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『紅に沈む前に ― 静謐のはじまり』第一章 ー透明な森の娘

朝靄のなか、森はまだ眠っているようだった。

淡い光が木々の葉を透かし、露を帯びた草がほんのりときらめく。

鳥たちの囁きと、風の息づかいと、命の鼓動が静かに混ざり合うこの場所を、人は「透明な森」と呼んだ。


森の奥、苔むした岩の陰に寄り添うように立つ祠。

そこにひとりの少女がいた。名もなき少女。

人々は彼女を“精霊にもっとも近い者”と呼び、祈りを捧げる役を任せていた。

少女の名はもう誰も知らない。けれど彼女は、その名を必要としなかった。


祠の前に膝をつき、両の手を胸に重ねる。

葉の揺れる音、水の囁き、小さな命の羽音――すべてが声にならない精霊たちの言葉だ。

少女はそれを聴く。ただ、聴く。それだけで、森は応えた。



---

風が、葉を撫でていた。

高く、遠く、天へと還っていくような透明な風。

その中で、森のふもとの村から来た少年が、籠を手に歩いていた。薄い苔の上を、そっと靴を沈めながら。

籠のなかには、朝摘みの果実や、焼きたての麦餅、色とりどりの花々が詰められていた。


森は、息をしている。

誰が言ったかも忘れた言葉が、ふと心に浮かぶ。


ここは――精霊が棲むと伝わる森。

時折、不思議な声を聴いたと語る者もいる。

けれど、今日の森は静かだった。

ただ、風と葉の音が、耳にやさしく溶けてゆくだけだった。


そのとき。


光の隙間に、彼女はいた。


祠の前、花のように膝をつき、目を閉じて祈る少女。

その姿は、現実のものとは思えなかった。

肌は雪よりも白く、髪は琥珀色の光をまとっていた。

揺れる葉が影を落とすたびに、その輪郭は溶けていきそうだった。


声をかけるべきか――少年は立ち止まったまま、迷っていた。

だが、それ以上に、言葉が出てこなかった。


ただ、目が離せなかった。


人ならざるもののようでいて。

けれど、どこか寂しげで。

祈りの姿は、あまりにもひとりぼっちで――


「……来てたのね」


ふいに、少女が顔を上げた。

驚くほど澄んだ瞳が、まっすぐこちらを向く。

祠の前にたたずむ少女の姿を見た瞬間、少年は思わず息をのんだ。

まるで森そのものが形をとったかのように、彼女はそこにいた。

静かで、けれどあまりに美しい。

どこか夢のなかの風景を覗き込んだようで、少年は立ち尽くしていた。


「……これ、村から。来月の祭り、準備してるんだって」


少年は手に持った籠を手渡し、彼女は小さく頷き、微笑む。

その笑みは、雪の消え際に射す春のひかりのようだった。

言葉は少ないが、それだけで十分だった。

彼女は人を恐れなかったし、人も彼女を怖れなかった。

祠の娘は、森と人のあいだに咲く、淡いひかりのような存在だった。


「ありがとう。……森も、喜んでる」


ぽつり、と声がこぼれる。

その声は水面に一滴、露が落ちるような静かさだった。


「花が咲いたの。あなたに、見せたかったの」


そう言って、少女は祠の横に咲いた小さな花を指さした。

白い、透きとおるような花だった。

その花は、森が少女の祈りに応えるように、ある朝ふと咲いていた


「この森で初めて咲いたの。たぶん、ね」


その微笑みを見た瞬間、少年は思った。

このたちちつた触れてはならない、美しさがある。


精霊の伝承。祠の娘。名もなき少女。

すべての言葉が、ただ彼女ひとりを示していた。


その日、少年は、初めて自分の鼓動を強く意識した。

花ではなく――

彼女の微笑みに、目を奪われたまま。


---

慌てた様子で花を供え、餅を供え、そして森へと小さく手を振って、まるで彼女にも届くように彼は戻っていく。


少女はその背を見つめながら、ふと空を仰ぐ。

鳥が高く飛び、雲は流れていく。

森は今日もーー


透明だった。

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