本当に死ぬのか検証してみる 中編
『せ、先輩……!き、来ましたよ!』
電話越しに"十和子"の接近を認めると、鈴は静かに目を閉じた。
準備は全て整えた。
追いかけながらでは十分に時間をとることができないが、もともとこの実験にはそれほど大きな仕掛けは不要だった。
あとは、自分の仮説が正しいかどうかを確認するだけだ。
失敗すれば死ぬ。
しかし、こんな状況であっても不思議と心が高ぶっているのを感じていた。
未知の現象に触れ、それを解き明かそうとしている。
科学者にとって、これほど素晴らしい経験は早々できるものではない。
命を賭けるに値する実験であることを再確認すると、電話の向こうの珠江に指示を出す。
「珠江、それじゃあ手筈通り頼むわ」
『は、ハイ!』
珠江の声から緊張と恐怖が伝わってくる。
それを解きほぐすように、鈴は軽いジョークを飛ばすことにした。
「大丈夫よ、しくじったとしてもあたしが圧死するだけなんだし。気楽にやんなさい」
『そんなこと言われて、気楽にできるわけないでしょ!』
珠江が半泣きの声をよこす。
鈴は不思議そうに首をかしげる。
「変ね?緊張を解きほぐすには、失敗した時のリスクが実は大したことがないって気づくことだって本に書いてあったんだけど……」
『人一人が死ぬことの、どこが大したことないんですか!』
「落ち着きなさい。要はタイミングだけ。時が来たら、ボタンを一つ押すだけ……簡単でしょ?」
『わかってます。先輩、本当にもうすぐ近くまで来てますよ……』
なぜか声を潜める珠江。
"十和子"に声を聴かれることを恐れているようであった。
時が来るのを待つ。鈴は静かに目を閉じた。
一方の珠江は、視線を"十和子"から逸らさないように精一杯の勇気を振り絞っていた。
長い廊下の向こうから、体重をすべて投げ出したような不気味な歩き方で"十和子"が姿を見せる。
見かけ以上に素早い速度で、"十和子"は真っすぐに鈴の元に向かう。
珠江は今、鈴のすぐ隣に立っていた。
鈴が立てた仮説の検証に、文字通り立ち会っている。
今回の実験は珠江にすべてが掛かっている。タイミングを間違えれば、鈴の命がない。
ひたり、ひたりと"十和子"が近づく。
幽鬼のように(実際に彼女ほど幽鬼という言葉が当てはまる者もいないが)寄る辺のない手つきで、鈴に手を伸ばす。
珠江の目の前を"十和子"が通り過ぎる。
黒髪に覆われた顔の奥から、何やら声が聞こえてくる。
聞きたくはなかったが、片手はボタンから離すわけにもいかず、否応なく"十和子"の声が耳に忍び寄ってきた。
コロシテヤル オマエモ コロス シズメテ コロス
「ひッ……!」
『珠江、集中なさい!』
電話の向こうから鈴の声が叱咤する。
その声に気つけされたように、かろうじて正気を繋ぐ。
視線を"十和子"の腕から逸らさず見つめ続ける、
びしょ濡れのくせに、カサカサに乾ききった右手が、躊躇なく鈴に触れる。
いよいよ、鈴の『実験』が始まった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
珠江の目の前を、”十和子”の腕が通り過ぎる。
想像以上に動きが素早い。そして、その動作には何の躊躇も慈悲もない。まるで機械のように一定の速度で、”十和子”が鈴に触れる。
(始まった……!)
心臓が跳ねるのを感じながら、落ち着いて手にしたスマホの画面を操作する。
鈴の指示では、ボタンを押すのは30秒後。それまで、”十和子”の目の前で息をひそめていなければならない。
ボタンと鈴の位置関係上、”十和子”は珠江の、まさに目の前に立っている。
目を閉じたらストップウォッチが見えないため、必死に視線を集中させる。
それでも、耳に入り込む”十和子”の声だけは防ぐことができない。
ブツブツとくぐもった不気味な声がぼさぼさの黒髪の奥から漏れ出てくる。
(早く終わって……!でも、まだ3秒しかたってないの!?)
祈るように画面を見つめるが、無情にも画面のカウンターは緩やかに時を刻み続ける。
(先輩は、大丈夫って言ったけど……今、この瞬間にこっちを向いて『次はお前だ!』とか言い出すかもしれないのよね……)
とんでもない想像が頭の中に膨れ上がり、一気に恐怖が爆発する。
恐怖をごまかすように、スマホの向こうの鈴に話しかける。
「先輩!まだ10秒です……先輩は大丈夫ですか……」
『……』
電話の向こうからは、何の返答もない。
いつもの、ちょっと間抜けな甲高い声がスピーカーから聞こえることはなかった。
鈴の透明で涼やかな声は、スマホの機能では再現できないのだ。
「って、そんなこと気にしてる場合じゃ……!先輩!?返事をしてください、先輩!!」
目の前の”十和子“の恐怖よりも、鈴から返事が来ない心配が勝利した。
扉の向こうにいるであろう鈴に、直接声をかけるべく大声を張り上げる。
しかし、それでも鈴からは何のリアクションもなかった。
「嫌な……予感がする……!」
冷や汗が一気に噴き出る。
科学的根拠はない。しかし、彼女が生来備えた直感が全力で告げていた。
今、すぐに行動しなければ絶対に後悔する、と。
決断してからの珠江に躊躇はなかった。
スマホのストップウォッチが後何秒をさし示しているか見もせずに、ボタンを力強く押し込む。
重要なのはボタンを押すタイミングと、押すボタンの”上下”を間違えないこと。珠江は予定通り『↓』のボタンを押していた。
ゴウン と重たい機械音が鳴る。
それに従い、”十和子”が掴んでいた鈴の髪の毛が、地面に吸い込まれるように下がっていく。
“十和子”の指はまるで万力のように髪の毛を掴んで離さないが、それでも掴んでいるのは僅か数束。エレベータの隙間からはみ出た髪の毛は容易く千切れ、頼りなく宙にぶら下がった。
「後は、私が急がないと!」
ぼんやりとエレベータの行く先を見つめる”十和子”をよそに、珠江は全力で階段に向かって走り出す。
全力疾走で階段を下りると、一つ下のフロアに降りてきたエレベータの前に駆け寄る。
「先輩!」
「珠江……」
力なくエレベータの中に倒れ込む鈴を見て、絶句する。
しかし、彼女の直感はまだ警告を取り下げていない。小柄な鈴を抱きかかえると、すぐそばに控えさせていたに無理やり押し込む。
繰り返すが、ここは大学の構内である。休日で人がいないのをいいことに、珠江は遠慮なくスロットルを全開にした。
エンジンの爆発音が廊下に鳴り響く。屋外とは異なり、室内でのエンジン音はあちこちに反響して一際やかましい。
「やっぱり、来た!」
背後を振り返ると、そこには階段を下りてくる”十和子“の姿。
先ほどと変わらぬ歩幅で、淡々とこちらまでの距離を詰めてくる。
「非常口はあらかじめ開けておいたわ……全力で飛ばしなさい……」
「掃除のおばちゃん、ごめんなさい!!」
場違いな謝罪の声とともに、車輪が空転して廊下の絨毯をこすり上げる。
焦げ臭い嫌な臭いを残して、バイクはあっという間に大学構内から姿を消した。
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