第五幕 ― 夢を越える朝
夜が、終わりかけていた。
けれど、朝が来たわけではない。
森の上空はまだ深い紫に沈み、
紅の葉はひとつも落ちず、
風は眠っている。
それでも確かに、変化があった。
──女が、微笑んでいた。
それは、はじめて見る表情だった。
記憶をすべて思い出したわけではない。
けれど、思い出そうとする自分を許した顔だった。
隣に立つ男は、それだけで救われた。
彼にとってこの旅は、彼女のための旅だったのだと、
ようやく自分でも気づく。
「……どうしたんだ?」
問いは、ただの習慣のようなものだった。
けれど、彼女は首を横にふり、目を細めた。
「なんでもない。ただ、歩ける気がしたの」
男は少しだけ驚く。
これまでの彼女は、森に怯えるように歩いていたから。
今のその声には、不思議な重みがあった。
まるで、夢の深くで誰かに触れた者だけが持つ、
沈黙の響きをまとっていた。
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ネムレアは、ふたりの前に立っていた。
もう何も言わず、振り返らず。
ただ、森の奥ではなく、
出口の方角へと跳ねてゆく。
その小さな背中に、
ふたりは無言のままついていく。
森が、道を開いた。
それは、枝が避けるわけでも、木々が裂けるわけでもない。
ただ、
ふたりの足が向かう方向に、
もともとそうであったかのように風景が整っただけだった。
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やがて、紅の葉は少なくなり、
空がうっすらと明るみ始める。
紫のヴェールが薄らぎ、
森の輪郭が現実へと帰ってゆく。
でも、ふたりの胸の奥には
まだ静かに揺れていた。
あの赤、あの香り、あの声なき声。
「……本当に、夢だったのかな」
女の言葉に、男は答えなかった。
それが夢であったかどうかは、
この森が決めることではない。
記憶が戻るかどうかも、きっと重要ではなかった。
ただ、彼女は歩いている。
もう、自分の足で。
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木々が開け、
光が差し始める。
そこに広がっていたのは、
“外の世界”ではなかった。
まだ、森だった。
けれど、もう夢ではなかった。
旅人たちは、
それでも振り返らなかった。
そこにガゼルがいることを、
ネムレアが見送っていることを、
ふたりは“感じていた”から。
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夢は終わったわけではない。
むしろ、現実と手をつないで、
これからもどこかで続いていく。
森は、すべてを語らない。
でも、忘れられたことさえ優しく包む。
静謐な紅の森──
今も密やかに語られる、古の囁きの地。
それは確かにあったのだ。
今、彼女たちの心のどこかに。