表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/21

第一幕 ― 森への招かれし者たち

霧が森の入り口を覆っていた。

けれど、それはただの湿気ではなかった。

森の意志が結露となって流れ落ちたような、

温もりのない白の揺らぎ。


紅に染まる葉が、宙に浮かぶように揺れている。

風はない。

それでも葉は揺れる。


誰かが息をするたび、

誰かの記憶が滲み出るたび、

その紅は、ふわりと宙を舞った。


その境界に、ふたりの影が現れた。


男と女。

言葉はない。

けれど、言葉以上に確かな何かが、

二人のあいだには漂っていた。


女は立ち止まり、

一歩踏み出した靴のつま先に目を落とした。

森の土はやわらかく、しっとりと濡れている。

紅の葉が、ぱらりと一枚、彼女の肩に降りた。


「……ここが、そうなんだね」


ぽつりと漏れた声は、

まるで森に問いかけるようだった。


木々が小さく震えた。

それは、風の音ではなかった。

まるで森そのものが、その言葉に反応したかのような──沈黙の返答。


男は、隣に立ったまま、小さく首を振る。


「……言葉を使わない方がいいかもしれない」


彼の声には、言葉にしない“記憶”のような響きがあった。

彼女はうなずく。

その動きには、戸惑いも、恐れもなかった。


声を飲み込む。

言葉を捨てる。

そうして彼女はまた一歩、森の中へと足を踏み出す。


森の霧が、わずかにざわめいた。

紅い葉が、ふたりの頭上にやさしく舞い降りる。


──森は、彼らを見ている。

──まだ、試している。



---


森の奥、風は眠っていた。


木漏れ日はすでに薄く、

代わりに柔らかな紅の揺らぎが、

森の天井から降ってくるようだった。


そこにいた。


少女──ガゼル。


深紅の衣のような髪が、膝のあたりで波打ち、

まぶたの奥で夢を抱くように、静かに座している。


彼女のまわりには言葉がなかった。

けれど、それを必要とするものもなかった。


森の魔力と彼女の静寂は、

お互いに絡み合い、溶け合い、

ひとつの呼吸となってこの場所を守っていた。


その傍ら、ネムレアが小さく丸まっていた。

白く、やわらかな毛並みをふるわせ、

うたたねのような気配を森に満たしていた。


旅人たちの気配に、ネムレアの耳がぴくりと動く。

まどろみのなかで森が揺らぎ、

小さな命が、何かの“目覚め”を感じていた。



---


遠く、境界の影にて。


レヴルムが尾を静かに振る。

灰色から紅紫へと滲む毛並みが、

風もないのに、まるで炎のように揺れていた。


その双眸は旅人たちを映し、

感情を語ることはなかったが、

その視線には、確かな“見守り”があった。


レヴルムは動かない。

ただ、見つめる。

森が目覚める瞬間を。



---


そして、緋薔薇の香りが静かに漂う。


ヴェルミラの角に咲く一輪の薔薇が、

夢の波紋にそっと揺れていた。


森に変化が訪れたことを、彼女は知っていた。

この薔薇は、ただ咲くためにあるのではない。

それは記憶に触れ、眠りに寄り添い、

誰かの内に根を下ろすためのもの。


彼女の蹄が落ち葉を踏むたび、

地の下で、失われた記憶の種が芽吹こうとしていた。



---


森はただ、静かに受け入れていた。


ふたりの旅人を。

彼らが言葉の奥に抱える、名もなき欠片たちを。

まだ語られていない、眠る記憶の匂いを。


それは優しさでもあり、

試練でもあった。


深紅の葉が、またひとひら、地に落ちる。

まるで、見えぬ本の最初のページがめくられたかのように。



---


物語が、目覚めのない夢のように始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ