天秤の恋人
犬好き、猫好きの方は御不快になられる個所が多々あります。ご注意ください。
朝は苦手だ。最近眠る時間が遅くなっているのも原因の一つだろう。目覚まし時計が起きる時間を告げても、中々瞼は開かない。
何とかうっすらと瞼を押し上げると、カーテンの隙間から漏れる朝の光が一筋の線となって、部屋の一部を照らしているのが目に映る。
狩野恭はいつまでも鳴り止まない目覚ましのベルを止めるべく、ベッドから腕を伸ばし、手探りでスイッチを押した。
そのまま時計を掴み枕元まで引き寄せ、まだ霞む目に近づけた。
午前八時三十五分。
「うー、起きるか」
一つ唸って恭は身体をベッドの上で起こす。時計をベッドの上に放ると、足をベッドのから下して立ち上がった。
昨日脱ぎ散らかした洋服を跨いで、部屋を出る。
廊下に出ると、薄くコーヒーの匂いが漂ってきた。
どうやら、もう一人の住人はすでに起きているようだ。
恭はコーヒーの匂いが漂ってくる居間の前を通り過ぎ、脱衣所に向かう。まず顔を洗い、歯を磨くとだいぶ頭が冴えてきた。
鏡に映る自分の顔はいつもと変わりない。
まだ寝ぼけた顔をしているが、少し伸びてきた茶色い髪に、吊り気味の目。
恭はヘアワックスで髪型を整える。休日で高校は休みだが、午前九時半から人と会う約束がある。面倒くさいが仕方ない。コレは家の仕事で、恭には断ることが出来ないのだから。
恭が居間へ入ると、案の定双子の兄圭がダイニングチェアに座って、新聞を読んでいた。彼の前のテーブルには多分冷めていると思われるコーヒーの入ったカップが置かれていた。
「お早う。圭」
声を掛けて圭の前に座ったが、圭からは何の反応もない。
圭は真剣に新聞に目を通している。双子として生まれたのに、圭は余り恭と顔立ちは似ていない。
染めていない黒髪は短く、切れ長の涼しげな目許をしている。すっと通った鼻筋に形の良い唇。はっきり言って美少年の部類に入るだろう。
恭としては余り面白く無い事実だが、しょうがない。
「お早う。圭」
恭はもう一度、圭に向かって言ってみた。だが、やはり圭の反応はない。
「圭。お早う」
腹が立ったので、今度は大きな声で言ってみたが返事は無い。
そこで、恭は圭の前に置いてあるカップを持ち上げて、彼の前で振ってみたが全く無反応だった。
「……」
コイツ絶対気づいてて無視してやがる。きっと昨日オレが、圭のリクエストを無視して鯖の味噌煮を夕飯に出したのを根に持ってるな。
恭は立ち上がって、出来るだけはっきりと聞える様に大きな声でこう言った。
「さーて、朝飯作るか。昨日卵買ったからオムレツにしようかなー」
ちらりと圭を見ると、圭と視線が合った。
無言で何かを訴えてくる圭に、恭はニヤリと笑った。
「圭、お前も食う? オムレツ」
「……」
「食いたいなら食いたいって、はっきり、口で言えよ」
少し意地悪く言ってやると、圭はむっつりとしながら低い声をだした。
「食う」
「よっしゃ。オムレツにクロワッサンもつけてやる」
そう言って恭は圭に背を向けてキッチンに入った。そこで小さくよっしゃとガッツポーズを取る。
よっしゃ勝った。圭を喋らせたぞ。
恭は一頻り喜んだあと、ふと考えた。
でも、オレなんでこんなことに必死になってんだ? それに結局オレが朝飯作ることになっちゃったじゃん。
もしかして圭のやつそれを見越して黙ってたんじゃ……。考え過ぎかも知れないが恭は圭がほくそえんでいる姿を想像してしまった。
恭は卵を割って溶きながら、少し虚しくなったのだった。
*
「あのう、本当にあなた方が御祓い屋の方なんですか?」
既に五度目の質問に、恭と圭は顔を見合わせた。場所は自宅のマンションから程近い喫茶店コキア。そのコキアの中でも一番入り口から遠い、目立たない席に恭達は座っていた。
彼らの前には若い女性が座っている。
吉住和佳子、二十三歳。この人物が今回の依頼人だ。二十三にしては幼い顔立ちをしている。明るい色の髪は長く彼女の丸顔にはとても似合う髪形だった。
彼女は細身の体を春物の薄い桜色のスーツで包んでいる。
彼女はちらちらとこちらを伺うように視線を上下させ、テーブルの上で組んだ指をもじもじと動かしていた。
恭は隣に座っている圭を肘で小突いた。何とかしろということだ。圭は実に女受けの良い顔をしているから、女性の依頼人の時は大抵圭に説明を任せるのである。
「吉住さん。安心してください。今日僕らが、あなたをここへ呼んだのは、父からあなたを助ける様にと依頼があったからです。あなたは父に仕事の依頼をなさったんでしょう?」
吉住和佳子は頷いた。
父の仕事は先ほど和佳子が言った御祓い屋である。正式名称は狩野御祓い事務所であるが、まあ御祓い屋で問題はない。
つまるところ、恭の実家は妖怪や魔物悪霊の類を祓う仕事をしている。そしてその資質のある双子もその仕事の手伝いをしているというわけだ。
「ごめんなさい。疑っているわけじゃないんだけど、想像していたよりお若かったものだから」
吉住和佳子はまたおどおどとそう言った。
恭はそれって十分疑ってるだろう。と思うが口には出さない。
「大丈夫です。僕ら十歳の頃から仕事してますし、父も僕らに出来ない仕事はこちらに振りませんから」
圭はそう言って営業スマイルをした。恭は内心冷や冷やしながらことのなり行きを見守った。
余り依頼人がごねていると、圭がいつキレるか分からないからだ。圭は大人しい顔立ちの割りに短気なのである。
圭がそろそろ限界に来ているのは見ていれば分かる。笑顔を作っている口元が少しひくひくと動いているからだ。
「そうですね。では、あの、お話します」
吉住は目の前に置いてあったコーヒーを一口啜ると話し始めた。
恭は良かったと内心胸を撫で下ろしながら、吉住の話を聞きに入る。
「実は私もうすぐ結婚するんですけど……何日か前からフィアンセの様子がおかしくなったんです」
「おかしいと言うと?」
恭が聞くと吉住和佳子は怯えたように目を伏せた。
「おかしいと思い始めたのは十日くらい前だったと思います。彼の部屋に行った時、妙なものを見つけたんです」
「妙なもの?」
恭と圭は異口同音に聞いた。二人の反応に驚いたのかちょっと目を見張って、吉住和佳子は答えた。
「箱だったんです。小さな段ボール箱。その中に……その中に猫の死体が入っていたんです」
口元を押さえて彼女は言った。眉を寄せ、必死でその時の情景を追い払おうとしているかのように見える。
恭も想像してみた。何気なく開けた箱の中に冷たくなった猫の死体を見つけたらどんなに驚くかしれない。それも好きな人の部屋で。
「でも、もしかしたら近所で死んでた猫に墓を作ってやろうと思って、一時的に部屋に置いておいただけかもしれないだろ」
恭は希望的観測からそう言ってみたが、それが真実だとは思っていない。案の定、彼女は首を横に振った。
「いいえ。私、見つけた時悲鳴を上げたんです。箱を開けたの彼に見つかって。怒られるかもしれないと思ったんですけど、彼は機嫌よさそうにこう言いました。近所で拾ったんだ。美味そうだろうって」
恭は悪寒が走るのを感じた。猫の死体を見て美味そうだなんて正気を持った人間とは思えぬ発言だ。
「うえー、気持ちワリー」
ついそう口走って、恭は圭に足を思いっきり踏まれた。
痛くて顔を顰めて圭を見ると、圭は済ました顔でそっぽを向いた。
「スミマセン」
一応謝ると、吉住は首を横に振った。
「いいえ。いいんです。誰だって気持ち悪いと思います。私だってついそう思ってしまったもの」
「でも、それだけじゃあなたのフィアンセに何かが憑いているとは、言えないんじゃないでしょうか?」
圭が冷静な声でそう言った。吉住は首を縦に振る。
「はい、私もそれだけなら……、精神科のお医者様に行こうと思うんですけど、それから何日かして、彼の部屋に行ったら、また死体があったんです。今度は犬でした。その死体は切断されて、冷蔵庫の中に……」
「うげっ」
「……」
「そして彼、その切断された犬の足の毛をむしりながら、今日はオレが飯作ってやるって。そう言って、その犬の肉焼き始めたんです」
「その人ヤバイってマジ。早く別れたほうがいいんじゃないの」
ついそう言ってしまった恭の額を、圭が思いっきり平手打ちした。
「いってーな。何すんだよ」
抗議の声を上げた恭に、圭は冷たい視線を投げかけた。
「うっさい。バカは黙っとけ」
「ぐっ」
言葉に詰まった恭を無視して、圭は吉住に謝った。
「すみません。吉住さん。失礼なこと言って」
「いえ、いいんです。それでも私は彼が好きなんです。昔の優しい彼に戻ってほしいんです。私、気づいてしまったんです。彼の影が、妙な形に動いているのを」
「妙な形?」
「はい……」
吉住は言いよどむと、コーヒーを一口飲んだ。恭も頼んだアイスティーを口に含んで喉を湿らす。砂糖の入っていないアイスティーは舌に適度な苦味を残して喉の奥に入る。
「なんていうか、こう、影がまるで生きているかのように動くんです。凄く嫌な感じがしました。最近は本当に良く動いていて、私にはこう見えたんです。影の中に何かがいるように……」
恭は圭を見た。圭も恭を見返す。圭は頷いた。
「吉住さん。僕ら、一度そのフィアンセの方にお会いしたいんですけど」
「本当ですか? じゃあ、引き受けて下さるんですか」
勢い込んでそう聞いてくる吉住に、圭は曖昧な笑顔を返した。
「いえ、まだお引き受けするかどうかは分かりません。会って見て何かが憑いているかどうか確認してからです」
吉住は圭を見、恭を見てから落胆したように面を伏せた。しかし、すぐに顔を上げる。
「でも、会ってみてくださるんですよね。私、実はこちらの他にも何軒かこういった所に相談したんですけど、精神科へ行けってどこにも相手にされなかったんで。嬉しいです。では早速明日、彼と会っていただけますか」
「明日……は夕方からしか無理ですが。それで良かったら」
何せ明日は学校がある。入学早々サボるわけにもいかないだろう。
「大丈夫です。私たちも仕事あるし。そうね。明日の午後七時に駅で待ち合わせでどうかしら」
「分かりました。では午後七時に駅の南出口で」
圭が言うと、吉住は頷いた。
「はい。ヨロシクお願いします」
「こちらこそ」
そう言って、圭は次に料金に付いての説明を始めた。もちろんこれは仕事であるから、料金を取る。圭も恭もこの金で生活しているのだから。
吉住と別れ自宅マンションに着くと、二人はいっせいにため息をついた。
「あーあ。気持ち悪い話だったよな」
恭が言うと、圭も頷いた。
「全くだよ。ありゃ、まるでホラー映画の中の話だ」
そう言ってソファーにドカリと座り込む。恭も隣に座った。
「オレ絶対恋人にそんなことされたら即別れるぜ」
「よっぽど好きなんだな。彼女、その彼のこと」
「好きっつってもあれだぜ、限度ってもんがあると思うわけよ。オレは」
勢い込んだ恭のセリフに、圭はあきれた声をだした。
「女と付き合ったことも無い癖によく言うよ」
「悪かったな。そう言う圭だって無いくせに」
そう言ってやると、圭はフフンと鼻で笑った。
「いつ俺が無いなんて言った?」
「えぇ! いつだよ。誰だよ、オレ聞いてねぇーぞ」
「言ってねーもん」
そう言って立ち上がった圭に、恭は吠える様に声をあげた。
「テメー説明しろ! 説明! 絶対聞きだしてやるからな」
*
午後の授業を終えると、二人は大急ぎで自宅マンションに戻った。制服のまま依頼人に会うわけにもいかない。それに万が一の時のために武器も携帯しなくてはならない。
ある程度仕度を終えた圭は、一度本家である実家に電話をかけた。依頼人に会う旨を伝えすぐに電話を切った。
一応連絡を入れたわけだ。定期連絡を入れないと本家がうるさいのである。
二人は少し早いが家を出た。
駅に着くとすぐに吉住和佳子を見つけることが出来た。後ろに結んだ長い髪が、風にあおられている。今日は薄紫色のスーツ姿だった。依頼人の姿はあるのだが、彼女の隣には彼氏らしき男の姿はない。
「吉住さん、フィアンセの方は」
「私の部屋に来てもらうことになっているの。彼に合わせる前に彼のこと教えようと思って」
そう言って彼女は寂しそうに微笑んだ。
彼女の自宅は駅から歩いて十分ほどの場所にあった。三階建てのマンションの二階に彼女の部屋はあった。ワンルームのマンションで、暖色系のものが多い部屋だ。
小さな四角いテーブルの前に座った二人に、吉住はアルバムを持ってきた。
開くとそこには吉住と同年代の男性が、仲良く寄り添っている写真が入っていた。
「この人がフィアンセの内山秀樹さん」
内山という男は優しげな顔をした男だった。眼鏡をかけており、運動は余り得意そうには見えなかったが、頭はよさそうだ。
この人物が猫の死体を隠したり、犬の肉を炒めたりした人物とは到底思えなかった。
「優しそうな人ですね」
圭がそう感想を述べると、吉住は嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしょう。本当に優しい人だったの。誠実で真面目で、でもいざって時には頼りになって。本当に好きなの。大好きなの。それなのに。なんでこんなことに……」
みるみるウチに、吉住の目に涙が盛り上がる。
二人が慌てて何かを言おうとして口をひらいたが、それを吉住は片手をあげて制した。
「ごめんなさい。コーヒーでも入れるわ。二人ともコーヒーは大丈夫かしら」
目許の涙を指で拭いながら問う吉住に、圭が答える。
「あ、スイマセン。恭はコーヒーダメなんです。出来れば紅茶かココアがあれば」
「じゃあ、圭君も紅茶でいい? 今入れてくるから」
そう言って吉住は台所へ入った。
「うーん、こうやって見ると、お似合いな二人なのになぁ」
そういいながら、恭はアルバムのページを捲る。
その中の一枚に恭は目を奪われた。
何処かの山でうつされた写真だろう。二人は笑顔で寄り添っている。その二人の後ろに、何か黒いものが見えるのだ。
「なあ、圭。コレなんかへんじゃないか」
「どれ……。あー、コレだけじゃ良く分からないけど、確かに余りよくないものかも知れない」
恭が示した写真を覗きこんで、圭がそう答えたとき、紅茶を入れ終えた吉住が戻ってきた。
「お待たせ。はいどうぞ」
カップが全てテーブルの上に置かれるのを待って、恭は吉住に聞いた。
「あの、この写真を撮ったのはいつですか」
吉住は自分もすわり、指し示された写真を見る。
「ああ、ソレは一ヶ月ほど前かしら」
「この頃はまだ、普通だったわけですよね」
「ええ。そう。そうね。この頃はまだ変わったところはなかったけれど……そうね。この山に行った後だったかしら、彼がおかしな行動を取るようになったのは……」
恭と圭は顔を見合わせた。
「この写真はいつ何処で撮ったんですか」
「それは一ヶ月前。一番最近とった写真よ。二駅先の将郎山で撮ったんだけど。ソレが何か……」
将郎山と言えば、この辺りの学校でよく遠足の地として利用される山だ。標高もそれほど高くなく、小学生でも無理なく上れる高さだ。
恭と圭も去年の春、中学最後の遠足で登った山でもあった。
「そこで何か変わったことはなかったですか」
圭の質問にかぶせて、恭も質問する。
「そうね。ああ、そういえば何か拾ったんだわ。変わった形の石。ここ、池があるでしょう。ボートが乗れる所」
言われて、思い出した。そういえば、頂上へ登る途中に池があり、そこは貸しボートがあった。普通のボートとアヒルのボートが。一人八百円も取るというのに驚いた覚えがある。
「はい。ありますね。その近くで石を拾ったんですね」
「ええ。黒い石だったの。何か人の形みたいに見えたわ」
「黒い石……」
圭は何か考えるように、口元に拳を当てた。
暫く沈黙が流れた。恭は出された紅茶を口に運んだ。
「もしかしたら。吉住さんのフィアンセについているのは野かもしれない」
低く圭が呟いたのを恭は聞き逃さなかった。
「げっ、マジかよ」
吉住は無表情の圭と明らかに嫌そうに顔を歪めた恭を見比べた。
「あのう。ノウってなんですか?」
不思議そうに聞いてくる吉住に、恭が答えた。
「ノウって言うのは野原の野と書いてノウって読むんです。これはオレらの一族でしか使われない言葉、隠語なんだけど、エー、何ていったらいいかな。圭」
「野というのは僕ら一族の間で、人に憑依し操る類の妖魔を総称してそう呼ぶんです」
「まあ。それじゃあその野に秀樹さんは憑依されてしまったんですか」
目を見張った吉住の顔色が目に分かるほど悪くなっていく。
恭は安心させるために、手を大げさに横に振った。
「ちょっと待った。まだ決まったわけじゃねえって。とりあえず本人に会って見ないと分からないから」
「それに例え野だったとしても大丈夫ですよ。僕らの苗字思い出して下さい。僕らの苗字は」
「狩野。つまり、野を狩るものって意味。だから安心して俺らに任せてくれていいぜ」
圭の言葉を引き取って恭が言うと、吉住は少し安心した様に頷いた。
その時、インターホンが鳴った。
吉住が立ち上がり、ドアへと向かう。
圭も目をあげ、ドアの方をうかがった。
「ああ、いらっしゃい。秀樹さん今日は私の従兄弟が来てるのよ」
「ああ、そう」
そんな会話が聞えてくる。恭達のいる場所からでは玄関は見えない。こちらに近づいてくる足音が聞えてきたので二人は立ち上がった。
それとほぼ同時に、吉住たちが姿を現した。
始めてみる内山秀樹は写真とかなり外見が異なっていた。
明らかに普通ではない。一ヶ月前とは別人のような姿だった。やせている。それもかなり。十キロ以上は確実にやせているのではないだろうか。頬はそげ、目は落ち窪み、どう見ても病人に見える。
「始めまして。僕ら和佳子さんの従兄弟の圭と、恭です」
そう言って圭は微笑んだ。いつもの営業スマイルだ。恭も慌てて笑顔を作る。
「そう。ヨロシク。僕が和佳子のフィアンセの内山秀樹です」
そう言って微笑んだ顔は写真の笑顔と重なった。
「アルバム……」
「え?」
「アルバム見ていたの? 和佳子」
「うん、圭君たちに私たちのラブラブ度を見せつけてたのよ」
そう言って和佳子は秀樹の腕に手を回す。
先ほどの悲しそうな和佳子の姿はここになかった。ここにいるのは恋する女性だ。
「さ、そこに座って。ご飯の用意できてるの。圭君たちも食べていくでしょう」
和佳子はそう言うと、台所に入って行った。
部屋の中に三人になると、恭は自分の前に座った内山秀樹をじっと見つめた。
衰弱しているように見える顔意外にはコレといっておかしなところは無いように思えた。
恭は圭に意見を聞こうと横を向いて驚いた。
もともと色白の肌をしている圭だが、今は色白というより青白くなっている。
「圭……」
「えーと、圭君だっけ。君気分悪いんじゃないの」
内山も圭の様子に気づいたようだ。心配そうに聞いてきた。
「大丈夫です。ちょっと失礼します」
そう言って圭は立ち上がり、秀樹に場所を聞いて、脱衣所の方に向かっていった。
恭は秀樹に断りを入れて、圭の後を追った。圭は脱衣所にある鏡の前に立っていた。
「圭。大丈夫か」
その声に圭は振り向いた。まだ少し青白い顔をしているが先ほどよりはましだ。
「あの。内山って男……」
「やっぱり何か憑いてるか?」
「いや……内山って男が入ってきた瞬間、部屋中に妖気が充満したのは確かなんだ」
「そうか? オレは感じなかった」
そう言って恭は目を閉じる。ゆっくりと深呼吸して部屋に充満しているという妖気を感じようとした。
恭は圭ほど感覚が鋭く無いので、このように自ら感じようとしなければなかなか妖気に気づくことが出来ない。
「ああ、そういわれてみれば」
「でも。確かに内山が入ってきたときから、妖気は強くなったんだけど、俺には内山から妖気が出ているようには思えなかったんだ」
「妖気を放っているのが内山じゃなかったら誰なんだよ」
そう問うと、圭は明らかに不機嫌な顔を作った。
「それが分からないから気持ち悪いんだよ。吉住さんの話が本当なら、理性が働かないくらいに入り込まれているはずだから、内山自身の体から妖気が放出されていてもおかしく無いはずなんだ。けど、内山自身からは妖気は感じられない」
「ちょっと待てよ。お前それじゃ、吉住さんが本当のこと言ってないって言いたいのか」
恭は眉を寄せた青白い顔の圭を見つめた。いくら何でもそんなことはありえないではないか。何故、依頼人がオレたちにウソをつく必要がある。
そんなことを考えている恭に圭が声をかけた。
「そろそろ行こう。長いことここにいると怪しまれる」
恭はまだ納得いかなかったが、圭のいうことも一理あるので圭に従って脱衣所を出た。
「あら。二人でおトイレ? 二人で入るには狭いんじゃない?」
部屋に戻ると、吉住がこんなとぼけた台詞で迎えてくれた。
彼女の楽しそうな満面の笑みを見ていると、彼女が自分達にウソをついている様にはどうしても見えない。
やはり圭の考えすぎだろう。
テーブルの上には様々な料理が並んでいた。
煮物や何かのから揚げ。汁物にご飯。かなりのご馳走だ。
「うわー超旨そう。コレなんのから揚げ?」
恭が聞くと、吉住は笑って答えた。
「カラスよ」
「は? カラスって、あの黒いカラスのこと」
聞き間違えたのだろうと恭が聞き返すと、吉住は笑顔を崩さず嬉しそうに答えた。
「そう。昨日うちのゴミ荒らしたものだから捕まえて揚げちゃった」
「揚げちゃったって……」
恭はどうしていいか分からず、圭を見ると圭はさっきよりも増して青白い顔を恭に向けた。
「またまた、冗談言って。じゃあこの煮物に入っている肉は?」
「コレ? コレは五日前のデートの時、秀樹さんの足に噛み付こうとした野良犬の足の肉。
捕まえるのに苦労したのよ」
「じょ、冗談旨いな。ねえ内山さん」
そう言って恭が話を振ると、内山は目をそらしながら頷いた。
「そ、そうだね。和佳子。余りそんな嘘言って圭君たちを困らせるのは良くないよ」
内山がそう言った瞬間、和佳子の表情が変わった。
「酷い。嘘じゃ無いわ。秀樹さん。私。あなたのためを思って死ぬ思いで捕ってきたのよ。あなたに怪我をさせた憎い犬をあなたのために捕まえたのよ。うそじゃないわ。本当よ。信じて」
吉住は必死に内山に縋るように口を開く。
恭は信じられないものを見ている思いで今の光景を眺めていた。
内山はというと、縋ってくる和佳子を静かに抱きしめた。
「ゴメン。信じてる。だから、落ち着いて」
「嘘、嘘だわ。恭君」
不意にこちらを振り向かれて、恭は反射的に身を引いた。
「あなたのせいよ。あなたが変なこと言わなければ、秀樹さんは私を疑ったりしなかったのよ……私嫌われてしまったわ。秀樹さんに」
恭は吉住には答えず、嘆息した。
「なあ、圭。オレ思うんだけど……」
「許さない。恭君。あなたを罰しなければ……」
吉住は立ち上がった。
瞬間吉住を中心に強風が巻き起こる。食器がテーブルから飛ばされ壁に当たって砕け散る。
風から顔を庇って、恭と圭は立ち上がり吉住から身を離す。
一番吉住に近かった内山は風に飛ばされ、壁に背をぶつけていた。
「止めろ和佳子。もう十分だろう」
大声を張り上げ、内山が和佳子に語りかける。
「分かって無いわね秀樹さん。あなたは少し黙っていて」
和佳子は掌を内山に向けた。和佳子の掌から球状の妖気が放射される。
「危ない」
そう叫んだのは圭だ。圭は素早い動きで、二人の間に割って入った。圭は胸の前で腕をクロスする。
圭の腕に触れる直前で、妖気の弾は霧散した。
和佳子は悠然と微笑む。
「やるじゃないの。圭君」
「やはり、お前に憑いていたのか」
圭が叫んだ。憎憎しげに和佳子を見つめる。
「黙ってなさい。私は恭君に用があるの。あの子の始末をつけてから、あなたの相手をしてあげるわ」
和佳子は冷たい視線を圭から恭に移す。
恭は息を呑んだ。
姿かたちはまるで変わっていないのに、纏う雰囲気がまるで違っていた。愛する男性を思う優しげな表情は消え、何処か浮世離れした美しさを感じる。それは恐ろしさを感じさせる程冷たかった。今や彼女からは人間の気は感じられない。彼女から感じるのは明らかに妖気だった。
それもかなり強い妖気。恭は舌打ちをしたい気分だった。
まさか依頼人が憑かれていたなんて。信じきっていたのに。気づかなかった自分の未熟さが疎ましい。
恭はぐっと拳を握った。握った拳が震えるほどに強く。だんだんと腹が立ってきた。
それが何に対する怒りなのかは分からない。騙していた和佳子に対するものなのか、それとも騙されていた自分に対する怒りなのか。
唯、今分かるのは物凄く腹が立ってきたということだけだ。
和佳子が動いた。ゆっくりと手を上げ構える。上げた掌に妖気が凝縮され、球状になっていくのが分かる。
あれを食らったら常人ならひとたまりも無いだろう。
だがしかし、恭は常人ではなかった。恭は和佳子が動く前に跳躍した。天井にぶつかる前に一回転し、吉住の前に舞い降りる。
不意をつかれた吉住に恭はジーンズのポケットから出した紙を吉住の額に貼り付けた。
「和佳子」
内山が叫んだ。和佳子は恭の前でくず折れるようにして倒れたのだ。
内山は圭を押しのけて、和佳子のそばに走り寄る。押しのけられた圭がムッとした表情を作ったのにも気づいていないだろう。
「和佳子。和佳子……。おい、お前和佳子に何をした」
つかみ掛からんばかりの勢いで睨まれ、恭は睨み返した。
「うっせーな。ちょっと眠ってもらっただけだよ」
恭はふてくされたように唇を尖らせる。
「内山さん」
圭が内山に呼びかけた。内山が振り向く。
「内山さん。和佳子さんは大丈夫です。妖気を押さえ込む札を貼ったから一時的に眠っているだけです」
内山はそっぽ向いている恭と冷たい目をした圭の顔を見比べて言った。
「君たちは一体何者なんだ」
吉住家での一件の翌日。恭と圭は昼休みに学校から抜け出して、初めて吉住とあった喫茶店に来ていた。
あの時二人の前にいたのは吉住和佳子だったが、今は彼女のフィアンセ、内山秀樹が座っていた。初めて会ったときと余り代わり映えのしないスーツ姿だ。
「内山さん。吉住さんはどうしてますか」
圭が問うと、内山は静かに言った。
「まだ眠っているよ。君たちに言われたとおり、部屋に札を貼っておいたよ」
「ありがとうございます」
「で、昨日も話したけどさ。俺たちはアンタのフィアンセにあんたについているモノを退治してくれって頼まれたわけだ」
恭の言葉に内山が頷く。
「でも実際憑いていたのはアンタじゃなく彼女だった。てことは俺たちにはもうなんにも関係ないってことだよな。依頼内容には彼女に憑いたモノを祓う事は入ってない」
「そんな、待ってください。あなた方は和佳子を元に戻すことが出来るんでしょう。だったら力を貸して下さい」
この通りです、お願いしますと内山はテーブルに手を付いて頭を下げる。
まわりの人がみたらさぞ奇妙な光景だろう。大の大人が高校生に頭を下げているのだから。
「内山さん。僕ら慈善事業やってるわけじゃないんです。これはキチンとしたビジネスだ。あなたが依頼人となってお金を払って頂けるんなら僕等は力を貸すことを厭いませんよ。但し、料金はかなり高いです。三百万以上かかるものだと思っていてください」
圭の静かな声に内山は顔を上げる。
「なら、依頼します。お願いです。いくらかかっても構いません。和佳子を……和佳子を助けてやって下さい」
恭と圭は顔を見合わせた。互いにニッと笑いあう。
「オーケイ。その依頼受けるよ内山さん」
恭が言った。今までの難しい顔では無い妙にすっきりとした顔をしている。
「僕も依存ありません。内山さん。和佳子さんがいつごろからおかしな行動をとられたか記憶に無いですか」
いきなり本題に入った圭の問いに内山も真剣な顔付きで答える。
「一ヶ月ほど前からです。犬の死体が冷蔵庫に入っていたり、猫の死骸を銜えていたりしたのは」
「うげっ。和佳子さんはそれあなたがやったっていってたんだぜ」
「そんな。僕はそんなこと出来ませんよ。彼女、犬や猫を煮たものを僕に食べさせようとしたんだ。僕は彼女を心配したけど、彼女普段はいつもと変わらないんです。急におかしくなるだけで」
「一ヶ月ほど前か……和佳子さん自身も一ヶ月ほど前にあなたの様子がおかしくなったと言っていました」
「そうそう。将郎山へ行った頃からおかしくなったって言ってたぜ」
「将郎山……確かにあそこへ言った次の日辺りから様子がおかしい時があったような気がする」
内山がそう呟いたとき、ウエートレスが、頼んでいたミートスパゲティを三つ持ってきた。
ウエートレスが戻るのを待ってから、再び話を再開する。
「和佳子さんが将郎山で奇妙な石を拾ったって言ってましたけど」
内山は暫く考えてから口を開いた。
「ええ、覚えています。凄く変な石だった」
「ふぇん? ふぇんなふぃしっせどんあ」
恭が口にいっぱいスパゲティーをほおばりながら言った。
「口に物入れながら話すな。バカ。何言ってるかわからねっつーの」
すかさず圭が突っ込みを入れる。そんな二人の様子に内山が少し笑顔をみせた。
恭もつり目を和ませて、口のものを飲み込んでから言った。
「変な石ってどんな風に変なわけ」
「人の形をしていたんだ。今までに見たことが無いくらい黒かったんだけど、それが和佳子が触ったとたんに色が抜けちゃって」
「色が抜けた?」
恭と圭が同時に聞いた。内山は頷く。
「そう。黒い石が普通の色に変わったんだ」
「その時に移ったんだろうな。野が」
「だろうな」
圭の呟きに恭も頷く。内山だけが何のことだか分からない様子だ。
「ノウってなんだい。それ和佳子がおかしくなった原因なのか」
「あれ、説明してなかったっけ」
恭の言葉に内山は頷く。圭は内山に和佳子にしたように野の説明をした。
「野はもともと自然の中から発生する膿のようなものなんだ。野は人の体に入って人を操る。中に入った野は精神を犯して狂わせて行く。ちょうど今の和佳子さんの様にね」
「そんな。本当に大丈夫なんですか」
「任せとけって。多分まだ完全に乗っ取られたわけじゃないから」
「今日の午後和佳子さんの部屋で野を落とします」
「いいか。言っとくけど、ソレまでは絶対に渡した札を外さないこと。もしかしたら和佳子さんが外せって言うかも知れないけど。彼女のためを思うなら外さないで」
恭の真剣な声に内山も真剣に頷く。
「あ、それと、俺らすっげ変わったカッコするけど、引かないように」
「はあ……」
内山は曖昧に頷いた。そろそろ帰らないと不味い時間だ。内山に払いを任せて恭と圭は店を出た。
店を出ると空は晴れ、すがすがしい空気が体を包む。金木犀の香りが何処からか漂ってきた。
*
秀樹が和佳子の家に帰ると和佳子が玄関に立っていた。驚く秀樹に和佳子は問いかける。
「秀樹さん。私どうして服のまま寝てたのかしら」
「昨日気分が悪くなったんだよ。僕がベットまで運んだんだ」
「ねえ、でもおかしいの。私何度もこの部屋から出ようとしたのよ。でも、出られないの」
不安そうな和佳子。秀樹は和佳子の肩を抱いてベッドへといざなう。
「和佳子。まだ顔色が悪いよ。まだ寝ていないと」
「それなら、秀樹さんの方が顔色悪いわ。私心配でそれであの子達に……」
「圭君と恭君のこと?」
「知ってたの? あなた」
「……知ってたよ」
「ねえ、あなたには野って言う妖怪がとり憑いているのよ。あなた祓ってもらわなきゃ」
「……」
内山は答えなかった。彼女は何も覚えていないのだ。いつもそうだった。自分で持ってきた箱の中身を見て驚き、自分の作った料理に悲鳴を上げた。
自覚が無いのだ。自分のしていることに。彼女には真実を知らせるべきではないだろう。少なくとも今は。秀樹は彼女をベッドに寝かせた。
「何か飲むものを持ってくるよ。オレンジジュースがあったよな」
そう言って立ち上がった秀樹に、和佳子が声を掛けた。
「秀樹さん。あの壁についているのは何かしら」
和佳子の言っているのは秀樹が圭に言われて貼った御札のことだろう。
「あれは圭君に貼ってくれって言われてね。僕が貼ったんだよ」
「でも、あれ気持ち悪いわ。あれ、ここにあってはいけないものだわ。ねえ、秀樹さん。あれを外してくれない」
見上げてくる和佳子に秀樹は首を横に振った。
「ダメだよ。あれははずしたらいけないものなんだ」
彼らと別れるとき、注意されたのだ。どんなことがあっても札は外すなと。
「でも、あれよく無いものよ。私気持ち悪いわ。ねえ、私気持ち悪い」
そう言って、和佳子は口元に手を当てる。吐き気を催したようだ。秀樹は慌てて和佳子のそばに言って肩を抱いた。
「大丈夫か?」
秀樹の問いに和佳子は首を振る。
「お願い。あれを外して、あれを外してくれたらきっと楽になるわ」
切な願いに、秀樹は心を動かされそうになる。
「でも、出来ない。約束したんだ。彼らと」
「秀樹さん。私よりあの子たちの方を信用するっていうの」
「違うよ。そうじゃない」
慌てて否定した秀樹を和佳子は突き飛ばした。
今までと表情が一遍していた。今の彼女はまるで鬼女だ。
青白くなっていた肌はそのままだが、先ほどの自分の実を案じていた和佳子の表情ではなかった。
「早く外してっていったでしょう。苦しいのよ、ねえ。私の中の何かが苦しいって叫んでるの」
激しい音が秀樹の背後から響いた。振り返ると食器棚のガラス戸が粉々に砕け、床をきらきらと光らせていた。
「秀樹、お願い。あの札を外して。ねえ、お願い」
「ダメだ出来ない」
「どうしてよ」
和佳子の目がつり上がる。かっと見開いた目は充血したように赤い。
「ソレはお前を封じ込めるためにきまってんだろ」
不意に玄関の方から第三者の声が割って入った。
振り向く間もなく、その第三者は部屋の真ん中に躍り出る。
「恭君」
秀樹が声を上げた。
昼間会ったときと同じ制服姿の恭がそこにいた。恭の手には紐が握られている。その紐の先には野球のボールほどもある大きな鈴が二つついていた。
「全く、嫌な予感がしてきてみたらこれだもんな。圭」
ぼやく様にいってから、恭は圭の名を呼んだ。
圭はいつの間にか秀樹の横に立っていた。圭もまた昼間と同じ制服姿だ。だが、その手には鞄ではなく棒のようなものを握っていた。
圭はその棒のようなものを口元へ持っていく。
綺麗な音色が流れた。どうやら横笛のようだ。赤く色づけされたその横笛から、この世のものとは思えぬほど幻想的な音色が部屋中に響き渡る。
「いやぁあああ、止めて苦しい、やめろぁああぉぉおおおおお」
低い声が和佳子の口から吐き出された。それとほぼ同時に圭が笛から唇を離す。
「恭。今だ」
圭の声と共に、恭は持っていた鈴のついた紐を和佳子に向かって投げつけた。
鈴はまるで生きているかのように和佳子に向かい、ぐるりと和佳子の周りを一周して和佳子の体を紐で締め上げた。
身動きの取れなくなった和佳子が、鋭い目で恭と圭を睨む。
『狩野の若造が。今すぐ放せ』
和佳子の声はいつの間にか野太い男のような声に変っていた。その姿を秀樹は信じられない思いで見つめる。
「ハハーン。やっぱりな。お前が和佳子を使って俺たちに接触してきたのは、俺たちを……いや、狩野の一族を殺すためか」
『煩い。小僧。貴様なんぞにしてやられるわしではないわ』
そう言ったと同時に、和佳子が体を句の字に折り曲げた。和佳子は苦しそうに呻くと口を大きく開け何かを吐き出し始めた。
それは黒く大きな塊だった。猫ほどの大きな塊は床に落ちると、一瞬つぶれ、人の形をとった。
秀樹はそれがあの時池の近くで拾った石の形に似ていることを思い出した。
コイツが和佳子を今まで苦しめていた元凶だったのか。
和佳子はその黒い塊を吐き出し終えると、そのまま床へ倒れこんだ。
駆け寄ろうとした秀樹を圭が止める。
「待って、内山さん。まだダメだ」
人型をとった黒い塊は、恭達の前に大きく立ちはだかった。
『どうだ。狩野の小僧ども。わしは貴様らの肉を屠って力をつけるのだ。憎き貴様らをこの世から抹殺しこの世を混沌と狂乱の世界に落としてやる』
顔の無い黒い人型の塊は腕を振り上げた。その腕を恭に向かって振り下ろす。
爆音が轟いた。床が破壊された。恭は野の攻撃を横に飛びのいて避けると片手を床についた。
「縛」
ひゅっと空気を裂く音が聞えた。和佳子に巻き付いていたはずの紅い紐が野の黒い身体に巻きついた。
『ぐおおぉぉぉぉぉぉ、動かん動かんぞ』
野が呻いた。
ちりん、ちりん。
鈴の音が野の呻き声と共に屋中に響く。
「圭、とどめだ」
片手を地面につけたまま、恭は圭に声を掛ける。圭は秀樹の隣から離れ、恭の横に立った。
圭はズボンのポケットから紙片を取り出した。
顔の前に紙片を掲げ、圭は呟くように言った。
「我は野を狩る者なり。野は既に我の手中にあり。狩野圭の名に置いて野を滅ぼさん」
圭はそこまで言うと、腕をふり野に向かってその紙片を投げる。
その紙片は吸い寄せられるように紐で縛られた黒い塊にぴたりと貼りつく。
今や野の姿は人型を崩しつつある。
圭は叫んだ。
「滅殺」
『ぎえええぇぇぇぇぇぇ』
野の叫びと共にまるで蒸発する水の様に消えてなくなった。
野を縛っていた紅い紐が鈴の音を鳴らして床に落ちる。
恭が立ち上がり、紐を手にした時、内山秀樹の声が二人を振り向かせた。
「お、終わったのか……」
恭はその内山の声に頷いた。にっと笑って言ってやる。
「終わったぜ」
「和佳子っ」
内山は恭と圭の横を通り抜け、倒れている和佳子を抱き起こした。
「和佳子、和佳子……」
意識の無い和佳子を内山は抱きしめ、ずっとその名を呼び続けた。
「和佳子。和佳子……良かったなあ」
内山の声には涙が滲んでいた。
*
あの事件から二ヶ月がたった。毎日に追われ、恭も圭もあの事件の記憶は大分薄れてきていた。
そんなある日。
日曜日でつい寝坊した二人は、午前十一時に朝食を食べ始めた。
「圭。おまえさぁ、たまには飯作れよな。なんでいっつもオレばっか作らなきゃなんないんだよ」
焼いた食パンを口に運びつつ、恭は不平を圭にぶつけた。
圭はコップに牛乳を注ぎながら、恭を見る。
「作れっていうなら作ってもいいけど。味の保障はしないよ。確実にいえるのは恭が作ったほうが断然旨いってことだね」
「ほほう。でもそれって褒めている様に見せかけつつ、オレに作れといっとるわけね、お前は」
半眼で圭を見て言うと、圭はあっさりと頷いた。しかも真顔で。
「そう」
「そう。じゃねー。」
キレて怒鳴ったが、圭には全く利いていないようだった。
圭は気にした様子もなく、食パンの最後の一切れを口に入れてほおばっている。
「なあ、新聞は?」
最後に牛乳を飲み干し、一息ついた圭が恭にそう言った。
「あのな、何でオレがお前のために新聞取ってこなきゃならん」
「いいじゃん。ケチ」
圭は恭に舌を出してから、立ち上がりリビングを出て行った。
恭は圭が残したサラダの入ったボウルを引き寄せ、フォークを野菜に突き刺す。
全く、なんなんだアイツは。我が兄ながらあの何でも人任せな態度には腹が立つ。恭はまあ、しょうがないとは思うが、家の外でもあんなふうに何でも人任せにしていたら怖いな。と、恭は思う。
アイツのためにも、今から何でも自分で出来る様にしてやらんといかんな。と、まるで親のようなことを考える恭であった。
暫くすると、圭がリビングに戻ってきた。
「恭。葉書来てるぞ」
「誰から?」
「誰だと思う?」
逆に聞き返されて、考えて見るが恭には思い当たるふしがない。
圭はにやにやと笑いながら、恭に葉書を差し出した。
受け取り、葉書に目を落とす。
その葉書は恭だけに宛てたものではなかった。恭と圭二人に宛てたものだ。
恭は葉書を裏返してみた。
「ああ」
恭は思わず声を上げた。
その葉書は写真入りの葉書だった。写真の真ん中には幸せそうに笑う男女の姿が写っていた。
どちらも見覚えのある顔。
男性はタキシード。女性は純白のウエディングドレスを身に纏っている。写真の下には『私たち結婚しました』の文字がレタリングされていた。
「これ、内山さんと和佳子さんじゃん」
恭がいうと、圭が頷いた。
「そう、結婚したんだね」
「すっげー幸せそうじゃん。内山さんミイラみたいにやせてたけどすっかり元に戻っているみたいだし、和佳子さんも前見たときより随分美人になってんじゃないか」
「ああ、内山さん鼻の下伸びてるよな」
「あのな、お前、そう言うとこ突っ込むなっつーの」
恭が苦笑して言う。圭も恭も笑みが止まらない。
恭達は一頻り葉書を見つめた。その後、恭が呟いた。
「いいなぁ。オレもいつか結婚するのかな」
期待の入り混じった声音でそう言う。
「いや、その前にまず彼女見つけなきゃだろ」
冷静にそう言われ、恭は眉間にしわを寄せた。
そういえば、コイツ彼女いるとか言ってたな。あの時は色々あって結局問いただすことが出来なかったが。
「へっ、お前は彼女いるから余裕だろ。どうせオレはまだ彼女いないよ」
恭がすねた口調でそう言うと、圭は不思議そうな顔をした。
「あ? 彼女なんかいないぞ」
「はあ? お前自分でいるっていってたじゃん」
恭が言うと、圭はああと呟いた。
「言ってないよ。彼女がいるなんて僕は一言も言ってない。お前が勘違いしてるだけー」
圭がふざけて舌を出す。
恭は圭に担がれたことにやっと気づいた。
「テメー。騙したな」
「違うよ。お前が勝手に勘違いしただけだっつーの」
「っく、畜生。また、騙された。っまあいいや。今日は……」
恭は圭の顔からまた葉書に視線を移した。
そこには変わらず幸せそうに微笑む二人の笑顔があった。
はじめましての皆様、はじめまして。一度でもお会いしたことのある皆様お久しぶりでございます。ここまでご覧いただきありがとうございました。
今回投稿させていただいたお話は、もう、かなり古いものであります。たぶん5年はとうに経過している感じです。もしかしたら十年近いかもしれません。
ほとんど、書き直していないので、今と描き方とか微妙に違うと思います。
このお話は結構気に入っていて、ずっとパソに眠らせていたのですが、今回出してみようと思い、投稿させていただきました。
このお話が、少しでもお気に召していただければ幸いです。
では、この辺で。
またお会いできることを願って。
愛田美月でした。