最愛の人
「にゃー」
そう鳴いたのは、白をベースにした体毛に所々黒い色が混ざった、顔にハチワレ柄のある一匹の猫だった。その猫の前方には茶トラ柄の猫が一匹おり、声に反応するも素知らぬ顔で歩き続けている。
二匹の年齢は分からないが、どちらも子猫ではない事は確かで、もうすでに老体の可能性もあるがそんな事は彼らにとってどうでもいい事だった。
茶トラの猫を追うようにハチワレの猫が付いていく。途中でにゃーにゃーと鳴く姿は呼び掛けているようにも引き止めているようにも見えた。それでも茶トラの猫は無視をしてマイペースに進んでいく。どこに向かっているのかなんて誰にも分からない。
とうとうハチワレの猫は追いかける事を諦めて踵を返してしまい、これでこの道を歩いているのは茶トラ猫ただ一匹になった。ただし、その事に関しても彼は全く気に止めてはいないようで、普段ならば軽トラに乗ったお爺さんのクラクションや、自転車で走行するお婆さんのベルなんかに驚かされることもあるが、ここ数日は猫たちにとってそんな恐怖も無い為に、茶トラの猫は我が物顔で道路のまんなかをどんどん歩いていく。その足取りに迷いは無く、まるで猫には目的地以外視界に入ってはいないようにもみてとれる。さわさわと吹く風が心地良く暖かな日差しも浴びれる絶好のお昼寝日和ではあるが、今の彼にはそんな事も足を止める要因にはならないらしい。
青々と生い茂った雑草だって、付近の人間が手入れをしていればここまで成長する事はないだろう。今は放置されたままの畑にたくさんの植物がすくすくと育っている。辺り一面に畑が広がる、ご近所さんが一キロ程先にあるようなこの田舎には残っている人などほとんどいなかった。人間が出歩く姿はもう何日も見ていないし、きっと人間よりも野良犬や野良猫、野性動物たちのほうが多いだろう。
ふと、今まで道路のまんなかを歩いていた茶トラ猫が駆け足で端まで行くと、そのまま一軒の日本家屋の敷地に足を踏み入れた。勝手知ったる他人の家と言わんばかりに玄関には行かずにそのままの足取りで回りこむと、小さいながらも手入れが行き届いている庭にたどり着く。そこは家の外観とは裏腹に西洋風な小さめの花壇とステンレス製品で出来た物干し竿があり、今日も干したてであろう一人分の衣類が日光を浴びていた。
「なー」
今まで無言だった茶トラ猫は庭に行儀よく座ると、引き戸に向かって一度鳴く。しかしその声に反応する生き物は確認出来ず、猫の声が響くだけだった。
「なーー」
「なぁぁぁぁ」
猫はそれでもその場で鳴いてみせて扉が開く事を待っていた。むしろ、一度声をかけただけでは家の主が出てこない事を理解しているようにその場で何度か鳴いていた。
しばらくすると引き戸がガタガタと音をたてながらゆっくりと隙間を作る。人間の手が入りそうな隙間が出来上がると、そこからしわくちゃでそれでも引き締まった手が上部を押して、下部を押してと交互に引き戸を開けようとしていた。
「いらっしゃい、さあどうぞ」
完全に開ききった引き戸から現れたのは、一人の老婆だった。
腰は少しだけ曲がってはいるが、足取りはしっかりしていて筋力だって日常生活を送るうえでなんら支障のない程についている。彼女は部屋から座布団を二つ用意すると縁側にそれを置き、そのうちの一つに座るともう一つの座布団をポンポンと優しく叩いた。今まで老婆の行動をただ見つめていた茶トラ猫は、それを合図に縁側にピョンと上り座布団のまんなかに香箱座りをした。まるでこの座布団は自分のものだとでも言うようにどっしりと構えたその姿は貫禄さえ感じられる。
「今日も来てくれてありがとうね」
老婆は今日も猫の頭を優しく撫でながらお礼を伝えた。猫からの返事はないが抵抗も無く撫でさせてくれるところを見るに嫌われてはいないようだし、なによりその顔は大層気持ちが良さそうである。
頭や背中を暫く撫でていた老婆は、不意にその手を離して立ち上がり部屋の奥に行ってしまった。猫はその後ろ姿を見送るとぐいーっと背を伸ばし、今度はゴロンと寝転がったり何をするでもなく部屋の中を歩いては小さなデスクライトが乗っているちゃぶ台に乗ったり、少しだけ駆け回ったりと端から見れば意味の無さそうな行動をとっている。
部屋の襖が開きようやく老婆が戻ってきたら、猫はまた定位置の座布団に座り「なー」と一声上げた。老婆はお盆を手に持ったまま、はいはいと優しい声で返事をすると彼女の定位置である縁側の座布団に座った。
コトン、縁側にお盆が置かれる。その上には急須と湯呑みが一つずつと淡い緑色をした呑水が二つ乗っていた。一つの呑水には水が入っており、もう一つには鰹節が用意されている。二つの呑水を目の前に出された猫は、待っていましたと言わんばかりにその二つを口にすると、老婆はその姿を微笑ましく見まもりながら自分も湯呑みに急須からお茶を注ぎ口にした。
「・・・私ね、時々思うのよ。あなた、本当は死んだ爺さんなんじゃないかってね」
猫はチラリと老婆を見るも、視線はまた鰹節に戻し何も言わずに口に入れた。
「そういうところも少し似てるわね。・・・あの人、猫は嫌いだったけど」
いずれやってくるその日まで、一人と一匹は今日も幸せを享受する。




