第一幕 ― 森への招かれし者たち
霧が森の入り口を覆っていた。
けれど、それはただの湿気ではなかった。
森の意志が結露となって流れ落ちたような、
温もりのない白の揺らぎ。
紅に染まる葉が、宙に浮かぶように揺れている。
風はない。
それでも葉は揺れる。
誰かが息をするたび、
誰かの記憶が滲み出るたび、
その紅は、ふわりと宙を舞った。
その境界に、ふたりの影が現れた。
男と女。
言葉はない。
けれど、言葉以上に確かな何かが、
二人のあいだには漂っていた。
女は立ち止まり、
一歩踏み出した靴のつま先に目を落とした。
森の土はやわらかく、しっとりと濡れている。
紅の葉が、ぱらりと一枚、彼女の肩に降りた。
「……ここが、そうなんだね」
ぽつりと漏れた声は、
まるで森に問いかけるようだった。
木々が小さく震えた。
それは、風の音ではなかった。
まるで森そのものが、その言葉に反応したかのような──沈黙の返答。
男は、隣に立ったまま、小さく首を振る。
「……言葉を使わない方がいいかもしれない」
彼の声には、言葉にしない“記憶”のような響きがあった。
彼女はうなずく。
その動きには、戸惑いも、恐れもなかった。
声を飲み込む。
言葉を捨てる。
そうして彼女はまた一歩、森の中へと足を踏み出す。
森の霧が、わずかにざわめいた。
紅い葉が、ふたりの頭上にやさしく舞い降りる。
──森は、彼らを見ている。
──まだ、試している。
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森の奥、風は眠っていた。
木漏れ日はすでに薄く、
代わりに柔らかな紅の揺らぎが、
森の天井から降ってくるようだった。
そこにいた。
少女──ガゼル。
深紅の衣のような髪が、膝のあたりで波打ち、
まぶたの奥で夢を抱くように、静かに座している。
彼女のまわりには言葉がなかった。
けれど、それを必要とするものもなかった。
森の魔力と彼女の静寂は、
お互いに絡み合い、溶け合い、
ひとつの呼吸となってこの場所を守っていた。
その傍ら、ネムレアが小さく丸まっていた。
白く、やわらかな毛並みをふるわせ、
うたたねのような気配を森に満たしていた。
旅人たちの気配に、ネムレアの耳がぴくりと動く。
まどろみのなかで森が揺らぎ、
小さな命が、何かの“目覚め”を感じていた。
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遠く、境界の影にて。
レヴルムが尾を静かに振る。
灰色から紅紫へと滲む毛並みが、
風もないのに、まるで炎のように揺れていた。
その双眸は旅人たちを映し、
感情を語ることはなかったが、
その視線には、確かな“見守り”があった。
レヴルムは動かない。
ただ、見つめる。
森が目覚める瞬間を。
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そして、緋薔薇の香りが静かに漂う。
ヴェルミラの角に咲く一輪の薔薇が、
夢の波紋にそっと揺れていた。
森に変化が訪れたことを、彼女は知っていた。
この薔薇は、ただ咲くためにあるのではない。
それは記憶に触れ、眠りに寄り添い、
誰かの内に根を下ろすためのもの。
彼女の蹄が落ち葉を踏むたび、
地の下で、失われた記憶の種が芽吹こうとしていた。
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森はただ、静かに受け入れていた。
ふたりの旅人を。
彼らが言葉の奥に抱える、名もなき欠片たちを。
まだ語られていない、眠る記憶の匂いを。
それは優しさでもあり、
試練でもあった。
深紅の葉が、またひとひら、地に落ちる。
まるで、見えぬ本の最初のページがめくられたかのように。
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物語が、目覚めのない夢のように始まろうとしていた。