前編
陶器のような白く滑らかな肌。
其処にゆっくりと這わせられる指先もまた白く、敷き布団の枕元に置かれたスタンドライトが放つ控えめな明かりがその二つの白さを際だたせていた。
ベッドの上で絡み合う一組の男女の影が、部屋の壁に妖しく揺れる。
「……どうしても、欲しいの?」
鈴蘭の花のような声で、自分を組み敷く黒髪の男にそう問いかけたのは、十代後半ほどの少女だった。
艶やかな黒髪をシーツに散らばらせて男を見上げる表情にはまだ何処かあどけなさが残り、胸元寸前まで寛がせられた寝間着の下では薄い体が呼吸に合わせて緩やかに上下している。
そんな少女に男はにやりと妖艶な笑みを浮かべ、形の良い少女の耳に唇を寄せた。
「ああ……我慢出来ねえよ」
熱の籠もった吐息が耳に掛かり、少女は擽ったそうに身を捩る。
しかし、男はその体を逃がさないと言うように抱き締めると耳元から顔を離し、自分を見上げている少女の顎を指先で捕らえた。
そして、口付けを交わすような程に顔を近付けたと思えば、その唇をすいっと少女の無防備な首筋へと持って行った。
「あ……待って、お願い……」
「駄目だ、もう限界だ……」
少女の懇願も虚しく、男は余裕を無くした様子で口元を歪ませる。
其処には鋭く尖った牙が覗いていた。
「ああっ……」
男はその牙を容赦なく少女の首筋に突き立てる。
ぷつり、と皮膚を貫いた音が聞こえ、自分の体から何かが吸い取られていく感覚に少女は堪らなくなって声を漏らす。噛まれている箇所がじんわりと熱かった。
そんな少女の体を抱き締めたまま、男は恍惚とした表情で血を啜る。舌の上に広がる極上の味。飲めば飲むほどに満たされ、虜になっては飢えていく。
そうして、時間にすれば一分程度、しかし気分としては桃源郷を数日間漂ったような感覚を味わった男は、漸く少女の首筋から牙を抜いて、
「この程度でもかよ……!」
自分の下で気絶している少女の頬をぺちっと叩いた。
そして、溜め息をつくと補給したばかりの力を指先に集中させて、青白い顔で気を失っている少女の額にその指先をぐりぐりと押し付ける。
すると、閉じられていた少女の目蓋が緩やかに持ち上がった。
「うえ……だから待ってと言ったのに……」
「黙れ、このもやし娘! 文句はもう少し供給出来るようになってから言え!」
「大声出さないで……頭に響く……」
「平均量の四分の一で我慢してる俺の辛さが分かるか!?」
「だから大声を……っ、あ、だめ、吐きそう……」
「だああっ! ちょっと待て! 洗面器持ってくるから!!」
うぷっと口元を押さえた少女を見て、男は風呂場へ駆けていく。
吐き気の序でに眩暈と倦怠感に襲われ始めた少女の耳には、からーんっと乾いた音と重たい何かーー成人男性が風呂場で盛大に転んだような音が聞こえてきた。
これが超絶軟弱女子高生、芽吹萌と、そんな萌の血に魅入られたばかりに苦労している吸血鬼、ヴァンの日常の一コマである。
***
芽吹萌の朝は朝日と共に、ーーなかなか始まらない。
「うああ……」
敷き布団と掛け布団に挟まれながらゾンビのような呻き声を上げ、覚醒しない脳と既に怠い体を叩き起こす為、費やす時間は毎回およそ十五分前後。
そして何とか布団から這い出て、ふらつきながらも着替えを済ませると自室を出る。
因みに萌の部屋は一階の和室である。初めは二階の洋室だったのだが、毎朝ベッドや階段から転げ落ちる事が日課になりかねなかったので変えられた。
「おー……今朝も良い感じに死んでるね……」
洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、萌はしみじみと呟く。
目の前にある顔には、明らかに血やら生気やらが足りていない。
一般的によく『花の女子高生』などと言うが、今の自分は養分が足りない球根みたいだなと思いながら洗顔を済ませて髪を解かしていく。
そうしているうちに台所の方から出汁の良い香りが漂ってきて、身支度を整えた萌はリビングへと向かった。
「おはよー……」
「おう、今朝も無事に生きてたか」
萌がリビングに行くと、テーブルに朝食を並べているヴァンが迎えた。
白シャツにジーパンという軽装の上から黒いエプロンを着けて、せっせとご飯茶碗や味噌汁の器を並べているその姿はとても吸血鬼だとは思えない。
(それでも間違いなく吸血鬼なんだよね……)
本来なら手伝うべきなのだろうが、一度運んでいる最中に立ちくらみを起こして味噌汁をひっくり返しかけてから、すこぶる調子の良い以外での手伝いは禁止されている。
そんなわけで萌は自分の席に着いて、ヴァンが朝食を並べ終えるのを大人しく待つしかなかった。
「よし、んじゃ食うか」
「いただきまーす」
食事を全て出し終えてエプロンを外したヴァンが向かい側の席に着き、自分の箸を手に取ったのを見てから萌も箸を持つ。
そして、食事前の挨拶をきちんと告げるとその箸を、
「おいこらああっ! お前、食わずに箸を置くなって言ってんだろ!?」
「だって朝は……朝は食べれないんだよ……」
「だからって食わねえと食わねえで倒れんだろ、お前は!」
ヴァンの盛大なツッコミを受けながら、萌は目の前に並ぶ朝食を見る。
つやつやに炊かれた白米に出汁の良い香りがする味噌汁。綺麗に焼けた鰺にほうれん草のお浸し。
完璧な和の朝食である。これを食べ切れたら今日一日はさぞかし元気に活動出来るであろう。
ーーそう、食べ切れたら、だ。
しかし、どうにも食が細い萌の胃は朝からこんな大量の食事は受け付けない。詰め込めば入らなくも無いが、学校で大惨事を引き起こすのは目に見えている。
それが分かっているからヴァンも無理強いは出来ない。それでも「今朝はもしかしたら」と思って、毎朝こうしてきちんとした朝食を作ってしまう。
「そうなんだけど……」
申し訳ない気持ちは当然ながらあるので、萌は眉を下げて再び箸を持つ。
そして、白米をほんの一口だけ、口に運んでゆっくりと咀嚼した。
「……うう」
米特有の甘みが口の中で広がると、自然と眉間に皺が寄った。美味しいと感じられても胃が拒否しているのが分かる。
何とか飲み込んでみても喉を通っていった白米の塊はずっしりと重く、二口目を躊躇している萌を見て、ヴァンは諦めたように溜め息をついた。
「あー……分かった。でもせめて、味噌汁とお浸しは頑張れ」
「う、うん……」
ちまちまと食事を進めていく萌を眺めながら、ヴァンも自分の食事を開始する。
(こりゃ、今朝も学校まで送らねえとなあ……)
味噌汁を啜りながら壁の時計で時刻を確認したヴァンはそんな事を考え、このあと使うであろう魔力を少しでも補給しようと焼き鰺に箸を伸ばしたのだった。
***
立てば貧血、座れば目眩、歩いて三歩で不整脈。
そんなキャッチコピーが自然と付けられる程、芽吹萌は病弱である。
そして、それは彼女が在籍している二年A組では常識だった。
まず、春休み明けの始業式の最中に貧血で倒れて保健室に運ばれた。
その時点で既に目立っていた萌だったのだが、それで終わっていたら彼女はそこまで印象強くは無かっただろう。
原因はその後である。
次に萌は保健室から帰ってきたと思えば、最初のHRでは恒例である自己紹介の最中に再び倒れた。
保健室に行く程では無いからと言った彼女がそのまま「特技は立ちくらみです」と冗談めいて続けたが、誰一人として笑えなかったのはA組生徒の記憶に未だ残っている。
他にも、五十メートル走を走ったら二十五メートル地点で力尽きて倒れたり、登校途中で通り雨に降られたと笑っていたと思えば、その後の授業中に熱を出して保健室に運ばれていったりと、細かい事も挙げたらそれこそキリが無い。
とにかく、芽吹萌は体が弱い。
けれど、人柄は極めて普通の女子高生なので、周囲から下手に気遣われる事も爪弾きにされる事もなく、萌は今日もA組の教室内で平和に過ごしていた。
「萌のお弁当って凄いよねー」
「えっ?」
生徒達の憩いの時間、昼休み。
萌とは特に親しい間柄である女友達が、大手コンビニ店のロゴが入ったビニール袋から菓子パンと紙パックのレモンティーを取り出しながら言った。
その視線は萌の弁当に向けられている。
「栄養バランスとかマジ完璧って感じじゃん?」
「ああ……うん、そうだね」
楕円形の弁当箱は女子高生らしく大きくは無いものの、その半分にはおかずが綺麗に詰められている。もう半分には海苔ふりかけの掛かったご飯が詰まっていた。
本日のおかずは胡麻の掛かったきんぴらに茄子と椎茸の煮物、桜エビの入った卵焼き。そして、彩りを兼ねたデザートとしてプチトマトと巨峰が二粒ずつ。
正に理想的な弁当と言えるそれを見て、彼女は羨ましそうに溜め息を零した。
「毎朝お兄さんが作ってくれてるんだっけ? 料理好きなお兄さんとかいいなあ」
「料理好きって言うか、何かとマメで器用なんだよね。世話好きって言うの?」
「言い方なんか何だっていいって! ……あー、やっぱアタシも料理勉強しようっと。男がここまで出来る時代だし、料理出来ない女とかダサいよねー」
彼女は机の下で足を軽く揺らしながら、添加物たっぷりの菓子パンを頬張る。
もう何度目かも分からない友人の決意表明に、萌は苦笑しつつ弁当用の小さな箸で煮物の茄子を口に運んだ。
噛んだ途端に出汁の効いた煮汁がじゅわりと溢れ出す。
(うん、今日は食べられそう)
これで午前中に体育などあった日には疲れ果てて食べられないのだが、今日は午前中の授業は全て座学だったので食欲は問題無さそうだった。
そうして、安心した萌は内心で『世話好きの兄』に感謝しつつ、友人と他愛ない雑談を交わしながら何とか弁当を全部食べ切る事に成功した。
***
「お、今日は全部食えたのか」
帰宅した萌から弁当箱を受け取ったヴァンは、早速洗おうと蓋を開け、綺麗に空になった中身を見ると八重歯を覗かせて嬉しそうに笑った。
無邪気なその笑顔に、萌も思わず頬を緩ませる。
「ふふん、やれば出来る女ですから」
「おーおー、そんな大口は朝も食えるようになってから言え」
得意げに胸を張ってみせる萌の頭を、ヴァンはわしわしと撫で回す。
それから弁当箱を手早く洗って片付けると、エプロンを外しながら、冷蔵庫から出したミネラルウォーターを飲んでいた萌に声を掛けた。
「萌、夕飯何なら食いたい?」
「すっぽん」
「よし分かった、食えよ? 絶対に食えよ?」
「ごめんなさい冗談です。……お蕎麦、とかかな」
「蕎麦か……。そんじゃ精進揚げすっかな」
萌の要望を聞いたヴァンはふんふんと鼻歌を口ずさみながら、冷蔵庫横のスペースから愛用のエコバッグを取り出し、一緒に出した薄手のパーカーを羽織る。
すると、萌が自分の事をじっと見つめてきている事に気付き、その視線が何を訴えているのかを察したヴァンは少し考えてから口を開いた。
「……あー、そういや今日、スーパーでティッシュの特売だったな」
「!!」
「お一人様一個限りだったから、人手が多いと助かるんだが……」
そこまで言って萌の方を見れば、既に自分のパーカー(ヴァンの着ている物と色違いの二枚セットで安売りしていた物である)をいそいそと着始めていた。
そして、ポケットに携帯と財布を突っ込むと、ヴァンの背中を玄関に向かってぐいぐいと押していく。
「ほらほら、戦場に行くぞ! ヴァン二等兵!」
「二等兵かよ! もう少し上の階級くれたっていいだろ!?」
「大丈夫だよ、このあとで二階級特進する予定だから」
「おい、それ殉職だよな? 俺はスーパーの特売程度じゃくたばらねえぞ!」
賑やかに騒ぎながら玄関で靴を履き、二人は一緒に家を出る。
すると、向かいの家に住む主婦と早速出くわした。
その手には二人が今から目指すスーパーの袋が提げられていて、どうやら主婦は一足先に戦場から帰還したようだった。
「あら、萌ちゃん達は今からお買い物?」
「そうですー」
「いいわねえ、いつも兄妹仲良しで。いってらっしゃい」
「はーい、行ってきまーす」
愛想の良い笑顔で受け答えた萌の横でヴァンは軽く会釈をし、二人はその場を後にする。
そして、曲がり角を曲がったところで、萌は耐えきれずに噴き出した。
「だ、だめ、ヴァンがお兄ちゃんとか……っ!」
「おい、どういう意味だ」
「だって……お兄ちゃんっていうより、お母さんじゃん?」
「……否定出来ねえのが辛いんだが」
「あはは!」
苦い顔をするヴァンに萌はますます笑う。
そして、目尻に涙が滲む程に笑うと漸く落ち着きを取り戻し、僅かに痛くなった脇腹を擦りながらヴァンの手を取って歩き始めた。
「さ、スーパーに行こう! お兄ちゃん?」
「……帰りに荷物持たせてやっからな、このもやし妹め」
ヴァンは口をへの字に曲げているも、繋いだ手を離す気配は無い。
それに気を良くした萌はにんまりと口元に弧を描き、繋いだ手をぶんぶんとブランコのように大きく振ったのだった。
「……旦那って選択肢は無いのか」
「ん? ヴァン、何か言った?」
「おう、野菜売り場のもやしに紛れんなよって言った」
「そ、そこまで貧弱じゃないし!」




