『紅に沈む前に ― 静謐のはじまり』第二章 ー祝祭の森
森に祝福された村は、年に一度の祭りを迎えようとしていた。
それはただの季節の儀式ではなく、「森と人の誓い」を交わしなおす、大切なとき。
村の者たちは森に感謝を捧げ、森はまた、命を還す。
朝から、子どもたちの笑い声が風に跳ねていた。
大人たちは色とりどりの布を張り巡らせ、軒先には木の実と草花の飾り。
熟れた果実酒の甘やかな香りが、ふくよかに村中を包んでいた。
その中央に、祠の娘がいた。
白い衣に身を包み、陽の下に立つその姿は、どこか現実離れして見えた。
まるで森の奥、誰も知らぬところで咲く花が、ふと人の前に姿を見せたかのように。
彼女がそこに立つだけで、村はどこか穏やかになった。
誰もが自然と笑みをこぼし、言葉少なに頭を下げる。
それは敬いというよりも、やわらかな愛しさに似ていた。
村人たちは、彼女のために、ひとつの贈り物を用意していた。
それは、森に咲く「月露草」を模した白銀の髪飾り。
月のしずくを受けたように、細工された銀片が静かに光を返す。
それを髪に挿すことが許されるのは、祠の娘――彼女、ただひとりだった。
「
今年もまた、あなたが咲いてくれた」
そう言って微笑む老婦の声に、ガゼルもまた、花のように微笑んだ。
その笑顔は春の光のようで、ただそれだけで、人々の胸にあたたかいものが灯る。
少女が髪に飾りを差し入れたとき、風がそっと頬をなでた。
森が祝福しているかのように、葉がやさしくざわめく。
まるで少女のよろこびが、森全体へと溶けていったようだった。
その様子を、ひとりの少年が見ていた。
祭りの準備を手伝っていた彼は、少し離れた場所から、ふと足を止めていた。
ガゼルが笑うのを見て、何か大切なものを見つけたように目を瞬いた。
「……きれいだね。森のひかり、みたいだ」
その小さな声に、少女はふと目を上げた。
やがて彼女の唇に、そっと笑みが咲く。
それはまるで――
月が、湖面にやさしく触れるような、静かな光だった。
静かで、あたたかく、どこか寂しく――。
少年の胸は、ことん、と音を立てたように感じた。
その笑みに、少年は名も知らぬ祈りを覚えた。
夜、火が灯る。
木々に囲まれた広場には、灯篭の光が無数に揺れていた。
揺らめく炎はまるで星のようで、天と地とがひとつに溶け合っていく。
風に乗る笛の音は、かすかに涙を誘う調べ。
太鼓の低音が胸を打ち、古の歌が精霊たちへと運ばれてゆく。
その輪の中心に、祠の娘はいた。
舞う姿は、風そのものだった。
静かに腕を広げ、風のように歩み、足元から花が咲くような所作で、空間を編んでゆく。
その動きに、森が応える。
鳥がさえずりをやめ、葉がそっと揺れる。
火が音もなくまたたき、祈りの歌が空へとのぼる。
森を渡る光。土に芽吹く息吹。水面に宿る祈り。
彼女の細やかな動きに、森のすべてが溶け込んでいた。
それは、神の気配をその身に映す、祝福の祈りそのものだった。
「――ありがとう、森よ。
今年も、こうして共に生きられることを」
少女がささやくように言葉を落とすと、風が、確かに応えるように木々を揺らした。
枝葉が重なり合い、囁くような音が広がっていく。
その夜、村はひとつになり、森と寄り添って生きているという、静かな確信を得た。
その夜、誰もが思った。
なんて美しい日だろう。
なんて幸せな、命の営みだろう。
少年はずっと、ガゼルを見つめていた。
彼女の動きも、祈りの声も、風の色も。
全部、夢のようだった。
けれど、これは夢じゃない。
きっと本当にある、いちばん大切な何か。
――その夜のすべては、少年の心に刻まれた。
永遠に消えない光として。
少年は、その夜をずっと忘れなかった。
灯りの向こうに揺れる少女の姿が、あまりにも美しかったから。
けれどなぜか――いまにも消えてしまいそうなほど、儚く見えたから。
まるで、世界そのものが、彼女に祈っているようだった。
その光が永遠であるようにと。
その存在が、消えぬようにと。