第二章 7・8・9・10
7
九条は、視界に映る鮮血の血溜まりに一切の関心を向けず、ひたすらに拡がる森の中目を向けていた。
思考回路は抜けていた。いや、意図的に省いていたのかもしれない。
これ以上の思索を続けると、『何らか』の回路が焼き切れる。そんな感じがしていた。
感情を限りなく平坦に均し、削ぎ落とし、落ち着かせ、そうやって今までもやって来た。『あの頃』からの悪習慣みたいなものになっている。
それが、今、最悪のタイミングで出てきてしまったらしい。そう認識していても、やはり、止められるほど根は浅くないらしい。
だが、そのおかげで気づけた。クレバーになれたのも幸いしていた。
メラスは通常、群れで行動する。では、その群れのリーダー核、メラス・イストが倒された場合、どの個体がその群れを統率するか?
野生動物であるが故に、リーダー無しでは群れになっての行動は小規模でもありえなくなる。そういう訳で・・・、
「・・・っ!?」
冷ました思考回路が一気に沸騰する。
振り返ると、そこには、こちらを見つめるアンと、その真横から噛み付こうとするメラス。
その後は、もう反射で、全てが終わった。
手に持っていたカタナを大きく振りかぶり、持ち方を変える。逆手に似た構え。だが、やることは別物だ。
カタナを持った手を引き絞ると、腰を捻り、全身の力をカタナに伝播させ、真っ直ぐ、メラスの首筋に投げ放つ。
踏み込んだ足は、地面に亀裂を生み、振り抜いた腕は外れそうな程に痛みが走る。
そうやって、投げられたカタナは本来の使い方は違う方法で、本来以上の威力を見せた。
投げられたカタナは刃の根元まで突き刺さり、鍔元でようやく静止した。メラスの命については言わずもがな。
ここまでやって、まだ前座。
驚愕でヘタリ込むのも忘れたアンが立ち尽くすが、そこに気を配る余裕が、九条からは消えていた。
今のアンは放心状態で、戦える状況じゃない。
そして、今九条の手には得物は無い。取りに行くのは論外だ。
それでも、そんな事情を、相手が鑑みる道理は無い。正面にいる、今ままでのメラスとは比べ物にならない圧倒的存在が、正面からやって来る。
緑斑の皮膚に身を包んだ、鋭い爪と牙、そして強靭な顎。そして、九条が『狩人』になって以来、最大級の、四メートルを超える巨体を持つメラス。
メラス・イスト。
これが、こいつが今回の討伐対象。今日倒してきたメラスの王。
一般的に、『大きい』というのはそれだけで身を竦ませるのに足りる。だが、幾つかの修羅場をくぐり抜けた九条などは、生半可に大きいだけでは動じたりはしない。
だが、このメラスの王には、それだけで威圧出来るだけの力があるのだろう。体に付いた傷の数でも、こいつの強さは明白だ。それに、筋力は、単純に大きさに比例しないだろう。
背中を見せれば、すぐさま取って食われる。
歴戦の『狩人』である九条が、久しぶりに『脅威』と認識した個体。
両者の沈黙は、長くは続かなかった。
8
アンは動けなかった。
一つに、突如クジョウが、持っていた剣を全力で投擲、それがすぐ横に迫っていたメラスを貫いていた事への驚愕。
そして、そのクジョウの目の前に現れた、規格外のメラス。
通常、メラスは三メートルを超える事は滅多に無い。よしんば存在しても、加齢により動けなくなるものだ。
だが、今それ以上の怪物が十数メートル先にいる。
圧倒的捕食者に対する恐怖。
その二つがせめぎ合い、アンの動きを抑制していた。
だが、戦況は、すぐに変わった。
得物を持たないクジョウに、メラス・イストが頭を突き出し、突進を仕掛ける。クジョウは危なげなく、横に飛んで躱したが、勢いそのままメラス・イストは木に頭をぶつける。
木が小刻みに揺れ、ぶつかった方向とは逆に、その木が傾き、倒れた。
もの凄い音と共に倒れる木を他所に、メラス・イストは気にも止めずに、方向を変える。そして、甲高い不協和音の様な咆哮を高らかに響かせた。
その咆哮を皮切りに、森中から順を追っていき、波紋が拡がる様にしてメラスの鳴き声が連鎖して木霊する。
「・・・あっ!」
放心状態のアンも、それでようやく正気に戻る。今まで空回りしていた思考が噛み合い、習った事が一気に頭に回り出す。
『え~・・・と。メラス・イストは、他の個体と違い、その群れのリーダーを務めているんだけど、その個体にだけ許された権限みたいな物があるんだよね。特殊な鳴き声とか、動作とか・・・まあ色々あるんだけど。この中で、仲間を集めるときには、決まって咆哮を上げるんだよね。それに呼応して、周囲に分散している群れのメラスが一斉に声を上げるんだよ」
アンは、龍神先生のダラダラと面倒臭そうに話す講釈を、記憶の底から引っ張り出した。同時に、身が竦むようだった。その言葉の意味すること、そして、これから起きるであろう事に。
その予想を確信付ける様に、クジョウの顔にも焦燥の色が浮かぶ。そして、こちらに掌を広げ、
「アン、五分ね!それで決着が着かなければ、君は逃げて!」
「えっ・・・?」
パニックに陥りかけた思考に、その言葉が突き刺さる。
クジョウは、アンに『逃げて』と言った。今、メラスが数十体も集まるであろうこの場において、最大クラスのメラス・イストと対峙して、得物を手放した、この状況で、それでも尚、クジョウは『手伝って』ではなく『逃げて』、と。
その言葉が、何よりも深く刺さる。
(クジョウにとって、私は足手まといなんだ・・・)
結局、クジョウは龍神先生に言われたから一緒に依頼を受けてるだけで、信用はおろか、信頼すらしてもらえていないのか。
そんな、敗北にも似た感情が渦巻く。
そうしている間にも、周囲には続々とメラスが集結していた。
こんな状況で、ようやくアンは覚悟を決める。」
10
九条はアンに指示を出すが、内心焦っていた。
「これは・・・ちょっと危ないかな」
アンに決して届かない声で嘆く。
このメラス・イストが、ではない。集まってくるメラスの群れが、でもない。
この状況から、街を出るときに交わした約束を果たすのが、だ。
メラス・イストを倒す事だけなら、楽にとは言わないが、どうにか出来るだろう。それが徒手空拳であったとしても。だが、今からやって来るであろうメラスの群れは別だ。
一対一なら勝てる。しかし、今回は勝手が違う。どれだけ強かろうが、数の暴力とはあるものだ。全方位からの飽和攻撃なんてもっての外だ。
「考えても意味は無い・・・か」
頭を振って、思考を切り替える。
木を折り、それでも何事も無いかの様にこちらを見据えるメラス・イストに意識を向ける。
緊張の糸は、張り詰めるまでもなく事態は動く。
真後ろから、集まってきたメラスの一体が噛み付いてきたのを、振り向きざまにしゃがみ込み、手を地面に付く。その手で跳ね上がると、首で両足を挟み込み、そのままへし折り、体を反転させ、地面に頭を叩き付ける。
その隙を、メラス・イストは逃さない。背を向けている九条に噛み付いてくる。
常識的に考えて、その体勢から躱すことは不可能だ。図体を鑑みると、同じ芸当をするのも無理だ。
なら、迎撃するしかないだろう。
しゃがんだまま、手を付いて後ろに回ると、頭が地面に付いた瞬間、折り曲げた腕を伸ばす。と、同時にメラス・イストの顎を強烈に打撃し、その勢いで一回転すると足で衝撃を殺しながらしゃがむ。
顎を跳ね上げられたメラス・イストはすぐには動けない。そこを突く。
地面を這うようにして放った後ろ回し蹴りが、メラス・イストが地面を掴む足に炸裂する。
硬い。
これだけの巨体を二本の足で支えるとなると、それだけの筋肉量が必要なのだろう。その筋肉は、それだけで鎧と化す。
だが、それが効かない、ということにはならない。それに、別に効かなくても問題は無い。
蹴り足を、メラス・イストの足に掛けると、その足を払う。
しゃがんだまま、一回転半すると、バランスを崩したメラス・イストの横っ面に吸い込まれるように九条の蹴りが入る。
勿論、これで倒せる程甘くは無い。最後の一手が必要だ。
蹴り足を地に付けると、右手を開き貫手にし、顔ではなく首筋に狙いを定める。これで終わる。
そのちょっとの隙。それが最後に隙を生んだ。
貫手が首筋に半分近く埋まり、メラス・イストは絶命する。だが、その背にはメラスの牙が迫っていた。
気づいたのは、その瞬間。しかし、もう遅い。
メラスの顎は、すぐそこまで迫っていた。
「ッッッッっっっっ!?」




