせると生では食べられなくなるが、火を通すことでほくほくとした甘みのあるものになる。また、見た目は似ているのだが、国や地方で色や味が大きく異なることもあり、ステイオンは色々な国で色々なユグルを食べてきた。
この町のユグルは紫色の皮と黄色い身をしている。その特徴は祖国と同じものである。やはり祖国に近いところなのだろう。長く寝かせると蜜のような濃厚な甘さになるユグルであり、ざっくりと塩を振ったものは甘じょっぱくて非常に美味しい。
遥か昔の故郷の味に、ステイオンの何かが揺さぶられるような感覚があった。
そして港へ出て、ステイオンは気付く。
町並みは全く変わっているが、岬の迫り出し方、遠くに見える小島、三百年前から変わらぬ灯台。
(ああ、吾輩は…帰ってきたのであるな)
ステイオンの目から、涙がこぼれた。ミミノが死んだ時も流れなかった涙が、なぜ海を見ただけで流れたのか、分からない。
「グレナディアは、百年前に隣のウステニアに併合されたんだって」
いつの間にか、隣にレイアが立っていた。
「そうか」
「レーシュトっていうのは併合時に派遣された代官の名前。グレナディア王族はウステニア貴族になって、本国で暮らしているみたい」
「そうか」
「あなたのブラーシュ家も、もうないみたい」
「そうか」
それ以上話すことがなくなったのか、レイアは無言になった。ステイオンは真っ直ぐに海を見続けた。どれほどの時間そうしていたのか分からない。
「レイア」
「ん?」
「感謝する」
「…お腹空いた。何か奢って」
近くの食堂に入った。ちょうど昼時を過ぎた頃である。どうやら随分長い間、海を見ていたらしい。体が冷え切っていて、店内の焚き火の熱がありがたかった。
魚もステイオンの記憶にあるものだった。だが、魚醤などという物はステイオンの記憶にない。串に刺した細長い魚に魚醤を塗り込み、焚き火台の周りに刺していく。焚き火の上には煙を外に逃す金属製の筒があり、焚き火の真上の火に近い部分はけむりを大きく逃がさないよう、大きく広がっている。その広がった部分に何かの粉を練った平たい生地を貼り付けている。
やがて魚醤の焼けるにおい、魚の脂がぱちぱちと焚き火を鳴らす音がしてくる頃には、生地はこんがりと焼き上がる。
焼きあがった平たいパンが机に置かれる。皿代わりになるようだ。その上に魚がどんと乗せられる。串を持ち、まずは腹にかぶりついた。
香ばしく、そしてガツンと舌に刺激が来る。それは濃厚な刺激だった。塩と、魚が熟成されることでどろどろになった旨味の刺激だ。身の歯応えはあくまで軽く、するりと喉に溶けていく。しかし一口食べた後でも、とてつもない余韻が口に残っている。濃すぎて口が痛いくらいだ。そこで余韻の残る内にブールをちぎって食べると、麦の爽やかな風味が口をさっぱりと洗い流してくれる。すると、舌が刺激を求めて魚に手が伸びる。
魚を食べればブールが止まらず、ブールを食べれば魚が止まらない。魚は部位によって更に味が変わり、特に背中の部分はいっそう蕩けるようだった。
「これは美味しいわねぇ!百年ぶりくらいのヒット作だわ!」
レイアも気に入ったようで、結局魚とブールの組み合わせをレイアは二組、ステイオンは四組腹に納めたのだった。
食後に水を貰い、喉を潤しているときだった。二人の席に近付いてくる者があった。
「失礼、貴殿は騎士だろうか」
男は上等な外套を着ており、恐らく貴族と思われた。
「いかにも騎士であったが、今は主のおらぬ流れの傭兵である」
「ほう。であれば、傭兵として頼み事を聞いてくれまいか」
「内容によりけりである」
「もっともだ。同席させていただいても?」
「吾輩達は既に食事を終えておる。店に迷惑が掛かる故、場所を変えて頂きたい」
「ふむ。お待ちあれ」
男は店主に何事かを話し、金を握らせた。店主は渡された金を見て驚き、笑顔で引っ込んでいった。
「これで良い。しばらく席を貸りた」
どうやら、かなりの権力、財力を持つ貴族の使いらしい。男は着席すると、居住まいを正した。
「某はレーシュトの領主家に仕える騎士、ユーリ・ド・ロード・エラン。かの英雄ステイオンと同じ、ブラーシュ家の血を引く者なり」
二人は固まった。レイアは今にも笑い出しそうだし、ステイオンは完全な無表情である。
ステイオンには妻も子もいなかったので、恐らく兄弟姉妹の子孫なのだろう。男はほんの少し訝しげに二人を見た。
名乗られたのに名乗り返さないのは無礼である。しかし、ステイオンは嘘などつけない男だった。
「…ステイオン・ド・ゴーリ・ブラーシュである」
「…なんと?」
「吾輩は三百年前、女神より聖騎士に任命されたステイオン本人である」
ユーリは眉を顰めた。
「我が一族の英雄の名を騙った者を、我が一族がどうしてきたか、其方は知らぬのか」
「知らぬ。三百年ぶりに来たのだ」
「ふむ。では教えてしんぜよう。其方に決闘を申しこむ」
「…良かろう」
領主の館に修練場があるというので、そちらへ移動する。移動している間、レイアはにまにまと笑いをこらえ続けていた。
木剣が渡される。広い修練場には領主の騎士や従士達が訓練をしていたが、すぐに場所を開けられた。やはりユーリは高位の騎士のようだ。騎士達は興味深そうに二人を見ている。と、そこへ身なりの良い男が従者を従えてやってきた。
「何事か、これは」
ステイオンとレイア以外の全員が礼をしたのを見るに、領主だろう。二人は領民ではないので、初めに礼をする必要はない。
「は。この者が我が一族の英雄ステイオンの名を騙ったため、決闘を申し込みました」
それを聞いて、領主はステイオンを見た。そして、腰に差した剣を見る。
「…ふむ。この町で領主をしておるボルディオス・エル・クード・レーシュトである。貴殿らは旅の者であるな?」
「お目にかかれて光栄である。我が名はステイオン・ド・ゴーリ・ブラーシュ。三百年前、女神の使命を得て旅だった聖騎士である。旅の途中で故郷が懐かしくなり、立ち寄った」
「そうか…。久方の故郷を楽しませてゆかれよ。してユーリよ。旅の方々にまで決闘を仕掛けるでない。我が領民でも、この国の民でもないのだ」
「申し訳ございません。しかし、我が一族の英雄の名前を騙られることを許しては、全ての先祖様に申し訳が立ちません」
「頑固者め。…旅の方よ、貴殿が不本意であるなら、我の権限において取り下げさせることもできるが」
これは素性も知らぬ旅人に対しては、非常に好意的な申し出である。ユーリの訴えを無視することになれば、部下達に不満が生じる。
「吾輩は構わぬ」
「そうか。では、人死にのないように決着を付けたまえ」
二人は了承し、離れた位置で向き合った。ユーリの構えは隙がなく、相当な手練れであることが見て取れる。
が、ステイオンには関係がなかった。無造作に近づいていく。ユーリは一瞬戸惑ったようだが、すぐに全力の斬り込みをしてきた。まっすぐ上段から、そこらの騎士では動き出しも見えなかったであろう速度の斬撃であった。
が、次の瞬間木剣はユーリの手になく、ステイオンの木剣が首元にあった。ユーリにも、その場にいた騎士達にも、恐らく何が起こったのか分かった者はいない。レイア以外には。
ユーリが愕然として固まる。そして、己の木剣がステイオンの手にあることに気付いた。刃に当たる部分を掴んでいる。ユーリの木剣をよけ、切っ先が止まり体勢が止まった瞬間に、掴み取ったのである。
誰もが息を呑み、修練場は静まり返った。そして、すぐに手を叩く者がいた。領主ボルディオスである。
「何をしたのかは分からぬが、見事なり。ユーリよ、そこな御方は名を騙ってなどおらぬようだ。腰の剣は、ブラーシュ家の紋章が入っており、かの家に伝わるステイオン殿の剣の風貌とも一致する」
「…そ、そんな…まさか…」
「我も剣を見ただけでは半信半疑だった。しかし外見も伝聞上の英雄殿と一致するし、今のわざを見るに、本物と考えざるをえん」
「随分詳しいのね。調べたら、ブラーシュ家は無くなっているみたいだったけど。伝聞が残っているならユーリくんは何で気付かなかったのかしら」
急に話に入り込んできたのは、ここまで領主にもユーリにも名乗らずにいたレイアである。しかし、ボルディオスは気を悪くするでもなく答えた。
「ブラーシュ家…ステイオン殿の兄の直系の娘が我が祖母であるのでな。ユーリもステイオン殿の妹夫妻を祖とする分家の子孫だが、本家の我の方が、多くの逸話と財産を継いでおる」
「そういうことね」
「して、其方は何者であるのかな?」
「あいつの使命で討つべき魔女だけど?」
ボルディオスは一瞬目を丸くした。そしてすぐに笑いだした。
「どうやら、今も英雄殿の伝説は続いておるようだ」