【短編】捨てられた公爵令息は北の狂熊令嬢に拾われて幸せになる
グイッと安酒を煽る。
一瞬喉の奥がカッと熱くなるが酔えるほどではない。
「……もう一杯、」
「お客さんもう仕舞にした方がいいよ」
「いいから……」
困惑気味な店主を押し切りもう一杯酒を貰う。
いくら飲んだところで耐性のあるアルベールが酒に酔うことはないが今日ぐらいは酔って何もかも忘れてしまいたかった。
「……」
十二年、王命によって八歳の時に決まってから十二年婚約していた王女との婚約が破棄された。
理由はアルベールが王配でありながら身分をわきまえずに政務に口を出し身分を振りかざして暴力を振るったという身に覚えの全くない罪で。意味が解らなかった。日々のノルマと言うように机に積み重ねられた書類を精査し必要なところに必要な資金が行くように調整し苦言を呈する者と話し合う、それが出過ぎた真似で横暴だったというのなら王配の仕事など何もないのではないかと思ったが言い返すことはできなかった。言い返したところで多勢に無勢。彼女の方が権力は強いし彼女の取り巻き達と話す気にならずに黙ってやり過ごした結果が婚約破棄と職務解任、社交界追放だった。
「十二年の努力が婚約破棄と職務解任、社交界追放……ははっ。やってられるかよっ。くそが……」
突きつけられた仕打ちは貴族社会からの追放と言っても過言ではないものだった。
貴族間での婚約は家の利益が重視されるのが一般で幼い時に親同士が決め、子はそれに従うのが一般的だ。それは男も女も関係ない物で家長が一族の利に適う相手を選び子供に宛がう。たいていは幼いうちに決まった婚約がそのまま結婚に繋がるが極稀に事業の変更による関係変化などで婚約が白紙に戻されることがあったがそうそう起こることではない。
白紙に戻すということはその婚約はなかったことになるので次の婚約に何の支障もないが破棄というのは婚約がどちらかの有責で立ち消えたという何らかの不都合があり婚約継続が不可能になったということで貴族の男女問わず不名誉なこととされて次の婚約は難しくなっていく。
家のスペアという立ち位置の次男ならまだしも三男四男と家を継ぐ可能性の低くなっていく男が婚約破棄(しかも有責。冤罪だと思うけど)など同じ程度の地位の者との婚約は難しくなったと言ってもいいようなものだ。
実家よりも下位の地位や商家であればまだ婚約してくれる可能性はあったが、職務解任に社交界追放は次の婚約者を探す機会を無くし自身をアピールする素材を消したと言ってもいいもので下位の者でも信用第一の商家でも婚約するのに躊躇わせるには十分なものだった。
「はー……」
溜息を吐く出したアルベールの隣に誰かが座った。
「マスター、酒をくれ」
「子供が飲むものではありませんよ」
「もう十八だ。酒だって飲める」
若い女性の声だったが有無を言わせぬ強さを感じる声にアルベールは顔をあげた。
薄暗い店内で照明に照らされた銀色の髪がやけに目についた。
王女の高い香油を惜しみなく使って艶を作り出した金髪よりも下町の酒場の明かりに照らされた銀髪の方が眩しく見えてアルベールは目を細めた。
「ぅおっ!起きたのか青年」
「……」
「大丈夫か?顔が死人みたいだぞ?」
アルベールの視線に気が付いたのか銀髪の女性が振り向き、アルベールの顔色の悪さに目を見開いた。
自己申告が十八と聞こえたが五歳は幼く見える。成人女性というよりも人形のような少女と言っても差し支えないような見た目に驚いているアルベールに彼女はずいっと顔を寄せた。
「生きているか?」
「……生きている」
「そうか。ならいいが。そこでくたばるくらいなら家に帰ってからくたばれ」
「いや、死ぬつもりはないが……」
「そうなのか。自殺志願者の最後の晩餐に出くわしたのかと思ったぞ」
「アンタ、随分な物言いをするな」
「すまんな。取り繕って笑っていた反動で口が悪くなっているんだ。許せ」
精緻な氷細工のような見た目に似合わない物言いにアルベールは少し笑えてきた。
「なんだ笑えるではないか」
心配して損をしたと息を吐きながら彼女はアルベールから顔を離した。
「……心配してくれたのか?」
「そりゃあ多少は」
「見ず知らずの相手をか?」
「赤の他人だろうが今にも死にそうな顔をしていれば心配の一つもするだろう。そこまで薄情な人間ではないぞ」
「そうか……」
アルベールの顔色の悪さを心配した者が何人いただろうか。
寝る時間を削り、食事を減らして家に帰る時間も取れずに政務にあたったアルベールに声を掛けた者は何人いただろうか。
多くの人が居るはずの王城は何時だって他人の心には無関心で他人の醜聞に関心的だった。
「なぁ……」
「暇だしアンタの話ぐらい聞けるぞ」
「……、お嬢さんは聖職者か」
「教会は死ぬなって説くが私ね死ねというからな。聖職者なら破門されてるな」
彼女は一瞬目を細めると出されたツマミのナッツを摘まんで口に入れた。こちらの話を聞く気があるのか全く分からないがどことなく彼女の気配りの気配を感じたアルベールの肩から力が抜けた。
アルベールは自身が公爵家の人間であることや王女の婚約者で未来の王配であったことは伏せつつ自身に起こったことを話す。物語のようなどこか遠くの出来事のように自分の話をして、ふと思ったことが漏れた。
「自然豊かなところでのんびりとしてぇ」
「……王都の貴族は田舎が嫌いなんじゃないのか?」
「それは個人の好みの問題だろう。俺はもう疲れた。忙しなく時間に追われるように仕事をすることに」
「嗚呼。王都の人は皆せっかちだからなぁ」
彼女の言い回しが少し気になったが日々のストレスを吐き出せることにいつも以上に口が回っていてその違和感を後回しにしたアルベールはこの二十年間に抱えたストレスを見ず知らずの女性にぶちまけた。溜め込んだストレスを吐き出せば体は自然と休養を求めた。
「あー……、どこか遠く、だーれも俺を知らない土地でゆっくりしてぇーなぁ……」
「んー……それならうちに来るか?」
「うち……?」
「王都からずっと遠く、王都よりも夏は短くて冬は長くてね。辺り一面真っ白になるような自然豊かな土地だね」
「雪国か、いいねー……。行きてぇなぁ……」
「そうか」
ふと彼女が笑った様な気がした。
眠りに落ちる寸前の意識が聞いた幻のような柔らかな相槌に彼女の顔が見たくなったアルベールだったがアルベールの意識はあっさりと沈んだ。
「アル様!アル様!もう昼前ですよ!」
「んっ。……ぅっせぇ……」
「起きてますね!開けますよ!開けますね!」
アルベールの了承を取る前にドアが開きアルベールの乳兄弟であるフェルナントが侍女を連れて雪崩れ込んできた。
「なにまだ寝てるんですか!?早く支度してください!辺境伯令嬢が来てますよ!?」
「…………は?」
フェルナントの言葉がアルベールの寝起きの頭を駆けていった。一瞬で目が覚めた。
「は!?辺境伯令嬢!?どっちの!?」
「社交界に全く姿を見せない北の辺境伯令嬢ですよ!狂熊令嬢!アンタどこであんな大物引っ掛けてきたんですか!?」
王女との婚約が決まってから丁寧な口調で接するようになっていた乳兄弟の言葉が乱れていることにも気づかずアルベールは目を白黒させた。
辺境伯令嬢、今この国でそう呼ばれるのはたった二人だけ。東西南北四家ある辺境伯家の中で令嬢はたった二人しかいないのだ。その二人の内社交界に出れる年齢になっても全く姿を見せたことがなく噂のみでしかその存在を知る術のない令嬢、それが北の辺境伯令嬢だった。
令嬢でありながら辺境伯軍を指揮し「白い悪夢」と恐れられる魔物、白銀の狂熊のマントを纏い戦士と共に魔物を討伐する令嬢。王都で聞こえるかの令嬢の噂によってつくられた人物像は大柄で暴力的な熊のような女性となりいつしか王都に住まう貴族たちは「狂熊令嬢」と呼ぶようになっていた。
「フェル、令嬢に失礼な呼び名を呼ぶな」
「失礼いたしました」
「で、辺境伯令嬢がどんな用事で」
「昨日の話の続きを、とのことで。第一応接間にご案内しています」
「そうかなるべく早くいく」
手早く顔を洗い寝間着から着替える。
フェルナントの話を聞きながら「昨日の話の続き」という言葉の意味を考える。
昨日した話など婚約破棄からの貴族社会追放ぐらいだ。それ以外に何かあったかと重たい気分で考えてふと、酒場の記憶がよみがえった。
「……、」
下町の安酒場の曇った明かりの中で生き生きと煌いていた銀髪。
成人年齢を自称し男性のような物言いをする少女の姿を思い出し、彼女に愚痴を吐き王都から出たいと零したアルベールに彼女は王都から遠い地に来ないかと言ったことを思い出した。
「……フェル、俺は昨日どうやって戻って来たんだ?」
「え?覚えてないんですか?めっちゃ綺麗な女性に抱えられて帰って来たんですよ」
フェルナントが言う昨夜の帰宅時の様子にアルベールは動いを止めた。
アルベールは成人男性だ。騎士のように鍛えているわけではないので目に見えてガタイがいいということはないがそれなりに身長もあるので女性が抱えられるようなものではないはずだ。ましてや酔いつぶれて意識のない状態を。
「は?抱えて?」
「ええ。どこで飲んでいたのか知りませんけど驚きましたよ。アンタの後始末を済ませてる間にふらっと出かけやがって」
「すまん」
「まあ、昨日より顔色が良くなって良かったですけど」
フェルナントはアルベールの顔を見て小さく安堵の息を吐いた。自身の主であり大切な乳兄弟が真っ白な顔で王城から戻って来た時は本当に驚いたのだ。日に日に顔色を悪くしながら王城に詰める主を休ませようにも責任感の強いアルベールは任された仕事を放り出して休むことはしないのでそろそろ実力行使にでも出ようかと思った矢先にアルベールの口から婚約破棄され職務が解任になったと告げられた時、どれだけ驚き、彼を襤褸雑巾のように使い潰した王女に殺意が湧いたことか。暗殺者でも雇ってやろうかと思いつつもアルベールを休ませるために寝室に放り込んでどういった経緯でアルベールが婚約破棄されることになったのか探っていたら寝室からアルベールの姿が無くなっていたのだからどれだけ心配したものか。その張本人は酔いつぶれて見知らぬ美人に抱えられて呑気な寝顔で馬車から降りてきたのだから嫌味の一つも言いたくなるというものだ。
「……」
公爵家のタウンハウスで一番豪華に作られた応接間の前でアルベールは一呼吸置いた。
「失礼します」
ノックをすれば当家のメイドがドアを開ける。
中に入ると来客用のソファーの前で頭を下げて待っている女性が二人いた。
一人は昨夜の酒場で見た銀髪の女性と同じ髪色の女性でもう一人は亜麻色の髪をした見覚えのない女性だった。どちらも頭を下げているので顔までは分からないが多分銀髪の女性の方が昨夜あった女性で間違えないだろう。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいえ。突然の来訪でありながら快く招き入れていただいたこと誠に感謝しております。初めましてルーヴェル辺境伯家長子、カティシエラ・ギゼル・ルーヴェルです。本日はグラシエ公爵令息様にお願いしたい願いがございまして参らせていただきました」
カティシエラと名乗った銀髪の女性がすっと顔をあげた。
窓から入る日差しで煌く宝石のような琥珀色の瞳に目が奪われた。酒場では髪色以外よく見ていなかったが、改めて見ると等身大の人形のようでアルベールは息を吞み、そして彼女の纏っている衣装に目を瞬かせた。
「軍、服?」
「辺境伯防衛騎士団に所属しています。王宮騎士団に寄った帰りだったものでこのような装いで申し訳ありません」
カティシエラが纏っているのは色鮮やかなドレスではなく黒一色の騎士服だった。首元までしっかりと詰められた騎士服は彼女のために仕立てられたことが十分によく分かる造りをしていて禁欲的なのが反対に女性らしさを強調しているように見えてアルベールは暑くなった顔がバレないようにそっと視線をそらした。
「辺境伯領は女性も起用しているのですね」
「能力がある者を起用していますのでそこに男女の区別はありません」
アルベールに促されてソファーに座ったカティシエラは当然と言うように答えた。
彼女の後ろに立っている亜麻色の髪の女性も彼女と同じく騎士服を纏っているので辺境伯領では珍しいことではないのかもしれないと思いながらアルベールは紅茶に口を付けた。
「ルーヴェル辺境伯令嬢、昨夜は世話になりました」
「いえ。私は何も」
「私に願いとは何か伺っても」
紅茶に口を付けずにアルベールをまっすぐ見ていたカティシエラに本題をぶつける。
「失礼ながら公爵令息様に昨日起ったことを調べさせていただきました。その上で私との婚約を申し込みたいと思いこの場に参りました」
「っ!?」
カティシエラの発言に思わず紅茶を吹きかけたアルベールに気付かず彼女は自身の事情を話した。
カティシエラはアルベールに恋をして婚約を申し込んだ訳ではなく、当主内定が確実になるにつれて周囲が持ち込んでくる婚約話が鬱陶しいらしく、当主にはなるが結婚などする気がないので適当な婚約者を立てて持ち込まれる縁談を回避したいのだそうだ。
「……なるほど、偽装婚約ということですか」
「はい。それに接点の無い辺境伯領に公爵令息様をお連れするのにいい理由が思い浮かばなかったもので」
「確かに、接点のない家に養生しに行くのは難しいからなぁ」
医師の診断書でも持って行けば受け入れてもらうことはできるだろうが面倒なことが多そうなので彼女が自身の婚約者として連れて行ってた方が手っ取り早いだろうなとアルベールは頷いた。
「私の身勝手な事情に巻き込みますので我が家で過ごされて戻る気になるまでに貴方の社交界追放を撤回させます。なのでその後は社交界に戻ることも十分に可能になると思います。社交界に戻り愛する人が見つかれば私有責で婚約破棄して構いませんので少しの間だけ私に力を貸していただくことは可能でしょうか。何もない領地なので出来ることは十分にサポートさせて致しますので」
「……君なら私のように社交界を追放されたような男よりもいい男が乗ってくれるのではないかな」
あまりにもアルベールにばかりメリットのある話しに訝しむと彼女は小さく笑った。
「そんな事はありませんよ。私は王都では『狂熊令嬢』と呼ばれているようですので私の外見に騙されて寄って来ても名前を知った瞬間離れて行きますから。まあ実際噂のほとんどはあっていますから噂の鎮静化など考えていませんし、狂熊令嬢の婿に来てくださるような奇特な方を探すよりも私は結婚せず弟の子を養子に迎えていくのが順当だと考えていますで私にも十分メリットはあるんです」
どこか諦めたように目を伏せたカティシエラの姿にアルベールは気が付いたら手を伸ばしていた。
「カティシエラ嬢、その婚約喜んでお受けいたします」
「え?」
「なんですか貴女から提案したんですから。ちゃんと受け入れてくださいね」
真っ白な手袋に包まれた小さな手を取ればカティシエラと彼女の後ろにいた女性が揃って目を見開いて驚いた顔をしたがアルベールは気付かず、彼女の琥珀の瞳の中に自分が映ったことに満足げに口角を上げた。
王女との婚約が破棄された次の日に辺境伯令嬢との婚約が決まった。偽装だけど。偽装なので周囲には婚約破棄後に落ち込んでいたアルベールが自身の話に親身に耳を傾けてくれたカティシエラにアルベールが惚れて婚約したという話にして流すことにした。惚れた云々以外は本当の話なので何も間違いではない。
王国建国から北側の国防を一手に引き受けるルーヴェル辺境伯家との縁談に断る理由など何もない。どちらかというとこちらが頭を下げて縁談を申し込むような相手であるので両親も特に反対することはなかった。むしろよくやったと褒められた。王女との婚約の時はあまりいい顔していなかったと記憶しているのだがアルベールは深く考えるのを放棄した。
話し合いが終わったカティシエラがエントランスで預けていた白銀のマントを羽織ったのを見てアルベールは感嘆の息を吐いた。
「おお。それが噂の白銀の狂熊の……」
「嗚呼。触ってみるか?」
「恐れ多いが、興味があるので触らせてくれ」
「んふふっ。構わんよ。婿殿」
アルベールの返答にカティシエラは楽しそうに口角とマントの裾を持ち上げた。
「ふおっ!?これが王族も欲しがる毛皮の手触りか……っ」
触れた瞬間掌が吸い込まれるように毛の中に埋まった。
つるりと滑らかなのにふかふかとした手触りで一生触っていたくなりそうなほど上質な毛皮にアルベールは無心で撫で続けてしまった。
「っは!?これは危険だ!手が離れない!」
「んはははっ。いい反応」
毛皮から手が離せなくなっているアルベールの反応をカティシエラが楽しそうに見る。
つい昨晩出逢ったばかりとは思えない程気楽に接し合う二人の様子にフェルナントをはじめとしたグラシエ家の使用人たちは目を細めて喜んだ。
「では、また」
「ああ。よろしく頼む」
なんとか毛皮から手を離したアルベールにカティシエラは頷いて白銀のマントを翻して帰った。
彼女が乗った馬車が見えなくなるまで見送ったアルベールは意気揚々と旅支度にとりかかった。
「昨日知り合ったばっかなのに、随分気に入ってるな」
「知り合ったのは昨日が初めてだが好ましく思うのに時間など関係ないだろ」
王配と言う役目から降りた今、必要以上に丁寧な言葉遣いは辞めるように言われたフェルナントがアルベールに尋ねるとアルベールはなんてことないように答えた。
いくら時間を掛けても好ましいという感情を持てない相手だっていたのだからとアルベールぼんやりと王女との婚約の日々を思い出すが大した交流をしていなかったなと記憶のほとんどが授業と嫌なものをアルベールに押し付けて逃げ回る王女と彼女を甘やかす取り巻きに彼女たちを諫めもせずにいる国王夫婦をはじめとした王室使用人のことばかりで大して振り返ってみるものがないことに自分がいかに王配という彼女の尻拭いのためだけに採用されていたかということを痛感する。
「そうかもしれないが……辺境伯領まで行く必要はないだろ。どれだけ遠いと思ってるんだ」
「馬車でひと月、だったか。馬なら三週間らしいぞ。にしてもカーラ嬢は気前が良すぎるな」
自室の物をいくら詰めてもパンパンになっていない鞄の凄さにいっそ書庫の本を全部入れてみるのはどうだろうかとアルベールの好奇心が疼いた。
「〈魔法鞄〉を貸し出す家がどこにあるんですか」
「今目の前に貸し出されているぞ」
「そうなんですけどーっ」
言いたいことがまとまらずにいるのかフェルナントがガシガシと無造作に頭を掻きむしっている。
カティシエラが帰り際にアルベールに渡してきたのがこの魔法鞄だ。見た目以上に物を入れることのできる魔道具で多くの商人や貴族が喉から手を伸ばしてでも欲するような魔道具を彼女は旅支度に役立ててくれと寄こしていったのだ。持ち逃げされたり勝手に売り払われたりしたらどうするのかと返そうとしたアルベールに彼女はなんてことない顔で「貴方はそんなことしないでしょう」とアルベールを疑わずに言い切った。昨夜あっただけの人間をこんなに信用していいのだろうかと思う不安とここ数年感じられなかった他人からの信頼に胸の奥が熱くなった。
「て、どれだけ容量の大きな鞄なんですか。アル様の部屋すっからかんじゃないですか」
「ヤバいなこの鞄。国宝並じゃないか。まだまだ全然余裕があるのが逆に恐ろしい」
手当たり次第部屋の物を入れてみた結果、アルベールの部屋からベッドもタンスも無くなりがらんと広い部屋だけが残った。
魔法鞄はその容量の大きさによって価格が全く違ってくるが、一般的な荷馬車一台分の容量でも金貨数千枚は飛ぶような魔道具であり、気軽に渡していいものでは全くもってない。むしろ一家一つあったら家宝になるレベルの魔道具なのだ。公爵家出身のアルベールですら個人的な物など持っていない。一応公爵家の宝物庫にも一つあるがカティシエラが渡した物よりもずっと容量が少ないものだったはずだ。
「このコサッシュっていいな。両手が開く」
「リュックサックよりも近いので物が取り出しやすいのは確かですけど、こんな種類の魔法鞄初めて見ましたよ。しかも布製で新品」
「カーラ嬢、他にもいろいろ言っていたな」
アルベールが借りたのはコサッシュと言うらしい斜め掛けできる布製の肩掛け鞄だ。彼女は男性ならリュックサックやボディバック、ポーチ辺りがいいのではと言っていたが手持ちで自由にできるのがこのコサッシュとリュックサックだけだったらしく申し訳なさそうにこの鞄を渡してきた。申し訳ない部分がどこなのか全くわからなかったのはアルベールだけではないはずだ。
「急な出立になることへの罪滅ぼしなんかね」
「そうなのかもな。明後日の明朝出発って言ってたし」
明後日の朝には王都を立つとカティシエラは言い、共に行くか護衛を送るのでひと月後ぐらいの方がいいかと聞かれたアルベールは共に向かうことを選び、急ぎ旅支度を整えた二日後、アルベールは王都の北門にフェルナントと共に来ていた。連れて行くのはできれば少なくしてほしいと言われたのでフェルナントだけ連れて行くことにした。別に令嬢のように複雑な服を着る趣味も他人に身の回りのことを全て任せている生活もしてないのである程度は自分一人で何とかなるアルベールは一人で行こうとしたのをフェルナントに阻止されたのだった。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「遅刻してはまずいかと」
「真面目だねぇ」
なぜか辻馬車の前にいた目立つ白銀のマントを羽織ったカティシエラと彼女の侍女のアンリエッタに挨拶をするとそう言われた。アルベールとしては当たり前の行動ではあるが高位貴族では遅刻上等が当たり前なのを思い出し目を細めた。
「もしかして俺に伝えた時間って遅刻する前提だった?」
「まあね。今度からは私たちと同じでいいかな」
「そうしてくれると助かる」
「わかった」
婚約をした際に喋りやすい言葉で構わないと互いに了承したのでアルベールもカティシエラも砕けた言葉で気軽に話す。
「ああ、そうだ。アル様は乗馬は得意か?」
「それなりにだな。ここのところ城に詰めていたから腕は落ちていそうだが……」
「そうか。なら一緒の方がいいか……」
アルベールの正直な答えにカティシエラは少し考え込んでから小さく呟いて頷いた。
「すまんが領地までは騎獣で戻る予定なのでアル様は私と一緒に乗ってくれ。乳兄弟殿はアンリエッタの後ろでも構わないか?」
「フェルナントとお呼びください。騎獣ということはお二人には大型の従魔がいらっしゃるのですか?」
「ああ。ルーヴェルでは馬よりも魔物に乗っての移動が一般的なんだ。無理でなければ一人一獣、一家に一頭は大型の従魔が居るのが普通なんでね。驚いたよ。檻に入れないと従魔は王都には入れないと聞いたときは」
「相棒でもある従魔を檻に入れるなど考え付かないですけどね」
はははっ笑っているカティシエラとアンリエッタにアルベールとフェルナントは顔を見合わせた。
従魔とは主従契約を結んだ魔物のことで魔物の少ない王都周辺で見かけることは滅多にない。何時だったか王都に大型の従魔を連れたサーカス団がやって来た時は王女だけでなく王や王妃も見に行っていきたいと騒いでいたはずだ。アルベールはそのせいで押し付けられた仕事に追われていたので勿論見る機会などなかったが。
「魔物を見るのは初めてだな」
「そうか。私の従魔はちょっと大きいが出来たら驚かないでやってくれ。とても臆病なんであんまり驚かれると泣いてしまうんだ」
アルベールが初めて見る魔物にわくわくしているとカティシエラが小さく笑いながらそう言った。随分と可愛らしい性格をしている従魔だなと思ったアルベールはカティシエラが交渉して貸し切った辻馬車の発車に合わせて馬車に乗った。
「……」
「……」
辻馬車に揺られて一時間ほど、王都から出てて直ぐの村に着いた。
その村の入り口で待ち構えていたのはアルベールよりも大きな灰銀の狼と辻馬車の馬よりも一回りは大きさがありそうながっしりとした巨体の六本足の馬、周囲の比較対象が大きすぎて小さく見えるが十分大きいと思える黒い狼が五頭だった。
「紹介しよう。私の従魔でこの子は月光狼王のリュカ。まだ小さい子供だが戦闘力は申し分ないぞ。それと、黒曜狼の兄妹のシュヴァルツ、ノワール、ネロ、メランとアトルムだ」
アルベールの聞き間違えでなければ伝承にしか登場しない魔獣と一体だけでも討伐に上級冒険者数名を派遣しないといけないような討伐難易度上級の魔獣が言われたのだが。聞き間違えじゃないのか。そうなのか。目の前にいる大きな灰銀の狼も普通のサイズよりも少し大きな黒い狼も魔物学の授業で危険と学んだ生き物なんだよな。大人しく尻尾振ってるけど。
アルベールはそっとカティシエラに甘えている狼から目を反らしもう一頭のどう見てもヤバい気配を漂わせている馬へと視線を向けた。
「こちらは私の従魔の八脚軍馬のニールです。足は六脚ですが十分に速いです」
「「……」」
でしょうね。アルベールとフェルナントはアンリエッタの言葉に静かに頷いた。とても足の速そうな雰囲気はある。ついでに馬力も凄そうだ。
「八脚軍馬は四、六、八脚のどれかで生まれるので生まれるまで何脚で生まれるか分からないんだよね」
「ニールの両親は四脚同士で兄弟も皆四脚なんですが一頭だけ六脚だったんですよ」
「「ソウナンデスネ」」
にこにこと笑うカティシエラとアンリエッタに辺境伯領はどんな魔境なのかと慄くアルベールとフェルナントであった。
馬車でひと月、馬でも三週間はかかると言われている旅路は七日目でもうすでに辺境伯領に入った。あと三日もすれば領都であるリーデンベルグに着くそうだ。魔獣の足の速さに王都で学んだ常識が薄れていく。
飛ぶように過ぎていく景色になるべく意識を向けるようにして腕の中の甘い香りに意識が向かないように気を付けるアルベールに気が付かないカティシエラは緩んだ腕を自身の腹に巻き直す。
「……」
「全力で走っているわけではないが落ちると危ないから腕は緩めないで」
「……ああ、すまん」
これで全力じゃないのかとか、腰細っとか、マントの手触りがいいとか、魔獣の足速くないかとか、目の前の項に噛みつきたいななどと煩悩と恐怖がアルベールの頭の中で混ざり合って返事が疎かになる。
アルベールはカティシエラと共に月光狼王のリュカに乗っている。そんなリュカの左右をアンリエッタとフェルナントを乗せた八脚軍馬のニールとリュカたちの見張りのために王都に入らなかったカティシエラのもう一人の侍女のセリーナが乗った四脚の八脚軍馬が走り、周囲を黒曜狼が囲っている。
下手な軍よりも恐ろしい戦力に一週間かそこらでは慣れないがなんとなく辺境と王都での常識の違いには慣れてきた気がするアルベールだった。
王女には抱いたことのない煩悩と常識の違いに悩みつつもアルベールたちは無事にリーデンベルグに到着した。
リーデンベルグは関所になっている砦を潜るとまず小麦畑が出迎えた。その奥にぽつぽつと民家が見える田舎町という言葉が似合う光景だったが小麦畑の間に伸びた道は土を踏み締めた道ではなくきちんと石が敷かれ王都のように舗装されていることにアルベールは辺境領地の発展具合に驚いた。
「あ!カーラさまのリュカがいる!」
「じゃあカーラさま帰って来たの!?」
砦にいた騎士とカティシエラが何か話をしていると森から数人の子供が出てきてアルベールの隣で大人しくしているリュカを指さして叫んで駆け寄ってきた。
十歳より幼そうな子供たちがわらわらとリュカの周りに集まる。子供と一緒に子犬が子供と同じ数ほどいてその子犬たちはシュヴァルツたちに尻尾を振って駆け寄ってくる。
「もしかして、この子犬も魔獣なのか?」
「黒犬と森狩犬の子供たちです。ウルフ種は領主家ぐらいしか飼い慣らしていませんが領民も相棒として犬の魔獣は飼いならしているんです。大体七歳ほどになったら安全な森に子供たちだけで入れるようになるのでその時に子犬を連れて一緒に入って連携を取る訓練をしているんです」
「安全な森……」
「領内の森です。冒険者や騎士たちが巡回しているの大型の魔物はあまり居ませんのでそこそこ安全と言うだけで絶対に安全という訳ではないんですけどね」
苦笑気味にアンリエッタが教えてくれた。
十歳になってもいないのに森に子供たちだけで入るなど辺境の子供たちは逞しいなと遠い目をしていると少女たちがアルベールとフェルナントを見上げて首を傾げた。
「カーラさまのおむこさま、どっち?」
「金髪の方の方が王子様みたい?」
「じゃあこっちがおむこさま?」
こそこそと話しているつもりなのだろうが子供の声は良く響くのでアルベールたちにも聞こえた。
少女たちはアルベールではなくフェルナントの方が婚約者のように見たようだ。アルベールは長年の疲労によってできた隈が多少薄くなりはしたがまだまだ不健康そうな見た目なので小さなレディたちの目には候補には上がらなかったようだ。
「マリー、アーシャ、ユリーナ失礼ですよ。こちらのお方がカーラ様のご婚約者のアルベール様ですよ」
「「「え!?失礼しました!!」」」
三人娘はアンリエッタに窘められるとすぐに顔を青くして謝った。
「すみませんアルベール様」
「いや。不健康そうな見た目してるから仕方ないよ。気にしてないから頭を上げて」
「アルベール様の寛大なお心誠に感謝いたします」
「「「ありがとうございます」」」
アンリエッタと共に頭を下げていた三人娘を許すと彼女たちはほっとしたように顔を上げて顔をほころばせた。
「カーラさまのおむこさま、優しそうな人で良かったね」
「ね!カーラさまの好きな人は他に好きな人がいるからってカーラさま結婚はしないって言ってたけどおむこさま連れてきてくれてよかったね!」
少女の言葉にアルベールは目を見開いた。
カティシエラは面倒な婚約斡旋の回避のために自分と婚約をしたのではなく、他に好きな人がいたがその人と結婚することが出来ないから誰とも結婚はしないようにするために自分と婚約したのかと思った瞬間、アルベールの心臓はずきりと痛んだ。
「アル様、疲れてるところ悪いのだが私の親が会いたいそうなのだが大丈夫だろうか」
「ああ。こんな格好で大丈夫か?」
「大丈夫。血まみれでも顔色変えるような親じゃないから」
それは反応した方がいいのではないだろうか。
目が遠くなるアルベールはカティシエラに連れられて領都の奥まった場所にある領主館へと向かった。
「領主館が防壁と一番近いんだな」
「領主が守らないといけないのは自分じゃなくてこの領地とそこに住む民だからね。弱い者は街の中心に集めて力のある者を周りに置いた結果、このような配置に落ち着いたらしい」
町の中心は教会や孤児院、治療院があり、領主館は国境となっている防壁と呼ばれる堅剛な城壁に一番近い高台に建っていた。防壁の向こうは魔物が跋扈する魔境になっており生半可な実力では帰ってくることがでないような場所だ。そんな場所の一番近くに住む辺境伯一族の実力に王都で噂される討伐難易度災害級や弩級の魔物の単独討伐が嘘ではないのかもしれないと目の前の人形のような女性に計り知れない力を感じた。
領主館は王都にある様々なタウンハウスのような華やかさはないが使いやすいように整然と整備されている。
何者をも阻むような黒々とした重厚な扉の前にリュカが着くと扉は軋むことなくスムーズに開いた。
「お帰りなさいませ―――」
「あら!?本当にお婿さん連れてきたわ!!」
執事の出迎えを掻き消すようにエントランスに響いた女性の声にアルベールが驚いていると、上階からアルベールより少し年上ぐらいの女性と筋骨隆々な偉丈夫がアルベールたちを見下ろしていた。
「……母と父だ」
「母!?姉とかじゃなくて!?」
「あらやだぁ!姉ですって!王都の方にそう思われるなんて嬉しいわ!」
「エリシエラは幾つになっても美しい」
仲のいい夫婦である。
キャッキャと少女のように喜ぶ辺境伯夫人とその隣で当然とばかりに頷いた辺境伯の姿に仲の良さが現れている。
アルベールが目を剥いている間に階段から降りて来たカティシエラの両親にアルベールは大いに歓迎された。エントランスで歓迎を受けたアルベールは旅の疲れが取れるようにと自室に使っていい部屋へと案内された。その部屋は公爵家の自室よりも広々とした日当たりのいい部屋で名ばかりの婚約者に当てていい部屋ではなくないかとアルベールの胸の奥がきしりと痛んだことにそっと目を閉じて考えないことにした。
「アル様、そろそろ晩餐の準備です」
「ああ」
フェルナントに呼びかけられて夕食へ向かう準備をし、カティシエラのエスコートを傍に控えていたアンリエッタに尋ねるとカティシエラは獣舎に行ったまままだ戻って来ていないそうでエスコートは不要という返事が返ってきた。
婚約者不在で義家族との食事会……気まずすぎると思ったのは初めだけで辺境伯夫婦もカティシエラの弟である双子もアルベールを歓迎し、アルベールが気まずい中食事を摂ることはなかった。
「メインの岩鳥の丸焼きになります」
「本当!?岩鳥が出るとか最高じゃん!」
「レイ、静かにしなよ」
「カイだって嬉しいだろ!」
「嬉しいけど……」
「なあなあ誰が捕まえたんだ!?」
メインディッシュの岩鳥にカティシエラの弟たちが燥ぐ。
岩鳥は岩のように硬い嘴を持つ地上を素早く走る魔鳥で討伐難易度は中級と普通ではあるが常人よりも素早いので捕らえるのは意外と難しい魔鳥で一体丸々食卓に並べるのは高位貴族でもそうそうできる事ではない。
シェフと双子が話しているのを見ていると辺境伯夫人がアルベールを見て首を傾げた。
「アルベールさんは魔鳥は苦手だったかしら」
「いえ。実家でもこれほどの大きさの魔鳥が出ることはなかったので驚いているだけです。凄いですね。ルーヴェルではよく出るのですか?」
「丸焼きはお祝いの時しかしないわね。普段はあまり豪華な食事が出せないので申し訳ないですが食べたいものがあればカーラちゃんに言えばいいわ。あの子大量に魔物持ってるし手持ちがなければ捕って来てくれるから」
「いえ、そんな……」
辺境伯夫人の言葉に躊躇っていると辺境伯もしっかりと頷いた。
「大切な者への貢ぎ物に躊躇うことはせん。欲しいものがあればカティシエラに言えば大抵の物は手に入る」
「お、お気持ちだけ受け取っておきます。私も普段はこれほど豪華な食事はとっていませんので……」
王城に詰めているときは三食魔法薬だったこともあったので粗食だろうが気にはならない自信があったアルベールは辺境伯家の貢体質に慄きながら食事会を無事に切り抜けたのだった。
「はー……雑音は少ないし飯は美味いし屋敷に温泉引いてるしで辺境伯家最高」
「しっかし見たこともねぇような魔道具がゴロゴロあるとかどんだけ金持ってるんだ?公爵家よりあるんじゃないか?」
風呂に入り寝支度を整えたアルベールに冷えた水を差し出したフェルナントが勝手に補充される水差しを見ながらそう言った。
辺境伯家には王都でも見たことがないような魔道具がかなりの数置いてあったのだ。従者や護衛に扱い方を尋ねて使ってみた感想と言えば自分も欲しいなというものばかりだった。特に風呂上りに髪を乾かすための魔道具、あれは良い。髪がすぐに乾いて寝具が濡れなくて済むし火魔法のように髪を焦がすことはないし風魔法で冷えることもない。髪の長い女性には重宝されるだろうな。母に送りたいので買えるところを聞こうかと考えていると廊下が微かに騒がしくなった。
「なにかあったのか?」
「確認してくる」
ドアを開けて廊下を覗いたフェルナントに続くようにアルベールが廊下に顔を出して晩餐に出れなかったカティシエラが廊下を歩いているのを見つけた。
「カーラ嬢」
「……ん?ああ。アル様。晩餐に出れず申し訳なかった」
「いや。それは、まあ……なんとかなったので問題はないが。なんかボロボロだけど大丈夫?」
「ああ。怪我とかはしてないから問題ないよ。ちょっと留守にしていたから寂しかったみたいでね」
疲れたように息を吐くがまんざらでもないという表情を浮かべたカティシエラの騎士服はところどころ裂けていたり砂埃で汚れていたりと旅をしていた時よりもひどい状態だった。
疲れた顔をしているカティシエラになんと声を掛けるべきか迷っているとアンリエッタとカティシエラと同じぐらいボロボロになっているセリーナが速足でやって来た。
「カーラ様お風呂の準備は私たちでしますから早く浴室に行ってください」
「別に自分で出来るし、セリーナはさっさと先に入ってればいいでしょ」
「主人より先にお湯を貰う侍女がどこの世界に居るんですか。うだうだ言ってないでお風呂行きますよ」
「お腹減った」
「お風呂が先です」
「アルベール様フェルナント様御目汚しを失礼しました」
セリーナに引き摺られる様に浴室のある方へと連れて行かれたカティシエラの後をアンリエッタが頭を下げてついて行った。
「……」
「辺境伯家って噂あんまり聞かないけどなんか面白れぇ家だよな」
「従者と主人の距離が近いような感じは良く伝わってくる」
「嗚呼。だからか。なかなか噂が拾えないのは」
屋敷に仕える者や出入りする者から貴族屋敷内の醜聞が広がることは少なくない。むしろ本性を現すのは自宅なので忠誠心がない者などが多い場合は他家に内情が筒抜けになるということがよくあることなのだそうだ。金で心は買えないとはよく言ったものだなと従者間での噂話を拾って来ては寝物語のように話す隣りの男ですら出回っている噂以外拾えなかった辺境伯家の従者たちの忠誠心に感服したアルベールはそっと部屋に戻り、フェルナントを下がらせてベッドに倒れ込んだ。
「……ずるい、な」
目の裏に焼き付いたカティシエラの愛おしい者を思うような笑みにアルベールは自覚する。
彼女にあれほどまでに思われている相手に自分は自分で驚くほど嫉妬しているのだということをアルベールは自覚する。王女が自分のエスコートを拒んで別の男を侍らせていた時には全くわかなかった感情に自分はこれほどまでに嫉妬深い人間だったとは思ってもみなかった。そして彼女にその相手を尋ねてなんという答えが返ってくのか分からずに臆病になった自分に驚くと同時に恋は人を変えるという言葉を初めて思い知る。自分の中の醜い感情も弱さも全てたった一つの想いから来るのだと思うと愛だの恋だのと騒ぐ者たちの気持ちを理解できたような気がした。
「まぁ、でも、婚約者は俺だし」
どんな理由があって彼女がその思い人と寄り添わず自分に偽装婚約を持ち掛けたのかその意図は分からなくても今のアルベールの立場はカティシエラの婚約者で間違いない。
「落とせば俺のもの」
カティシエラは社交界追放を撤回させてアルベールが戻れるようにすると言っていたが、アルベール自身の意見としては別に社交界に戻る気はない。戻されたところで出会いを探して社交界を渡り歩くことはしないだろうなという予想はついているのでカティシエラがアルベールを追い出すまでルーヴェルに居座るつもりで彼女の隣に居続けて、その思い人よりも自分を選んでもらえればいいのではないかと考えて明日からなるべく行動を一緒に出来る方法を考えながら眠りについた。
「……?あ、ルーヴェルに来たんだった……」
薄暗い室内に一瞬自部はどこで寝ていたのかと思ったがすぐにここが北の辺境領で領主館の一室だということを思い出したアルベールはのそりと体を起こした。
「……まだ明けていないのか」
しっかりと閉められたカーテンを少しはぐってみたが外はまだ薄暗く日が昇るまで時間がるようだった。二度寝でもすべきかと戻ろうとした時だった。アルベールの耳に微かに窓を開ける音が聞こえた。誰かいるのかと窓の外を見ると隣の部屋からカティシエラがバルコニーに出て来ていた。
「まっ!?」
隣がカティシエラの自室だったのかとか寝起きのカティシエラだとか髪下ろしてるのレア!など恋する乙女のような思考が頭の中を駆け巡って行った。
挨拶に出るべきかと考えていると肘が窓枠に当たった小さな音にカティシエラの琥珀色の瞳がアルベールの方へと向いた。
「アル様」
「おはようカーラ嬢」
「おはよう。眠れなかったか?」
「いや。自室よりも快適だった」
手招きされたのでバルコニーに出るとカティシエラは着替えは終わっているのか真っ白いシャツと黒のパンツに白銀のマントを羽織っていた。多少ラフな格好なのだろうが朝も早いこの時間に着替えを済ませてあることに寝巻のガウン一枚である自分と比較してアルベールは少しガウンの胸元を直した。
「そうか。何か不便なことがあれば私でも執事や侍女、護衛たちにでも言ってくれ」
「不便なんてないよ。むしろ実家や王城よりも快適」
一生ここにいたいぐらいだ。今はまだそこまで言わない方がいいだろうなあと続く言葉を飲み込んだアルベールは話題を変えるために視線をカティシエラから外して薄暗い庭を見下ろす。
まだ日が出てないので草木はシルエットのようでわかりずらいなとアルベールが目を凝らしているとカティシエラが散歩に出ないかと提案をした。
「散歩?いいのかこんな朝早くに」
「二度寝したいなら構わないよ。私の日課に付き合ってもらうだけだから」
「じゃあ、お供させてもらおう」
「わかった。身支度にどれぐらい時間がかかる?」
「十五分も貰えれば十分だ」
着替えなど盛装でもなけば一人でも着れるものばかりだ。そう時間はかからないと答えるとカティシエラは頷き着替えが終わったら出ようと言ったので彼女を待たせないためにアルベールは部屋に戻り素早く着替えと身だしなみを整えてバルコニーを覗くとカティシエラとリュカが待っていた。
「待たせてすまん」
「いや。大丈夫だ。では行こうか」
「え?ここから?」
「まあ見てな」
カティシエラがバルコニーの柵に手を置いた瞬間、柵が形を変えていき階段に変化した。
「まさか!錬金術か!?」
「正解」
アルベールが扱った魔法を言い当てるとカティシエラは頷いた。
人も獣も植物も保有量は全く違うが魔力という力を誰もが有している。その力は魔法という現象を具現化させるものなのだが個々の魔力に適性という性質の違いが存在し、魔法で火を起こすのが得意なもの、水を出せるものなど様々あり、その中で物質を変化させて他のものに変えたり一瞬で物を作り出すことを得意とする性質が「錬金術」と分類される魔法なのだ。
カティシエラはその錬金術を用いてバルコニーの鉄柵を階段に変化させたのだ。
詠唱もなく一瞬で魔法を行使したカティシエラの実力にアルベールは彼女の魔法技術の練度の高さに感服する。
「カーラ嬢は王室魔法使いよりも魔法の扱いが上手いな」
「ははっ。まさか」
カティシエラは軽く笑いながら階段を下りる。
王室魔法使いは国の魔法学校を優秀な成績で卒業し、難しい試験を突破した一握りの物に与えられる役職だ。辺境の地から出ることなくほぼ独学で魔法を行使している自分が彼らよりも魔法の扱いが上手い訳ないとカティシエラは笑うが王城で彼らを見てきたアルベールからすれば彼女よりも扱いが上手い者など一人ぐらいしかいないはずだ。
「魔法には自信があったが今からでも鍛え直そうかな……」
「やりたいことがあるのなら手伝うが、それよりも今はその顔色の悪さを治していくことだな」
くるりと振り返ったカティシエラの琥珀色の瞳がアルベールを映した。
昼間よりも濃い蜂蜜のような瞳はアルベールの体調を気に掛ける色を滲ませていることに彼女の優しさを垣間見る。下町で飛び交う様な口調ではあるが彼女は決して乱暴な人ではない。人を気遣える心優しい女性だ。そんな彼女が王都では理性のない獣の如く野蛮な女性だと言われることに疑問が浮かぶが自分以外に彼女の優しさに気が付くものが出てくるのも嫌だなとアルベールは王都の噂を撤回させる方法を掻き消してカティシエラとの早朝デートへと繰り出した。
「なんか、リュカ光ってないか?」
「嗚呼。保有量以上の魔力が排出されているから光っているように見えるんだよ。朝ごはん食べたばっかりだからまだ体内に取り込み切れてないんだ。そのうち取り込み終わったら落ち着くよ」
「魔物だからか?」
「人もなるぞ。まあ全体的に発光するっていうよりも髪とか肌艶が良くなる程度だけど」
「詳しいなぁ」
うっすらと光るリュカのお陰で足元に不安はない中をアルベールとカティシエラは歩く。
カティシエラの話す魔法の話は王都で習う魔法よりもわかりやすく実用的な物ばかりでアルベールは自分が知らなかった魔法の活用方法に楽しくなる。
「ここは生活に魔法が根付いてるんだな」
「そうだね。王都よりも魔力の多い者が多いからな。生活にも討伐にも魔法は欠かせないよ。王都では違うのかい?」
「王都じゃ魔法は権力の象徴みたいに見られてたからいかに派手な魔法が扱えるかが重要視されてるなぁ」
火魔法や水魔法、土魔法と言った具現化した魔法が派手なものの方が素晴らしいという風潮がある王都で氷魔法と風魔法と自分自身には効力が薄い癒しの魔法の適性を持ったアルベールは高位貴族でありながら侮られてみられていた。
「氷魔法なら十分派手だろう」
「そうか?夏場に部屋を冷やすため以外に使い道は無いと言われたぞ」
バケツに氷を出すだけしか使い道のない魔法だなと嗤ったのは王女だっただろうか。誰に嗤われたのかもう覚えていないが言われた言葉は今もアルベールの胸に棘のように刺さっていた。
「王都では雪は降らないんだったなぁ」
「嗚呼。そうだな。同じ国なのに王都は雪は降らないし冬場もそれほど寒くは無いと思うよ」
「いいね。ルーヴェルは冬が長いから。氷や雪は一番身近にある脅威だよ」
カティシエラはそう話しながら指先で宙に何かを描いた。
からん。と何もないところから細長い円錐状の氷がカティシエラの掌に落ちた。
「四角い氷じゃなくて氷柱になっていれば十分武器となるし、こうして放てばそれだけで凶器だ」
話しながらカティシエラが氷柱を目に見えぬ速さで飛ばした。少し離れたところの木に当たり木の幹を穿って砕けた氷にアルベールは言葉を失った。
「魔法に派手も地味も無いと思うよ。魔法はイメージだ。どう扱うかは自分でイメージすればどんな形にだってなるんだよ」
「……凄い、な」
カティシエラの指先が動くたびに大きな氷の像が出来たり、様々な形の氷が舞い落ちてきたりとアルベールが思いつかなかったような魔法を見せるカティシエラに感服する。
「カーラ嬢は氷の適性を持っているのか?」
個人が扱える魔法には適性というものがあり火、水、風、土、光の五つの属性は多くの者が適性を表していることから「五大属性」と呼ばれているが氷魔法や錬金術など五大属性から外れた魔法は「無類属性」と分けられていて無類属性の適性を示す者は少ないのでアルベールは彼女が自分と同じ属性を持っているのかと思ったらカティシエラはゆっくりと首を横に振った。
「私の適性魔法は錬金術と空間魔法、付与魔法の三つだよ」
「適性が全部無類って珍しいな」
「私が王都に生まれたら速攻で貴族籍から抜けさせられただろうね」
「そんなことは……いや、有り得るか」
カティシエラの言葉を否定しようとしたアルベールだったが派手な五大魔法を扱える者を優遇する風潮の王都で無類魔法は下に見られていた。癒しの魔法も傷を治すことはできるが範囲は狭いし光魔法ほど目に見えて直すことはできないので良く揶揄われたものだったなとアルベールはカティシエラの予想を否定できなかった。
「氷に風、癒しだったか。そなたが王配に選ばれたのは魔法というよりもその優秀さからか」
「優秀、ね。ただ単に仕事押し付けるのにちょうどいい相手だったんだろうよ」
公爵家のスペアにならない三男でそれなりに勉強はできるが適性魔法はどれも地味、適当に扱っても文句は出ないだろうという判断で自分が王配に選ばれたのだろうとアルベールは仕事漬けの何も面白みのなかった日々を思い返す。たった数日前までそれが当たり前だったのにカティシエラに拾われてルーヴェルに来てまだ一日しかたっていないのに王都の記憶がはるか遠くのように思えた。
「ああ。そろそろか」
「ん?」
「向こうを見てみな」
ふとカティシエラが足を止めた。
アルベールは彼女が指をさす方を向いて息を飲んだ。
「……きれい、だ」
「そうか。私もこの光景が好きだ」
昇り始めた朝日に照らされた森や田畑、街が輝き目覚める光景に息を飲んで見つめ続けるアルベールにカティシエラは小さく微笑み彼が満足するまで足を止めた。
「凄く綺麗だった。こう、街や森が生きてるって感じがして、いつまでも見ていたいって思った」
「ここだけじゃなくて色々なところで見るといいよ。それぞれ違う輝きが見れるから」
「楽しみだ」
「たくさん案内するよ」
アルベールにもこの領地を好きになってもらいたい。カティシエラは自分の胸に漠然とわいた思いに不思議に思いながら自分と同じ光景を好きだと言ったアルベールに同士なのだなと納得し、次はどこに案内しようかなと考えていると「グー」と空腹を訴える音が聞こえた。
「っ。すまん。気が抜けてた……」
「いや。こっちこそ気を回せず済まなかった」
朝食も取らずに出てきていたのでお腹が減ったようだ。王城に詰めているときは空腹など感じなかったのになとアルベールはカティシエラと共に道を引き返した。
「あ!義兄上!」
「カイ、どうした?」
「こちらについて、少しご意見いただけないでしょうか?」
「嗚呼、見せてくれ」
アルベールがルーヴェルの滞在し始めてひと月が経とうとしていた。
カティシエラとの仲は目に見えての進展はないが早朝の散歩や空き時間などに一緒に過ごし傍目には仲のいい婚約者に見える関係を築いていたアルベールはカティシエラの家族、特に弟たちにとても懐かれた。
アルベールに自身で考えた政策の草案の確認を頼んできたのはカティシエラの五つ下の弟のカイアスでまだ十三歳だというのに領地運営にの手伝いをしている賢い子だ。
「カイ!兄さん!」
「レイ、廊下は走るなよ」
「ね!兄さん手ぇ空いてる?手合わせしよ!」
廊下で話し込んでいたアルベールとカイアスを見つけて走って来たのはカイアスの双子の弟であるレイアスだ。カイアスよりしっかりとした体格をしているが表情豊かで感情表現も大きく貴族令息としてはあまり良くはないのだが裏表なく慕っていることが伝わってくるので悪い気はしなかった。
「カーラ嬢は?」
「姉さん採寸に連れてかれた」
「採寸?ドレスでも作ってるのか?」
レイアスの返答にアルベールは首を傾げた。別に令嬢がドレスを作ることは可笑しなことではないのだが基本的に軍服で過ごし、錬金術の素材ならまだしも自身を飾り立てる宝飾品への興味関心が薄いカティシエラがドレスを作るためにお針子を呼んでいるところが思い浮かばなかったのだ。既製品を選んで夫人に怒られながら選び直していることなら簡単に想像できたアルベールはひと月の間にすっかりとルーヴェルに馴染んでいた。
「良く分かっていますね義兄上」
「いつもそうだよな!」
アルベールが想像を口にすればカイアスとレイアスは笑って頷いた。
「ドレスとか贈ったら迷惑か?」
「そんな事無いと思いますよ」
「喜ぶと思う!きっと!」
弟たちに賛成されてアルベールは自分の色のドレスでも作って贈ろうかと考えているとカティシエラの乳兄弟であるユーフィリアがやって来た。
「アルベール様、カイアス様、レイアス様」
「ユフィ!どうしたの?僕に会いに来たの?」
「どちらかというとアルベール様を探しに来ました」
「は?」
恋人と再会したかのような笑顔でユーフィリアを迎えたカイアスだったがユーフィリアの一言で一瞬で表情が削げ落ちた。
「っ!?」
「こわっ!」
カイアスの表情の変化をまじかで見てしまったアルベールとレイアスが怯える中、ユーフィリアは呆れたようにカイアスを宥める。
「そんなに警戒しなくても私にはカイアス様だけですよ」
「僕もユフィだけだよ。でも君のその美しい声が僕以外の男の名前を呼ぶのは嫌なんだ……」
「困りましたね。それでは仕事が出来ずカーラ様にクビにされてしまいますわ」
「僕のお嫁さんてだけじゃ駄目?」
「駄目ではありませんが、出来ればカーラ様のお傍で仕事がしたいです。駄目ですか?」
「駄目じゃないよ!駄目じゃないけど!!」
ユーフィリアを抱きしめてキャンキャンと騒ぐカイアスの姿にアルベールは目を瞬かせた。
大人びた対応をするカイアスが年相応に、いやそれよりも幼く駄々をこねる姿をアルベールが唖然と見ていると先に正気に戻ったレイアスが兄弟の豹変具合を詫びる。
「……ごめんね兄さん。カイ、ユーフィリアのことになると馬鹿になるんだ」
「ば、ばか……」
「まあユーフィリアのこと以外はまともだから、落ち着いたら元に戻るよ」
「そ、そうか……」
ユーフィリアに分かりやすく好意を伝えられて、ユーフィリアからきちんと好意を伝えられているカイアスが少し羨ましいなとアルベールが見ているといちゃつきに一区切りがついたのかカイアスがユーフィリアから離れた。
「義兄上。母上からの伝言でもし時間があるなら姉上のドレスを一緒に選びませんかと」
「嗚呼。それは楽しそうなので是非、ご一緒させていただこう」
「ではご案内いたします」
カイアスから離れてアルベール案内するためにユーフィリアが頭を下げてから踵を返したその瞬間、カイアスは真顔でアルベールを振り返った。
「義兄上は誠実な方でしょうから姉上以外に現を抜かす、なんてことはしませんよね?」
「……安心しな。カーラ嬢以外に興味はないから」
「そうですか!では楽しんできてください!」
笑顔を引きつらせながらアルベールが答えるとカイアスは再び人畜無害な爽やかな笑顔に戻ってアルベールを送り出した。
「レイは予定ないのか?」
「俺午後休みだから母さんに伝えたら町行くんだ」
「そうか。楽しんで来いよ」
辺境伯夫人に顔を見せに行くというレイアスと共にユーフィリアに案内されたのは華やかなサロンだった。
カティシエラに屋敷の中は一通り案内してもらって場所把握していたが他家で招かれてもいなければ近付くことのない部屋にアルベールは興味深く見まわしてしまった。
「アルベールさん。いらっしゃい」
「お招きありがとうございます夫人」
「いいのよ。さあこちらにいらして頂戴」
辺境伯夫人に手招きされた先にはやや疲れ気味のカティシエラが大量の布の前で頭を抱えていた。
「カーラ嬢、大丈夫か?」
「嗚呼。アル様か……」
「ドレスを選んでいるのか?」
「黒以外でと言われてしまってな……」
「カーラ嬢ならどんなドレスでも似合いそうだが……」
何時になく覇気を感じられないカティシエラに寄り添うように隣に座りドレスのデザインを確認する。
シンプルなデザインのドレスのようだ。
アルベール自身ドレス選びなどしたことがないのでドレスの良し悪しなど判らないが彼女が選んだらしいドレスのデザインが描かれた紙に描かれたドレスを纏ったカティシエラを想像して似合うなと思いつつ、周囲に積まれた見本の布の中から想像で着色した色に近いものを探していく。
「この色いいな。いや、こっちも捨てがたい……あ、これもいいな」
「アル様は青系が好きなのか?」
「ん?多分……カーラ嬢ならどんな色でも似合いそうだが、なんか青っぽい方が妖精のようで似合いそうだなと……」
布を吟味しながら思ったことを素直に口にしていると隣のカティシエラが不自然なまでに静かになっていた。
「どうかしたか?顔が真っ赤だぞ」
「ばっ!ちがっ。これは、紅茶が熱かっただけっ!」
「気を付けて飲めよ?カーラ嬢猫舌なんだから」
いつの間にか知られていた猫舌にカティシエラの顔がより一層赤くなる。
慣れてくると表情豊かだなとアルベールは嬉しくなりながら様々な布をカティシエラに当てながら砂糖菓子のような感想を付けていく。
王女の取り巻きであった令息たちが言葉巧みに彼女を褒めたたえていたがこうやって表情を変えてくれるならさぞかし楽しかったのだろう。あの頃は全く分からなかった彼らの行動が今やっとわかったような気がしたアルベールはカティシエラが怒らない範囲で褒め散らかして楽しんだ。
「あらあら、まぁ」
「ふふふっ。とても仲がよろしいようですね奥様」
「ええ。本当によかったわ。お婿さんがアルベールさんで」
じゃれ合う二人を眺めながら辺境伯夫人たちは静かに微笑んだ。
ルーヴェルに花咲き誇る春が来るのも遠くはないだろうと領主館の使用人のみならず町の人々さえもその訪れを心待ちにする中、ルーヴェルは本格的な冬を迎えた。
雪がしんしんと降る音がする。
雪が降る音はするのにそれ以外の音が雪に吸い込まれてしまったかのように静かな朝にこれが雪国の朝なのかと感動した。
カティシエラとの早朝の散歩は暗いし雪が降っているといこともあって中止になったがその分昼間に行動を共にする時間が増えたアルベールは今日もカティシエラと共に町へと出る。
「あ!カーラさまにアルベールさまだ!」
「マントおそろい!すてき!」
「真っ白!きれいです!」
領地内にある魔物の飼育施設の一つに足を運んだアルベールとカティシエラを出迎えたのは孤児院の少女たちだった。
「マリー、アーシャ、ユリーナ。今日はここの手伝いか?」
「うん。今日はアイスレザールのうろこ取りのお手伝い」
「ごはん上げるんだぁ」
「そっか、怪我しないようにな」
カティシエラが三人娘の頭を撫でると彼女たちは嬉しそうに野菜屑の入った籠を持って獣舎の奥へと駆けていった。
「アイスレザール?初めて聞く名前の魔物だな」
「雪山の奥地にいる魔物だから王都で見かけることはないだろう。それに大人しい草食系の魔物だから人を襲うこともないから討伐依頼は出ないはずだしな」
「そんな魔物も飼っているのか?」
「伝書鳩代わりになるんでね。見てみるか?」
カティシエラに誘われ伝書鳩代わりという魔物を見に行ったアルベールは獣舎で少女に野菜を貰いながら背中の氷のような鱗をハンマーのようなもので落とされている魔物に目を見開いた。
「で……っ!?」
「この子たちが氷飛蜥蜴だ。成体は六十センチから百五十センチぐらいかな。大きさはまちまちだが成体になると背中の鱗が分厚くなって飛ぶのが下手になるんで定期的に落とす必要があるんだよ」
「……だから大人しく背中叩かれてるのか……」
「そうそう。で落とした鱗は冷気を纏ってるんで錬金術で冷気を固定して装飾品に変えれば王都や南部で大人気の魔道具になるのよ」
「嗚呼。あの安価なのに性能がいい魔道具の核はこれか……」
「ま、使い捨ての魔道具だからね。高くしたら買ってもらえないから」
顔は少々厳つい蜥蜴の魔物だが少女たちや飼育担当に触れられることを拒むことなく受け入れているのでとても大人しいことが見て取れる。
背中の古い鱗が粗方取れると羽を動かして動きを確かめてから自主的に次に譲るように獣舎を出ていく氷飛蜥蜴に感心していると飼育担当の男性がアルベールとカティシエラに気が付いた。
「お嬢に若様じゃねぇか。今日は如何したんですかい?」
「ただの視察だ。気にせず続けてくれ。少し書類を見させてもらうぞ」
「ヘイ。あ、若様はどうします?ご一緒されますか?」
男性に聞かれアルベールがカティシエラを見下ろすとカティシエラは少し考えてからアルベールを見上げた。
「寒くなければ放牧エリアで氷飛蜥蜴達に乗ってみてもいいよ。他にも居るが皆大人しいのばかりだし」
「白銀の狂熊のマント借りてて寒いはないよ。少し見て回ってもいい?こんなに間近に魔物が見られることってなかなかないから楽しい」
「構わないよ。バルゴ案内を頼む」
「畏まりました!どうぞ若様こちらです」
飼育担当のバルゴがアルベールを放牧エリアへと案内した。
「このエリアにいるのは氷飛蜥蜴の他に大角羊とワタウサギです。皆草食で形は大きいですが大人しい魔物です。他のエリアでも言われたかもしれませんがこちらから刺激をしなければ襲ってくることはありません。なので大声を出したり不用意に近づいて触ったりということはお控えください」
「ああ。バルゴと言ったか。そなたの指示に従おう」
「ありがとうございます」
バルゴに案内されて放牧エリアを回る。
雪景色の中をのんびりと過ごしている氷飛蜥蜴や雪をかき分けて草を食む大角羊、雪と同化して全く分からなくなっているワタウサギを抱いてみたりと放牧エリアを見て回り、氷飛蜥蜴が固まっているところにいた少年にバルゴが声を掛けた。
「キルトちょっといいか。若様を氷飛蜥蜴に乗せてやりたいんだが調子のいい子はいるか?」
「お疲れ様ですバルゴさん。皆調子はいいですよ」
キルトと呼ばれた少年はじゃれつく氷飛蜥蜴たちを宥めながら頭を下げた。
「初めまして若様。氷飛蜥蜴の調獣師をしていますキルトと言います」
「アルベールだ。よろしくな。氷飛蜥蜴の調獣師ということは大角羊とワタウサギは別の者が調獣師なのか?」
「はい。私たちにはお嬢様ほど魔力量は多くありませんし支配力もありませんので一種類の群れと契約するので手一杯なのです。なのでここのエリアは私の他にも調獣師が居ります。他のエリアでも一人か二人の調獣師が一種類の群れを見ております」
「なるほど」
すらすらと答えるキルトによく聞かれることなのかと思っていると放牧エリアの魔獣たちが急に同じ方向を向いて唸り出した。
「どうした?」
「魔境で魔力が高まったのかもしれません。バルゴさん若様をお嬢様の元へ」
「嗚呼!キルトは皆を獣舎に集めろ!」
バルゴに獣舎に戻る様に言われたその時だった。
けたたましい鐘の音が町に鳴り響いた。
「まさか……っ。若様!お嬢のところに急ぎましょう!」
「っ嗚呼。何が起こったんだ?」
「この鐘は弩級以上の魔物の出現かスタンピードが起こったサインです。お嬢のところに伝令が来ているはずですので確認はお嬢に聞いた方がいいです!」
バルゴに急かされ獣舎に戻ると事務所でカティシエラが管狐から状況を聞いていた。
「お嬢!」
「スタンピードだ。まだ距離はあるが目視で確認できただけでも中級以下が一万近く、上級以上の魔物も確認できたらしい」
「場所は?」
「帝国側だ。帝国に行くならこちらに被害は少ないだろうが、多分こちらに来るだろうな……」
カティシエラの言葉にバルゴや集まっていた飼育担当達の顔が強張った。
ルーヴェルが唯一交易しているのがルーヴェルよりもさらに北にある帝国だ。人跡未踏の魔境が大陸を分断しているため陸路での交易はないが海路による交易によって帝国の絹織物や陶器などの品々はルーヴェルに着き、そこから王国内に広められている。王都付近の港まで南下できないかと王女を含めた王族からの無茶振りで帝国と交渉をしたことがあったアルベールだったがルーヴェルと王都の間の海域が上級以上の魔物の生息なため危険を冒してまで南下するメリットが無いということで交渉は破綻した。
「ラム、これを監視室に」
「キュ」
カティシエラが何かを書いた手紙を小さく折りたたみ管狐に持たせると管狐は一声鳴いてするりと彼女の胸ポケットに滑り込んでいった。
管狐は狭い場所を巣穴にする小さな狐の魔物で幾つもの巣穴を持っており危険が迫ると巣穴から別の巣穴へと転移することが可能な逃げることに特化した魔物なので早馬や伝書鳩などに代わり連絡要員としてカティシエラは数匹の管狐と契約している。
「バルゴはここを頼む」
「へい!」
「アル様はリュカと領主館に戻れ。父と母の傍にいれば最低限の安全は守られる。リュカ、アル様を届けたらシュヴァルツたちを連れておいで。獣舎で待ってるみたいだから」
「ウォン」
どこからともなく取り出した地図に何かを書き込みながらカティシエラは指示を出していく。
自身の大きさを変えてカティシエラの傍にいるリュカがアルベールの袖を軽く嚙んで帰るように促すのを手で止めてカティシエラを見る。
「カーラ嬢はここで指示を出すのか?」
「いや。ある程度指示出しが済んだら前線に立つ」
「は!?君は令嬢だろう!?」
アルベールの言葉にカティシエラの手がぴたりと止まった。
「優しいねアル様は」
「なに、言って……」
「私は狂熊令嬢だよ。忘れたの?私の役目は前線に立ってこの国を守ること。それ以外に何もないんだよ」
「そんなことっ!」
彼女の騎士服に見慣れてしまっていたから忘れていた。
彼女は単独で魔物を倒すことのできる令嬢だということを。
この汚れ一つない騎士服はただの衣装でなく戦うための衣装であることを忘れていた。
アルベールが滞在中にカティシエラの騎士服が汚れることはなかったから忘れていたことを思い出し奥歯を噛んだアルベールにカティシエラは分厚い封筒と真っ白な封筒を取り出した。
「―――、」
「なに?」
「なんでもないよ」
何かを呟いたカティシエラに聞き返したアルベールだったが彼女はそれに答えず二通の封筒を差し出した。
「これは?」
「王女様からのお手紙と婚約破棄の書類だ」
「王女との書類はすでにサインを終えているが」
「私の分だ」
「は?」
アルベールは耳を疑った。誰の分と彼女は言っただろうか。
「認めない、俺はっ」
「私のサインは済ませてある。気が向いたら提出してくれ」
「カーラ!」
「私からは以上だ。リュカ、咥えてでも連れて行け」
アルベールの話を遮るように話を切り上げたカティシエラはアルベールを見ることなく地図を持って出て行った。
「……」
「ガウ……」
手紙を一瞥したアルベールはリュカの頭をそっと撫でて領主館へと戻った。
リュカに送り届けてもらった領主館では従者たちが炊き出しの準備に走り回っていた。アルベールを迎えに出て来ていたフェルナントと合流したアルベールは辺境伯夫婦が待機している部屋へと案内された。
「ん?アル、その手紙なんだ?」
「ああ。忘れてた……」
婚約破棄の書類と共に渡された王家の封蝋がされた手紙。
カティシエラのことで頭がいっぱいでフェルナントに指摘されるまでその存在をすっかり忘れていたアルベールは手紙を開いて一読し溜息を吐き出した。
「誰からの手紙で?」
「王女からだ。政務が滞っているから戻ってこいだと」
「は?馬鹿にしてるのか?」
手紙の内容を要約して応えればフェルナントの眉間に深いしわが出来た。
手紙を見る限り馬鹿にしているわけではないだろう。ただ単にこちらのことなど何も考えていないだけだ。たかがひと月、引継ぎは確かにしていなかった(する間もなく追い出された)が急ぎの用はなかったはずなのに既に政務が滞り始めているようで手が足らないから戻ってこいという内容に呆れる。
「早めに戻る気はないって返事しちゃった方がいいですね、これは」
「そうだが……」
フェルナントの指摘に頷くもルーヴェルは本格的な冬に入っているためたかが手紙ひとつのために他家の使用人を借りることは憚られた。
「……スタンピードが収まってから出そう」
「そう、ですよね……」
「あら?どなたかにお手紙ですか?」
アルベールとフェルナントが話し合っているとひょこりと辺境伯夫人が話に入ってきた。
驚く二人に夫人はのんびりと笑った。
「ごめんなさいね。聞こえたものだから」
「いいえ。このような時にすみません」
「いいのよ。で、どこにお手紙を出すのかしら?」
「……王都に。出来れば早めに返事をした方が誤解されないので……」
王女からの手紙を見せれば夫人は顔を顰めてすぐに侍女を呼んだ。
「そんな不幸な手紙、早く返事をして縁を切ってしまった方がいいわね。貴方、郵便機をお借りしますわね」
「嗚呼。好きに使ってくれ」
鷹揚に頷いた辺境伯に夫人は喜んで魔道具を取りに行かせた。
従者が持ってきたのは一抱えほどの木箱の魔道具だった。
「それは?」
「郵便機って言う魔導具よ。この中に転移の魔法陣が敷かれているから送りたいものをこの中に入れて魔力を注入するだけで対になっている魔道具に届くっていう魔導具ですよ」
「それは、凄いですね」
どれほどの速さで届くのかは分からないがきっと早馬などの人の手で届けられるよりも早いのだろう。
「凄いんだけどね、これ。物凄く魔力を使うのよ。お隣の領地に小包ひとつ届けるだけなのに上級魔石百個は使うのよね」
「それは……」
上級魔石百個。金貨五千枚ぐらいだろうか。アルベールは瞬時に換算して目が遠くなる。ただの手紙を届けるだけで金貨五千枚は高すぎる。
「……フェル、やっぱりお前馬に乗って届けて来い」
「そうします」
「大丈夫よ。魔石は心配しないで。カーラちゃんがよく作ってるからうちには捨てるほどあるのよ。だから気にしないで使って頂戴」
夫人の言葉に辺境伯も頷いて同意する。
捨てるほどある上級魔石とか、カティシエラが作っているというのはどういうことなのかとか、たかがひと月の付き合いのアルベールたちにはまだまだ分からないことだらけだったが笑顔の夫人と目力の強い辺境伯の圧に屈したアルベールは魔道具を使うことに頷いた。
いくら高位貴族出身とは言えども上級魔石百個を一回に使いきるような経験はしたことがない上に王配教育に入る前はそれなりに庶民街に出歩いていたので大金を湯水のごとく使うことに抵抗感がない訳ではないのだ。
夫人に勧められるままに手紙の返事を書き、夫人が別に手紙を書いたものと共に魔道具の中の魔法陣の上に置いて蓋をする。蓋の上に上級魔石が百個入っているらしい麻袋を置いた瞬間、パンパンになっていた麻袋がしなっとへたった。
「もう届いたわよ」
「……凄いですね」
蓋を開けてみれば中に入れたはずの手紙が無くなっていた。奇術のような現象にアルベールとフェルナントが本当に隣領に届いたのか不安になっていると、魔法陣が淡く光って「了解」とか一言書かれたメモが一つ現れた。
「……こういうふうに手紙が届くのですね」
「コレ、王都までは難しいのですか?」
「どうかしら。私はそれほど魔導具に詳しい訳ではないからカーラちゃんに聞いた方が早いと思うけど多分できなくはないでしょうね」
「対の魔法陣と大量の魔力があれば可能だと言っていたな。ただ、距離が遠ければ遠くなるほど魔法陣の大きさが大きくなるから王都までだとこの部屋ぐらいの魔法陣になるから割に合わないから実用不可と言っていた。今は魔法陣の構造変えをしているはずだからそのうち実用化できるはずだ」
辺境伯が夫人の言葉に答える。
世界の通信手段を変えそうな研究をカティシエラがしていることに驚いていると、ドスンと領主館が大きく揺れた。
「「!?」」
「っ!?なにかしら?」
「……、」
「おー。すまんなぁ」
辺境伯が素早く窓の外を覗くに向かうと、パタパタと白い羽を動かしてその生き物はのんびりとした口調で謝りながら部屋に入ってきた。
「強引な転移じゃったもんでな。少し騒がせてしまったわい。すまんのぉ」
「いや。大丈夫だが何があった」
「ちと面倒なのが二体ほど出てしまっての。里ごと避難させてもらったわい」
老爺のような口調で辺境伯と話す不思議な生き物にアルベールとフェルナントは頭の中でカティシエラに見せてもらった北の魔境生き物図鑑から該当する生き物を探し出した。
「もしかして、妖精猫?」
「む?おお。もしかしてそなたらは婿殿か?」
「長殿。こちらのアルベール殿が婚約者だ。その隣のフェルナントはアルベール殿の乳兄弟だ」
「ほっほっほっ。こちらが婿殿か。儂は妖精猫族の族長をしておる者じゃ。名は名乗れんので気軽に『ケット爺』とでも呼んでおくれ」
にんまりとアーモンド形の目を三日月に変えて名乗った妖精猫の長、ケット爺の小さな身体から放たれる異様なほど大きな魔力圧にアルベールはたじろぎながら微かに頷いた。
「ア、アルベール・ウィリアム・フォン・グラシエだ。よろしくお願いするケット爺殿」
「ほっほっほっ。よい子じゃな。あいよろしく」
ケット爺の差し出された前足を軽く握る様に握手をすると魔力圧が霧散した。威圧されていた緊張感から解放されてアルベールは詰めていた息を吐き出した。
「長殿。面倒な二体というのはなんの魔物だ?」
「九頭毒蛇とその亜種、九頭水銀毒蛇じゃ」
ケット爺の言葉に辺境伯は大きく目を見開き、夫人は顔を青くした。
九頭毒蛇はその名の通り頭が九つある毒蛇の大型の魔物で周囲に毒の沼を作るため接近戦が難しい魔物でその魔物の亜種、本来の魔物よりも強く進化した魔物が九頭水銀毒蛇で、討伐記録は過去に一度、西の国で発見されたもので人が住めなくなるほどの毒を撒き散らして暴れまわった末に当時の最高ランクの冒険者を含む数多の命と引き換えに討伐されたという悪夢のような魔物だ。
「ここに出る魔物ではないはずだ」
「そんなこと知らんわ。出たものは出たんじゃ。大暴れしとる」
「今誰が止めている」
「お嬢が一人で止めておる。九頭毒蛇の方は結界に閉じ込められたんで九頭水銀毒蛇の方を先に片付けておる」
辺境伯に淡々と伝えるケット爺の言葉にアルベールは自分の無力さに歯噛みしたときだった。
「父上!前線に出ます!」
「親父!姉ちゃんと暴れてくる!!」
勢いよくドアが開きカイアスとレイアスが飛び込んできた。
十三歳とまだ親に守られてしかるべき子供たちが真剣な顔で父である辺境伯に直訴する。
「駄目だ」
「「なんで!?」」
「跡取りが居なくなる」
「ならカイだけ残ればいい!!俺に内政は向いてない!だから!」
「僕では家臣団を纏められない。レイが残るべきだ」
辺境伯の言葉に二人が互いを残そうと言い合い出す。
カイアスは内政向きな性質故に血の気の多い家臣団を纏めるのに苦労することは家族全員が分かっていることだし反対にレイアスは家臣団を纏めるには十分な素質があるが如何せん頭を使うことが苦手故に領主としての本来の仕事は荷が重いだろうとの判断されている。出来ればふたりとも程よく互いの素質を分けて持ってくれればよかったのだがそうにはならなかったのだから仕方がない物である。内政も家臣団を纏める力もどちらも有していたのが姉であるカティシエラというのがどうにも皮肉なものである。
「……婿殿は、何ができる?」
ケット爺が囁くように尋ねる。
黄金のような瞳がアルベールを試すように弓なりに歪んだ。
「――――」
*****
酒場で酔いつぶれたアルベールを見つけたのがただの偶然だった。
アルベールの愚痴に付き合ったのは彼が王配であることを知っていたからだ。一度だけ王城で顔を合わせたことがあったのだが、酔ったアルベールはカティシエラのことが分からなかったようで婚約破棄も職務解任もついでに社交界追放も他人事のようにカティシエラに話した。心も体もボロボロになるまで酷使した彼に謂れのない罪を突き付け、襤褸雑巾のように捨てた王家の態度に他人ながら憤りを感じたから王都を出たいと言った彼を自領に招いた。
彼を招いたことに他意はなかったはずだった。ただ、彼の疲れた心と体が休まればそれでよかったのだ。その過程で少し関係性を偽装してもらったがきっとひと月もすれば王都に戻りたいというと思っていた。帰りたいと言い出すのを願いながら何も言わずに辺境の地を楽しむアルベールにカティシエラは小さな夢を重ねて見てしまった。
多くの人が当たり前のように考える幸せな結婚を。仲の良い夫婦が当たり前のように寄り添う、そんな夢を、自分は見ることは叶わないと思った憧れを見てしまった。
「……似合わない、な」
魔物を屠ることしかできない自分には似つかわしくない夢を見ていたのだ。もう夢から覚める時間だろう。カティシエラは戦闘に関係ない思考を振り払うように首を振った。
「……」
傷付いたアルベールの顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
傷付けたかったわけじゃない。ただ、こんな血まみれの女が華やかな王都の貴公子の隣に立つことが似合わないと思っただけだ。彼には、もっと相応しい令嬢が居るはずだから。
言い訳を並べてきしむ胸の痛みから目を反らしたカティシエラは戦斧を持つ手に力を込めた。
「ブヒィィィ!!」
左から飛び出して来たオークを魔力で強化した足で蹴り飛ばして戦斧で首を刎ねる。立ち止まることなく襲い掛かる魔物を避けて最小限の動きで仕留めてその奥で威嚇するように吠える魔物の頭上へと跳び上がる。
「ギョエェェェェェ!!」
空間魔法で作れる盾を足場にして息を整えていれば狙うように魔鳥が飛んでくる。
結界魔法で押し潰してしまっても全く構わないのだがそうすると食材や錬金術の素材などがまとめて駄目になってしまうのでなるべく一体ずつ丁寧に討伐したいのが本心ではあるがこうも多く来られるとめんどくさくなって全て潰してしまおうかという思考になるカティシエラの元に地上の魔物の回収を終えた部下が戻ってくる。
「下のは回収終わりました」
「ん。お疲れ。ここの回収したら一旦戻れ」
「団長は?」
「あれ、見張ってる」
頭上にいるカティシエラたちに威嚇をしている九頭水銀毒蛇を指さしてカティシエラは淡々と答える。
周囲の魔物に隷属魔法を使うことが出来る九頭水銀毒蛇を孤立させるために周囲の魔物を狩ったが九頭水銀毒蛇を最短で倒す方法が見つからない。
「九頭水銀毒蛇の弱点てどこなんですか?」
「さあ。首切れば大抵の生き物は死ぬけど、九個もあるからなぁ。モドキと同じように間違えたらまた再生されても面倒だしなぁ」
「モドキってヒュドラモドキですか?南の方の」
「そ」
体長五メートルほどの三つ首の蛇の魔物、ヒュドラモドキという首が多いだけで毒など持っていない蛇の魔物は三つの首のうちの一つが本体の首で他の二つは脅し用という見掛け倒しの魔物もいるが災害級の魔物が中級の魔物と同じ見掛け倒しではないだろう。現に目下の魔物は全ての首がグネグネと動いてこちらを威嚇していることにカティシエラは攻め方を考える。
「討伐記録少なすぎんだよなぁ」
「北以外のギルドで大物の情報って殆どないですもんね」
上級以上の珍しい魔物を討伐したとき冒険者ギルドに討伐したときの様子や使用した魔法などをある程度書いて保管して有事に備えて誰でもどこのギルドでも閲覧することができるようになっているが冒険者にとって魔法技術や戦闘術は商売道具なので大っぴらにすることは避けられているため魔物を討伐したときにどんな魔法を使ったかどう攻撃に対処したかまでは書かれていない。
九頭毒蛇もその亜種である九頭水銀毒蛇も上級の上、災害級に指定される魔物でめったにお目にかかれる魔物ではないため討伐すれば記録を残す義務があるが討伐に参加した者がほとんど亡くなり相打ちのように討伐されていて詳しい記録が残っていないのだ。
「スネーク種なら首切れば終わりそうですけどドラゴン種だったらもっと怒り狂いそうですね」
「あー……サンプル少なすぎて分けられてないんだっけか」
「どっちだと思いますか?」
「ブレスしたらドラゴン種」
鑑定魔法が使える弟を連れてくればよかったかなと思いつつ九頭水銀毒蛇の動きを観察しているとアルベールを送り届けたリュカとシュヴァルツたちが合流した。
「お帰り」
「ガウ」
リュカたちを撫でて九頭水銀毒蛇を眺めている部下に目をやる。
「クルトはこのまま戻ってロベールの指示に従え。そろそろカイとレイが合流しているだろう。好きに暴れな」
「了解です」
部下に指示を出しゆっくりと立ち上がったカティシエラはマントのフードを目深に被った。
普段は周りを委縮させないように抑え込まれている魔力がブワリと溢れ出して周囲を威嚇する様に、部下のクルトは背筋に冷汗を流しながら一目散に相棒の氷飛蜥蜴に跨って退却した。
「……、」
飛び去る部下が視界の端から消えた瞬間、カティシエラの身体は風を切って急降下した。
ズドォォォン……ドゴォォォン……。
白銀の森の奥、積もった雪が轟音とともに巻き上がる。
戦っている場所が遠いためアルベールの目にはカティシエラの動きは見えないが空に向かって大きく咢を開けて吠える九つの首が不自然に止まったり仰け反ったりするのを遠見鏡で確認したアルベールはそっと息を吐き出した。
「あんな遠くで戦っているんだな」
「あの辺りが発生地点なのもありますがカーラ様の場合は余波で周囲を巻き込まないためです」
護衛という名目っでアルベールの傍にいるアンリエッタがアルベールの呟きに応える。
「余波?」
「魔力余波です。カーラ様は元々とても膨大な魔力を有しているんですが、膨大な魔力は制御しなければ無意識に周囲を威圧して拒絶する壁になります。なので普段は自分の中から魔力が漏れないように抑え込んでるんですけど、戦闘中は解除して威圧しているんですが制御していない魔力は意図しないところでも威圧してしまうので魔物以外を威圧しないためにカーラ様は基本的に離れて戦闘をするのです」
誰もが持っている魔力は本来であれば体外に意図して出ることはないのだがカティシエラの魔力は体内に収まらないほど膨大でコントロールしないと体外に漏れ出して無意識に威圧を振り撒く凶器なのだとアンリエッタは言った。
「常に魔力制御をしているのか……」
「はい。なので不意に触られることを嫌います。私やユーフィリアでさえカーラ様に触れる前に一声かけないと弾かれますが、それが出来たアルベール様に少しは期待しているんですよ私」
「え?」
「ふふっ。ちゃんと話し合ってくださいね。うちの主はうさぎちゃんですから」
アンリエッタの言葉の意味は理解できなかったアルベールだったがカティシエラとはもう一度きちんと話し合いをするつもりなので静かに頷いた。
「話し合いはするけど、その前に仕事しないとな」
「そうですね。一応名目上は治癒目的ですからね」
魔物と戦ったことがないアルベールが前線にいるのは負傷兵の保護のためという建前でカイアスとレイアス、アンリエッタ、フェルナントを護衛として前線にいることを思い出したアルベールは意識を切り替えて遠見鏡で退却するほどではないが怪我を負った騎士や冒険者がいないか探す。
「義兄上、あちらに三人」
「了解」
カイアスが見つけた方を自分でも確認して掌に治癒を意識しながら魔力を溜めて小石を弾くように負傷した騎士へと目掛けて飛ばす。
小さな光の玉は一瞬で負傷した騎士たちの元へとたどり着き、騎士たちの怪我をあっという間に治した。
「上手ですね」
「そのうち目視なしで出来そうですね」
カイアスとアンリエッタが感心するように呟く。
アルベールはここ半月、カティシエラと彼女が鍛えた騎士団との訓練の成果が出ているようで嬉しくなる。
きちんと訓練を積んだ治癒士たちほどの回復力がない自分の魔法の使い道をカティシエラに尋ねたときに彼女が教えてくれた騎士たちの実態。
常に魔物の脅威がある辺境でも治癒士の数は常に不足している。回復薬などの魔法薬はそれなりの数はあるが飲み過ぎれば動くのに支障が出るので騎士たちは休憩時にしか飲まないし、戦えない怪我になるまでは治癒士に頼らないのだが、生身で戦う者たちは己の不調に敏感だ。治癒士や回復薬に頼らないような怪我でも積み重なればコンディションは落ちるしパフォーマンスは崩れていく。一瞬の判断で命を失うような駆け引きをする騎士のために、その小さな怪我の積み重ねを減らす方法としてカティシエラは後方から援護治癒を提案した。元々は回復薬を風魔法で後方からぶつけて治すという案だったが夏でも寒くなると不評だったため採用されなかった案だった方法が風魔法と治癒魔法の適性を持ったアルベールのお陰で実現可能になったのだ。
「わふっ!」
「アトルム?なに咥えて……まさかそれ九頭水銀毒蛇の首?」
「わふ!」
アルベールが治癒魔法を飛ばしていると禍々しい蛇の首を咥えた黒曜狼のアトルムが走ってきた。
「わふっ!」
「うぇっ。鑑定したくない……」
アトルムよりもずっと大きな頭をよく咥えて持って来れたなとアルベールたちが唖然とする中、カイアスは嫌々と言うようにその首に手を翳した。
「九頭水銀毒蛇の首、土属性。素材ランクS」
『分類は?』
「キングポイズンスネーク亜種って出てる」
『じゃあ蛇だな』
アトルムの口からカティシエラの声が喋る。
初めて見る光景にアルベールとフェルナントが驚き目を見張るがカイアスとアンリエッタは慣れているのか気にせずに話す。
災害級の魔物をただの蛇と宣ったカティシエラの声は一瞬不自然に止まってから何事もなかったように話す。
「カーラ様戦況は?」
『順調。再生力が面倒だけど首は斬れるから問題ない。そろそろ片付けて次のに行く』
「わかりました。逃げずに帰って来てくださいね。待っている方がいますから」
『……』
にこりとアンリエッタが笑顔で圧力をかけるとカティシエラはもごもごと何か言った様な気がしたがアトルムの口からは声にはならなかった。
「……わふ」
「アトルム。お疲れ様です」
「わふっ!」
カティシエラの声が聞こえなくなるとアトルムの雰囲気が変わる。アンリエッタに撫でられて大きく尻尾を振ったアトルムは主の元へ戻るために踵を返した。
「さっきのは?」
「従魔を使った通話です。かなり繫がりが強い従魔でないとできないので姉上の専売特許状態の魔法です」
「そんな魔法があるんだな」
「魔法はイメージだそうですよ。やりたい、出来たらいいな、それを具現化するのが魔法だと言っていました。どんな魔法は使い方次第だと。僕も成人したら従魔と契約をして同じように念話が使えるぐらい絆を深めたいです」
カイアスが眩しそうにアトルムが走って行った方を見つめる姿を横目にアルベールはカティシエラの強さは魔法への想像力の柔軟さからきていることを知る。学校で習った教科書通りの魔法を使わない型破りな魔法の数々、それを可能にする膨大な魔力。それが彼女が厳しい辺境を支えるために得た力なのだということを痛感する。
「カーラ嬢は凄いな」
「凄い姉ですが、人なんで義兄上が支えてくださいね」
未来の義弟にまで背中を押されアルベールがカティシエラとの対話を早めにするためにこのスタンピードを早く収束させなければと意識したときだった。
ギュアアアアアアアァァッ!!
大気を震わせるような断末魔が白銀の森に響いた。
「っ!?んだこの声っ!!」
「っ!?耳がっ!!」
耳の内側から破壊するような不快な音に耳を塞いで蹲るがすでに耳の中に入ってしまった音に目眩がして立っていられなくなる。
「「ギュルルルッ!!」」
「おい!こら!急にどうした!?」
「暴れんな!!」
連絡や救助者運搬係として大人しく待機していた氷飛蜥蜴たちが突然暴れ出したことに主人たちが慌てて宥めようとする声が防壁の上で上がるのと同時に森の中の至る所から魔物の雄叫びが轟いた。
「なん、だっこれはっ!?」
「ロベールさん!今すぐ皆さんを防壁に呼び戻してください!!」
アルベールは背筋を走った悪寒にすぐに騎士団の指揮を任されている副団長に森の中にいる人員を呼び戻すように声をあげた。
「総員退避!!!」
風魔法によってロベールの声が森に響くが断末魔によって多くの騎士や冒険者たちは立ち上がることもままならず防壁の結界内まで戻ることが出来ないでいる。
「「「「「アオーン!!」」」」」
正気をなくした魔物たちの雄叫びに死を覚悟したとき、五つの遠吠えが魔物の雄叫びを掻き消した。
薄暗くなり始めた森の中を黒い影が駆け抜けていく。
動けなくなっている騎士や冒険者を軽く咥えて宙に放り投げる。一人二人と木々の隙間から宙に放り出された騎士や冒険者たちは不思議な風に包まれて防壁に運ばれていく。
「た、助かった、のか……?」
「俺たち、生きてる、のか?」
防壁の屋上に次々と運ばれてきた騎士や冒険者たちは茫然としながら荒れ狂う魔物の声が響く森を見下ろした。
「……シュヴァルツ。助かった」
「グルア」
団長に任された部下を一人も失わずに済んがことにほっとしたロベールが一番近くにいた彼女の従魔に礼を言うと小さな声で返事が返ってきた。
「グルルル。ガウ」
「キャン!」
「わふ!」
黒曜狼の五兄妹の中で一番大きな個体、シュヴァルツが弟妹に向かって一声鳴くとメランとアトルムが返事をして素早く駆けていった。
「グルルル……」
「ピギャッ」
「キュエッ!」
シュヴァルツが唸り、周囲を見回して未だに興奮している氷飛蜥蜴たちの頭を前足や尻尾で次々と叩いた。
「ガルル」
「「「ギュー……」」」
「あ、ありがとう、ございます。シュヴァルツ、サン」
クルト達は団長の従魔を呼び捨てにしていいのか迷いつつ相棒の興奮を抑えてくれたシュヴァルツに礼を言う。シュヴァルツは金色の目を細めて彼らから離れてアルベールの傍に集まった。
「……もしかしてカーラ嬢の命令か?」
「ガウ」
「悪いな。傍に居たいだろうに……」
「グルルル」
アルベールは瞬時にシュヴァルツたちの行動がカティシエラの指示であることを悟り、主人と共に居たいだろうに自分の護衛を任されたことに罪悪感を覚えるとシュヴァルツはその必要は無いと言いたげに喉を鳴らしてアルベールの手の甲に頭を押し付けた。
『あるじの番、守るの使命。アル守る、シュヴァルツ喜び』
「これって、念話?」
『魔力で話す。アル、あるじと波長一緒。話せる』
耳にはグルルというシュヴァルツの鳴らす喉の音しか聞こえないが頭の中には片言ではあるがシュヴァルツのまだ幼さの残る声が届く。
「義兄上?」
「嗚呼。すまない。シュヴァルツと念話をしていた」
「本当に姉上と魔力波長が同じなんですね」
「流石兄さん!俺も早く本契約してぇな」
カイアスとレイアスが感心しながら傍に居るネロとノワールの頭を撫でようとして嫌そうな顔をされたので手を引っ込めた。
「念話の事は置いて置いて、これからどうするか……」
「ここから迎撃するしかないですよね。下に降りるのは危険すぎますし」
「だな。あんまり長引かせるとこっちも被害が出る」
「カーラ嬢が九頭毒蛇を抑えているうちにこっちも片づけたいな」
壁の上からの迎撃は魔法使いたちができるがいくら辺境の魔法使いたちが魔力を多く保有していると言われても人の身体に収まる程度の魔力なのでいずれ限界が来る。大規模な魔法を使えばすぐに魔力が枯渇することは誰もが分かっているので壁上からの迎撃以外の手段を考える必要があるがいい案が浮かばない。
「シュヴァルツ、カーラ嬢は今何をしてるんだ?」
『あるじ考えてる。蛇の声煩いから。しないように仕留めるって言ってた』
「なるほど……あの音は九頭水銀毒蛇の絶命の時の声だったのか……」
『死ぬとき、自分より弱い奴狂わせる。シュヴァルツもリュカ様もリーリア様も強いから平気。でもみんな違うからこっちで待機』
カティシエラがいるあたりが静かになっていることにアルベールはシュヴァルツに尋ねるとシュヴァルツは自分がわかる範囲の情報をアルベールに必死に伝える。そんなシュヴァルツからもたらされた情報に納得しながらアルベールはリーリアが誰なのかを後で聞こうと頭の片隅にメモをした。
カティシエラは九頭毒蛇も同じような効果を持つ声を持っていると仮定して仕留める方法を考えているのならアルベールたちが考えるのはやはり狂う可能性のある魔物の数を減らすことだろう。
「レイ。スタンピードで集まってた魔物はどういうのが多い?」
「ゴブリンとコボルト、オークとオーガばっかだな」
「ウルフ種とかディアー、ラット系は?」
「森住の奴らは逃げたみたい。今森に溢れてるのはダンジョン産ばっかりだから死ぬと死体が残らないで魔石と素材が落ちてるだけだから回収自体は楽だったよ」
「じゃあやっぱり素材の回収はできたらした方がいいのか」
レイアスからの情報を貰いながらアルベールは考える。
「ロベールさん。防壁の扉って二重扉でしたっけ?」
「嗚呼。どちらも魔鋼鉄製だから一枚でも鬼水牛の突進を防げる」
「ありがとうございます。カイ、防壁内って汚しても大丈夫?」
「問題ありません」
「ありがと。アンリエッタ、カーラ嬢から結界札ってもらってたりする?」
「ありますし、ここに常備もあるはずです」
アルベールは自分たちの持つ手札を確認し情報を精査してスタンピードからルーヴェルの領地を守る手段を考案する。
王城でしていたことと変わらない。情報を集めて手札を揃えて自分が望む方へと道を作る。使える手を尽くして、習った基礎をもとに応用して道筋を立てていく。相手は人ではないが王城でやっていたことと何ら変わりない。
「なるほど。確かにこれならこちらの負担は少なく討伐ができるでしょう」
「いいと思います」
「流石兄さん!」
アルベールの立てた作戦にロベールもカイアスも賛成し、すぐさま準備に取り掛かるカイアスとレイアス、騎士や冒険者たちに説明に行ったロベールを見送ったアルベールはふと視線をカティシエラがいる方向へと向ける。
「……」
話し込んでいる間に日は大分陰って辺りには篝火が焚かれて防壁の屋上を煌々と照らして森の影が濃く揺らめいている。
淡い光のヴェールの向こうに血走った目がこちらを見上げて吠えている。
血に飢えた獣の目。ただこちらを餌としか見ていない数多の目にぞくりと背中が震えたが、カティシエラと共に歩むのならばこれからもこの目と声に立ち向かわなければいけないのだと自分を奮い立たせたアルベールはしっかりと魔物を睨み返して作戦の準備に取り掛かった。
「じゃあ、始めますか!」
「レイ、無茶するなよ」
「おう!」
アルベールが考えたのは結界札を使った魔物分断作戦だった。
今の戦力での森の魔物を全てと正面からやり合うのはこちらが負けることが目に見えているので正面から討伐するのではなく結界札で魔物を小分けにしてこちらが有利なフィールドも持ち込んで討伐するというものだった。
レイアスや身軽な冒険者や騎士たち数名が囮として結界内を逃げ回るために屋上から降りていく。
「じゃあカイアスは結界が弱ったところを見逃さないように」
「はい」
「若様、若様の結界札を張るタイミングが重要です」
「ああ。任せろ」
カティシエラが作った結界札は発動時に多少の魔力を必要とするが結界自体はカティシエラが札に込めた魔力で形成されるのでオーガの突進数百回は耐えられるという使い捨ての魔道具にするにはもったいない程の代物だ。そんな破格の結界札を大量に使い、アルベールは屋上から任意の場所に結界札を風魔法で張っていく大役を担うため大きく深呼吸をした。
「俺らの団長が命張って化け物と対峙しているんだ。俺らも命張ろうぜ!!」
「「うおおおおお!!」」
騎士たちの鬨の声が空に響く。
「勝って朝日見ようぜ!!作戦開始!!」
ロベールの声とともに作戦を始める。
レイアスがわざと破った結界の穴から魔物が入ってくる。ギリギリ倒せる量の魔物が入ったら一度結界を張り直し結界内で魔物を分断させて屋上から魔法使いたちが、地上では各個撃破で魔物を討伐していく。カイアスとアルベールは結界が破れないように監視し、結界内の魔物が粗方片付いたら次の結界を破って魔物を引き入れる。人を変え、場所を変えて魔物を倒す。ただ明日の平穏のためにアルベールたちは魔物を倒す。
「「「「「グルルル……ッ!!」」」」」
「「「ギュイィィィ!!」」」
アルベールの傍に待機していたシュヴァルツたちや氷飛蜥蜴たちが急に威嚇するように唸り出した。
「シュヴァルツ?まさか、またスタンピードか!?」
『違う!熊だ!!逃げて!!』
「熊!?」
「は!?熊!?―――全員退避ッ!!」
シュヴァルツの声が唯一聞こえるアルベールが鸚鵡返しに口にした言葉にロベールは目を剥いて吠えた。
「「「―――っ!!??」」」
真っ白な巨体が夜の森を突き抜ける。
こちらが苦戦していた数多の魔物など木の葉のように蹴散らし結界に突進してくる白銀の巨体が屋上からよく見えた。
「若!カイ!持ってる札全部使って結界張れ!!」
ロベールが言う前にアルベールもカイアスも、屋上にいた全て魔法使いたちが結界札に魔力を通して投げつける。ただ自身の直感に従って生き残るための行動をとる。
「グオオオオオォォォォォ!!」
「っ!?」
「くっ!」
びりびりと肌を突き刺すような咆哮一つで多くの魔物を吹き飛ばし、幾つもの結界を弾き飛ばしてアルベールたちに恐怖をぶつける真正の暴力。
「っ!あれが、弩級のっ!!」
災害級の上。冒険者ギルドが定めた討伐推奨ランクの上から二つ目。伝承ではなく実在する災害の最上級。それが弩級。この階級で一番に名前が挙がる魔物が「白銀の悪夢」、白銀の狂熊。
物理耐性と魔法耐性の高い白銀の毛皮に鋼鉄の盾すら紙のように切り裂き噛み砕く鋭い爪と牙。その巨体からは想像できない程の速度で走り続けられる強靭な脚とスタミナ、一度狙った獲物は死ぬまで追い詰める嗅覚と執着性に邪魔者はなんであれ排除する凶暴性を兼ね備えた最悪の魔物。それが白銀の狂熊という魔物だ。
アルベールたちの方が屋上から見下ろしているはずなのに反対に上から踏み潰されているような錯覚を起こさせるほどの魔力で威圧してくる暴力の権化に手足が震える。
一息でも動けば喰い殺される想像が簡単に頭をよぎり奥歯が震える。
目だけは白銀の死神から離さずに息を潜めるアルベールたちの方へとその悪夢は一歩、また一歩と近づいてくる。
オーガの突進数百回は耐えるはずの結界を爪の先で払うように簡単に壊し、防壁へと近づく死神の鮮血のような赤い瞳がレイアスを捉える。
「―――っ!?」
声が出せない。本当に怖い時は悲鳴など上げることが出来ないことをレイアスは初めて知る。初狩で雪虎を狩ったことで怖いことなどないと思っていたのに、その意識を一瞬で塗り替える恐怖に足が竦む。逃げなけばいけないのに逃げられる想像がつかないせいで足が動かない。
自分を捉える赤い瞳とゆっくりと開く大きな咢にレイアスは死を覚悟した。
「誰の弟に手ぇ出してんだクソが!!」
その声が白銀の狂熊の魔力を一瞬で払いのけて塗り替えた。
背筋が凍るほど重たい威圧ながらその魔力が故意に自分たちに危害を加えることがないことをルーヴェルに生まれた者たちは知っている。
レイアスの首に掛けられていた死神の鎌を蹴り飛ばし、アルベールたちの金縛りを振り払った白銀の後ろ姿に視界が滲む。
華奢な見た目の彼女が持つには不釣り合いなほど大きな戦斧を軽々と操り、レイアスたちとその悪夢の間に割って入ったカティシエラは己の血に濡れた髪をかき上げて、ゆっくりと周囲を見回して口角を上げた。
「よく頑張ったな。―――後は任せな」
一瞬で間合いを詰めた白銀と白銀がぶつかり合う。
刃と爪がぶつかるたびに衝突する魔力が暴風となってアルベールたちの目を塞ぐ。
一瞬目を閉じた瞬間にカティシエラの頬に一線の赤が引かれ、白銀の狂熊の爪が吹き飛ぶ。
怒りより一層凶暴化した白銀の狂熊が吠えるて周囲を吹き飛ばす。そんな白銀の狂熊の顔をめがけカティシエラは魔法や投擲武器を投げつけて相手の気を引きつけながら戦斧を振り下ろす。
「グオオォォッ!」
「っ!」
カティシエラは攻撃を躱すが白銀の狂熊は自身の毛皮で刃を滑るように弾き飛ばす。その毛皮の性質にカティシエラは小さく舌打ちをして一旦距離を取る。
カティシエラのマントも同じ毛皮だが生身の魔物と素材になったものでは性能が変わってくるようでいくら付与魔法で底上げしても本物の毛皮には遠く及ばないために躱したはずの爪撃が掠って腕や足に傷が出来始めていた。
「ま、アンタを殺すのは私じゃないけど」
「グオォォォォオオオッ!!」
止まったカティシエラに今度は白銀の狂熊が攻め込む。
強靭な前足を大きく振りかぶり避けなければ爪でズタボロに、避ければ地面が割れて飛び散った石が視界を狭める。カティシエラは瞬時に判断して戦斧を下から滑らせて爪にぶつけて自身の身体を宙へと逃がし、白銀の狂熊の背後を取った。
視界から消えた獲物を探し、白銀の狂熊の動きが一瞬止まったのを見てカティシエラは琥珀色の瞳を歪めた。
「獲った」
誰の耳にも聞こえないその言葉が紡がれた瞬間、防壁に居た全ての人の視界が白く焼けた。
真っ白になった視界、その次に響いたのは大地を割るような雷鳴。
全ての音を飲み込んだ轟音の中、絶命した白銀の狂熊の上に立っていたのは紫電を纏った白銀の巨狼、リュカだった。
「クォーン……クォ―ン……」
十年前の雪辱を果たした勝鬨はとても悲しい声だった。
白み始めた空に向かって吠えるリュカの声が森に響き、森に溢れていた殺気が波を引くように消えていく。
「お、終わった……?」
防壁内に吹き飛ばされつつ、最前列で白銀の攻防を目撃する羽目になったレイアスがのろのろと顔を上げて姉に尋ねる。
血埃に汚れながらも美しいと思える顔でカティシエラは頷いた。
「よく頑張ったね。ルーヴェルの勝利だ」
「お、お、終わったあああっ!!」
「「お、お、おおおっ!!」」
レイアスの声が周囲に伝播していき防壁全体がやっとスタンピード終息に安堵の勝鬨を上げた。
一晩の死闘を乗り越え皆が抱き合い勝利を喜び合う中アルベールは防壁を駆け下りてカティシエラの元へと向かう。
言いたいことはたくさんあった。言わなきゃいけないこともある。でも今は、何よりも、カティシエラを抱きしめたかった。
たった一人で巨大な魔物と戦ったカティシエラの無事を確かめたかった。
「カーラ!」
「……アル様」
カティシエラの華奢な身体がアルベールに腕の中に囲まれる。
血の匂いのする首筋に顔を埋めてアルベールはカティシエラの熱を感じて目頭を熱くさせた。
「生きてる……」
「ははっ。びっくりさせたね」
「……よかった。本当に、」
「……こんな恐ろしい領地に連れてきてしまってごめんね」
「ちがっ!」
アルベールはカティシエラに謝ってほしいのではない。
がばりと顔をあげたアルベールの頬をカティシエラはそっと撫でた。
「……アル様。好きになってしまってごめんなさい」
「は?」
「幸せになってね。アル様」
アルベールの瞳一杯に映ったカティシエラの綺麗な笑顔がずるりと頽れる。
「カーラ?カーラッ!?」
頽れたカティシエラと共に膝をついたアルベールは自分の手にべったりとついた赤にアルベールの顔から血の気が引いた。
「カーラ!嫌だ!逝くなっ!戻れよっ!戻れ!」
黒い服を重たくさせる血を戻さなければカティシエラが死んでしまう。患部に手を当てて自身の治癒魔法を発動させようとして激しい目眩にアルベールは蹲る。
「ぐあっ!!」
一晩中魔法を使ったアルベールの身体の中にはもう魔法を発動させられるほどの魔力は残っていなかった。それでも無理矢理魔法を発動させようとしたことで体が生命維持に関わる危機を感じて強制的に意識を落とそうとしているのだがそれに抗い魔法を発動させようとするせいで身を裂くような激痛にアルベールは呻いた。
「兄さん!姉さん!!」
「治癒班早く!!」
勝利に沸いた場が一転、騒然となる中でアルベールは自分の命から削り出した魔力をカティシエラに繋ぐ。周囲の声が遠のいて行く中で、アルベールは只管カティシエラの中にある熱に縋りつく。この熱を手放してはいけない。この柔く温かい熱が冷めたとき、もう二度とカティシエラと会えなくなることを本能で察したアルベールは気を失おうともカティシエラの熱を掴んで離すことはなかった。
「このような辺境にご足労頂き誠にありがとうございます。本来であれば我々の方がお伺いしなければならなかったのにこのようなことになってしまい、本当に申し訳ありません」
「いいのよぉ。男の子なんてちょっと怪我があるぐらいなんてことはないわぁ。むしろうちの馬鹿息子がそちらの御令嬢に不埒なことをしてしまったようで……煮るなり焼くなりお好きになさってくださいな」
「いいえ。そんな。うちの娘にはもったいないほど素晴らしい令息で申し訳ないです。令息がいなければ私は娘の晴れ姿を見ることは叶いませんでしたので願ってもいない幸運です」
「待って母様。私まだ結婚してない」
「アルベールさん以外に誰が貴女みたいな馬鹿魔力娘を貰ってくれるって言うのよ。どんな手を使ってもいいからちゃんとアルベールさんを捕まえておきなさいね」
「そうね。私からもお願いねカティシエラさん。貴女がいないとうちの子襤褸雑巾にされちゃうわ」
華やかな声が聞こえる。
アルベールは暗闇の中で目を覚まし、どこか遠くから聞こえる華やかな声に耳を傾けていたが好き勝手言われていることに反論しようとして身体が全く動かないことに首を傾げた。
なんで体が全く動かないんだと首を傾げたアルベールはふと右手に触れる柔らかな熱に何かとても大事なものを忘れているような気がしてその熱に縋る。
この熱だけは手放してはいけない。蜘蛛のように絡め取って竜の巣の奥に仕舞い込んでしまいたいほど大切な者だ。その熱をもっと、手だけではなく全身で感じたいと思えば身体は自由に動いたので遠慮なく手繰り寄せる。
「ちょっ!ア、アル様!!御母上の前ですよ!!」
「あらあら!」
「まぁ!私たちはお邪魔かしらねぇ。エリシエラ様、私たちはお茶でもしましょうか」
「ええ。喜んで。ルクレンツィア様は帝国茶はお好きですか?この間秋摘みの茶葉が届いたのですがいかがですか?」
「まあ!それは幻のお茶ではなくて!?」
少女のように華やかな二つの声に早くどっかに行ってくれないかなと柔い熱を抱きしめながらアルベールは唸り、心地よいところを探す。
「アル様!?起きてるでしょ!?」
「情熱的ねぇ。この子こんなに執着心が強かったのねぇ」
「じゃあアルベールさんが起きたら春迎会に出る衣装の打ち合わせしなさいね」
「ちょっ!?嘘でしょ母様。この状態で未婚の娘見捨てていくの!?」
「早めに決めなさいね」
二つの足音が出ていくと途端に静かになった中でとくとくと少し早い小太鼓を叩くような心地よい音がよく聞こえた。
「はー……。アル様も馬鹿だよねぇこんな化け物女助けるなんてって、痛い痛い!背骨が折れるっ!!」
不愉快な発言が聞こえたのでアルベールは聞きたくないとばかりに腕に力を入れれば、パタパタと背中を叩いて降参する熱に仕方なく腕の力を抜けばその熱は何とも言えない戸惑いを見せながら一つ息を吐いた。
「うん。まあ。助けてもらった側が文句言うことじゃないんだけどさ。こんな魔物屠るしか能のない女よりも王都の方がいい人いっぱいいるのになんで、あんな命賭けるような危ないことしたかなぁ。私が無駄に魔力持ってる体質じゃなかったら一緒に死んでたかもしれないのに……」
そんなの決まっている。置いて逝かれたくない。ただそれだけだ。なんでこの熱はそれが分からないのだろう。あんなにも大切に思っていたのが何も伝わっていないということに腹立たしさを感じて目の前の柔らかい熱を食む。
「んっ。ちょ、流石に婚前交渉は怒られるよ」
自分の物を食べて何が悪いんだと憤慨するアルベールの髪がさらりと撫でられる。
アルベールの髪を撫でる細くしなやかな熱がゆっくりと形を保ち、指に変わる。白い指から細い腕とその熱が実態を保ってアルベールの前に現れる。
そうだ。カティシエラだ。彼女を失いたくないと彼女の熱と自分の熱を繋げたのだ。
「お?そろそろ意識がはっきりして来たかな?アル様ー?」
「カーラ……カーラが嬉しいことと言ってほしくないこと言った」
「んあー……覚えてるぅ……」
「あと、カティって呼びたい」
「どこでそれ聞いたのよぉ恥ずかしい」
辺境伯夫人や年上の領民たちは結構な頻度で呼んでいた可愛らしい呼び名。カーラよりも少女らしい呼び名を呼んでみたいと思っていたのを思いっきり甘えて聞いてみればカティシエラは白い肌を赤く染めて恥ずかしがるが嫌がってはいないようだ。
「好きってだけ言って。幸せになってじゃなくて一緒に幸せになるんだよ……。ごめんて何?なんで好きになったこと謝んだよ」
「アル様、アル様」
「様もいらない」
「我儘か。流石に公爵家の方を呼び捨てはまずいよ」
「婿入りするから問題ない」
ひと月の間アルベールから詰めようとした距離をカティシエラが塞いでいた壁を取り除く。
ぐりぐりと肩に額を押し当てて甘えれば押し切れそうな雰囲気にアルベールは勢い良く体を半回転させてベットと自分の身体の間にカティシエラを閉じ込めた。
「ひぇっ。優男がいきなり雄み出してきたっ」
「こういうギャップがいいんでしょ?」
「どこ情報」
「カイとレイ」
「しばこうかなあの双子」
姉を揶揄って遊ぶ双子にイラっとしたカティシエラの頬をアルベールが撫でる。
「ベッドの上で他の男のこと考えるとか怒るよ?」
「ヒェッ」
アルベールが頬を撫でながら目を細めるとカティシエラは真っ赤になりながらきゅっと小さな身体をさらに縮こませた。
男でも振り回せないような戦斧を易々と振り回していた時とは全く違う姿にアルベールの方がギャップにときめきながらアルベールはカティシエラの頬や唇に触れる。
「カティ好きだよ。偽装婚約じゃなくて俺を本当の伴侶にして」
「プロポーズが病み上がりのベッドの上……」
「ちゃんとしたのは後で場所選んでもう一回するけど、今は約束が欲しい。魔法契約か既成事実がいいけど取り敢えず偽装じゃないっていう約束が欲しい」
カティシエラを抱きしめ、彼女の肩に顔を埋めながらアルベールは懇願する。
身も蓋もないあけすけな言葉ではあるがアルベールの本心であることはカティシエラには十分伝わったのでカティシエラはアルベールの肩に手を回してアルベールの鳶色の髪を撫でる。
「アルさ、アル。あの、私も、好きです……。その、今は、それで勘弁してください……」
火照った顔を見られたくなくてカティシエラはアルベールの肩に同じように顔を埋めながら囁くように言う。あの時はもう最期のつもりだったので平然と言えたが改めて言うとなると恥ずかしくなり、アルベールに見られないようにぎゅっと抱き付くがアルベールの目には真っ赤になった耳が髪の隙間から見えていた。そのまま既成事実に持ち込めないかなと不埒なことを考えながらアルベールはカティシエラを抱きしめながら寝っ転がる。
「はー。ま、今はそれでいいや」
カティシエラを抱えたまま寝っ転がったアルベールは血の匂いと冷たくなっていく体温の記憶を上塗りするためにいっそう深くカティシエラを抱きしめて彼女の香りに意識を集中させる。
「アル、あんまり嗅ぐのは辞めてもらえないか、な……?」
「駄目。血の匂いが残ってるんだ。だからまだ駄目」
「血の匂い……」
「初めて抱きしめたときの匂いが血の匂いだし、冷たくなっていく体温って結構トラウマなんだよね」
「それはまことに申し訳ない」
「じゃ、暫くこのままね」
反論を潰せばカティシエラは大人しくアルベールの腕の中に納まる。大人しくなったカティシエラの背中に指を這わせながらアルベールは口を開ける。
「俺の親、来てるの?」
「先ほど到着したんだ。療養先で昏睡させるようなことになってしまったお詫びに行ったら一緒に来るって言われたらしい。馬車は要らないから騎獣に乗せてくれと、カイアスとアンリエッタが驚いていたよ」
「あー。俺が手紙で自慢したからかな。羨ましくなったのかも」
珍しいものが好きな親たちの行動に苦笑する。
「聞こえていたのか?」
「なんとなく、かな。言葉は頭に入ってくるんだけど言葉として理解できない感じだったし、体も思い通りに動かなくてさ」
「三週間も寝てればそうなるわなぁ」
「俺、そんなに寝てたの?」
ひと月近く眠っていたことにアルベールが驚くとカティシエラは少し気まずそうに頷いた。
「ごめんね。アルが三週間も寝てたのは私が原因なんだ……」
「カティが原因?」
「あの時、アルは生命力を削って魔力を作ったでしょ?でも私の怪我を治すのには到底たらなかった」
「そうだったね」
アルベール自身あの時はカティシエラの怪我を治すことに必死過ぎてどうやって魔力を作り出したかなどほとんど覚えていないが確かに体がめちゃくちゃ痛くなったのは覚えている。痛かったがそれよりもカティシエラに置いて逝かれるのが嫌だったので先のことなど考えていなかった。
「たらなかったんだけど、私の中にはまだ魔力があって、それに繋がっちゃったんだよね。アルの魔力が」
「え?てことは俺、今カティと魔力を共有してるってこと?」
「共有はしてないんだけど、魔力の繫がりが出来ちゃって今仮契約状態なんだけど『結魂契約』ていう魂を結ぶ契約が成立しちゃってるんだよね。そのせいで私とアルの魔力誤差をなくすためにアルの身体が頑張って魔力を溜める器を大きくしちゃったせいで魔力不足で今まで眠ってたんだよね」
「待っって。情報が多い」
アルベールは思わずカティシエラの話を止めた。
「『結魂契約』って王族特有の魔法契約だよね?クソ重執着系リアル死ぬまで一緒魔法。なんで王家でもない俺らが契約しちゃってるの?」
「ルーヴェルもグラシエも王家の血が多少入ってるから多分、そのうっすらとした血が無意識に共鳴して発動したんだと思う。本来なら発動することはなかったんだけど、極限状態でって感じかな。あと私がリュカたちとも交わしてるから魔力の道が作りやすかったのが原因かな」
グラシエ公爵家もルーヴェル辺境伯家もどちらも歴史ある貴族家なので王家との繫がりはそれなりにあるはずだったがまさか王家の魔法が発動するとは思ってもいなかった。
「え?リュカたちとも結魂してんの?」
「一番魔力交換率がいい魔法だから交わしてるけど、」
「浮気か?」
「他種族に恋愛感情は芽生えないよ。ただの親愛」
「カティの愛情が俺以外にあるの嫌なんだけど」
「心狭いなぁ。リュカたちは家族枠だよ。アルとは愛情の枠が違うから許してよ。恋愛枠はアルだけだから」
なんで浮気男のような言い訳をしているのだろうと思いながらカティシエラは不貞腐れるアルベールの髪を撫でる。
カティシエラ自身十八年の間にした恋愛などアルベール以外ないので恋愛のイロハを知る訳ではないがアルベールに向ける感情を他の人にも向けることが出来るかと聞かれたら無理だと答える自信だけはあった。
「こんなこと言ったら嫌われそうなんだけどさ、アルが私の知らない令嬢と幸せになるくらいならアルの中にでっかい傷付けて死んでやろうかなって思ったんだよね。あの時」
「……酷い女だなぁ。あんな綺麗な顔見せられたら俺もう二度と他の女の顔なんて見れないの分かっててあんな呪いを吐いたんだ」
「だから謝ったじゃん。ごめんねって」
「ごめんに集約しすぎ」
「ごめんね?嫌いになった?」
くすりと笑うカティシエラにアルベールは唇を尖らせる。
「嫌いになれそうにないから嫌になるね」
「そっか」
「まあ安心してよ。俺、カティ以外と幸せにはなれないから。責任持って幸せにしてね」
「責任重大だなぁ」
「大丈夫。俺もカティを幸せにするから」
「じゃあ一緒に幸せになろうね」
くすくすと額を合わせて笑い合うアルベールとカティシエラの唇が自然と重なり、だんだんと深くなっていった。
「……んッ。ふぁ、」
「はー……、かわいい……」
欲情を宿した蒼い瞳がカティシエラの一挙手一投足を逃さないと言いたげに見つめる。
愛おしさと色欲が混ざり合った瞳を見上げてカティシエラはゆっくりと口角を上げてアルベールの頬を撫でて受け入れた。
*****
ガタガタと揺れる車内でカティシエラはいつもよりも小さくなるような勢いで固まっていた。
「カティ大丈夫か?」
「……」
「馬車が苦手だったとはなぁ」
魔物を乗り回すのは得意なカティシエラだったが常に揺れているような馬車は苦手だったようで喋ることもできないほど硬くなっている様子に苦笑しながらアルベールは目的地を見上げた。
まだ肌寒いこの時期に催される王家主催の新しい年の春を迎えるためのパーティー、それが「春迎会」で、前年十八の成人を迎えた者はこのパーティーに出席して晴れて一人の貴族として認められる重要なパーティーだ。
領地に引き籠っていることの多い地方の貴族でも成人を迎えた者は必ずこのパーティーに出席しなければならないため、まだ雪が解けず他領に行くのは簡単ではないルーヴェルからカティシエラとアルベールは王都に出て来ていた。
煌びやかに夜空すら霞んでしまうほどの光源で浮かび上がる王城、つい数か月前まで身を削ってまで詰めていた場所である日突然全てを失った場所。
見るのも嫌だと思うぐらい憎く思えた王城だが今は何の感情も沸いてこない。ただひたすらルーヴェルと比べて騒がしいとしか思わない自分にアルベールはこの場所に自分の感情が全くなく自分の居場所はルーヴェルでカティシエラの隣だけなのだと実感していれば馬車はパーティー会場に着いた。
「さ、お手をどうぞ。俺のお姫様」
「……アル様、揶揄ってます?」
「いや。浮かれてるだけだ」
自分の色を纏い、誰が見ても美しいと感嘆を漏らすほどに着飾ったカティシエラの隣を歩ける立場が自分だけということにアルベールは楽しそうに口角を上げた。
「……こういう格好の方が好きか?」
「カティはどんな服でも可愛いから好きな服を着ればいい。まあ俺がいないときに着飾るのは駄目だけど」
禁欲的な騎士服でも華やかなドレスでも時々見かける野良服でもカティシエラが纏っているのなら何でも可愛く見えるアルベールは自分がいないときに男を誘惑するような美しい恰好だけはしないで欲しいだけで彼女の自由を束縛する気は全くなかった。
「俺としては脱がせやすい服が好き」
「っ!?バッカッ!!往来で何言ってるのよっ!!」
「ナニ想像したのかなカーラちゃん」
「――――ッ」
エスコートのために腕を組んだカティシエラの耳元で揶揄えば白磁の陶器のような肌を赤く染めたカティシエラの琥珀の瞳がアルベールを睨み上げる。
「問題ないよ。何も」
「……、」
「俺の居場所はカティの隣だ。どこにも行かないし、行くつもりはない。だからそんなに緊張しなくていいよ」
魔力と魂を繋げた死ぬ時まで一緒にという呪いとも取れる契約魔法を成立させたゆえにカティシエラの感情の一部が流れ込んでくるので彼女が緊張していることはアルベールにも伝わっていた。自分以外の事に気を使ってほしくないアルベールは彼女の意識を見事に自分の方に向けられたことに満足して顔の赤いカティシエラを連れて王城へと足を踏み入れた。
「アルベール・ウィリアム・フォン・グラシエ様、ならびにカティシエラ・ギゼル・ルーヴェル様ご入場」
会場への扉が開くと既に入場していた貴族たちの目が一斉に向く。
北の辺境領から出ず全く姿を見せない噂の「狂熊令嬢」と王女との婚約が破棄になった元王配の公爵令息の入場に皆が興味津々と目を向けて多くの子息令嬢は頬を赤らめて、固まった。
黒を基調に銀糸で飾られた正装を身に纏った美しい青年が愛おしげにエスコートするのは青いグラデーションのドレスに飾られた銀氷の美少女だ。
動いていなければ精巧に作られた人形のような整った顔立ちをした美しい少女に令息たちは息を飲んだ。
「アル様見てる人多いなぁ」
「男共が見てるのはカティだろ。あ、そう思ったらムカついて来た。見せたくないから帰ろうかな」
「帰りたいけど、来て早々に帰ったら怒られるからもう少し頑張ろう。嫌だけど」
煌びやかな空間を好まないカティシエラがアルベールを励ますように自分を励ましながらそう言った。
アルベールたちの後にも数組が入場して国王をはじめとする王族が会場に入り春を迎えるパーティーは始まった。
「ルーヴェルの美しい花、よろしければ私と一曲」
「ええ。喜んで」
アルベールの手を取ってホール中央へと進み出る。
手を取りアルベールの肩にカティシエラが手を掛け、カティシエラの腰をアルベールが支えると二人の衣装に施された銀糸がまるで一つのものであるように揃う。
音楽に合わせて楽しそうに踊るふたりの姿に多くの人たちの目が引き付けられていく中、王女は自らのパートナーには目もくれずにアルベールとカティシエラを睨みつけていた。
「チッ!あの女ァッ!」
「アルベールのことなんてもうほっときましょうよ。机仕事しかできない奴ですよ?」
「アンタは机仕事すらできていないじゃないっ!顔だけしか取り柄がないんだから笑って私を褒めてればいいのよっ!このグスがッ!!」
「――っ!」
王女がパートナーの令息の足を踏みつけて乱暴に踊る。真っ赤なドレスが荒々しく揺れるのを視界の端で眺めながらアルベールとカティシエラは小さく息を吐いた。
「アル様、十二年もよく耐えましたね……」
「よく耐えられたなぁ俺」
婚約して十二年。初めの頃は彼女のパートナーとして同年代の茶会などにも出席していたが舞踏会に出れるような年齢になる頃には彼女の周りには見目美しい令息が集まり、日によって違うパートナーを連れてパーティーに出るようになっていた。
「今思えば俺も彼女を伴侶と見ていなかったんだろうなぁ」
同年代で偶々国王の目に留まったが故に選ばれて王配として教育を受けただけ。義務のように、仕事の一つのように王女の隣に立っていた。だから彼女が自分でない男とパーティーに行こうが自分が贈ったドレスではないドレスを纏っていようが全く気にならなかった。
「ま、捨ててくれたおかげでカティに出会えたから、それだけは感謝してるよ」
「そうですか……もう他の方を思うのは終わりましたか?」
「っ!?」
一瞬カティシエラの顔がアルベールに近付いて蠱惑的に微笑んだ。
ヒールの高い靴のお陰でカティシエラの顔がいつもよりもアルベールと近いことにドキリとする。
「悋気の気はあまりない方だと思っていたけど、自分の伴侶が他の女を思うと些か不愉快に思うぞ?」
「そう思って貰えたなら俺はアンタにそれなりに思って貰えてるってことだな」
嬉しいねとアルベールが心底嬉しそうに笑うのでカティシエラは毒気が抜けたように肩の力を抜いた。
「そんな笑顔になるなら妬いた意味ぐらいはあったかな」
「妬いてくれたのは嬉しいけど、そういう顔はふたりだけの時にしてほしいな」
「……アルの、えっち……」
「―――っ!?」
すぐに押し倒せるベッドじゃないのが悔やまれる。アルベールは真剣な顔をしながら速攻で屋敷に戻る方法を考えながらダンスを終えた。
「アルベール!!」
ダンスの音楽が切り替わるほんの一瞬の無音に響いた金切り声にホールが静まり返った。
「アンタはあたくしの婚約者でしょ!!何故そんな女と踊っているのよ!!」
「……王女殿下。貴女との婚約はもうすでに破棄されています。私が誰と婚約を結ぼうとも貴女には関係のない話なはずです」
「じゃあまた婚約してあげるわよ!!」
「婚約破棄は国王陛下も承認されています。覆すことはできません」
金切り声をあげながらアルベールに詰め寄ってきた王女にアルベールはカティシエラを隠すように背後に庇いながら毅然と対応すると王女は顔を赤くして震え出した。
「うっさい!煩いわよ!!アンタはあたくしの言うことだけ聞いてればいいのよ!!歯向かうんじゃないわよ!!あたくしはこの国の王太子よっ!!」
「王女!!」
逆上した王女が素早く詠唱をして大きな炎の魔法を発動させたことにアルベールを含め周囲にいた令息令嬢たちは青ざめ逃げようと身を翻し、王女の魔法を止めようと詠唱をし出した貴族とぶつかり合い会場は一瞬で混沌と化した。
「―――王女殿下。流石にそれは危険です」
アルベールの後ろからすり抜けたカティシエラが無詠唱のまま王女の魔法を握り潰した。
カティシエラの手の中で白煙を上げて消えていった炎に会場が水を打ったように静まる中、カティシエラは消えていく魔力の残滓を振り払いながら唖然とする王女を見据えた。
「っ!?アンタが―――」
「いい加減にしないかローゼスメリアン!!」
王女が吠えかけた声が威厳のある声にかき消された。
側近も見たことがない程怒り満ちた顔の国王が王女を睨みつけていた。
「政務もまともにせぬそなたを王太子には認めぬ」
「なっ!?ちがっ!!あたくしはっ!アイツよ、アイツが仕事を引っ掻き回して出て行ったのよっ。だからわかんなくなっちゃってるだけで……っ」
「いい訳はよい。そなたが昔から嫌いな物を遠ざけるたちなのは気が付いていた。アルベールのようなものが傍におれば少しはまともになるかと思っていたが……王命を無視した婚約破棄に冤罪を擦り付けるなどあってはならん事だ。そして此度の騒ぎ、そなたに王太子の資格はない。離宮にて頭を冷やしてこい」
国王が衛兵に命じて王女と彼女の取り巻きの令息たちが退出させられた。
「喜ばしい宴の席で身内の醜態をさらすような真似をしてしまって済まないな。あの子の事を忘れて楽しんでくれとは言い辛いので、少し早いが発表しよう。リーンハルト。こちらに」
国王が一人の青年を壇上に呼んだ。
黒に近い青色の髪に灰銀の瞳の端麗な容姿の青年に多くの令嬢が頬を赤らめて、こんな青年がいたのかと首を傾げた。
「こやつを見たことがない者も多かろう。儂の弟の末の息子、リーンハルト・アゼル・フォン・エレンシアだ。リーンハルトを王太子に立てることをここで宣言する」
国王の宣言にどよめきが生まれる。
王家の世継ぎは王女しかいなかったが国王の弟であるエレンシア大公には三人の息子がいたので彼らにも王位継承権が与えられていたが末の息子、一番継承権が低い存在が王太子になるとはだれも思っていなかったのだ。
「北の守護、ルーヴェル。国王陛下並びにリーンハルト王太子殿下に恭順を」
カツンッとヒールが大理石の床を叩く音でどよめきが引いていた中、カティシエラとアルベールが静かに恭順を示して頭を下げた。
「南の守護、アランデルハイト。同じく」
「西の守護、レーベンレール。同じく」
「東の守護、ウィスト。同じく」
カティシエラに続くように国を守護する辺境四家が頭を下げる。
基本的に国政に口を出すことのない辺境四家だがこの国で無視することのできない存在でもあった四家が異を唱えることなく恭順を示したことに全ての貴族が頭を下げ、王国に新たな太陽が誕生した。
「あー……やっと終わったぁ」
「お疲れ様」
人気のないテラスに出て大きく息を吐き出したカティシエラにアルベールは飲み物を差し出しながら労わる。
「随分と裏で動き回ってたんだな」
「そういう家だし。それができる能力があったからね」
王家の傍系を王太子に立てるための根回しのために連日リーンハルトに連れ回されていたカティシエラは自分の仕事がひと段落したことに満足げに目を細める。
「リートが王太子になればアルにちょっかいかけられることも無くなるしね」
「え?もしかしてそれが理由で王女の排斥したの?」
「いや。排斥案は元々あったんだよ。私は最後の根回しを手伝っただけ。王女がもう少し心を入れて政務に携わってくれていたらルーヴェルもエレンシアも何も言うつもりはなかったんだけどねぇ」
アルベールを返せと連日のように脅迫めいた手紙を寄こすようになった王女の行動にカティシエラが切れたことで動く気のなかった北の守護者が介入してあっという間に王女や彼女の取り巻き達の悪事が国王へと報告され、国王は即座に捨て国の安寧のために娘を切り捨てた。
「ま、贅沢しなければ離宮でも十分に暮らせるでしょう。陛下は娘を捨てることはしないだろうし」
今までと同じ生活はできないだろうけど誰もいない開拓地に放り出されるよりはマシだろうとカティシエラはのんびりと隣に並ぶ伴侶を見上げた。
「……」
「ん?どうした?」
「ん―……。何でもない」
首を横に振ってアルベールの肩にそっと頭を預けて目を閉じた。
「……」
「なに考えてるんだ?」
「ん―……?ユフィの母に読んでもらった夢物語」
人目のない場所とは言え自室でないところ甘えるような仕草をするカティシエラにドキリとしながらアルベールはその薄い肩を抱いた。
「どんな話?」
「好奇心旺盛なお姫様が道端で見つけた獣の手当てをしたら攫われちゃった話」
「それ、最後に王子が助けに来てお姫様と結婚するって感じか?」
「来るんだけど、お姫様王子様の手をひっぱたいて獣と一緒に死んじゃうんだよね」
「は?」
とんでもない結末にアルベールは思わずカティシエラの肩から手を外すほど驚いた。
幼い子供を寝かせるためにする物語は男の子なら冒険譚で女の子は恋の物語ではないだろうか。何がどうしてお姫様が死ぬんだ。寝物語でお姫様が死んだら悪夢じゃないか。
「やっぱりそう思うよねぇ。私も初めて読んでもらったときなんでってずっと考えて寝れなくなった」
寝物語で寝られなくなるなど本末転倒もいいところだろう。
「なんでお姫様は獣と一緒に死んじゃったのかを考えてた。マリエール、ユフィの母が読んでくれた絵本には獣とお姫様が出逢って崩れた城で暮らして王子様が助けに来て獣は戦って命を落として、お姫様も王子様の手を振り切って獣と並んで亡くなりましとしか描いてないからまあいろいろ想像したよね」
お姫様のバックストーリーも獣側のサイドストーリーも全くない短い絵本。
ただお姫様は楽しそうに崩れた城で獣と過ごす絵がとても可愛らしく、最後のページに月夜の花畑の中で静かに寄り添い幸せそうに笑い合う終わりをカティシエラは羨ましいと思った。
怖がられる獣が、最愛を見つけて、共に死ねる。なんて美しく羨ましい最期だろうと思った。
「誰とも一緒になることはできないと思ってたから、その絵本の獣が羨ましくなったんだよね」
「カティ……」
月明かりを紡いだような銀髪が風に揺れ、琥珀色の瞳がアルベールを見上げてゆるりと微笑んだ。
「私の最愛」
手に入るなんて考えていなかった。
望むことを忘れたふりをして箱にしまい込んで手の届かない場所に隠した夢を見せてくれる最愛の指に自分の指を絡めてカティシエラは微笑んだ。
「ルーヴェルに戻ったらその絵本見せて」
「喜んで」
アルベールはなんとなく自分がお姫様に感情移入するだろうなと思いながらカティシエラの唇に自分のを寄せた。
凍えるような冬を越えて春は咲き誇る。
春の匂いを乗せた風が雲を動かし、隠れていた銀の月が花咲き始めた庭園と幸せに笑う若き北の守護者たちを静かに祝福した。
お粗末さまでした。