プロローグ ロセリアの受難
曰く、オーガが見て見ぬふりをする。
曰く、歩いた後にはペンペン草一つ残らない。
曰く、転生を繰り返す魔王の化身である。
数々の伝説によってグリード大陸中に知られる魔導師、ロセリア。彼女がアララギ山に住む老火竜を倒し、史上四人目の竜殺しとなったのは森暦794年のことであった。その時、彼女の年齢は驚異の十五歳。それまでの二十七歳という記録を大幅に塗り替え、史上最年少の竜殺しの誕生である。
――竜殺しを為した者は王より貴族の位を与え、宮廷魔導師の一員として魔導院に迎え入れる。
ロセリアの住むローグラント王国には古くからこのような伝統があった。それは一度として破られたことはなく、歴代の竜殺したちはみな宮廷魔導師となり、その後、王国魔導院の重鎮として活躍をしている。ロセリアも当然、彼らと同じように貴族の位を与えられ、宮廷魔導師となるはずだったのだが――
「何、このド田舎……!」
サスペンションの効いた魔放車を降りると、そこは別世界だった。青い空の底にどこまでも緑の大地が広がっている。遥か地平線の果てには黒々とした森の稜線が広がっていて、その付近に申し訳程度に畑と家があった。ログハウス調の小屋が十軒ほど並んで建っているだけの、実に小規模な集落である。そこまで続く道もろくに舗装がされておらず、草原の草を刈り取っただけの雑な造りだ。生粋の都会人であるロセリアからすると、もはや異世界である。
――我が王国で一番の領地を与える。
ロセリアを宮廷魔導師ではなく領地持ちの準男爵としたとき、王は厳かな口調で確かにそう言った。それだから彼女はしぶしぶながらも荷物をまとめ、カバン一つでこのヒースフェンの地へやってきたのである。だと言うのに、これは一体なんということか。ロセリアの腹の中がたちまち沸騰する。
彼女はすぐさま振り返ると、魔放車に同乗していたエリモンド男爵の顔をキッと睨みつけた。その眼は炎を宿しているかのようで、男爵の脂ぎった顔が思わず引き攣る。猫背になっていた彼の背筋が、自然とまっすぐに伸びた。
「ちょっと! これどういうことよ! ええ!!」
「な、なんだね。ヒースフェンは間違いなく王国で『一番広い』領地だぞ。侯爵様の領地より広いんだ、文句ないだろう!?」
「広くったって、こんな田舎じゃどうしようもないでしょうが! 人口千人もいないぐらいでしょ!」
「失礼な! ヒースフェン全体でなら軽く三千人はいるぞ!」
「…………面積はどれだけあるのよ」
男爵の丸顔がさらに引き攣り、縦に潰れたように伸びてしまった。彼はロセリアから視線を逸らすと、ぼそりとつぶやく。
「お、王国全体の二十分の一ぐらいだな」
「王国の人口って千二百万人よね。その二十分の一で三千ってさ、過疎なんてレベルじゃあ……!」
「や、やめたまえ! わしは男爵だぞ、このわしに何かあったら――ひいッ!!」
修羅が立っていた。
全身から実体化して見えるほどの魔力を放出し、わなわなと拳を震わせている鬼がいる。それは竜殺しというよりも竜そのものを思わせる超越的な存在感を放っていた。蛇に睨まれた蛙のごとく、男爵の動きが止まり、全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出す。オーガが見て見ぬふりをする。彼女にまつわるそんな噂を男爵は耳にしたことがあったが、それどころではない。オーガが尻尾を巻いて逃げるレベルだ。
魔放車に乗り込んでいた衛士たちは、とっさに男爵を守ろうとロセリアの前に立ちふさがった。その次の瞬間――。
「煉獄の炎滅!!!!」
「おふァ!!!!」
炸裂する大魔法。響き渡る悲鳴。空を貫く光の柱。
炎と爆風が同心円状に広がっていき、男爵や衛士たちの身体が宙を舞って星となる。そっとやそっとのことでは壊れない耐圧仕様の魔放車も、跡形もなく消し飛んだ。大地が一瞬にしてえぐり取られ、あとに残されたのはロセリア唯一人。彼女は草原にできた巨大な盆地の縁で、恨みの籠った叫びをあげる。
「くそったれェ!!」
794年、青葉の月は14日。こうしてヒースフェン領領主、準男爵ロセリア・ヒースフェンは、文字通り爆誕したのであった。
それから一年半後。795年、金麦の月。
ヒースフェン領の隣に広がる魔森と呼ばれる森林地帯を、一人の女が歩いていた。長身でやや肉付きの薄い女で、アメジストを紡いだような髪を揺らしている。白磁の肌に埋め込まれた大きな翡翠の瞳は、薄暗い木々の間を静かに見据えていた。
「凄い魔力を感じたんだけどねェ……。どうしちゃったのかしら?」
散歩をするように軽やかな足取りで、女は巨木の間をすり抜けていく。
魔森と言えば、普通の人間ならばその名を聞いただけで震えあがる危険地帯。とても軽い気持ちで来られる場所ではない。しかし、女はそんなことお構いなしだった。黒いビロードのローブを翻し、流れるように森の奥へ奥へと進んでいく。
森を満たす濃密な魔力。
人々の用いる機械を狂わせ、長年にわたり魔森への文明の侵入を阻んできたそれが、より一層濃くなっている場所があった。あまりの密度ゆえに魔力が半実体化し、その場所だけ蜃気楼のように光が揺らいでいる。数字にしてざっと二十メールほどの範囲が、さながらシャボン玉のように周囲の情景から浮いていた。
「ん、あそこ?」
女が目を見開く。
魔力が集中しているポイントは、そこだけ大地がめくれ上がり、小さなクレーターが形成されていた。その穴の中心に、白い何かがある。女が目を凝らすと、それは小さな人型をしていた。まさか――彼女はその正体を確かめるべく、大地を蹴り一気に穴の底へと向かう。
「あらまァ……なんでこんなところに居るの?」
クレーターの中心に居たのは、白い産着にくるまれた赤ん坊であった。まだ、生後数カ月にも満たない新生児であろう。赤ちゃんという言葉通り、全身がほんのりと赤みを帯びている。髪も歯も、まだろくに生え揃ってはいない。
状況的に、捨て子としか考えられなかった。だが、あまりにも不自然である。わざわざ危険を冒してこんな場所まで来なくとも、赤ん坊を捨てるのなら森の入り口で事足りるのだから。加えて、何故周囲にこれほどの魔力が集まっていたのか。女は首をひねるが、答えは出ない。
「とりあえず、何とかしないと死ぬわねェ。でも、子ども苦手だし……。ああ、あいつのところに預ければいいわね」
女の頭の中に、少し離れたところに住んでいる腐れ縁の姿が浮かんだ。十年来の知り合いであるし、押しつけてしまえばさすがに放り出したりはしないだろう。彼女はそう考えると、赤ん坊をしっかりと抱き抱える。
「ロセリアの屋敷は……あっちだったわね。ふふ、驚くのが楽しみかしら……」
女はゆっくりと森の中を歩き始めた。その胸元で、赤ん坊が彼女の顔を不安げに見つめている。だが不思議なことに、その赤ん坊は見知らぬ女に抱かれたと言うのに、一切泣いてはいなかった――。




