プロローグ — 古の囁きと静謐の森
遠い地で、いまもなお密やかに語られる古の囁きがある。
深紅に染まる静寂の森。言葉を遠ざけ、夢を静かに迎える地。
それが「静謐な紅の森」と呼ばれる秘境だった。
その名は書物にも地図にも記されず、
ただ風に乗って、夜ごとの焚き火のそばで語られる。
「夢をなくした者は、あの森で眠れ」
「記憶を落とした者は、そこで夢を見つける」
それが真実かどうかは誰にもわからない。
けれど、森は確かにそこにある。
霧の向こう、言葉を持たぬ世界の奥深くに。
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森には風が吹かない。
それでも、紅の葉は揺れている。
ゆらり、ゆらりと。
風のない空気の中で、ひとりでに燃える夢のように揺れていた。
木々が交わす声はなく、
水もまた沈黙を守る。
それでも、すべてが確かに“生きている”。
中心には静謐の魔女、ガゼルがいた。
目を伏せ、言葉も発さず、ただ森の気配と共に佇んでいる。
森の魔力は彼女に満ち、彼女の沈黙は森に満ちていた。
その膝に抱かれるようにして眠る兎──ネムレア。
白く小さな体から滲む気配は、
近づく者を穏やかに眠りへと誘う。
そして、森の境界を見張るように現れる狼──レヴルム。
灰色の毛は尾にかけて紅紫へと変わり、
その毛先は風もないのに、まるで炎のように揺らめいていた。
角に緋薔薇を咲かせた鹿、ヴェルミラは、
森の深奥を静かに巡りながら、
夢に触れた者の記憶にそっと薔薇を咲かせる。
誰も言葉を交わさない。
けれどすべてが呼吸をし、祈るように、
互いの気配と存在を確かめ合っていた。
この森では、沈黙が語り、眠りがすべてを結ぶ。
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だが、ある夜──
紅の森の境界に、二つの影が現れた。
ひとりは、記憶をなくした女の旅人。
もうひとりは、彼女の傍らに立ち続ける男の旅人。
彼らは、遥か外界に漂う古の囁きを信じて、
夢を求め、この秘された森に辿り着いた。
森は気づいた。
森の静謐に波紋を広げる存在が、足を踏み入れたことを。
そして、
魔女もまた、そっと目を開けた。