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私、ぜったい婚約破棄なんてしませんっ

作者: しもくわ

 ――()()はちょっとないな。




 公爵令嬢クララは呆然としていた。


 なぜなら()()とはクララのことであり、この台詞を吐いた人物、マーシア国王子アルフレドはクララの婚約者だからだ。



 昼下がりの午後、個人授業が急遽中止になったクララは、穏やかな春の陽気に誘われるように学園の庭に出て東屋に向かった。

 しかしそこにはすでに先客がいた。アルフレドと友人たちである。

 黙って立ち去ろうとしたが婚約関係にあるのだからと、勇気を出してアルフレドに挨拶をしようとした、その矢先――。




「――ソニア姫をかい?」

「君にはクララ嬢がいるじゃないか」

「よしてくれよ、あれはちょっとないだろう」


 世界がガラガラと音を立てて崩れていく感覚を、クララは味わっていた。

 気力を振り絞り気付かれぬよう、そっと立ち去る。

 背後から「砂みたい髪に灰色の目だぜ。あんな酷い色があるか?」「言い過ぎだぞ」「婚約者だろう?」「いや、父上にうったえて――」などと言う言葉がクララを情け容赦なく打ち据えた。


 泣いてはいけない、そう思ったのに涙が止まらない。ああ、ダメだ。こんな顔を人に見せてはいけない。隠れなくちゃ。でも、どこに――。


 あてどなく歩き続けたクララは校舎を離れ、林を抜け、学生寮の手前の小道を歩いていた。

 ここは留学生や地方出身者の生活の場であり、王都出身のクララには縁のない場所だった。


 こんな所を歩いていたら不審がられるわ――クララは踵を返して再び校舎の方向に向かおうとした。


「あなたはクララ様ではありませんか?」


 名前を呼ばれたクララは声の主を探す。

 木立の中にクララと同じ制服を着た女生徒がいた。すらりとした長身に、浅黒い肌、濃厚な蜂蜜のような色の瞳、ぬばたまの髪。


「ソニア姫……」


 今しがた男子たちが話題にしていた隣国エトルリアの姫は、マーシアの美の基準からは若干外れている。にも関わらず、男子――いや性別を問わず誰も彼も、この姫君に魅力されていた。そう、クララも。


(この人に比べられたら、私なんか――。ううん、だからってあんな言い方はないわ)


 クララは更にはげしく泣いた。


「お、お見苦しいところをお見せしてしまい……もうひはけ……もうひ……も……」


 ああ、情けなさすぎて今すぐ消えてなくなりたい。


 ソニア姫は眉を下げてふんわりと笑った。

 近寄り難いほどの美貌の主が思いもかけず人の良い表情を浮かべたのでクララは驚きのあまり、そのまま魅入ってしまった。


「あれ、私を見て涙が止まったのかい? でも目が腫れてるね。そうだ、こっちにおいで」


 溶けるように木々の中に消えたソニア姫を、クララは慌てて追いかけた。


 木々の合間を縫うように進むと開けた場所があり、素朴な作りの東屋がポツンと突っ立っていた。


「面白いだろう? 何代か前のエトルリアの留学生が勝手に作ったんだってさ」

「まあ、学生がですか」

「よく見てごらん、この辺りだけ妙に開けてるし、この東屋も朽ちちゃいない。誰も手入れしていないのに不思議だろ」

「そう言われてみれば……、ああ、もしかして魔法ですか?」

「その通り、ここだけ空間魔法がかかってるんだ」

「空間魔法――、ここだけ時間がゆっくり流れているのですね。でも、そんなことを学生が出来るものでしょうか」


 学園では魔法は知識のみで実践はない。そもそもマーシアは魔法の素養を持った者が多くないのだ。


「エトルリアは魔法に関してだけはマーシアより進んでいるからね。まあ、座りなよ」


 促されるままにクララは、丸太を切ってそのまま置いただけにしか見えない椅子に座った。不思議に安定感があり心地よい。


「お茶も何も出せなくて済まないね。ああ、でも水ならある」


 ソニア姫はハンカチを出して手のひらに乗せる。ハンカチが湿り気を帯び始めたのがクララにも分かった。


「はい、これで目の周りを冷やすといい。大丈夫、清潔な水だよ。浄化能力も少しはあるんだ」

「ありがとうございます。ソニア姫も魔法が使えるんですね」


 クララはソニア姫のハンカチを受け取り、目の下に当てる。腫れていた部分に冷たい水がしみて軽く痛みを感じたが、やがてじわりと温かくなる。


「痛みが引いていきます……あの、こんなによくしていただいて……」


 そこまで言ってクララの瞳から再び涙がこぼれる。ソニア姫のせっかくの好意が台無しである。


「もうひ……、もうひは……」


 そしてクララは振り出しに戻った。




「少し、話をしようか」


 ソニア姫はクララが落ち着くのを辛抱強く待ってから言った。


「君が泣いてる理由って、アルフレド殿下じゃないかな」

「……そうです。あの……ソニア様は私たちのことをご存じなのですか?」


 ソニア姫とクララは一度だけ挨拶をしたことがある。しかし、学年もカリキュラムも違うので深く知り合うこともなかった。クララにとってソニア姫は近くて遠い存在だった。

 そんな薄い関係でしかないソニア姫が、自分とアルフレドのことを知っているというのはどうにも奇妙に思えた。


「今、学園にいるこの国の王族はアルフレド殿下だけだし、その婚約者となればね」


 なるほど噂レベルなら誰でも知っていることなのだ。だがソニア姫はそれ以上の情報を知っているようだ。


「うーん、婚約者の君には言いにくいんだけど彼は私に近づいてきてね」


 ソニア姫は言いづらそうにポツポツと話す。どうやらアルフレドは婚約者のある身でソニア姫に求婚したようだ。とんでもない話だが、クララの涙は完全に乾いていた。


「追い返したけどね、諦めていなかったよ。君も何か言われたんじゃないかい?」

「直接言われた訳ではないのですが……」


 クララはさっき見た光景について話した。ソニア姫の顔がみるみる曇っていく。それがアルフレドに対する怒りであることに気付いたクララは、なぜか不実な婚約者を擁護する羽目になった。


「アルフレド様のお気持ちは分かります。我が家は公爵家ですが、政局から無縁な存在です。私と結婚することはアルフレド様にとっては未来を絶たれたようなものなんです」


 アルフレドは王家の次男である。十三歳離れた異母兄は今年三十になる。妻帯者で子持ちでもあるこの兄に何かあったとしてもアルフレドに王位が回ってくる可能性は低い。

 そのためアルフレドの婚姻は出来るだけ継承争いに無縁の家がよいのだ。

 そこで登場するのがクララの家だ。建国と共に存在する歴史ある公爵家だが、代々権力から遠ざけたい人間を送る場として機能してきたある意味希有な家なのだ。


「アルフレド様にとって私と結婚するなんて、ぞっとするほどつまらないことです。それならいっそ――」


 そこまで言ってクララは口をつぐむ。

 クララが今から話そうとしていた内容は、ソニア姫にとってあまりにも無礼だからだ。


「はは、いいよ。気にしないで。どうせ出世の道を絶つための婚姻なら異国の姫あたりでも構わない――だろう?」


 ソニア姫は眉を下げながら笑う。

 優しい笑いだ。目の前の人間を庇うための笑顔なのだとクララは感じた。


「私はこの国の基準なら姫にもならない存在だからね」


 からからと笑うソニア姫の表情にはまったく屈託は見られない。


 ソニア姫はエトルリアの第三王女だが、母の身分が低い。なんでも流しの芸人とも娼婦とも言われている。そのような出自だと、マーシアではけして王族とは認められない。出自だけの問題ではない。マーシアでは非嫡出子はどんな場合でも父親の家の人間にはなれないのだ。


「アルフレド様にとって結婚は、継承争いから離脱を示すためのもの。夢も希望もありません。それでも結婚相手が魅力的な女性ならまだしも、私みたいなつまらない女があてがわれたら誰だってガッカリするでしょう?」


 美しいソニア姫とどこまでも平凡なクララでは比べものにならない。

 できるだけ軽い雰囲気で話したつもりだったが、ソニア姫の顔は怖いくらい真剣だ。


「そんな風に言うもんじゃないよ。男たちがどんな評価をしようと、それに君が引きずられちゃあいけない」

「か、簡単に言わないで下さい。あなたに何が分かるんですか! あなたみたいに綺麗でみんなが魅了されるような人に……私の……ことなんて……」


 しまった。

 そう思った時には既に遅かった。一度出た言葉を取り消す事は出来ない。


「失礼しますっ」


 クララは脱兎のごとく、その場を離れた。





 それからのクララの記憶は曖昧だ。

 気分が悪くなったからと迎えの馬車に乗って家に帰り、心配する家族をよそに、部屋に籠もって悶々と過ごした。

 しかし何もせずにただ考えごとをしていると思い出すのはソニア姫のことばかりだった。

 正確にはソニア姫への非礼の数々である。


 泣き顔を見られないよう隠してもらい、魔法で腫れた顔を癒やしてもらったうえに、無礼な婚約者に腹を立てて慰めてくれた。

 にもかかわらずクララがソニア姫にとった態度は……。


『――あなたに何が分かるんですか――』


 ああ――――――――っ。


 過去に戻る魔法が使えるなら、あの時間に戻って無礼な言動を取り消したい。

 しばらくベッドで悶絶していたクララだが、がばっと起き上がり机に向かった。


 やらかしてしまったことは仕方がない。今はこれ以上非礼を重ねないための行動をしなければならない。

 クララは手紙を書くことにした。感謝と謝罪の手紙だ。最初はひたすら詫びるだけの手紙だったが、どうにも心がこもってないように思えた。


 もちろん謝罪したい気持ちは強い。だがもっと違う何かを伝えたい。それが何なのか、クララは言葉に出来ないでいた。


 ソニア姫が笑いかけてくれた。クララの話に耳を傾けて、不実な婚約者に怒ってくれた。


(私は、私は、そう――嬉しかった)


 あんなに感情豊かな方だとは思わなかった。優しげに微笑み、豪胆に笑い、表情を曇らせ怒りを露わにする。怜悧な美貌が百面相のようにくるくる変わる様にただただ圧倒された。

 しかし時間が経ってから感じるのはクララへの気遣いだ。ソニア姫は終始、クララのために笑い、怒ってくれた。


 クララは令嬢らしく抑制した文章の中で可能な限りの喜びと感謝を綴った。それでも何かが足りないと感じたクララは詩の一文を入れた。

 手紙に詩を引用するのは一般的によく行われていることだ。ただしルールがある。引用する詩は古詩で神を称えるものが望ましいとされている。


 ただし、それはマーシアの話でエトルリアはもう少し自由だ。クララはエトルリアの伝説の女詩人の詩を引用した。美しい女性を女神のようだと称える詩である。

 一応古詩で神を称えているので、まあいいだろうとルールを恣意的に解釈したのだ。


 書き終えた手紙を使用人に渡して寮に届けて貰った。

 なんとか気持ちも落ち着いてきたので、心配する両親に顔を見せようかとしたところで、そう言えばあの詩は極めて親しい女の友人に贈ったものだったことを思い出した。


(たいして仲がいいわけじゃないのに、ちょっと優しくされただけなのに……。私、図々しすぎるっ)


 クララは再び、部屋に閉じこもり朝まで誰とも顔を合わせなかった。



 次の日は実に平和な一日となった。ソニア姫とアルフレドは学年が上だ。広い学園内では顔を合わせることもないのだ。

 だからクララはいつものように友人らと穏やかに過ごした。余りにもいつも通りの生活なので、もしや全てが夢だったのではないかと思ったほどだ。

 しかし家に帰るとソニア姫からの手紙が届いていた。クララは震える手で手紙を受けとった。手紙はそこそこの厚みがあり、義理だけの返信ではないことが分かる。


『――私の方こそ説教じみた真似をして申し訳ありませんでした。あなたが、詫びることなど何もありません。どうか気に病まないでください』

『――この国の方が我が国の詩人、しかも女詩人の名を知っていたことは驚きです。あの詩は私も好きで国にいた時はよく暗唱したものです。あなたが私への義理ではなく、本当にあの詩を好きでいてくれたのなら嬉しいです』


 マーシアは他国を見下す傾向がある。祖国のことを話す機会もなく、きっとソニア姫は心細い気持ちでいるのだろう。


 寂しいのはクララも同じなのだ。詩といえば、古詩、しかも我が国の男のものしか許されない。異国の文学の話なぞ、女同士でも気軽に出来ないのだ。


 クララはここぞとばかりにエトルリアの詩や小説について書き連ねた。

 分厚い手紙を使用人に渡してホッと一息ついた所で、ずいぶん馴れ馴れしい手紙を書いてしまったものだと反省したが後の祭りだった。


(信じられない。あんな長ったらしい手紙を書くなんて……。しかも小説の登場人物がいかに素晴らしいかダラダラと、おまけにラストも分かるような書き方だったわ。ああ、ソニア様があの本を読んでいればいいけど……)


 不幸にもソニア姫はその小説を読んでいなかった。

 クララは恥ずかしさのあまりベッドで七転八倒していたが、ソニア姫との手紙のやりとりは続いた。





「あなた、アルフレド様とは上手くいっているの?」


 居間で刺繍をしていた母がふいに話しかけてきたので、クララは読みかけの本から目を離して顔を上げた。

 一瞬、アルフレド……、はて? などとボケたことを考えてしまった。そう、クララの婚約者様だった。


「アルフレド様ですか? 最近会ってませんね」


 思わず馬鹿正直な反応をしてしまったクララだが、それくらいどうでもいい存在になっているのだ。


「そう……。最近あなたがあまりにも機嫌がよいので、てっきり殿下との仲が進んでいるものかと――」

「え、いや、機嫌? 機嫌ですか?! いや、殿下とは別に……」

「まあ、まさかあなた、他の殿方と――」

「い、いえ、まさか、そんなことありませんから」


 クララは酷く動揺していた。ソニア姫との手紙での語らいがあまりに楽しくて周りが見えていなかった。そう言えば友人たちからも最近綺麗になったね、と言われることがあった。皆が誤解しているのかもしれない。


 迂闊だった、いや、でも何もやましいことはしていない。何もやましいことはしていないはずなのに、なぜかクララはソニア姫との関係に背徳感のようなものを感じていた。





 アルフレドとの婚約解消の話が出たのはそれから数日後のことだ。


 ソニア姫をともなったアルフレドが舞踏会に現れ一人で立ち尽くすクララに、「君との婚約を解消する」と高らかに宣言した――などと言うことはなく、クララは父の書斎でアルフレドの意向を知ったのだ。


「そうですか、そうでしょうね。最近はほとんど会うこともありませんでしたから」

「お前はそれでいいのか?」

「ええ、構いません。あ、ちょっと待って下さい」


 アルフレドが婚約解消に動いたということは、ソニア姫との関係が進んだと言うことだろうか。


「あの、つかぬことを伺いますが、アルフレド様には意中の方がいらっしゃるのでしょうか?」

「おや、知っていたのか。ああ、エトルリアのソニア姫がお相手だそうだ」

「ソニア姫も了承されたのでしょうか……」

「姫の意向は知らんが、断ることは出来んだろうね」

「なぜですか?」


 いくらソニア姫の母の身分が低いといっても姫と王子、対等な関係のはずだ。


「ああ、うん、内密の話だがな。あの姫は人質だ」

「ひ、人質?!」


 クララはここで初めてソニア姫の複雑な立場を知った。

 数年前、とある鉱山の所有権を巡りマーシアとエトルリアは戦争をしていた。

 あくまで局地的なものだったので、少なくともマーシア側の対エトルリア感情などには変化はなかった。クララも戦争をしていたことを意識したことはない。

 しかし国レベルでは厳しい交渉をしていたのだ。鉱山の権利はマーシアのものとなり、ソニア姫は人質としてマーシアに来ることになった。


「しかし向こうにもメンツがある。鉱山は取られ、人質までとなると国民も納得しない。それで表向きは留学となっているのだ」

「……ではソニア姫の立場は相当弱いのですね」

「ああ。彼女に拒否権はない」


 このままクララが婚約を解消してしまえばソニア姫はアルフレドを拒むことはできない。


「納得いきません」

「クララ?」

「婚約解消なんて納得いきません。私はアルフレド様の婚約者です。他の女に気を許すなんて、私、絶対認めません」


 それだけ言うとクララは父の書斎を飛び出したのだ。





 次の日、クララは林の中で迷っていた。

 東屋で待っているとメッセージを、ソニア姫のいる寮に届けている。もちろん彼女が来てくれるとは限らない。

 それでもいい。待ちぼうけも覚悟するつもりだ。

 それなのに――。


「辿り着けないってどういうこと?!」


 ソニア姫と一緒に行った時と同じ場所から林の中に入り、真っ直ぐ歩いている。この前は簡単に辿り着いた場所である。あの開けた空間が今日はどこにもないのだ。


「魔法――。ああそうか……魔法だ」


 あの空間は魔法で守られていて、魔法を扱える者しか行けないのかもしれない。

 出直すしかないと考えたクララは林から出ようてして、愕然とした。


「あ、あれ? 私、どっちから来たかしら?」


 木々の葉は豊かに生い茂り、太陽の光が深緑の林を明るく照らしている。優しく頬を撫でる風が緑の香りを運ぶ。気持ちのよい初夏の空気の中にクララはいた。


 いや、おかしい。

 いくら学園内に豊かな自然があるとはいえ、人が管理しているのだ。いまクララがいるのは林というより森である。


 出られない――。


 ブワリと鳥肌が立つ。


 ここは魔法のかかった森だ。じっと待っていても助けがくるわけでも、偶然人が通りかかる事もない。

 クララは歩いた。ただひたすらに闇雲に歩いた。歩きながら頭にあったのはソニア姫の姿だ。


 会いたい。ソニア姫に会いたい。


 森がクララの願いを聞いてくれたのか、奇跡的に東屋に辿り着いた。

 しかし、そこにいたのはソニア姫――と同じ顔の筋骨逞しい男だった。


 男は上半身裸である。褐色の肌は汗で光っていた。手に持っているのは長い棒はエトルリアの武術で使うものだろう。


 ソニア姫そっくりのエトルリア人――そんな学生がいただろうか?


(学園のエトルリア人じゃないわ)


 この人物が何者なのかは分からない。分かるのは魔力で作った私的な空間にクララが入り込んでしまったと言うことだ。つまりクララは不届きな闖入者なのだ。


「お取り込み中(?)失礼しました!」


 それだけ言うとクララはこの空間から飛びだそうとした。


「だめだっ! 永遠に彷徨うことになるぞ」


 素早く動いた男はクララの腕を掴む。その力強さにクララは息を呑んだ。


「他の人間にとっちゃ、何の変哲もない林だよ。でも君は強く俺を求めながら林に入って来たせいで魔力の森に取り込まれたのさ。無事にここに辿り着けたのは君に悪意がなかったからだ――メッセージ?――ああ、すまない。見てないな」


 シャツを着ながら男は説明した。

 つまり、この男はソニア姫なのだ。


「あなたはソニア姫なんですね……なぜ男に変身しているのですか?」


 褐色肌の男は言葉を探すようにしばらく沈黙したが、やがておちついた低い声で話し始めた。


「いや、俺は男だ。ソニアの双子の弟なんだ。体そのものを変えている訳ではなくてね、一種の幻覚なのさ」


 クララが親しく文通を交わしていたのはソニア姫ではなかったのだ。目まいを覚えたが、あくまで気丈にふるまった。


「あなたの……エトルリアの目的は一体なんですか」


 男がクララをじっと見る。蜂蜜色の瞳が揺れている。気のせいかもしれない。しかし、クララは男がひどく悲しんでいるように感じた。


「クララ、信じてほしい。俺はこの国に対して敵対行為を企てているわけじゃない。ただソニア姫として定められた年月を過ごすつもりだったんだ」


 男の言葉でクララは遅まきながら事態の深刻さに気がついた。ソニア姫が偽者であることは国際問題に発展する可能性があるのだ。いや、十中八九両国の関係が変わってしまう。


「あの、お名前を教えていただけますか」


 クララは男の名を訊ねた。名前すら名乗らない者を信用することはできない。


「俺の名か……俺はエリゼオ」


 それからエリゼオは自分がここへ来たいきさつを話し始めた。


「姉のソニアは留学ではない。君はエトルリアとマーシアが鉱山の利権で争っていたのは知っているか?」

「ええ知っています。ソニア姫の立場は実質――人質――申しわけありません……」

「遠慮しなくていいよ」


 マーシアの人間から指摘されたくないことだろうが、エリゼオはおだやかに頷いた。


「マーシアに行く直前にソニアは消えた。駆け落ちだった」


 駆け落ち相手は平民の楽士であったという。


「あいつがどこかで、夫のリウトの音色に合わせて踊っていてくれたらいいと思ってるよ。国がどうなろうとしったこっちゃないね」

「ソニア姫を探さなかったのですか?」

「王は――、父は探そうとしたが母は止めた。元々ソニアは人質にするには難のある気性なんだ。仮にあいつがマーシアに来てたら騒動の一つや二つは起こしてるだろうよ」


 ソニア姫が人質に選ばれたのは、父王に溺愛されている一方で母の身分が低く、正妃の一派から疎んじられているという微妙な立ち位置の為だ。

 しかし、それだけではない。

 彼女は魔法使いとして一流なのだ。その技をマーシアに伝えることも彼女の役目だった。


 ソニア姫捜索を諦めたエトルリア王は、双子の弟をソニア姫としてマーシアに送ることにした。


「俺はソニアと同じくらいの魔力がある。技術なら移り気なあいつより優秀なのさ」

「あの……だったら最初からソニア姫ではなく、エリゼオ殿下がマーシアに来てもよかったのでは……」

「君は私の名を知っていたかい? ソニアは?」


 エトルリアの美姫ソニアの名は貴族ならば知っている。しかし弟の存在は知らなかった。


「人質だからね。エトルリアが失いたくない人間である必要があるのさ。ああ、そんな顔をしないでくれ。君を悲しませるために身の上話をするわけじゃないよ」


 幼少期、病弱だったエリゼオは十歳になるころには健康な男子に育っていた。


「丈夫になった俺は武道を好んだ。すると体はますます強く大きくなっていった。それでいささかまずいことになったのさ」

「王子が健やかに育つことの何が問題なのですか……」


 そこまで言ってクララは気づいた。彼はソニア姫の双子の弟、つまり母親の身分が低いのだ。


「ソニアは三番目の姫だったけどね、俺は一番目の王子だった。他の妃が産んだ男子は病弱だったり、育たなくてね」


 継承権争いに巻き込まれないために、彼は病弱な王子として生きるしかなかった。そして人前に出ない代わりに魔法を極めたのだ。


「いるかいないか分からない存在なんて人質にならないだろ?」


 馬鹿正直に姫は逃げましたなんて言ったら、国の威信にかかわる。下手をするとマーシアへの嫌がらせと取られかねない。


「だから俺はソニアになるしかなかったんだ」


 エトルリア側は、エリゼオ王子がソニア姫より優れた魔法使いであると必死にプレゼンした。そのおかげでソニア姫の三年間の留学期間が終了すれば、エリゼオが代わりにマーシアに来ることになっているらしい。


 ソニア姫はおととし学園にやってきた。今は四月。学業修了は九月だから、つまりあと五ヶ月なのだ。



「あの、もし……、もしこの国の王子がソニア姫に求婚したらどうなるのですか?」

「アルフレド様のことだね。立場上、断れないな」

「アルフレド様と結婚なさるのですか?」

「いやあ、まさか、それはないよ」

「では一体どうするのですか?」

「ソニア姫は自殺か消えるかしかないね。弟が姉の代わりをしてました――よりはマシじゃないかな」


 責任をマーシアに押し付けることも出来るが、そうなると厳しい捜索が行われるだろう。真実が露見すればエトルリアの立場はますます悪くなる。


「実は今、アルフレド様から婚約破棄の打診が来てるんです」

「そうか……、君には辛いことだね。俺のせいなんだろ?」

「そんなことはどうでもいいんです。私はソニア様に不本意な結婚をして欲しくないんです。でも――」


 もしもソニア姫がアルフレドが好きで婚約者のクララに遠慮しているのなら(そんな風には欠片も見えなかったが)、クララは潔く身を引くつもりだった。


「私が婚約破棄をしなかったら、アルフレド様はソニア姫に求婚出来ないのですよね」

「君はアルフレド様と結婚したいのかい」

「いいえ、まったく。確かに私は魅力に欠けるかもしれませんが、友人たちの前であのように罵倒される謂れはありません。私を尊重しない人間とは結婚したくないです」


 エリゼオは驚いたように目をみはり、そして微笑んだ。


「だったら今すぐ婚約破棄したまえ。その方が幸せになれる」


 しかしクララは首を横に振る。


「いいえ。今婚約破棄したら、アルフレド様はソニア姫に求婚するでしょう。そうなったら、【ソニア姫】はこの世から消えてしまう……エトルリアは厳しい状況に置かれてしまいます」

「君がエトルリアを心配することはないよ。何度も条約を破り、よその国土を荒らす蛮族だ」

「地方の豪族が強すぎるためだと聞いています」

「彼らを御せない王家が問題なんだ。田舎者がやりました。自分たちは関係ありませんなんて、通用しないさ」


 エリゼオの言うとおりだ。クララは押し黙った。


「君の気持ちは嬉しい。でも自分たちでまいた種は自分たちで始末しなきゃいけない」


 エリゼオはクララに向かって手を延ばし、額に手のひらをかざす。


「君はさっき聞いた話を忘れる。そして自分を侮辱した男に毅然とした態度をとるんだ」


 エリゼオがクララの記憶を消そうとしているのが分かった。


「さようなら、クララ。君に会えてよかった。俺は君のことが――」

「私はエリゼオが好きっ、好きっ、愛してるっ。エリゼオ様がだいすきぃ――――っ」



 情けない……。

 どんな小説にもこんなみっともない告白はなかった。

 せっかく誰かを好きになったのに、心からときめく人に出会えたのに。

 バカみたい、ああ、バカみたい。





「――クララ、大丈夫かい?」

「え……、私……」


 寮に向かう道にクララはへたり込んでいた。


「立ちくらみかな、私が来たときには君はここにうずくまっていたんだ」


 ソニア姫が心配そうにクララの顔を覗き込む。


「さあ、今日はもう帰ろう。学園まで送るよ」

「エリゼオ……様」


 ソニア姫の顔から表情が消える。


「私は婚約破棄なんてしません。あなたを【ソニア姫】のまま必ずエトルリアに返してあげる」

「なにを……」

「エトルリアのためなんかじゃありません。私がやりたいからやるだけです。あと、好きです」


 なんで、おまけみたいに言っちゃうの!!!


 クララは心の中で自分をしばき倒しながら、その場を立ち去った。




 クララは絶対に婚約破棄はしないと父に宣言した。

 やがてこのことは王家と公爵家に留まらず、貴族社会――いや、マーシア中に知られることになった。


 クララを笑う者、同情する者、憐れむ者。

 最初は心配していた友人たちも、クララの頑なな態度に呆れ距離を取り始めた。クララは孤立した。それでも諦めなかった。


 クララはたびたび東屋でエリゼオに会った。「君の名誉が守れない」「もう止めてくれ」とエリゼオは何度も頼んだが、クララは承知しなかった。


「自分の決めたことをやり遂げます。記憶を消さないでください。あなたとの思い出を失いたくありません」


 エリゼオの形のよい眉毛がきゅーっと下がり、蜂蜜色の瞳が優しい光を帯びる。

 クララは婚約者の罵倒に傷つき泣きながら歩いていたところでソニア姫に出会った日のことを思い出した。


 ああ、あの日からずっとこの人が好きだった。彼女が彼に変わっても、その気持ちはそのまま変わらない。





 ※※※※※※※※※※※


 まだ暑さの残る初秋、ソニア姫はエトルリアに帰った。

 しばらくするとマーシアに訃報が届く。

 ソニア姫は王都に戻る途中、暴漢に襲われ無惨な死を遂げた。

 愛娘の悲惨な末路にエトルリア王は悲憤慷慨、土地を管理する豪族から地位を剥奪し一族を追放した。以後、領地は王領となった。

 ちなみにこの土地は例の鉱山の隣接地帯である。王命に従わず条約やぶりの常連だった勢力を一掃できたのは不幸中の幸いであった。


 エトルリアの惨劇のさなか、アルフレド王子とクララ嬢の婚約破棄が成立した。

 傷心のクララ嬢は学園を去った。やがて心を癒すために訪れた土地で魔法指導のためにマーシアに滞在しているエトルリアの王子に出会い、恋仲になったという。


 二人の婚約がマーシアの王都に届いたのは、ソニア姫の悲劇から半年後のことであった。

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