余話 ― 紅の根にて
森を離れて、もう三日が経っていた。
けれど女旅人は、まだ少しだけ、夢の匂いを纏っていた。
ふとしたとき、空が揺れて見える。
人の声が遠く感じる。
朝日がまるで、あの森の紫がかった紅に似て見える──そんなことが続いていた。
男旅人は気づいていたが、言わなかった。
彼女がようやく前を向いたのだ。
それが“癒え”ではなく、歩き続ける覚悟であっても、きっとそれが答えだった。
だから、今日は彼が先に口を開いた。
「……この村の外れに、変な噂があるらしい」
「変な噂?」
「うん。数日前、木が突然一本、生えたって。
誰も見ていない間に、広場の真ん中にだ」
女は眉をひそめた。
「どういうこと……?」
「夜の間に出てきたらしい。地面に裂け目もなく、
まるで最初から“そこにいた”ように。
しかも、妙に……形が人間っぽい、って」
女は小さく息をのんだ。
紅の森のことを思い出した。
木々の並び。
沈黙の重み。
あの場所で、確かに感じた“なにか”を。
「……紅い葉……じゃないよね?」
男は、少しだけ言葉に詰まり──
静かに首を横に振った。
「いや、普通の葉だった。でも──
木肌だけ、少しだけ、紅みがかっていたってさ」
ふたりは、それ以上何も言わなかった。
言葉にすれば、きっと“現実”になってしまう。
森にいたこと、夢を見たこと、そして──見てはいけない何かも。
沈黙のなか、女がふと口を開いた。
「……森は、なにかを“返して”くれた。
でも、なにかを“戻さなかった”気がする」
男はうなずいた。
「たぶん、それでいい。
そういう場所なんだ、あそこは」
遠くで、教会の鐘が鳴った。
静かで、やさしく、でもどこか不安を誘う音色。
女は手にしていたカップを置くと、
立ち上がってこう言った。
「見に行ってみようか。
……その木。どんな顔してるのか、知りたい」
男は一瞬迷ったが、
それからゆっくりと立ち上がる。
「怖くはないのか?」
「怖いよ。でも、見ないときっと──
夢の続きを勝手に作りそうで」
男は小さく笑った。
そして、ふたりはまた歩き出した。
旅は続く。
森を越えても、夢は消えない。
たとえ木々がなにも語らずとも、
静かに“記憶”は根を張る。
──とある村の片隅、
紅みがかった樹皮の木の下で、
葉がひとつ、静かに落ちた。
それは風が吹いたからではなかった。
ただ、夢の重みに耐えかねて、
自然と落ちただけだった。
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> 森の声は届かない。
けれど、確かに“見られて”いる。
静謐な紅の森は、
いつでも夢の奥で、
何かを待っているのだから。