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9話 決められた婚約者

「シル? どこにいるの?」


 ガブリエルは、真っ暗なシルヴェーヌの部屋へ足を踏み入れる。

 ロニーから渡されたランプの灯りを頼りに、奥へ奥へと進むと、寝室へ続く扉が半開きになっていた。


「シル、僕だよ。入ってもいい?」


 中から返事がない。

 騒ぐ心のままに、ガブリエルは扉を押し開いた。

 わずかな光にもきらめきを放つ金色のレースのおかげで、シルヴェーヌの居場所が分かる。


「シル……」


 シルヴェーヌは脱いだドレスに顔を埋め、ベッドへもたれるようにして床に座り、泣き疲れたのか寝息を立てていた。

 そろりと近寄ったガブリエルは、シルヴェーヌを襲った惨状を目の当たりにする。

 シルヴェーヌのこめかみは赤く腫れあがり、大事に抱き締められたドレスには、青いインクの染みが飛び散っている。

 そして眠りながらも、眦から止めどなく落ちてくる雫。

 ガブリエルの感情が、沸騰した。


「誰がこんなことを――」


 そっとシルヴェーヌへ近づき、零れる涙を口で吸いとる。

 頬に残った幾筋もの落涙のあとが、ガブリエルの心臓を締め付ける。

 

「僕にも、癒しの力があればよかったのに。シルの哀しみを、少しでも和らげてあげたい」


 ぎゅっとシルヴェーヌを抱き締め、そのまま持ち上げてベッドへ横たわらせる。

 シルヴェーヌの手からドレスを離し、それを腕に持ったまま、ガブリエルは静かに寝室から出た。


「ごめんね。僕がシルと一緒に居たくて、離宮に引き留めたばかりに、こんな目に合わせてしまって」


 ガブリエルのお気に入りに手を出すのはまずいと、思わせるだけの抑止力が自分にあればよかった。

 シルヴェーヌを護れないのならば、手元に置くべきではなかったのだ。

 ガブリエルには王妃という敵がいる。

 もしかしたら、シルヴェーヌのドレスを汚した令嬢たちも、王妃の差し金だったかもしれない。


「今のまま、シルを僕の婚約者にしたいと願うのは、危険ということか」


 そう独り言ちて、ガブリエルは自分の部屋へと戻った。

 そこに待機していたロニーは、ガブリエルからシルヴェーヌの状況を聞いて憤る。

 ガブリエルが持ち出したドレスには、たっぷりと青いインクが染み込んでいて、とても元に戻りそうになかった。


「シルの思い出のドレスになるはずだったのに……ロニー、何とかならない?」

「染み抜きを試してみますが、駄目だった場合は作り直しましょう」

「同じものが作れる?」

「何かあったときのために、レースなどのパーツは予備が用意されているのです」


 ロニーの言葉に、ホッと胸を撫で下ろすガブリエル。

 ドレスの件はこれで解決したが、根本的な対策を練らなくては、いつまでも王妃からの嫌がらせを受けるだろう。


「あの人を何とかしないと。このまま思い通りになって、たまるものか」


 しかし王妃は、すでに次の一手を打っていた。


 ◇◆◇◆

 

 ガブリエルのいなくなったパーティ会場では、隣国の皇女ブリジットと王妃が、ひそひそと密談を交わしている。


「愚息が、ブリジット皇女殿下のお眼鏡に適って、光栄ですわ」

「とても素敵な方だった。物語の中の王子さまみたいに、キラキラしているんだもの」


 上機嫌で、熱くガブリエルについて語るブリジットは、まだ14歳の少女だ。

 巻いたピンク色の髪を指でいじり、金色の瞳をうっとりと潤ませている。

 きっと、先ほどまでダンスの相手を務めていたガブリエルを、頭の中で思い出しているのだろう。

 

「わたくし、ガブリエルさまと婚約してもいいわ」

「もったいないお言葉を、ありがとうございます。すぐに条件について話し合って、取り決めを結びましょう」


 プライドの高い王妃が、へりくだるのには訳がある。

 ブリジットの生まれたカッター帝国は、大陸の中でも一、二を争う強国なのだ。

 この縁がまとまれば、ゲラン王国のみならず、斡旋した王妃の祖国も大きな後ろ盾を得る。

 だがそれ以上に、ガブリエルの意に沿わぬ婚約がまとまりそうで、王妃は狂喜した。


(母親の私に、舐めた口をきくからよ。せいぜい傀儡として、ゲラン王国のために身を捧げるのね)

 

 王妃はすぐに、カッター帝国の皇帝に宛てて、詳細な条件を提示する。

 ブリジットをパーティに招待したときから、こうなることを見越して内容は決めてあったのだ。

 権謀術数が渦巻く大国で育った王妃は、国王よりも余程、手練手管を用いる駆け引きに長けていた。

 ガブリエルの味方をしたがる国王をうまく出し抜き、有力な高位貴族たちを味方につけて、王妃は邪魔が入る前に手早くカッター帝国と話をつけてしまった。


(国王なんかより、私に執政を任せたほうが有意義だと、これで分かったでしょう)


 ガブリエルが嵌められたと気がついたときには、既に王妃の思惑通りに事態は進んでいたのだった。

 

 ◇◆◇◆


「ガブリエルさま、遊びに来ちゃった!」


 ブリジットが離宮に現れたのは突然だった。

 その日、ガブリエルは知らぬ間に内定していた婚約者について、国王から話を聞かされたばかりだった。

 ガブリエルがシルヴェーヌと婚約したがっているのを知っていた国王は、王妃の独断専行について謝罪した。

 だが、すでに話は止められないところまで行ってしまい、国王の力だけでは後戻りさせることができなかったのだ。

 ガブリエルはこれからロニーと共に、どうやって婚約を解消するか策を練ろうとしていたが、その切っ先をブリジット本人に折られてしまう。

 

「ブリジット皇女殿下……」

「そんな他人行儀なのは嫌よ。わたくしたち、夫婦になるんだもの。ブリジットって呼んでくれる?」


 ブリジットは跳ねるように歩き、無遠慮にガブリエルへ近づいた。


「パーティの夜からしばらく経ったけど、元気そうでよかった。ガブリエルさまが、離宮で寝たきりで過ごしていたなんて、わたくし信じられない。だって……今はこんなに凛々しいのだもの」

 

 心酔して見つめてくるブリジットの瞳には、ガブリエルが王子然として映っているのだろう。

 それはシルヴェーヌの夢を叶えるため、王子らしい所作の研究をした弊害と言えた。


『無下に扱ってはなりません』


 ロニーが小声で伝えてくる。

 それはガブリエルにも分かっていたので、頷き返す。

 否応なしに決められた婚約者とは言え、ブリジットに罪はない。

 それに、ここで臍を曲げられては、穏便に婚約を解消したいガブリエルにとって、都合が悪かった。


「ブリジット、よければバラ園を散策しませんか? 今が見頃なんです」

「まあ、嬉しい! 手を繋いでもいい?」


 ガブリエルは少し躊躇い、手ではなく腕を差し出した。

 淑女をエスコートする物腰ならば、手を繋ぐのを拒んでも無礼には当たらない。

 ガブリエルが手を繋ぎたい相手は、シルヴェーヌしかいないのだから。

 

「ガブリエルさまは、わたくしを大人のレディとして扱ってくれるのね。やっぱり王子さまだわ!」

 

 ブリジットはそれを好ましく受け止めたようだ。

 腕にすがりつくと、「行きましょう」と、はしゃいだ声をあげる。

 ガブリエルはロニーへ視線で合図を送ると、バラ園へと足を向けた。


(殿下、うまく懐柔してくださいね。シルヴェーヌさまのことは、私にお任せください)


 ロニーは一礼すると、シルヴェーヌのもとへと急ぐ。

 パーティの夜が明けてから、シルヴェーヌは沈みがちになり、萎れた花みたいになってしまった。

 身体の不調ならば、いくらでもシルヴェーヌの体質で改善しただろうが、心の風邪にそれは効かない。

 汚されてしまったドレスについて、ガブリエルへ謝罪したシルヴェーヌを、誰も責めはしなかった。

 だが、当の本人が、自分を許せないようだった。

 

(あんなに毎日、暗い顔をされて……早くドレスの手直しが済めばいいのですが)


 特注品のドレスだったので、修繕にかなり時間がかかっていた。

 ガブリエルもロニーも、ドレスが完全な形で戻ってくれば、シルヴェーヌが少しは元気になってくれると信じている。

 だからそれまで厨房の料理長や製菓職人にお願いして、シルヴェーヌの好物を作ってもらっては、笑顔を取り戻してくれるのを願っているのだが――その試みはまだ成功していない。


(殿下に来客があった旨を伝えて、シルヴェーヌさまの部屋へデザートを運びましょう。たしか今日は、苺のタルトだったはず)

 

 しかし、ロニーが辿り着くより早く、シルヴェーヌは窓からバラ園を眺め、その光景に無力感を味わっていた。

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