表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

シャーツニアーの恋愛と婚姻について

先日KPHT=YY氏と話していたときに「連邦では王国のシャスティとイルキスで恋に落ちるロマンスが人気ではないだろうか」という話があった。リパラオネ教的には、シャスティにあたる聖職者と見なされているシャーツニアーは世俗からは隔離され、聖なる存在として社会において存在し、リパラオネ教のために身を尽くすというのが一般的であり、日本で坊主がそのまんまの格好でマックに行けば写真を取られて晒されるのと同じような特殊な存在であった。また、その話していた時には「宗教戦争時代などでは、シャーツニアーは駆け落ちなどすればフィアンシャの構成員に見つかって殺される。」ということをついつい口走ってしまった。まあ、教派によってはありそうなことではあるが、教法学的な解釈も無しにこういうことを言ってしまうのはどうなのだろうという悔いが私にはあった。なので、今回は【シャーツニアーの恋愛と婚姻について】というタイトルで教法学的なアプローチでその解釈について迫りたいと思う。

1. シャーツニアーの伝統的解釈

 伝統的解釈では理日辞書を参照すると「シャーツニアーはリパラオネ教の聖職者であり、成る為にはフェステノル(festenol)の儀式を完遂させなければならない。シャーツニアーはフィアンシャに住み、聖職(festena)を行う。」と書いてある。聖職就式と名称されるシャーツニアーとして人間が聖化する通過儀礼であるフェステノルはシャーツニアーになるために単一フィアンシャの最高権力者であるジェパーシャーツニアーが二人集まってその前で神に宣誓を行いフィアンシャンと八戒を宣誓形式で読み上げることによってその儀式を終了させ、シャーツニアーであることが承認される。つまるところフィアンシャンと八戒は世俗の人間にとっては知ろうが知るまいがどっちでもいいことで世俗の問題に対してはシャーツニアーがその解決の法源であるフィアンシャンと八戒をしっかりと理解することによって、宗教権威が無知な人々を導くという方式をとっていることが分かる。トイター教と反対的に現代リパラオネ教社会では自己の教典に対する理解はあったらよりよいとされている位で、別に知らなくてもいいのである。

 フェステナはシャーツニアーの聖職と呼ばれる日々の行動のことであるがアンポールネムを読んだり、説教を行ったり、礼拝者の案内をしたり、礼拝者と食事をとったり、フィアンシャを守ったり、アンポールネムに沿うことが一応の聖職となっている。ここまでで分かることはシャーツニアーが八戒とフィアンシャ、アンポールネムの上になり立っているということであり、シャーツニアーに対する恋愛や婚姻の解釈はこの三文書から考えた結論が伝統的解釈と協和性のある解釈になるということである。


2. 八戒における恋愛・婚姻の解釈

 八戒における戒律では、恋愛と婚姻については直接的に言及していない。ただ、人間の恋心に対して、それを裏切ってまで聖職に従事させることは第三戒律の「嘘はつくべからず」に違反しているものであると思われる。第四戒律では「先祖を敬ひたまへ。」とある。この八戒を読むシャーツニアーであってもその親があり、その親は恋愛や婚姻を少なくともやっているということがあり、先祖を敬うという行動の概念は非常に曖昧なことであるが少なくとも、その恋愛や婚姻に関して悪いものであったと公言することはできなくなる。また、第七戒律「善と惡と二分にすべからず。」とあるようにそもそも恋愛や婚姻に対して善悪を決定することは八戒によると神によって禁止されているように見える。次のように八戒を元にすると恋愛と婚姻に対しては比較的肯定的な解釈が可能なように見える。


3. フィアンシャンにおける恋愛・婚姻の解釈

 フィアンシャンにおいても、恋愛と婚姻に関する直接的な言及は存在しない。フィアンシャン第四節には「嘘をついて人をだましてはならない。」とあるので恋心や愛に対する欺瞞は八戒と同じようにこれに違反しているとされている。また、第二十八節においては「争い、全ての志を果たすべし。」とあるために、恋愛や婚姻の意志があるものはフィアンシャンに沿うとその意志を果たすことが宗教的にも要求されていると見える。第七節には「隣人を馬鹿にしてはばらない。」とある通り、恋愛や婚姻に対して、それをからかったりすること自体がフィアンシャンに違反していると思われる。しかし、第五節「憎んではならない」や第二十六節「呪ってはならない」など書いてある通り、恋愛的人間関係においてリパラオネ教徒が他人を邪魔だと思ったりすることはフィアンシャンに違反すると解釈が出来る。恋愛や婚姻はその行為がもし他人がその人間を愛していた場合のフィアンシャン違反を助長させるという解釈も出来る。だが、基本的にはフィアンシャンでも恋愛と婚姻の解釈は肯定的なものであると思われる。


4. アンポールネムにおける恋愛・婚姻の解釈

 アンポールネムにも恋愛と婚姻に関する直接的な言及は存在しない。しかしまず、レチ書の『カーイハエの人々について』においてレチは「ミナースの陸を作ったのは神で神の物です。それを神の子である人間が消し去った罪などあるはずがありません。もともとカーイハエの軍艦が爆発したのはその理由では無いのです。彼らはフィシャが神界と取り決めたフィアンシャンに大きく違反し罪とドルムをつくりました。そういった人はこのような仕打ちをうけるのです。」と言及している通り、フィアンシャンに違反することはここで罪とリパラオネ教では解釈される。ジルフィアから解釈するに最終戦争までには憎しみや苦しみを持つ人間の魂は死後にドルムになってしまうためにやはりこのようなものを生み出す可能性があるひらけした恋愛や婚姻はあまり良いものではないと思われる。レチ書の『人が付く』においてレチは「あなたは正しいです。私を学び伝えなさい。私と共に行く者は妻と子供と家族全員を連れていなさい。」と言及しており、ひらけして妻や子供が居るということを言及している時点でそういったことはもしかしたら些細なことだったかもしれない。もしくは、子供が出来た時点でそういった怨恨を生み出すような時宜ではないと解釈されたのかもしれない。レチ書Ⅱの『礼拝の規則』においてはレチは「足が萎えた者も、手が無い者も、口が聞けない者も、皆アレフィス様の加護と慈悲のもとに生きているのに何故それを否定するのです。人として生まれてきた限り、彼らには考える力が備わっているのですよ。あなた方が何をしたか思い浮かべれば、ドルムがどのようにしてここで興るのか理解するのは簡単なことでしょう。今すぐここから去って、フィアンシャに向いなさい。」、「アレフィス様は何時も貴方を見ています。そして、あなたのような人のために全てを為してくれます。」と言及しているが、ここから恋愛に起因する悩みなどもアレフィスがそれに対してなんらかの救済を与えるということが当然の帰結として分かる。


5. アンポールネムに見られるシャーツニアーの解釈

 そもそも、レチ書Ⅱの『礼拝の規則』においてはレチはシャーツニアーがドのようにいるべきなのかということは表明している。そこには悩みを聴き、礼拝を終えたあとに挨拶を受ける存在であること、悩みが自分に解決できるのであればシャーツニアーにとってはそれを解決しなければならないためにシャーツニアーにはそういった技術も要求されたのである。


6. リパラオネ教法として

 リパラオネ教法の罪の概念は八戒・フィアンシャンなど神と人間との間に結ばれた契への違反である反天罪(fentetonirrenixis)、神と人間との間に結ばれた契から構成されたアンポールネムやスキュリオーティエ、リパラオネ法学者の一般的な法解釈への違反である反人罪(fentelartarnixis)、人間と人間との間における契約への違反である契約罪(fentejetiestornixis)に分類され、それぞれの罪を認定する害の要素は神、神界への害である反天害、人間の社会、人間界に対する害である反社会害、個人同士の契約、信用、安全に対する害である個人害に分類されている。罪の概念から出てくる規範であるレティゼールの根源である八戒を最もこの事案の裁定に重きを持って、他教典の記述を補助的に使うと考えると恋愛や婚姻はその本人の意志をもって遂行される限り神聖不可侵な物であり、教法に従う限りこれを妨害や誹謗中傷を行ってはならないと解釈できる。しかしながら、恋愛や婚姻を元として他人の怨恨を引き起こすような行動はフィアンシャンやアンポールネムの記述に基づくと忌まれてしかるべきであり、そういった行動は最終的にはドルムを生み出す原因になりかねないために反天害と認定することができる。最終的にはシャーツニアーが特別に恋愛や婚姻を禁止されることは無いものの、一般的に他人の怨恨を引き起こした恋愛や婚姻は即時的に反天罪として認定され、解消させられるべきであるとされるが、そこにおいても他人による反天罪認定からの恋愛・婚姻解消の結果で怨恨を起こしてしまってはどの道意味は無いのではないかと思えてくる。もうこうなったら、一対一の恋愛や婚姻で怨恨を起こしたら、その関係に怨恨を起こした者をぶち込むというやりかたでも良いのではないだろうか。多分誰もそんなことは望まないだろうが。そもそも教典群で自由な恋愛や婚姻は推奨されているのと、ドルム原因としての行為のどちらが優先される教義であるのかというのは「自由な恋愛や婚姻が推奨される」というのが「意志の遂行の推奨や虚偽の発言の禁止」から導かれる二次的なものなのに対して、ドルム原因となるということは直接的な教義であるためこちらのほうが優先されるべきではないだろうかと思う。ここまで書いていて思ったが、そもそも、直接的な教義が優先されるべきと言うのは何故なんだろうか。というか直接的教義とは何か?よく分からなくなってきたのでここまでにするとしてとりあえずここまでの結論をまとめるとする。


7. まとめ

 一般に教義解釈の結果上では自由な恋愛や婚姻は推奨される。しかし、他人の怨恨を引き起こす行為に対しては教法学上ではドルム原因となりうるためにそれを反天罪と見なすことが出来る。ドルム原因説と意志遂行推奨説のどちらを優先すべきかは教義の優先性について議論する必要がある。もしくは、両教義が両立するような恋愛・婚姻の関係を作るべきである。

疲れた……本当に教典群に恋愛や婚姻についてまったく書いてないとは思わないよなあ…‥結果的に強硬的に解釈された二つの教義がぶつかっちゃって結局は「やってもいいし、やっちゃだめ」になっちゃった。多分ファシャグノタールには、恋愛の話がでてくるだろうけどシャーツニアーだけが恋愛や婚姻をしてはならないっていう教義解釈は結局の処ないんだろうなと思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ