Episode16 天竜暦285年 少年皇帝
講和条約の内容が固まり、調印式に少年皇帝も来た。彼は戦争の責任を取り、処刑が決まっている。貴族に踊らされ女神に弓を引き、そしてその貴族の多くに見捨てられて。貴族達の国を侵略したのは彼ではなく、その祖先である。彼自身は初めての侵略戦争が今回だった。しかし、そうして皇帝として敬われていた筈の、彼を守ろうとする貴族は極僅かだった。
僅かな供を連れ、少年は堂々とグレーイルに来た。周囲の貴族が軒並み逃げ出した今、自身も逃げることができたはずである。大部分の領土に独立された今、首都には政治的空白が生まれるだろうが、それはつまり講和条約など今の状態では大した意味がないということでもある。皇帝が行方不明になろうとグレーイルも困らない。それでも彼は来た。
供は皆、悲痛な顔をしている。少年だけが穏やかな顔をしていた。聖王の前で、彼は跪いた。
「わたしの力が及ばなかったため、多くの死者を出してしまった。我が民に慈悲を下さることに感謝を申し上げる」
グレーイルに戦争を仕掛けてくる王はどんな愚か者か。傀儡に甘んじるとはどんな愚か者か。いやいやまだ子供なのだ。そう思って皇帝を待っていたグレーイルの人々は驚いた。
立ち居振る舞いは威風堂々、話す言葉は理知的で、己の死を前に少しの動揺もない。敵なれど、もし数年の猶予があれば、帝国を掌握して繁栄させる名君になったのではないかと、齢十二の少年を誰もが惜しんだ。
そして、そういう者を誰より惜しむ男をレイアは知っていた。彼は特に、子供の理不尽な死を非常に嫌う。
だからステイオンが面倒なことを言い出す前に、レイアは聖王の前に出た。彼女なら今代の筆頭聖女にして、戦争を勝利に導いたアレーナとして、聖王に直接意見を具申することができる。いくら戦果を挙げても、騎士が同じことをすれば問題になるので、馬鹿な騎士を先んじた。
ちなみに実のところ、ステイオンは何かを言うつもりはなかった。レイアならきっと悪いようにはしないと、最初から信じていたのだ。己が魔女をそう変えたとは、全く気付いていない。
「聖王猊下。此度の戦において、皇帝陛下は直接指揮をとったりはしておりません。宣戦布告も何もかも、帝国の政治を思うがままにしていた貴族の仕業と判明しております。かの者には、いずれ天罰が下ることでしょう。また、帝国はもはや瓦解しております。このような少年を処刑するのは女神様もお望みではありません。あたくしとステイオンが身柄を預かりたいと思います。生涯を女神に捧げさせ、罪を償わせるのです」
その奏上は聞き届けられ、少年は助命された。子を成すことを禁じられ、彼は数年神殿に仕える。そしてある時、聖女アレーナと守護騎士と共に、ガレッド車の事故で死亡する。
「どこか行けって、何を言ってるんだ。わたしは教会で罪を償わなければ…」
ガレッド車を谷底の川に落としたレイアの前で、十五歳になった少年は狼狽えていた。
「あたくし達には使命があるの。教会に縛られているわけにはいかない。戻るなら戻るで好きにすればいいけど、あたくし達のことは死んだことにしてちょうだいね」
「そんな勝手な…。その使命とは女神様の使命か?それならわたしにも手伝わせて欲しい」
「女神の意思に沿ってはいるけど、女神からの使命ではないわ。それに、足手まといを連れていく余裕はない」
レイアの冷たい物言いに、少年は黙るしかなかった。
「神殿に戻るか?」
ステイオンが問う。
「…生涯を女神に仕えて罪を償えと言ったのは、アレーナ様じゃないか」
「あれは其方の命を助けるために言っただけだ。当時権力を周辺貴族に握られていた子供に罪を押し付けるなど、許されることではない。大人であれば、王として責任もあろうが、其方は子供だった」
「…それでも、わたしは王だったのだ。責任は果たさなければならない」
「その志は立派だが、既に国はない。…国を再興したいか?」
「そうは思わない。また余計な争いが生まれてしまう。首都の辺りはリスタード卿が治めているのだろう?彼なら安心だ」
神聖ティーリアン帝国の首都だった辺りは、首都に隣接する領を治めていた、貴族が自国領として宣言した。周辺国は女神の怒りを恐れ、手を出してこなかった為、比較的平和に人々が過ごしているらしい。
「彼が守ってくれていなければ、首都の人々の生活は悲惨なものになっていただろう。邪魔をするつもりはない。ティーリアンはわたしで終わりだ」
「国としては終わりであろう。しかし、其方はまだ若い。一人の男として生きれば良い」
「…一人の、男として…?」
それは少年にとって、考えたこともないことだった。生まれた時から次代の皇帝として生き、戦争に負けてからは教会に捧げる毎日。これまで彼に、自由などはなかった。
「剣士でも、農民でも、商人でも。其方は自由だ。皇宮や教会とは違う、様々な世界を見ることができる。皇族の血を忘れるのならば、リスタードに行っても良い。リスタード卿は其方の正体を隠し、面倒を見てくれるだろう。騎士として、ティーリアンだった土地で、民のために生きることもできるのだ。自分で決めろ。教会に戻って、生涯を捧げるのも自由だ。つまらん意地で一つところに縛られるには、勿体ない素質だと思うがな」
少年はすぐには決められなかった。見かねたレイアにより、とりあえずは連れていくことにした。それに、帝国で戦争を画策した貴族の何人かは、さっさと始末がしたかったので、彼の情報は役に立つ。レイアが魔術で『見る』ことだけでは分からないことも多いのだ。
何人かの元ティーリアン貴族に神罰を下し、後始末をしたりしつつ、三人で世界を飛び回った。少年はレイアの魔術に驚き、色々な町を見て、人々に出会い、多くの経験をして数年を過ごした。そしてある日、旅立ちを告げた。
「わたしは騎士になるよ。世界中で、人々は苦しんでいる。わたしにはそれをどうにかする力はない。ただ、我が民だった人々を少しでも守りたい。しばらく一人で修行の旅をして、もっと色々な物を見てくる。レイアの魔術は便利だったけれど、自分の足で歩かないと、得られないものもあるだろうから。いつかステイオンのような騎士に少しでも近づけたら、リスタードに行くよ」
「こいつみたいになるのはやめておきなさい。堅物だしつまらないし、だいたい数百年修行してる馬鹿には追いつけないわ」
「追いつけるとは思っていないが、ステイオンのように高潔に生きたいんだ。レイアだって、そんな人だから好きなんだろう?」
「…言うようになったわね」
「気を付けて行け。かなり鍛えてやったつもりだが、油断すればどんな達人でも、死ぬときは死ぬ」
「ありがとう。いつかリスタードに来ることがあれば会いに来てくれ」
「そういえば、リスタードに行くなら、名前を変える必要があるんじゃないの?」
「それもそうだな。では今日から…アレイオンと名乗ろう」
「…それ、誰から取ってる?」
「ふむ。達者でな、アレイオン」
「二人も頑張ってくれ!もしわたしに力になれることがあれば、いつでも来てくれ!」
そうして青年は旅立っていった。
神聖ティーリアン帝国の崩壊が百年戦争の始まりとされているが、後の史料に神聖ティーリアン帝国の最期の皇帝の情報はほとんど残っていない。
多くの歴史家は、グレーイルの戦争の責任を取り、処刑されたものと考えた。彼のその後を知るのは、大魔女と聖騎士だけであるが、その物語も歴史の闇に消えていった。