第6話:換気は義務である
さて。火を手に入れた瞬間に発生した、人生……ならぬ蜘蛛生における最大級の敵がいる。
煙だ。
前世の私の部屋なら、天井を見上げれば当然のように換気扇があった。
スイッチ一つで「ブォォォン」と頼もしい音を立てて、調理中の嫌な匂いや蒸気を外へと吸い出してくれる、文明の守護神。
トイレにだって、お風呂にだって、それこそ二十四時間換気システムなんてものまで完備されていたはずだ。
だけど今の私の拠点にあるのは、さっき必死の思いで熾したばかりの「私の火」と、そこから容赦なくモクモクと立ち上がる、目に染みる排気ガスの塊だけだ。
「……ゲホッ、ゲホゲホッ! 死ぬ……肉が焼ける前に、私が先に燻製になっちゃう……!」
視界は真っ白。喉は焼けるように痛い。
この閉鎖空間で火を焚くということが、これほどまでに自殺行為だとは。
着火する前の私に教えてあげたい。
視界は白。喉は痛い。肺が拒否している。
閉鎖空間で火を焚くって、こういうことなのね?
サバイバル番組、そこ説明してた?
してないよね?
しなくても分かるだろって?
いやいや、こっちは「焼きたてのお肉」というゴールしか見えてなかったんだから、途中の障害物(煙)なんて計算外ですよ!
このままでは、せっかく手に入れた「温かい食事(予定)」を前に、一酸化炭素中毒で詰んでしまう。
ならどうする。
――換気ダクトを作るしかない。
設計士を目指した(志望していただけだけど)意地にかけても、この欠陥住宅を放置はできない。
私は涙目で天井を見上げた。
煙は天井にぶつかって渦を巻き、逃げ場を探してのたうち回っている。
……あそこだ。天井の左隅、わずかな岩の合わせ目。
そこから、ほんの少しだけ煙が吸い込まれているような気がする。
あの上には、外の世界へと続く「道」があるはずだ。
「……あそこまで行かなきゃ。……ん? 行けるのか、私?」
前世の私なら、脚立を持ってくるか、業者を呼ぶレベルの高さだ。
試しに、垂直に切り立った岩壁に前脚をかけてみる。
ぺたっ。
……あ、これ、吸い付く。
吸盤がついているわけでもないのに、岩のわずかな凹凸を私の脚が完璧に捉えている。
そのまま一歩、また一歩と踏み出してみる。
「うわっ……! なにこれ、マジで重力仕事してない! 垂直歩きじゃん。クモ、身体能力だけはエグいわ……!」
高いところが苦手だった私でも、スルスルと壁を登れる未知の感覚に、恐怖を忘れて感動してしまった。
視点がどんどん高くなっていく。
もしこれが学校だったら、私は今ごろ屋上でまったりしていることだろう。
「クモの身体、意外と便利かも」なんて、不覚にも少しだけ思ってしまったのが運の尽きだった。
「ゲホッ、うえぇ……っ! け、煙が……煙が全部上に溜まってる……っ!!」
当然である。熱い空気と煙は上にのぼる。
天井付近は、地上以上の地獄絵図だった。
まさに濃霧。いや、それ以上の密度。
目は痛くて開けられないし、呼吸をするたびに肺が燻されていく感覚がする。
私は涙と鼻水(クモにあるのか知らないけど、とにかく顔面から液体が出ている)を垂らしながら、手探りで岩の隙間に爪を立てた。
「ゲホッ、ゴホッ! お部屋の、空気……守って、みせるんだから……っ!!」
必死。完全に、なりふり構わず必死。
私は硬めの糸を爪に纏わせ、ドリルやヤスリのようにして岩をボリボリと削り始めた。
前世で見た日曜大工のレベルを遥かに超えた、完全な土木工事だ。
ガリガリ、ガリガリ。ボリボリ、ボリボリ。
クモの脚パワー、恐るべし。
煙に巻かれ、意識が朦朧としてくる。
「あ、これ死ぬ。リフォーム完工前に殉職する」と本気で覚悟した、その時だった。
パキッ、という乾いた音と共に、岩の破片が落ちた。
そこから「シュウゥゥ」と勢いよく音を立てて、滞留していた煙が吸い込まれていった。
「……ぬ、抜けたぁぁぁ……! 換気システム、開通ッ!!」
歓喜! 絶頂!
気圧の差で、外の新鮮な空気が勢いよく流れ込み、淀んでいたモヤを一気に押し出していく。
みるみるうちに視界がクリアになり、洞窟内に光(といっても入り口の微かな反射だけど)が戻ってくる。
「最高……空気が美味しい……! やった! 完全勝利じゃん、私!!」
私は満足げに、スルスルと壁を降りて地面に着地した。
身体中にこびりついた煤は汚いけれど、これでようやく、人道的……いや、蜘蛛道的な焼肉ライフが送れる。
意気揚々と、私の愛する「寝床(聖域)」を振り返った。
苦労して平らにならした、私の誇りであるあの床。
その上に、――見覚えのない「山」があった。
「…………え?」
視界がクリアになったおかげで、それは「それ」を、あまりにも残酷にはっきりと映し出した。
昨日、必死に脚を筋肉痛にしながら、それこそミリ単位の精度で平らにならした私の愛する床。
その上に、今さっき天井付近で私が必死にボリボリ削り落とした、大量の岩屑と、泥の山が。
盛りっ、と。
まるでそこに最初からあったかのような顔をして、私の安眠スペースを完璧に埋め尽くしている。
「…………」
静寂。
煙が消えて、めちゃくちゃ空気が澄んでいる分、その惨状が鮮明に見える。
「ちょっと待ってよ……誰よこれ!! 誰がこんなひどいことしたのよ!! せっかく平らにしたのに!!」
あまりのショックに、虚空に向かって叫ぶ。
……っふ。
「私だよ!! 私がやったんだよ!! バカなの!? 私のバカ!!」
そう。
「穴を開ける」ことしか考えてなかった。
上を削れば、当然、削りカスは下に落ちる。
ここは宇宙空間じゃない。重力がある世界なら、至極当然の結果だ。
リフォームの基本である「養生」……。
新聞紙を敷くとか、ブルーシートを被せるとか。
あんなに動画で見ていたはずの初歩中の初歩を、私は煙に巻かれて完全に失念していた。
「嘘でしょ……これ、また全部どかさないと寝られないじゃない……。なんなら、前より凸凹になってるし……」
さっきまでの勝利宣言はどこへやら。
私は、山積みになった自分の「しでかし」の前で、静かに八本の脚を折った。
空気は確かに綺麗になった。
だけど、代わりに私は「今夜寝る場所」を失った。
不本意ながらも、終わらない「残土処理」という名の重労働が決定したクモ女子高生。
――快適な生活への道は、想像以上に、自分の不手際で塞がれている。
今日はお肉を焼く前に、お掃除の第二回戦が確定しました。
あっ、いけない。涙が……。




