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苦手な方はご注意ください。

白茨スピンオフ作品「楡の木の幽鬼」

作者: LIGHT

その地方には、言い伝えがあった。



そう古いものではない。せいぜいがここ200年ほどのもの。


葡萄と、それから作られる赤いワインの産地。


都市の近代化が進む一方で、その少女が住む町だけは取り残されたように美しく、緑に溢れ、車といえば古いディーゼル車が黒い煙を吐き出しながら騒音と共にのろのろ進んでゆく程度のもの。


年に数回の祭では、いまだに馬車が使われるほどだ。


カラーテレビがそろそろ一般的になりつつある頃。


けれど町ではテレビより、町人同士の噂話のほうがよほど価値があるらしい。


女たちは時には悪口を、ときにはお世辞を言い合い、男たちは仕事の合間に妻の愚痴と賭け事に興じる。


そんな町だった。









石畳を勢い良くボールが転がってゆく。


町に一軒しかないスポーツ用品店で販売されているものでなく、子供たちの母親の中の誰かが作ったような、いびつな球形。


歓声をあげながら、5,6人の男の子たちがボールを追う。


きっと、なにかの球技に興じているのだろう。


どの子供も皆、楽しげな表情で時折声をあげては、相手から奪ったボールを蹴る。


そんな光景。


そして彼らから対角線上、水の出ない噴水の反対側で、少女たちは自分の描いた絵を見せ合う。


典型的なほどに、幼い頃から、男女の差がはっきりと現れているのは、閉鎖的な町の特徴だろう。


男の子は元気良く。


女の子はおしとやかに。


大人が決めたルール、その大人は神が決めたルールーだと子供に教え、何の疑問もなしに受け継がれてゆく。









「私は、お姫様を描いたの。将来私、お姫様になるから」


栗色の髪の少女が絵を見せる。


「それはちょっと、無理じゃない?」


少女の顔のそばかすを指差して、別の少女が笑う。6歳から7歳、そんな年頃のすこしませた少女たち。


「エリカの絵は?天使様?」


もう一人の少女の絵を覗き込み、栗色の髪の少女が問う。


描かれているのは、森の中で白いローブを身にまとう、隠者のような人物の姿だった。


もっとも、幼い子供の描く絵なのでかなり曖昧だ。


白い姿から、なんとなく聖者を連想したのだろう。


しかしエリカと呼ばれた黒髪の少女は、おずおずと絵を見せて、違う(

ノン)、と答えた。


「これは、"生まれ直す者"よ」


他の少女たちは一瞬顔を見合わせ、エリカに絵を突っ返す。


「あなた、正気?」


「描いちゃダメなのよ。目が潰れるわ。大人たちが言ってたもの。森の奥の楡の木に居るのは、白い姿をした幽鬼だって」


胸元に付き返された絵を引き寄せ、内気そうにそれを抱きしめるエリカに、栗色の髪の少女が大人びたしぐさで指をつきつける。


「伝説で言ってるもの。森の奥にいるのは恐ろしいものだって。引き込まれるから近づいちゃいけない、その姿を見てはいけない、描いてはいけない」


知ってるでしょ?


強い調子でそう諭され、エリカは言い返す事ができずに俯く。


だが、なおも彼女を責めようとした栗毛の少女を、横からもう一人の少女が軽く小突いた。


「ねえ、ちょっと」


「何よ」


「"あの子"が来たわよ」


3人は口をつぐみ、今までの会話などとうの過去にしてしまって、噴水の反対側を窺い見る。


遠く広場の外のレンガ道を、黒髪の少女が歩いてゆくのがみえた。




ボールが跳ねる。


強い日差しのなかで、目にもまぶしい白いボール。


一人の少年が、広場を抜け外のレンガ道へ転がったそれを追い、拾い上げようとしたところで自身のうえに落ちる影に気づき、顔をあげる。


そして明らかに戸惑った表情を浮かべた。


「あ…ヴァレリー……」


肩の下まで伸ばした黒髪。


白い服が眩しいほど太陽を反射し、それとはまた違う意味でのつよい光を帯びた目が少年を見下ろす。


「……邪魔よ」


冷たく言い放ち、少女は少年のすぐそばを通り抜ける。


その姿が広場を抜け、その先の森に消えるのを見送ったあとで、少年は頭をかいてボールを拾い上げた。



「……あの態度」


「やな子」


噴水の裏から一部始終を眺めていた少女たちが呟く。


「ヴァレリー、森に行ったわよ。大人に言いつけなきゃ」


「いつもああよね。ママたちが話してたけど、あの子、楡の木のすぐ側まで行った事があるって」


「信じられない!不気味な子」


「あの恐ろしい幽鬼に会ってたとしたら?」


「まさか!それにそんなの、伝説よ。本当にいるはずないわ」


少女たちはあの浮世離れした同世代の少女、ヴァレリーの話題に沸く。


誰とも馴染もうとせず、大人でもなく子供でもなく、誰の言うことにも従わない。


ものを盗んだり、壊したりする事こそ無かったが、よく蛇を捕まえては死なせていた。


宗教的意味合いにおいて、蛇は不浄のものとされている。そうでなくとも、生理的嫌悪感を想起させる生き物であるのに。


周りの大人たちがどんなに努力してみても、彼女は決して周囲に溶け込もうとはしなかった。


日曜の教会にも現れない。それはこの小さな町の人間たちから見れば、とんでもないことだった。


親ですら手を焼いている、町の大人たちにとっては決定的に異端な少女。


そんなものは幼い少女たちにもなんとなく、伝わるのだ。



強い風が吹きつける。


「あ!」


噂話に興じる少女たちの手から、うすい紙に描かれた絵が舞い上がる。


何枚も、何枚も。


広場に散った絵、乾いた噴水のなかにふわりと、真っ白なローブと鮮やかな緑の絵が、落ちた。



2



怒りはない。


感動もない。


喜びもない。


ただ、退屈だけがそこにはある。


それが世界。


この世界には色なんか無い。鮮やかな色彩はおろか、白も黒も無く、灰色の何の変哲もない日常が続いてゆくだけ。


なにが楽しいのか分からない、同じ年頃の子供たち。


ばかげた話題に興じる、無意味な人生を送る大人たち。


……くだらない。死んだ蛇を道端に無造作に投げ捨て、少女はそう、思う。




今日は彼女の7歳の誕生日だった。


けれどそんなことに意味は無い。


母親は心を込めて料理を作り、父親はなんとか自分の気を引こうと、新しい玩具を買ってくる。


毎年繰り返されるそれに付き合う気も無いので、丁寧に飾り付けられた自宅を出たのだが、自然と足は森へと進んでいた。


よく晴れた日、木漏れ日が少女の顔に木々の影を落としている。


森の入り口から続く小道を抜け、やがて道といえる道もなくなり、森は深く、人の手の及ばない世界へと続いてゆく。


少女は、わき目も振らずに歩く。


明確な目的があるわけではなかった。


森にくれば何かがあるわけでもない。


ただ、あの小さく閉鎖的な町から少しでも遠ざかりたかっただけだ。それ以上の意味はない。




森は一層深まり、立ち並ぶ木々の間から下がる蔓が少女の進路を阻む。




ようやく足を止めた少女は、知らずの間に自分の息が上がっていたことに気づいた。


ここまで森の深くに入ったのは初めてのことだった。


少女はぐるりとあたりを見回す。


高く茂った木々が空を覆い隠し、虫か鳥か区別のつかない鳴き声が延々と響き渡っている。


足元の土はだいぶ前に降った雨を深く吸い込み、晴れの日が続いた今でもじっとりと重い。


腐った木の葉が足元にわだかまっている。恐らくは、冬からずっとそこに留まっているのだろう。


停滞した空気。雨と、木々のにおいを混ぜ込んだかのような。


枝の間からカーテンのように蔓が無数に下がり、まるで緑色の滝だと思った。


其処は鬱蒼と暗く、冷えた空気がわだかまり、少女は引き返そうかと踵を返す。


そして町への道へと数歩戻り、また、足を止めて振り返った。


茂った木々の支配するここにはすでに太陽の光はほとんど届かないが、蔦のカーテンのむこうから陽が漏れ差していることに気づいたのだ。


じめつく土が、彼女の靴を焦げた茶色に汚している。


どこかで擦ったのか、白い衣服の裾も同様だった。


それを気に留めた風もなく、少女は蔦のカーテンに手をかける。


やはり光はその向こうからこちらへと、筋を描いて漏れさしていた。


彼女は道を開こうと、両手で左右に引いてみる。


しかし少女の小指ほどもある緑の蔓は互いにがっちりと噛み合い、そう簡単にはこの先へと通してくれはしなかった。


まるで、外部からの進入を拒むかのように、森に棲むなにかが人知を超えた力え封じているかのように、少女の腕ではびくともしない。


それが逆に興味をひいたのか、少女は両腕で力いっぱいに蔓を引き千切ろうと試みる。


青々とした蔓は強く、指の皮が切れて赤い血が流れ出す。


やりかたを変え、少女は爪で蔓の表皮を引っ掻き、すこしずつその戒めを力づくで解いてゆく。


光が、僅かずつ強くなるのを感じた。











どれくらい、同じ作業を続けていたのか分からない。


爪は剥がれ、指先からはとめどなく血が流れていたが、少女は気に留めない。


最後の蔓を引きちぎったとき、そこに広がる別世界に少女は目を見開いた。


鬱蒼とした、暗い森の、その先にある、光あふれるせかい。


それがにわかに現実のものとは信じられなかった。



そこは、森の中のほんの小さな平原だった。


町のちいさな広場が収まる程度の面積に、足首までを覆う程度の草が青々しく多い茂っている。


その周りは少女が抜けてきたのとおなじ、緑のカーテンに仕切られていて、その先はきっとあの鬱蒼とした森が続いているのだろう。


だがここだけは空を遮るものはなにもなく、やわらかいあたたかい日差しが優しく降り注いでいる。


森のもっとも深い場所に切り取られた、ちいさなちいさな平原、その中心に聳え立つ、楡の木。


貪欲に空へと高く高く伸びるその姿に、此処こそが、伝説で幽鬼が出るとされる、数百年に渡り決して


人が近寄らなかったその場所なのだと、少女は気づく。


そしてその、巨大な木の根元に寄りかかり、けだるげに座る白い髪の少年に気づいた。







誰でも知っている。


わたしのような子どもでも。


この森の奥、楡の木のしたには白い姿をした幽鬼が居る。


魂をとられるから、決して近づいてはいけない。





―――――子供を一人で森に行かせまいとする、大人たちの作った戯言だと思っていた。




3



ひらひらと、白い蝶が舞う。


少年の髪とおなじいろをしたそれは、妖しく戯れるように彼のまわりを何度か飛び、彼の膝に止まった。


うつくしい胡蝶。


少年はうっすらと目を開き、そうっと、膝のうえの蝶の片羽根を、つかまえた。


ばたばたと、蝶は暴れる。


その手から逃れようと羽ばたく蝶の燐粉が少年の指を白く染めた。


「いつまで、そこに居るつもりだ?」


その蝶を顔の前まで上げて眺めながら、少年は問う。


それが自身に向けられたものなのだと少女が気づいたのは、一拍の間をおいてからのことだった。




がさり、と蔦をかきわけ、少女は広場へ一歩踏み出す。


少年がはじめてこちらに顔をむけた。


そして少女の割れた爪に、皮膚の裂けた指に目をとめて、微笑む。


「俺が呼ばないのに来たのは、おまえが初めてだよ」


そんなになってまで、痛かっただろう。


呟いて、少年は無造作に、ばたつく蝶のもう片方の羽根を摘む。


ぴり、と音がした、そんな気がした。


少年の座る楡の木から少女の立つ場所までは離れている。きっと音など届いたはずはない。


ならそれは、蝶のあげた命の悲鳴だったのかもしれない。


少年は羽根を摘む指にそうっと力を込めてゆく。



残酷に、ゆっくりと時間をかけて、蝶のからだは鋭くふたつに裂けてゆく。



「……綺、麗」


少女は呟く。


呟いて、蔓から手を離し、楡の木のもとへ歩み始める。


少年は木の根元にもたれたまま、しずかにこちらを見ていた。


はらりとその手から蝶の命が零れ落ちる。


地面に落ちた蝶の片羽根。


少女の靴がそのほんの僅か手前で止まった。


「変わってるな、おまえ」


彼は少女を見上げ、おいで、と手招きする。


ほんの僅かの距離を詰めて、少女は少年の足のすぐ先にしゃがみこんだ。


足元には千切れた胡蝶。


血と土と、木々の命で汚れた指先。


少年は、少女の指を握って引き寄せ、同じだな、と呟いた。



「おまえからは血の匂いがする。洗い落とせない、生来の血の匂いだな」


俺によく似ている。


少女の足元の蝶に視線を落とし、拾え、と尊大に少年は言い放つ。


誰にも従わない、町の誰にでもそう言われた少女は素直に従い、死んだ胡蝶のもう片方の羽根を捜す。


微風に煽られて、手を伸ばせば届く程度の距離に落ちていた羽根を拾い、少年に差し出すと、自分の指も白く染まった。


「おまえ、魔法を信じるか?」


「……信じない」


「可愛げのないガキだな」


少女の指から蝶を受け取る、少年は悪戯っぽく笑ってみせた。


「それから、変わってる。俺を怖がらない。俺が何者かも聞かない。自分のことも話さない。変なこどもだ」


「……子供じゃ、ないわ」


「そうか。それじゃ何だ?」


「女よ」


一瞬意表を付かれたように少年は少女の顔を見つめ、それから、声をあげて笑った。


「そうか、女か。そうだな、……おまえは女、だ。そうか…、この世界には"女"という生き物が居たな。でもなかなか会えない。


むかし女だったような生き物や、一生女にはなれない女ばかり見てきたから、忘れていたよ。……おまえは、女だな」


その証拠に血の匂いがする。


おまえは多くの命を屠ってきたみたいだが、それをチャラにできるのもおまえ子宮だけだな。



だから俺はおぞましいと思うよ、女という生き物を。



そう呟いて、少年は少女の頬に手を当てる。


「だけどおまえの事は気に入ったよ。……幾つだ?」


「……わたしの過去は7年と8時間半」


もう片方の手を少女の頬に当て、少年は両手で少女の顔を包み込む。


よほど、この子供の答えが気に入ったようだった。


少年の片手に握られた蝶が頬に当たるのが分かったが、少女はそれを不快に思わなかった。



「魔法は信じないんだな。……じゃあ、"法則"を教えてやるよ。おまえには、特別に」


「ほうそく?」


少年はそっと、少女の頬から手を離す。


汗ばんで、少女の頬にはりついた蝶の羽根を指先で剥がし(すでに羽根から燐粉はほとんど失われていた)少女の目の前で、


千切れた羽根を指で合わせる。


「"生物"は、イレモノと中身でひとつ。水筒の水と同じだ。水筒だけじゃ役に立たないし、水だけじゃどこへも行けない。


水筒に水が入って、はじめて完全なものになるんだ。……生き物と同じ。身体というイレモノ、精神という中身」


7歳には難しすぎるか?


そう聞いてやったが、少女は首を振ることもなく、じっと少年をみつめて聞き入っていた。


「水筒が割れて水が零れて無くなる。"壊れた"ってことだ。……身体が破損して精神、魂が抜けてしまう。"死んだ"って事だ」


少年は顔の前で、片羽根ずつを合わせて持った蝶から手を離す。


重力のままに蝶は地面にふわりと落ちるが、それはほんの一瞬、次の瞬間にはばたばたと不器用なはばたきを始める。


少女ははっと顔をあげ、食い入るように少年をみつめた。




「水が零れても、その一滴まで掬い上げて、イレモノに戻してみればいい」




しばらく蝶はもがくように地面の上でくるくると回りながら痛々しいはばたきを続け、不意に吹き抜けた微風に乗って空高くへと飛び立ってゆく。


ひらひらと、なにごとも無かったかのように。


木々の中へと消えてゆく姿。


夢でも見たようにそれをみつめていた少女は、ふと不安になり、少年を振り返る。


消えてしまったのではないかと思った。


けれど少年は、最初に見たときと同じように気だるげに木にもたれかかり、少女をみつめていた。


「どうやったの?」


「おまえにはできないよ」


「なぜ?」


「俺にしかできない」


少女は暫くその言葉を考えるように、黙る。


そして、土が付くのも構わず膝をつき、少年の顔を覗き込む。


「私にできるのは、殺すことだけ?」


「そうだな。今は、な。だけどおまえは女だから、俺のできない事もいくつかできるさ」


少年は少女の髪を掴んで引き寄せる。


おまえは不思議な女だ、と呟いて。


「"生まれ直す者リライヴ"……それが、人が俺を呼ぶ名だ」


ああ、と少女は思う。


やはり、この人だったのだ。


楡の木の幽鬼、町人たちが恐れる異形のもの。


異形の、とても美しいもの。


「みんなは私を、ヴァレリーと呼ぶ」


「そうか」


微笑んで、少年は血に濡れたヴァレリーの手を取る。


しかし、その意図するところを悟ってヴァレリーは彼の指をそっと、ほどいた。


「?」


「いいの。このままで。治さないで。私の血のにおいを覚えておいて。私がどこにいても、あなたに私の匂いを知っていてほしい」



馬鹿だな、と少年が笑うのがわかった。


「俺はおまえを忘れない」


おまえの身体に染み付いた、濃い血の匂いを忘れない。


少年は、もう一度髪を引いてヴァレリーの顔を引き寄せる。


バランスを崩したヴァレリーを抱き止め、唇を重ね、絡めた舌をきつく噛んだ。



痛がる素振りさえ、ヴァレリーはみせなかった。



唇を離し、少年はヴァレリーの血に濡れた自身のくちびるを舌で舐める。


「おまえの血の匂いを忘れない」


もう一度言って、少年はゆっくりと、立ち上がる。


そして唇から血を流したままのヴァレリーを引き起こし、髪を手ぐしで整えてやってから、耳元に囁く。


「後ろを見ずに、もとの世界に帰るんだ。おまえはまだ、連れて行くには早すぎるから」


「……いつ」


いつになったら、一緒に行けるの。


口には出されなかった少女の問いを読み取り、少年はあやすように微笑する。


「おまえが本当に女になったら。その時までおまえが俺を覚えていたら、この楡の木の下で待っている」


だから、走るんだ。


振り返らずにお帰り。


決して、振り返ってはいけないよ。










草を跳ね飛ばして走る。


枝に引っかかったスカートがかぎ裂きのように破れるのにも関わらず、息が切れ肺が破裂するかと思うほど、走り続ける。


靴の片方はどこかで脱げてしまった。


けれど振り返らない。


振り返って、あの場所が幻だったらと思うと怖い。


あの小さな、灰色でないせかい。


鮮やかな色彩と、真っ白なせかい。


背を向けて走る。振り返らずに。いつか再び出会うために。


「ヴァレリー!」


誰かが彼女の名を叫ぶ。


電流に撃たれたように、彼女は足を止め、その勢いのまま地面に倒れた。


気づけば陽はとうに暮れて、懐中電灯を持った大人たちが何人も森の入り口をうろついている。


茂みを分け入り、彼女を探し出すために。


「ヴァレリー!どこへ行っていた!森へ入ったのか!?」


一人が、倒れた彼女の肩に手をかけ引き起こす。


「ヴァレリー!」


叱責するための父親の声。


集まってくる沢山のライト、人間、飼い犬たちの姿に眩暈を覚えた。


戻ってきた先は、いつもと同じ、色彩のない灰色の世界だった。


―――――わたしを生んだという人がなにかを必死に叫んでいる。


理解できないことばで。




「ヴァレリー!聞いているのか!?怪我をしているじゃないか!どういうことだ!」


暗い森、怒鳴る父親を、町で一人きりの保安官が宥め始める。


……ここはわたしの世界じゃない。


わたしのせかいは、あの白い、あの色彩に溢れた、あの不思議なひとと―――――


見下ろした指先には、固まった赤黒い血の上から白い燐粉がこびりついている。


少女は指をそっと擦る。


乾いてぽろぽろと、こそげ落ちる血と白い粉。


色を失った世界でそれだけがひどく鮮明だ。




あの人の指にもついていた、白い燐粉とわたしの血。


二人の指についた、同じ胡蝶の粉だけが、唯一の繋がりだと彼女は思う。


やはりあれは、魔法の粉だったのかもしれない。


「わたしの血を忘れないで」


わたしはあなたの血も覚えておきたかった。


共有した唯一の罪の証は、ぽろぽろと地面に消えてゆく。






4





誰かの私有地になった、と人づてに聞いた。


あのころ鬱蒼と茂っていた森は、背の低い林檎の木が立ち並び、どこからか飛んできた種から芽吹いた葡萄の蔓が絡みついている。


けれどそれも、奥へ奥へ行くに従い遊歩道は細く消え入り、あの蔓のカーテンの近くでは「KEEP OUT」と書かれた白い柵と


木漏れ日の合間に、僅かに錆びた鉄条網が無造作に引かれていた。



そんな、森の奥には不似合いなイブニングドレスの裾が揺れる。


パールベージュの、丈の長い美しいドレスを翻して、小さなダイヤをあしらった同系色のミュールが土を踏む。


長い黒髪が風に流れ、赤い唇が、笑みのかたちに歪む。


秘密の花園、という小説があったのを思い出したのだ。


小説など読むたちではなかったが、なんとなく聞いた話ではこんな風に、遮られた森の奥へ少女が迷い込む話だったように思う。


そこで少女が出会ったのは、果たして何であったかは覚えていない。


けれど自分ほど幸運なものに出会った者は、他に居ないだろう。


どれだけ月日が流れても、あれを夢だと思ったことはない。


あんな鮮烈なものが夢なのだとしたら、自分の生きている現実こそ嘘になる。


彼女はゆっくりと、絡まりあった蔓に手をかける。


あのときと同じように。






そして、迷うことなく、歩み寄る。


風に煽られ、ドレスの裾が大きく靡く。


伸ばした腕を飾るちいさなパールのブレスレット、その腕を取り引き寄せる白い姿。


抱き寄せる、同じ背丈の細い身体を。


切れたブレスレットから真珠が散り、パラパラと草の上に転がってゆく。


あの頃と変わらない少年の姿をした幽鬼は、抱き寄せた女の髪に指を絡めて囁く。


―――――おかえり。




蝶の燐粉のように散り広がった真珠のうえで交わすくちづけは、あの頃とおなじ、錆びた鉄の味がした。




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